第二十一話:二つの火床編——語らぬ炭、語る技術
「……あなたも、それを熾しに来たの」
黒髪の少女から投げかけられた短い言葉に、俺は声では答えず、ただ小脇に抱えた最高級ウバメガシ備長炭の箱を、彼女の炭火の光にかざして見せた。
同じ、漆黒の輝き。
少女はそれを見ると、ふっと視線をコンロへと戻した。
「……そこ、使いなさい。お互いの火が干渉しない、絶妙な距離」
彼女が和式刃物(鉈)の先端で指し示したのは、数メートル離れた、適度に風が抜ける岩陰の平地だった。
「感謝する」
俺は短く告げると、自分の陣地へと移動した。
ここからは、言葉による会話など一切不要だった。
深山の静寂を切り裂くのは、沢のせせらぎと、俺たちがそれぞれ火を熾す微かな音だけ。
俺はバックパックからマイコンロを取り出し、平らな石の上に水平に設置する。そして、今しがた仕入れてきたばかりの備長炭を、上昇気流の通り道をミリ単位で計算しながら立体的に組み上げていった。
じっとこちらの様子を伺う、冷徹な視線を感じる。
少女は、俺の「炭の組み方」を見ているのだ。にわかキャンパーなら、隙間なく炭を詰め込んで酸素不足で自滅するか、着火剤をぶちまけて終わり。だが、俺の組んだ炭の山には、風が美しく抜ける「煙突」が完成していた。
(ふん……悪くない組み方ね)
少女の瞳が闇の中でわずかに細くなった気がした。
俺は手袋を外し、極太のフェロセリウムロッドを構える。ナイフの背を力強く擦り下ろすと、バチィッ!と三、〇〇〇度の火花が闇を裂き、用意した火種へと一発で飛び火した。
そこからが、本物の職人同士の無言の対決だった。
美羽のように「すごーい!」と騒ぐ声はない。遥のように刺すような嫉妬もない。
あるのは、伸縮式の火吹き棒を交互に吹く、静かで力強い呼吸の音だけ。
ヒュゥゥー、と俺が細く長く空気を送り込めば、俺のコンロの備長炭がじわりと紅く染まる。
間髪入れず、フゥゥゥー、と彼女がさらに冷徹で安定した息を吹き込み、彼女の火床が太陽のように眩い橙色に爆ぜる。
(……この子、肺活量と息のコントロールが尋常じゃないな)
酸素が薄く、気温も氷点下に迫る深山の夜。火種を窒息させず、かつ炭の芯まで確実に熱を届けるには、完璧な呼吸の管理が必要だ。彼女の熾した火には、煙が一切出ていない。不純物を完全に燃やし尽くし、熱効率を極限まで高めた「究極の熾火」だった。
負けていられない。俺は日雇いバイトでさらに鍛え上げられた体幹を意識し、より深く、より的確に空気を送り込む。
じわじわと、俺のコンロの備長炭もまた、彼女の火に負けない圧倒的な遠赤外線の熱を放ち始めた。
二つの完璧な炭火が、深山の暗闇の中に、直径数メートルの「暖かな結界」を作り出す。
外では冷たい夜風が木々を揺らしているが、俺たちのいる空間だけは、まるで外界から切り離されたかのように暖かく、そして恐ろしいほどに静まり返っていた。
お互いの炭が完全に熾りきった。
どちらの火も、爆ぜることもなく、ただ美しく紅く輝き続けている。引き分け、だ。
少女はトングを置き、深く、息を吐き出した。その口から出た白い息が、炭火の熱で一瞬にして消えていく。
「……見事ね」
彼女は初めて、俺の『技術』に対してストレートな称賛の言葉を口にした。
「その若さで、ウバメガシの性質を完全に理解している。下界の人間は、みんな力任せに火を点けようとするけれど……あなたは火の『声』を聴いている」
「そっちこそ。あの安定した熾火は、ただの趣味のレベルじゃないな」
俺がクッカーに水を注ぎながら答えると、少女はフードを完全に脱ぎ去り、夜の闇に美しい黒髪をなびかせた。
「私は、一ノ瀬 葵。……ねえ、技術のあるキャンパーさん。その熾った最高の火で、これから何を焼くつもり?」
彼女の切れ長の瞳が、俺の手元にある食材へと注がれる。
下界の修羅場を逃げ出してきたはずの俺の目の前で、この深山でしか出会えなかった最強の野生系美少女との、濃密な夜が本格的に始ろうとしていた。
(第二十一話 終わり)




