第十九話:漆黒の沢沿い設営編——一人の城を、夜の闇に
ガタゴトと揺れる夜のローカル線を無人駅で降り、そこから数時間。携帯の電波はとっくに途絶え、耳に届くのは時折鳴り響くフクロウの声と、周囲を流れる沢のせせらぎ音だけだ。
「……ここまで来れば、誰も追っては来られないな」
バックパックのベルトを軽く直し、俺は深く息を吐き出した。冷たい空気で肺が洗われるようだ。
新井美羽の騒がしいおねだりも、加藤遥の刺すような冷たい嫉妬も、冴島玲さんの大人の誘惑も、ここには届かない。給料袋を叩いて手に入れた最高級のウバメガシ備長炭だけが、今の俺の相棒だった。
俺はヘッドランプの細い光だけを頼りに、目星をつけていた沢沿いの平地へと足を踏み入れた。
夜間の設営は、視界が制限される分、昼間の数倍の技術と経験が要求される。だが、誰の目もないこの状況こそが、俺の「本領」を発揮させる。
「まずはベース(拠点)の確保だ」
バックパックから、無人島でも俺の命を繋いだ頑丈な軽量タープ(3m×3m)を取り出す。
周囲の巨岩と立ち木の位置を瞬時に見定め、風の通り道を計算。ナイフで手頃な枝を削って即席のペグを作り、ロープワークを駆使して強固に固定していく。漆黒の闇の中、ヘッドランプの明かりだけで迷いなく手が動く。連日の日雇い労働で鍛え上げられた筋肉は、無駄のない正確な動きで、あっという間に風を遮る強固なシェルターを作り上げた。
次は、命の源である火床の設営だ。
湿った地面からの冷気を避けるため、平らな石を拾い集めて綺麗に敷き詰める。その上に、俺が命を削って手に入れた備長炭を、上昇気流の通り道を意識して立体的に組み上げていく。
手袋を外し、冷え切った指先でフェロセリウムロッドを構えた。
乾燥させた麻紐の火種に向けて、ナイフの背を激しく擦り下ろす。
バチィィッ!!
火花が闇を裂き、小さな、本当に小さな火種が生まれた。
伸縮式の火吹き棒を口に当て、細く、長く、的確に空気を送り込む。俺の肺活量に応えるように、漆黒の備長炭の奥から、待望の、圧倒的な紅の輝きが満ちてきた。
じわぁ……と、夜の静寂を拒絶するような、圧倒的な遠赤外線の熱が俺を包み込む。
クッカーに沢の水を汲み、浄水して火にかける。誰の面倒を見ることもなく、ただ自分が熾した完璧な火の音と、沢のせせらぎに耳を傾ける。これこそが、俺が求めていた「孤高の領域」の贅沢だ。
一息つき、ふと風下から漂ってきた匂いに、俺の鼻腔がピクリと反応した。
(……火の匂い? いや、これは——)
ただの落ち葉や薪が燃える匂いではない。徹底的に管理され、不純物を含まない熱源だけが放つ、極めて香ばしい熱の匂い。
(……備長炭だ。しかも、俺のこれと同じ、ウバメガシの最高級品……)
俺はハッと目を見開いた。
誰も来ないはずの深山の奥地、その闇の先、巨岩の影から、俺の熾した火とは別の「もう一つの美しい赤」が、静かに夜の帳を照らし出しているのが見えた——。
(第十九話 終わり)




