第二十二話:山の恵みの物々交換編——最高峰の山飯と、迫り来る影
「私は、一ノ瀬 葵。……ねえ、そこまで備長炭を扱える君さ、その熾った最高の火で、これから何を焼くつもり?」
葵の切れ長の瞳が、俺の手元にあるバックパックへと注がれる。
俺は無言でパックのジッパーを開け、バイト代で仕込んできた今日のメイン食材を取り出した。
「プラチナポーク(白金豚)の厚切りロース、それと特大の原木椎茸だ」
「……いい肉ね。脂のサシが綺麗。椎茸も、傘が肉厚で水分がしっかり保たれている」
葵は小さく感嘆の息を漏らすと、自身のクーラーバッグから、新聞紙と緑の葉に包まれた塊肉を取り出した。
「なら、ウチはこれ。昨日、知り合いの猟師が獲ったばかりの『鹿のシンタマ(内もも肉)』。筋を丁寧に外して、三日間熟成させてある」
お互いの食材を並べた瞬間、そこには下界の生ぬるいバーベキューとは一線を画す、最高の「火入れの舞台」が整った。
俺たちはそれぞれのコンロの前に座り、肉を焼き始める。
葵は鹿肉の表面に軽く岩塩を振り、遠火の強火でじっくりと熱を入れていく。ジビエ特有のクセをウバメガシ備長炭の超高温で揮発させ、肉汁を一切逃がさない完璧なトング捌き。
一方の俺は、プラチナポークを網の中心へ。
——ジュウゥゥゥウウウッ!
静かな深山に、暴力的とも言える香ばしい肉鳴りが響き渡る。溢れ出る極上の脂が炭に落ちては煙となり、肉をさらに燻していく。椎茸は傘をひっくり返し、ひだの表面にわずかな塩を振って、じわじわと内側から汗をかくのを待つ。
「……はい、焼き上がったわ。食べてみて」
葵がナイフで薄くスライスした鹿肉を、シェラカップに乗せて差し出してきた。
中心が綺麗なロゼ色に染まった、完璧なレアだ。
一口噛み締める。
「……っ!」
驚くほど柔らかい。ジビエ特有の臭みは微塵もなく、噛むたびに濃密な赤身の旨味と、熟成された肉のコクが口いっぱいに広がる。
「美味いな。火入れがこれ以上ないほど完璧だ」
「ふふ、合格みたいね。じゃあ、次、あなたのプラチナポーク、頂戴」
葵が少し嬉しそうに目を細める。
俺はカリカリに焼き上げたプラチナポークの表面に、自家製のハーブソルトをひと振りし、肉厚の椎茸とともに彼女に差し出した。
葵は肉を口に運び、目を丸くした。
「……ん! 脂がすごく甘い。表面はクリスピーなのに、中は驚くほどジューシー。それに、この椎茸……噛んだ瞬間に旨味のスープが溢れてくる……。佐藤くん、あなた本当に高校生?」
「ただのソロキャンパーだよ」
静かな夜の森。二つの完璧な炭火を挟んで、俺たちは無言で極上の山飯を堪能し、お互いの技術を認め合っていた。ただただ純粋でストイックな食の時間がそこにはあった。
だが、その至極の静寂を切り裂くように、俺の胸ポケットのサテライトコミュニケーター(衛星通信端末)が、ピピッ、ピピピピッ!と、不穏な警告音を鳴らし響かせた。
「……? なに、それ」
葵が眉をひそめる。
携帯の電波すら圏外のこの深山。宇宙の人工衛星を経由して届いた気象庁の局地災害アラートの画面をスクロールした俺の手が、完全に凍りついた。
『緊急警告:現在発生中の前線急化に伴い、当該山域に「数年に一度レベルの超局地性ダウンバースト(猛烈な突風と集中豪雨)」の発生確率が90%を超えました。あと一時間以内に猛烈な嵐が直撃します。直ちに安全な避難所を確保してください』
「……は?」
俺は思わず声を漏らした。
画面をよく見ると、端末の簡易気圧インジケーターが、恐ろしい速度で急降下を始めているのをはっきりと捉えていた。
外の闇はますます深まり、さっきまで穏やかだった夜風が、不気味に木々を大きく揺らし始めていた。
無人島の嵐すら生ぬるいと感じるほどの、本物の山の狂気が、今まさにこの頂上へ向かって急速に迫りつつあった——。
(第二十二話 終わり)




