『銘無し』の騎士
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その女には最初、名前がなかった。
女が生まれたのは今から25年前、『ガラム教国』というアルカディア聖王国の北方に位置する宗教国家だった。
国民すべてが地神ガラムに忠誠と信仰を捧げる一神教の国。
田畑は痩せ細り、荒涼とした大地が広がるその国で、人々が神という拠り所を求めるのは無理からぬことだったのだろう。
国威を保つため、教国にはいくつもの厳しい戒律が存在したが、分けても最も重要視されていたのが、「神の声を聞き、神のために死す」という絶対の法だった。
男女の区別なく、民は強靭な戦士となるため幼い頃からその技術を徹底的に叩き込まれる。
そして、彼らに課されるのは苛烈を極める修練のみにあらず、神への信仰を示すため、供物を捧げることもまた教えの一つだった。
『名とは神の祝福と共に授けられるものであり、名を持たぬ者はそれ即ち人にあらず』
そのような理由で、名を与えられることのなかった子供たちは神の供物として次々と戦場へ送られていった。
軍を維持する資金も足らず、外敵や魔獣の脅威に常に晒されていた当時であればなおのこと、その気運は強まっていく。
記号と数字が刻まれた粗末な金属プレート。
それが女と他とを区別する唯一の識別票だった。
神の声は聞こえず、何のために戦うのかも分からないまま、女は戦地の奥深くへとズルズル引きずり込まれていく。
戦地に送られた子供たちの内、女子には性処理用具としての役割も求められた。
人ではない道具に対しどのような扱いをしても罪にはならないという、それこそ子供の屁理屈じみた歪んだ曲解で。
子供ながらに整った容姿の女がそういったことに使われなかったのは魔術士としての才が抜きんでていたこと。
そして何より、地神ガラムの加護を賜ったとされる教国の始祖と同じ、『緑』の魔力属性を持っていたからだろう。
昼は異形の化け物と戦わされ、夜は兵舎で男たちの慰み者。
そんな環境の中で、命よりも先に心が壊れる者も少なくなかったが、性処理用途に使われなかった分、女は兵器としての寿命が長持ちした。
壊れていく者、殺されていく者たちを無感情に見送りながら女は戦い続ける。
そうして血と泥にまみれた歳月は飛ぶように過ぎていき、女が戦場に投入されてより数年後、ガラム教国は内部からあっさりと崩壊した。
「…………は?」
あまりにも唐突な終わりに唖然と声を上げたことを覚えている。
尽きかけていた国庫がとうとう底をついたのか、はたまた子供を地獄に蹴り落しておきながら、我先にと逃げ出した教国の重鎮たちが原因なのか。
いずれにせよ、神のためにという名目で自分たちが強要されてきたことは全て無駄でしかなかったというのは理解できた。
「……なんだ。セカイっていうのはここまで冷たいものなのか」
神の声は結局聞こえなかった。
そもそも、この期に及んで姿を現さぬ存在にどれほどの価値があるというのか。
眼前に迫る魔獣の軍勢。
女が死力を尽くせばいくらかは道連れにできようが、そんな気力ももはやなかった。
怯え混乱する大人たちを横目に、女は傍らに落ちていた拳銃を手にとる。
瘴気を纏った魔獣には何の効果もないが、人間の頭を吹き飛ばすには充分すぎる代物だ。
銃口をこめかみに当て、引き金に指をかける。
それで終わりだ。終わりのはずだった。
けれど、女が引き金を引く寸前。
黄金の焔が吹き荒び、魔獣と瘴気を一掃した。
「――――え?」
――その光景を、女は生涯忘れることはないだろう。
人間など一薙ぎで殴殺する漆黒の獣の群れを一瞬にして灼き祓う圧倒的な力。
誰かの驚愕が耳に届く。
女もまた息を呑み、その輝きから目が離せなかった。
死と怨嗟と、醜い欲望しか知らなかった短い人生で、初めて美しいと感じた。
女はその光にただただ見惚れ、腰を抜かす。
地獄の中、ついに神がその威光を示されたのだと、本気で思った。
焔がおさまった時、黄金の剣を携えた一人の青年が立っていた。
神秘的な気品をまとった顔立ちと、雄々しい佇まい。
神の現身たる存在を網膜に焼き付けていると、周囲の大人たちが彼の元へと群がっていく。
そこで何か話をしていたと思ったら、いきなり青年が大人たちを殴り飛ばした。
その足で青年はツカツカと歩み寄り、腰を抜かしていた女の体を肩にかつぐ。
「――え? えっ……ええっ!?」
わけも分からぬまま、女は教国の外へと強引に連れ出される。
それが彼との――『聖王』カイラードとの出会いだった。
それからというもの、女の世界は少しだけ変わった。
いや、正しくは――世界そのものではなく、世界の見え方が変わった。
教国を出てからも、女は変わらず戦いの中に身を置いた。
連れ出された子供たちの多くは戦場とは無縁の穏やかな暮らしを望んだが、女はカイラードの下で戦うことを選んだ。
人魔大戦が激化するにつれ戦線は拡大していき、カイラードは西へ東へと奔走する。
それに着いていく女もまた傷の絶えない日々を送っていた。
戦いは終わらず、異形の化け物と殺し合いを続ける毎日。
だというのに、不思議と教国にいた時のような虚無感は感じなかった。
世界を巡る旅路の中で、友人と呼べる者ができた。
背中を預けられる仲間ができた。
彼のために戦っているという事実に、かつてない充足感を得た。
「――あまり気安く兄様に近づかないで」
常にカイラードの傍に張りつく妹気取りの紅髪の少女。
そいつの存在は正直煩わしかったが、それでも彼と共にいられることが女は嬉しかった。
魔獣と殺し合う日常と、その合間にわずかに訪れる穏やかなひと時。
そんな日々を駆け抜けながら、カイラードと出会って一年が経った頃、女はようやく気づき始める。
あの日、死の淵で神様だと信じた彼が――どうしようもなく『人間』だったということを。
きっかけは、前触れもなく見た一つの夢だった。
赤く焼けた空と、誰もいない寂しい荒野。
果ての見えないその荒野には無数の剣が立っていた。
林立する剣の群をカイラードは地を踏みしめ進み、その先で新たな剣を突き立てる。
そして、ほんの少しの時間だけ彼は剣に寄りかかり祈りを捧げるのだ。
女はすぐにでも駆け寄りたかったけれど、足が地面に縫いつけられたように動かない。
痛みを堪えるように震える彼の背中は、泣いているように見えた。
「……心配するな。必ず最後まで連れて行くから」
そう言い残し、歩き去っていくカイラードの姿を見送った時、理解した。
この世界は、彼の心の在り様そのものなのだと。
無数の剣は彼と共に戦った戦友たちの墓標だ。
今までもずっと、誰かを失うたびに彼はこうして剣を突き立てていた。
忘れないように。置いていかないように。
鉄と痛みをもって、戦友たちの魂をその心に刻みつける。
そうして彼はまた歩きだすのだ。
この道の先に、夢見た場所があると信じて。
「――ああ」
胸の奥から湧き上がる感情を、果たしてなんと呼べばよかったのだろう。
抱えきれない想いが涙となって零れ落ちる。
仲間たちの墓標によって形作られた孤高の王道。
その道を歩むには、彼はあまりにも人間的に過ぎた。
誰よりも強い力を持っているくせに、彼の内面は決して完全無欠の超越者などではなかった。
嬉しければ笑い、悲しければ泣き、子供が理不尽に虐げられていれば怒る。
そんな、平凡とさえ言えるような普通の人間だった。
失望なんてしない。
むしろ、支えたいという気持ちがより強くなった。
だって、そんな普通の人が神様にだってできないことを為そうとしている。
あんなにも傷ついて、それでも歩き続ける彼を一体誰に否定させるものか。
神の声は聞こえない。
けれど、彼の声を確かに聞いた。
お前たちの魂を旅の終わりまで連れて行くという尊い誓いを。
ならば、迷い怖れることは何もない。
己はただあの遠い背中を目指し、進み続けるだけのこと。
たとえ道半ばで朽ちるとも、魂の還る場所はここにある。
先に散っていった同胞たちのように、いつかこの荒野で誇りを抱いて眠るために。
その時、女は神を棄て、代わりに絶対の主君を戴いた。
――『アストレア』。
それが、カイラードから与えられた女の名前。
やがてその名は『聖王』の死後、世界に轟くこととなる。
†
ざらついた石壁にもたれかかり、魔弓使い――アストレアは深く息を吐いた。
湿った土と腐敗した雑草の匂いが鼻腔を刺す。
その場所は人魔大戦時代に築かれた城塞の跡地だった。
かつては堅牢であっただろう建物は度重なる雨風と瘴気の侵食によって崩れかけ、今は蔦と苔に覆われた静寂の空間と化していた。
差し込む月明りは淡く、木々の葉が風に揺れるたびに不安定な陰影を床に落とす。
「……くそっ。さすがに手強いな」
ぽつりと呟く。
接敵からすでに8時間が経過していたが、戦いは持久戦の様相を呈していた。
アウローラの姿は見えない。
こちらと同様に夜闇に乗じ、機を窺っているのだろう。
やはりアウローラを相手どる上で最も厄介なのは、あの異常なまでの速力だ。
こちらの攻撃は悉く躱され、一瞬の合間に剣軍による砲撃を挟んでくる。
確実に当てるためには接近するしかないが、迂闊に間合いを詰めすぎれば即座に包囲され、串刺しにされるだろう。
互いに決定打を与えられないまま時間ばかりが過ぎていく。
適当な場所に矢を撃ちこんで炙りだすか――あるいはこちらから姿を晒し、誘いだすか。
アストレアが次の手を逡巡していると―――
『――聞こえていますね? アストレア』
突如、胸元のペンダントから通信が入った。
その音を聞き取り、アストレアはすぐさま応答する。
「ユーフィリア様」
『首尾は?』
通信魔具の向こう、声を響かせたのは彼女の契約主であるユーフィリアだった。
労いも気遣いもない傲岸な問いかけ。
もはや慣れきったそれに腹を立てることもなく、アストレアは端的に告げる。
「膠着状態です。現在、敵の姿を見失ってしまいました。発見には少々手間取るかと」
『――そうですか』
ユーフィリアの声が一段階冷えたように感じたが、恐らくそれは気のせいではない。
仕事を果たせない無能は切り捨てるのが彼女の流儀だ。
実際、彼女に利用され捨て駒にされた者は、アストレアが知る限りでも百や二百ではすまない。
けれど、その反面。
切り捨てるばかりでは人は思うように動かないこともユーフィリアは理解していた。
『こちらからも伝えておくことがあります。先ほど、お兄様に会ってきましたよ』
「―――っ!」
世間話のように切り出された言葉に、アストレアの瞳が大きく見開かれた。
外套の下。
震える心臓を押さえつけ、恐る恐る訊ねる。
「……やはり、あの少年がそうだったのですね」
『ええ、間違いありません。以前の記憶もきちんと引き継いでおられました』
「………っ。よかった……」
ああ、と。
喜びと安堵がアストレアの胸を満たす。
還ってきた。
ずっち待ち焦がれた方の魂が、再びこの世界に還ってきてくれた。
その事実に、アストレアは泣きそうになる。
『気持ちは解りますが、お兄様の前でその言葉は口にしないように。たとえ他意はなくとも、それはお兄様を悲しませる』
「……承知しております。私も、不用意な発言であの方を傷つけるのは本意ではありません」
10年前、カイラードはこの世界で命を落とし、向こう側へ渡った。
ならば、向こうの世界からこちら側へ戻ってきたのも、『そういう』理屈なのだろう。
ユーフィリアの言う通り、少なくとも彼の前で口にして良い言葉ではなかった。
ユーフィリアは切り替えるように、
『――さて、アストレア。私が貴女に『至剣』を与え、この作戦に帯同させたのは貴女が強いという他にありません。しかし、その強さがここで通用しない程度のものであれば、もはや貴女に固執する理由はない。異論は?』
「ございません」
冷徹の声に、アストレアは動じることなく答える。
「あの方に仕え、あの方のために力を尽くす。それだけが私の存在意義。どうぞ存分にお使いください。我らの道を阻む者、その悉くを討ち滅ぼしてみせましょう」
目的を果たすためなら、ユーフィリアは犠牲を払うことを厭わない。
義や情とは一切無縁で、不要となれば他者を容易く切り捨てる。
しかし、アストレアはそれを責めるつもりは毛頭なかった。
努力したけれど駄目でした、などという惰弱な言い訳に興味はない。
主君の下へ辿り着き、そして今度こそ護り抜くために今日まで生きてきた。
それを果たせないなら、この命に価値などない。
『――よろしい』
通信魔具の向こうで、ユーフィリアが満足げに頷く。
そして一言、己の従僕に命令を下した。
『では、アストレア=ヴァン=スターゲイズ。『銘無し』の騎士よ。これより我らはあの日失ったすべてを取り戻す。号砲を放て。必ずやあの女に一撃を入れてみせよ』
「仰せのままに。我らが女王。ユーフィリア=ロア=ブライトクロイツ=フォン=アルカディア陛下」
応じると同時に、アストレアは軽やかに飛び上がった。
そして城塞の屋上へ降り立ち、眼下の森――その奥に潜む敵を睨み据える。
「……きっと貴様には、一生理解できないのだろうな」
あの人の気持ちを。
何人も、何人も大切な人を失って。身も心も擦り切れて。
それでも進み続けるあの人の強さを。
あの人を失い、お前は立ち止まった。
私は歩みを止めなかった。
それがお前と私との決定的な差だ。
「戦うことを放棄した貴様に、その席は不釣り合いだ。前言通り奪わせてもらうぞ」
アストレアは腰の鞘から黄金の短剣を抜き放つ。
――『第十の流星』。
アルカディア聖王国に残された最後の『聖剣』の欠片を基に造られた十本目の『至剣』。
魔力を叩き込み、術式を起動。
本体である短剣の外郭を魔力が覆い、長大な魔弓が形成される。
そしてアストレアは、唄うようにその呪文を唱えた。
『――道は誇りで満ちている』
夜の森に清澄たる声が響き渡る。
力ある言葉――『天声』による呪文の詠唱。
一時的に己の潜在能力を引き出し、増幅させる魔術の奥義。
呪文とはすなわち己の魂の在り方を表わす言葉。
ゆえに、呪文は血族の口伝や宗教の聖句など、己の心に根差したものでなければならない。
アストレアの呪文は、『聖王』カイラードの固有呪文の一節を借り受けたもの。
本来であれば、いかに高位の魔術士であろうと充分な効果は得られない。
しかし―――
『散りゆく死者に花束を、旅ゆく生者に祝福を。眩き人よ。貴方の志は高く、我が心は貴方の背を追い続ける』
一言ごとに深緑の魔力が渦を巻く。
アストレアはカイラードの呪文に、カイラードとは異なる意を乗せる。
彼の韻をそのままに、呪文が持つ意味を己の解釈へと落とし込むことで固有のそれへと昇華させた。
その強化上昇率は『煌』の魔術士の中でも随一。
『緑』の魔力特性である『放出力』と合わさり、世界最強の攻撃力を得るに至る。
これを以てアストレアは5年前、『災害級』の一角を撃ち落とし、人魔大戦後唯一の『災害殺し』を成し遂げた。
『貴方の名を謳おう。彼方まで轟くように。孤高の王は唯一人、理想を背負いて荒野を歩む』
瞬間、森の中から紅い稲妻が立ち昇った。
致命的なミスを犯した間抜けを咎めるように、雷の速度でアウローラが接近する。
――馬鹿が。
いくら認識阻害の外套で身を隠そうとも、そんなあからさまな隙を見落とすものか。
一瞬にして最高速度に到達する猛烈な加速。
この速度であれば詠唱が完結するより前に、奴の剣がこちらの首を落とすだろう。
アストレアは構わず詠唱を続けた。
『〝払暁〟〝鉄血〟〝剣の墓標〟。誓いを此処に。この身朽ちるとも、残された魂を以て私は貴方の行く末を見届ける』
荒れ狂う莫大な魔力に『隠の衣』の術式が耐えきれず、壊れ、飛ばされた。
そして現れる褐色の美貌。
結い上げられた長い深緑の髪と同色の切れ長の瞳。
浅黒い肌は月明かりの下で艶を帯び、匂い立つような色香を放つ。
肉感的な長身と凛とした怜悧さは、さながら神話に語られる戦乙女を彷彿とさせた。
「――――え?」
呆然と、アウローラは目を見開く。
紅い双眸はアストレアの姿を過たず捉える。
予想外の敵の正体に、アウローラは空中に飛び上がったまま硬直した。
――一緒に戦おう、アウローラ。
そして、深い記憶の底に沈んでいた言葉が呼び起こされる。
そうだ。
遠い昔、主君を護れず投獄された私にその言葉を言ってくれたのは――――
「………………………アストレア?」
数秒にも満たない意識の空白。
しかし、この局面でそれはあまりにも長すぎる時間。
『最果ての丘に立つ貴方へ。我が一矢は流星となりて、御身の敵を討ち払わん―――!!』
詠唱が結ばれる。
雪崩打つ魔力が収斂し、矢と成って放たれた。
音速を超えて迫るそれに、アウローラは飛ばしていた意識を戻し、咄嗟に剣軍を前方へ展開する。
「――――っ!? 『展開』!!」
射線上に出現した剣は全部で百五十本。
この一瞬でアウローラが展開可能な最大数。
しかし、
(――うそっ、防ぎきれない!?)
夜空を裂く一条の光は圧倒的な破壊力を以てアウローラに迫る。
幾重にも展開された剣の防壁を、それこそ硝子細工のように次々と砕いていく。
最後の一本が貫かれた時、アウローラの背筋が凍った。
絶叫は無意味で。
本能的に構えた短剣も、果たしてどれほどの意味があっただろうか。
そして、アウローラが己の死を幻視した直後。
――轟音と共に、閃光が視界を白く塗りつぶした。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
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