第十六話:孤高の懐事情——俺、日雇いバイトに挑む
無人島から街の日常へと戻ってきた俺を待っていたのは、大自然の洗礼よりも恐ろしい、非情な現実だった。
「……終わったな」
自分の部屋でスマートフォンの銀行口座アプリを開いた俺は、画面に表示された数字を見て、静かに天を仰いだ。
残高、わずか数千円。
原因は明白だった。この数ヶ月、最高級のウバメガシ備長炭を買い漁り、過酷な雪山や無人島へ行くための移動費、さらには現地調達の装備類に全財産を注ぎ込んできたツケが一気に回ってきたのだ。アウトドアは金がかかる。特に、命を預ける道具や一級品の燃料に妥協を許さない俺のようなスタイルでは、高校生の小遣いなど一瞬で消し飛ぶ。
だが、俺には諦められない次のソロキャンの計画がある。軍資金がなければ、次の山にも海にも行けない。
「……背に腹は代えられないか」
俺は即座に、その日からシフトに入れる日雇いバイトのアプリを起動した。見つけたのは、駅裏の古い雑居ビル解体現場における『資材搬入・ガラ(瓦礫)撤去』の片付け作業。時給は悪くないが、肉体労働のなかでもかなり泥臭い、いわゆるガチの現場だった。次の遠征費用を貯めるため、俺は今週の放課後と週末の全てをこの現場に注ぎ込むことに決めた。
◇
数日後。
貸与された黄色のヘルメットを被り、軍手をはめた俺は、埃とコンクリートの匂いが立ち込める薄暗い解体現場に立っていた。
「おい、そこの学生! 突っ立ってねえで、あの奥にあるコンクリートの塊を外のトラックまで運べ! ぐずぐずすんなよ!」
現場監督の強面の男が、怒鳴り声を上げる。
周りを見渡すと、一緒に集められた日雇いバイトの連中は、見るからに体力のなさそうな若者や、最初からやる気のなさそうな男ばかり。一様に「マジかよ、こんな重いのかよ……」と、重労働を前に早くも腰が引れていた。
だが、俺は違った。
「了解です」
俺は静かに返事をすると、目の前にある数十キロはあろうかというコンクリートの塊の前に進み出た。
周囲の連中が「あんなの持てるわけない」という目で見てくる。
しかし、俺の身体は、この数ヶ月間で完全に研ぎ澄まされていた。
標高2,000メートルの雪山を、30キロを超える冬山装備を背負って何時間も登行し、無人島では何十キロもの流木や岩を一人で運び、要塞のような極上シェルターを作り上げてきたのだ。ただの解体現場の資材など、俺の「日常」に比べれば大した重量ではない。
俺は足を肩幅に開き、腰を深く落とした。ブッシュクラフトで培った、身体の重心を最も効率よく使う基本のフォーム。
「——ふんっ」
短く息を吐きながら立ち上がると、巨大なコンクリートの塊が、驚くほどすんなりと俺の胸元まで持ち上がった。
「な、なんだあいつ……!?」「あの細身で、あの塊を一発で……!?」
どよめく周囲の日雇い連中を完全に無視し、俺は無駄のない足取りで瓦礫をトラックの荷台へと運んでいく。
一人で重い荷物を運ぶのには慣れている。誰も手伝ってくれない無人島では、自分の体力をいかに温存し、いかに効率よく動くかが生死を分けるからだ。呼吸を乱さず、筋肉の疲労を最小限に抑える歩行技術を、俺はすでに骨の髄まで理解していた。
連日、他のバイト連中が何度も音を上げ、座り込んで息を切らせる中、俺だけはマシーンのように淡々と、正確に瓦礫の撤去を続けた。
「……君、ちょっといいかな」
その日の昼休憩に入った直後、背後から落ち着いた女性の声が掛けられた。
振り返ると、そこには解体現場のプレハブ事務所から出てきたと思われる、一人の女性が立っていた。
作業着の上からでもわかる抜群のプロポーションに、すっきりとまとめた黒髪。年齢は二十代半ばといったところか。手元には冷えたスポーツドリンクの缶と、なぜか救急箱を抱えている。彼女の胸元にある名札には『現場事務・冴島 玲』と書かれていた。
「これ、監督から。今週ずっと、君が一番働いてくれてるからって」
「……あ、ありがとうございます」
俺がスポーツドリンクを受け取ると、冴島さんは俺の作業着から覗く腕の筋肉や、無駄のない佇まいをじっと観察するように見つめてきた。その切れ長の瞳には、ただのアルバイトを見るのとは違う、深い興味の色が混ざっている。
「君、高校生だよね? 解体の人間でもないのに、その身のこなし……ただの筋力じゃない。骨盤と体幹を完璧に連動させて、荷物の重さを完全に逃がしている。……どこかで専門的な訓練でも受けたの?」
鋭い指摘だった。まさか現場の事務員から、身体の使い方をここまで見抜かれるとは思わなかった。
「いえ……山を登ったり、重い薪を運んだり、趣味の延長で自然と身についたものです」
「趣味……、あぁ、なるほどね」
冴島さんは合点がいったように、ふっと柔らかく微笑んだ。その大人の色気あふれる微笑みに、俺は少しだけ気圧されそうになる。
「山歩きやブッシュクラフトの類ね。過酷な自然の中で体力を温存するための効率的な歩行術。……どうりで、他のだらしない男たちとは眼の据わり方が違うわけだ」
彼女は俺のすぐ隣に腰掛け、冷たいお茶を飲みながら話を続けた。聞けば、彼女自身も大学時代は本格的な山岳部に所属しており、今でも休暇には単独でトレイルランを行うほどのガチ勢らしい。
「日雇いの現場に、こんな『本物』が紛れ込んでるなんて思わなかった。……ねえ、佐藤くん。もしよかったら、午後も私の目の届く範囲で働いてくれない? 君の綺麗なフォーム、見ていて飽きないの」
「はぁ……サボらなければ、どこでやっても同じですから」
俺が淡々と答えると、冴島さんは「ふふ、冷たいのね」と楽しそうに目を細めた。
その後も俺のペースは崩れなかった。
それどころか、プレハブの窓から時折こちらを見つめる冴島さんの静かな視線を感じ、心なしかいつもより動きに無駄がなくなった気さえする。
そして週末。今週分のすべての勤務シフトが終了した。
事務所で手渡されたのは、連日の労働の結晶である、ずっしりと重みのある給料袋。監督の粋な計らいで、真面目な勤務態度を評価され、当初の予定より少し多めにボーナスが色付けされていた。次の遠征資金としては十分すぎる額だ。
「佐藤くん、お疲れ様」
着替えを終えて現場を出ようとした俺を、冴島さんが呼び止めた。彼女は私服のトレンチコートに着替えており、その洗練された大人の佇まいに、通りかかる他のバイト男たちが一斉に目を奪われている。
彼女は一枚の小さな名刺を、俺の指先に滑り込ませてきた。
「これ、私の個人の連絡先。……今度、私がプライベートで登るおすすめの裏山のルートがあるんだけど、もしよかったら案内してくれない? 君みたいな『本物』の男となら、面白い山歩きができそうだから」
耳元で囁かれた大人の女性の香りと、ストレートな誘い。
学校の美羽たちのような騒がしい好意とは違う、静かで、かつ確実な品定めをするような視線。
「……気が向いたら、連絡します」
俺は名刺をポケットに収め、短く答えた。
「ええ、待ってるわ。またね、佐藤くん」
冴島さんは妖艶に微笑み、手を振って去っていった。
駅前の喧騒の中、俺は給料袋の重みと、ポケットの中の名刺の感触を確かめながら、まっすぐにいつものアウトドア専門店『ワイルド・ルーツ』へと向かった。
必死に稼ぎ出した現金を握りしめ、店内の最奥にある棚へと進む。
「これで……次の旅に出られる。……山歩きの誘い、か」
手に入れた漆黒のウバメガシ備長炭を見つめながら、俺は静かに口元を緩めた。
男一人のストイックな旅の裏で、下界での俺を巡る人間関係は、大人の女性の参戦によってさらに静かに、しかし確実に変化しようとしていた。




