第十八話:孤高の逃亡編——気配を消して、夜の闇へ
「大人のルートは一味違う、か。でも、自然を相手にするなら年齢なんて関係ない。……佐藤、そっちの車に乗ったら許さないから」
「ふふ、随分と可愛い牽制ね。でも、彼みたいな本物は、もっと深い世界を知りたがっていると思うけれど?」
夕暮れのアウトドアショップ前。
冴島玲さんと加藤遥の二人から放たれるプレッシャーは、完全に冬山の猛吹雪を超えていた。火花が散るどころか、もはや周囲の空気そのものが凍りついている。通行人たちが「なんだあの修羅場は……」と遠巻きにこちらを伺う始末だ。
二人の視線がバチバチと火花を散らし、一瞬、お互いの出方を探るように思考が完全に相手へと集中した。
その、わずか一秒に満たない刹那の空白。
(——今だ)
俺は音もなく身体を反転させた。
過酷な自然の中で、野生動物に気配を悟られずに接近、あるいは離脱するための歩行技術。骨盤の傾きを一定に保ち、足裏全体で地面の振動を吸収しながら、驚異的な速度で二人の視界の外へと滑り込む。
小脇に抱えた最高級ウバメガシ備長炭二箱の重みすら、今の俺にとっては羽毛のように軽い。連日の日雇いバイトで鍛え上げられた筋肉が、無駄のない爆発的な推進力を生み出していた。
ショップの角を曲がり、雑踏の中に完全に紛れ込む。
背後から「あ、あれ!? 佐藤くん!?」「佐藤……っ!?」という二人の焦った声が小さく響いたが、振り返るつもりは毛頭ない。
「誰の面倒も見ない。誰の視線も気にしない。俺は、一人の静寂へ戻る」
そのまま駅へと直行した俺は、給料袋から迷わず現金を取り出し、最も早く出発する山間部行きの各駅停車に飛び乗った。
◇
ガタゴトと揺れる夜のローカル線の車内。
乗客は俺の他に数人しかいない。窓の外は、街の明かりがまたたく間に消え去り、漆黒の山影がそびえ立つだけの暗闇へと変わっていく。
俺はシートに深く腰掛け、大きく息を吐き出した。
ポケットの中で、スマートフォンが何度も震えている。美羽からの「師匠どこにいるのー!?」というメッセージや、遥からの短い着火アラートのような着信通知。さらには玲さんからの「逃げるなんていい度胸ね」という大人の余裕混じりのメッセージ。
俺は電源ボタンを長押しし、液晶を完全に暗転させた。
「電子のノイズは、自然には必要ない」
数時間後、深夜の無人駅に降り立った。
駅のホームに一歩踏み出した瞬間、刺すような冷気と、濃密な土と木の香りが俺の肺を満たした。
空を見上げれば、街では決して見ることのできない、圧倒的な満天の星空。
「……最高だな」
俺はバックパックのベルトをきゅっと締め直し、ヘッドランプの明かりを頼りに、誰もいない夜の登山道へと足を踏み入れた。
向かうのは、猟師すら滅多に立ち入らないという、深山の奥地にある完全に隔離された沢沿いの平地だ。
夜間の単独行は危険を伴うが、今の俺にはバイトで稼ぎ出した確かな資金と、妥協なく買い揃えた本物の装備、そして何より誰にも邪魔されない自由がある。
ザク、ザク、と冷え切った落ち葉を踏み締める自分の足音だけが、静かな森に響く。
二人のヒロインによる熾烈な独占欲から完全に逃げ延び、俺は再び、本当のソロキャンパーとしての「孤高の領域」へと帰還したのだった。
(第十八話 終わり)




