騎士の本分
鳥籠の温室で、小さな丸い卓に向かい合ってふたりは座っている。
休憩をしようと淹れたお茶は、茶葉の分量を間違えてかなり渋い。
「掃除を、ですか?」
大きく頷いたテオに、アイザックは心中でううんと唸った。
城に出仕して先ず教わることは、自分ひとりで身支度と身なりを整えること、生活をする場所の掃除と洗濯だ。
それまで人に世話をされて屋敷で過ごしてきた御令息も、叩き上げで這い上がってきた苦労人も、身分は一切関係無く先輩からそれらを叩き込まれることから始まる。
アイザックもそれなりの家格の出であるが例外はなかった。
自分できれいにしたり整えたりが気分の良いことだと思う方だ。向いているかいないかで言えば向いている方だろう。
苦もなくとは言い難い、というところがひとつ要点としてあるが。
「お教えするのは構いませんが……」
何が問題なのかと言わんばかりに首を傾げているテオにまた心中でううんと唸った。
「姫君のすることではないのでは?」
どんと卓を叩いた手でテオは『いいえ』と言う。
眉間に皺が寄り、ちっとも愉快ではなそうな顔だなと思いながら、アイザックは敵意が無いことを示すように両方の手のひらをテオに向けた。
上手く出来ると思われていないことに腹を立てているのか、『姫君』の部分に腹を立てたのか、きっと後者の方だろう。
いや、両方か。
いつもより鋭いと言えるほど早く動いているテオの手を見ながら、これは相当怒っているし、ホレスが見れば『クソ口が悪い』と言う内容なんだろうなということだけは分かる。
内容が分からないから救いなのか、それとも要らぬ遠回りをしているのだろうか。
「……こうしませんか、テオ。掃除は私と一緒にやりながら覚えましょう。その代わりに、私にもしっかりとその手での合図を教えてください」
笑ったり怒ったり呆れたり、表情や仕草でなんとなく汲み取ってきたが、これまでに覚えた合図だけでは疎通というには程遠い。
『はい』とテオは手を振る。
アイザック以上に、テオの方こそ、話が通じないもどかしさを感じていたのだから、断る理由はない。
「……良かった。ではテオから先に。さっきは何と言ったのですか? 一言一句漏らさずに教えてください」
紙に書いては手の振りを教えてもらう。
包み隠さず素直に教えてもらった内容は、想像の通り『クソ口が悪い』ものだった。
ふたりで丁寧に掃除をして、疲れたら休息しながら言葉を教えてもらう。
食事を作るにも食べるにもふたり。
別々になるのはアイザックが方々へお使いに出かけるか、浴室や寝室に入っている時くらいだ。
今のところ必要ないであろう部屋は放置して扉さえ開けないと決め、使う部屋と通路などの共用部分をきれいにしていった。
そうしているうちに数日が経ち、そのころには庭にあった背の高い草がほとんど無くなった。
今は地面の下に蔓延った根を掘り返しているので、庭は焦茶色が目立ち、水気を含んだ土の匂いが濃く漂っている。
風と一緒にやって来る青い草と土の匂いを嗅ぎながら、テオは鳥籠の温室をどのように居心地良くしようかとあれこれ計画を立てていた。
「テオ」
アクセレーベンにお使いに行っていたアイザックは、ホレスから次の仕事を渡されたと、たどたどしく手で示す。
テオは任せなさいと返して、両手を差し出した。今回はそれほど厚くない書類はさみを受け取って、それはそれで顔を曇らせる。
どうしたのかと問われて、面倒臭い気がする、と手で会話をする。
「予感がするということですか? 『予感』を教えてください」
全ての言葉に振りがあるわけではないので、細かな感情の表現や、人や物などの名称はひと文字ずつ手の形を作る。
「……話の流れで大意を汲み取るのが重要なのは分かっていましたが……やはり難しいですね」
テオは『はい』と返しているが、首が傾げられているので、『そうか?』と推測される。
アイザックが『難しいのでしっかり頑張る』と手を動かすと、今度こそテオは『はい』とにっこり笑った。
屋敷の中の掃除がひと段落した翌日には、裏庭の草も刈り取られたと知らされて、テオはさっそくと外に出ることにした。
裏手の物置き小屋から、手持ちの鍬を引っ張り出してきて、やる気は充分と、まずは目の前の空気を耕した。
確かにアイザックの言った通りに、丸っこい石で囲まれた畑の痕跡のようなものが見えるので、表の庭でやっているように根っこを掘り返すことにする。
囲いの隅に座り込んで、地道に端から掘り返していると、背後からがさがさと刈ったばかりの草を踏んで歩み寄る音が聞こえる。
アイザックかと気にせずにいたら、それは違う人物だった。
「そんな小さな道具じゃ、陽が暮れてしまいますよ」
振り返ったテオの顔を見て、一瞬だけ躊躇った様子で足を止めたが、改めて笑顔を作り直すとまた歩き始めた。
「あの……俺。ケニーって言います。庭師の息子の」
ケニーと同じように、テオもにっこりと笑顔で頷いた。
「畑の土を掘り返すんですね? 手伝いましょうか?」
父親の目から離れて少し休むつもりが、思わぬ遭遇にそんな気分はどこかに吹き飛んでしまい、ケニーはテオの隣に同じようにしゃがみ込む。
自分の持っていた大きな鍬を目の前に差し出して置いた。
「こっちの方が早いので」
ふむと息を吐いて頷くと、テオは立ち上がり、その場から一歩下がる。
「掘り起こしたら根っこや石なんかが出てくるんで、まずはそれを取っていくんです」
ケニーがそう言い切る前に裏口からアイザックが顔を出して、慌てた様子で駆け寄ってくる。
頭から薄水色のケープをかけると、前のリボンをきちんと結えて、テオの頬を隠すように目深に整えた。
「……勝手に先に行かないでください。……きちんと被ってから外に出る約束だったでしょう?」
うんざりといった顔で見上げているテオに、確固たる態度でアイザックが見下ろす。
「手袋もきちんと着けて。どうして庭仕事を素手でしようとするんですか」
ご覧なさいとケニーがしている分厚い皮の手袋を指差した。
「怪我をしないように着けないといけません」
手袋を嵌めようとしているアイザックの手を苛立たしそうにびしびしと叩いて、そこから手袋を毟り取る。
不貞腐れた顔で、自分で着けてみせた。
「それでよろしい」
もう一度ケープの端を引っ張り整え直すと、アイザックはケニーの方に顔を向けた。
「今からここでお嬢様のお手伝いを」
「あ、はい」
「何かをする前にはその内容を必ずご説明をするように」
「はい」
「お嬢様が私たちに返事をされることは無い」
「……はい」
「会話をしようと思うな。お前はその立場に無い」
「……わかりました」
実際には無いに等しいというのに高位と見せかけている。立場や地位を利用して、声が出ないのではなく、下々の者とは話さないのだと思わせた。声のことを周囲に隠すつもりなのかとテオは推察した。
と、同時に慌ててケープを被せにやって来たこともそうかと得心がいった。
テオはアイザックの手を掴むと、ぐいと引いてそのまま屋敷の裏口から中へ入り、扉を勢いよく閉める。
でかい図体なのにも関わらず、薄暗く狭い通路の奥の方へ、放り込まれたようによろりと進む。
「……気に障りましたか」
『かわいそう?』
「なに……を」
どすと壁を殴った手で、テオは自分の喉を押さえてから頬の傷をぴたぴたと叩いた。
『恥ずかしい?』
「違う! ま、待ってください……そのように思っている訳では……」
テオは首元のリボンをゆっくりとほどき、するりとケープを脱いで、アイザックの頭にぱさりと掛ける。
冷静で、それも今までにないほど怒りのこもった目を向けられて、アイザックは弁解の為の言葉を飲み込まされた。
音を立てずに出て行くテオの後を追うことが出来ない。
アイザックはその場で背中から壁にもたれ掛かると、両手で顔を覆い、ごつごつと頭を打ち付ける。
「やぁやぁ元気だったかい、ふたりとも。もちろん仲良くしてただろうね?」
華やかな空気を振り撒きながら、何の知らせもなく急に現れたのはディナルド。
知らずこう言った訳ではなく、ふたりの雰囲気を見た上で、敢えての発言だ。
「ろうそくの明かりひとつ……なんて、本来なら情緒的だったり甘美な感じだろうけど、それがひとかけらも無いね」
いつもの通りに調理はふたりでした。
交わされる会話もこれまでと変わりなかったが、どちらもにこりともしなかった。
愛想で口の端を持ち上げることすらなかった。
夕食が始まってからは会話は無く、粛々と、ただ食べ物を口に入れて飲み込む作業をしていた。
「なんだか貧相だなぁ。もう少し贅沢できる程度にお金渡してるでしょう?」
尚も雰囲気を無視して、いつものように楽しげに語りかけながら、向かい合うふたりの間に割って入る。近くから踏み台を運んで優雅に腰掛けた。
まずはアイザックの方へ顔を向け、うっとりと微笑み、頬杖を突いた。
「……無理に手篭めにした?」
「過ぎたご冗談ですね」
「えぇ? 面白くないなぁ」
今度はテオの方に顔を向け、反対の腕に顔を乗せ替える。
「……食事が気に入らない?」
『美味しい』
「ちっともそう見えないけど……隠遁生活楽しくないの?」
『楽しい』
「あははー。何して怒らせたの、アイザック君?」
「申し訳ありません」
「いやいや謝罪が聞きたいんじゃないんだけどなぁ?」
「転移陣を使われたんですか?」
「話変えるの下手くそだね」
「ようやく庭の草が無くなりました」
「さっき通ったから見たよ。大変だっただろうね」
「外から来られたのですか?」
「馬車だったから時間かかっちゃった……久しぶりによく寝られたのは良かったけど」
どうして通常の道のりでと問う前にディナルドは理由を話し始めた。
屋敷と身の回りの世話をする人物を連れて来たこと、もう夕食には間に合わないだろうと、その人物は丘の下の町ではなく、その手前の大きな町に泊まることにした。朝にはこちらに到着するよう手配したと簡潔に話を終えた。
すいと背筋を伸ばし、優美に足を組んで、その膝の上に手を合わせて置く。
座っているのが踏み台に見えないのがディナルドがディナルドである所以だ。
「明日からは随分楽になるよ、良かったね……と、言いたいところだけれど」
上品に微笑むとテオに視線を向けて、僅かに首を傾げた。
「準備が整ったよ。良いかい?」
テオはこくりと頷いて、鼻からふうむと息を吐いた。
「食事が終わったら戻ろうか」
「待ってください……戻るとは?」
「あー。アイザック君も当然来るよね?」
「当然?」
「まぁ損はしないから」
どんと卓を叩いて『いいえ』と手を振る。
「えぇ? 便利だと思うけどなぁ?」
『私たちが一方的に』
「はは! 確かにね! アイザック君は損をしそうだ!……やめとくかい?」
「話が少しも分からないので、何ともお返事が」
「あれ? この子から何も聞いてないの? というか君は教えなかったのかい?」
『なぜ巻き込む』
「あ、そうか。そうだねぇ……アイザック君、まだ手駒じゃなかったっけ」
『クソ野郎だな』
「まぁそうなっちゃうよねぇ?」
「あの……どういうことでしょうか?」
どんどんと卓を叩くと『言わなくていい』とディナルドに手を動かした。
『私が居れば充分』
「ま、そうだけどさ」
『教えたらまた余計な責任感を持つ』
「そこまで言われて黙って引き下がると思いますか」
「……合図を随分と覚えたみたいだね。よし。やっぱりアイザック君も一緒に帰るよ。これは命令」
いいねとテオの頬をするりと撫でる。
それだけで急に落ち着いて大人しくなり、姫君然として姿勢を整えた。
「良い子だね」
慈愛に満ちた表情のディナルドと、人形のようなテオを交互に見ながら、アイザックは静かにゆっくりと息を吸い込む。
吸った空気を胸に入るだけ入れて、下腹に力を籠めた。




