月下狂気
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美しい月夜だった。
彼女――ユーフィリアは誰もいない屋上で一人、それを眺めていた。
遠くに見える街並みには観光都市らしく今も街灯が灯り人々の喧噪で賑わっているがここには届かない。
都合が良かった、とユーフィリアは思う。
元々彼女は騒がしいのを好まないし、何よりも彼女がここにいることが知られてしまえば、きっと大騒ぎになってしまうだろうから。
ユーフィリアは夜空に浮かぶ月を何をするでもなくただ見上げている。
昔から彼女は月を眺めるのが好きだった。
美しい月の夜に兄妹で空を見上げた。
大切な記憶を思い起こすことができるから。
「――こんばんは。良い夜ね」
不意に声をかけられ、ユーフィリアは後ろを振り返った。
その存在を視界に収めて微笑する。
「ええ。こんばんは、アルカディア様。お久しぶりですね」
挨拶を返すと、聖剣の現身であるその少女はなぜか苦虫を噛み潰したような顔を浮かべた。
「? なんでしょう?」
「……別に。ずいぶん淡泊な反応だと思って。10年ぶりの再会よ? まるで近所の知人に対する反応みたいじゃない」
「ああ、そういうことですか。もちろん驚いておりますよ。ただなんとなく、そろそろいらっしゃるだろうとは思っていましたから」
だから、それほど意外でもなかった、とユーフィリアはしっとりと言う。
そんな彼女にアルカディアはぶすくれたように唇を尖らせた。
「……なんだ、つまらない。昔から敏い子だとは思ってたけど、さらに磨きがかかったみたいね。まったく、揶揄い甲斐のない」
「恐れ入ります。アルカディア様は……とても可愛らしい姿になられましたね」
アルカディアの容姿は全盛期の半分ほどの幼い姿になっている。
黄金の少女はその幼さに釣り合わぬ適当な調子で肩をすくめた。
「本体を破壊された影響でね。この姿を顕現できるようになったのもつい最近よ。そういえば、この姿を見た時、彼もアウローラも目を丸くしてたわね」
「――――」
アウローラの名を出した瞬間、ユーフィリアの表情から波のように感情が引いていく。
思惑通りの反応にアルカディアは意地悪く笑った。
「どうかした? なんだか怖い顔になってるけど」
「……相変わらずお人が悪い。あの女の名を聞いて私がどういう反応をするかなど、分かりきっていたことでしょうに」
「ふふっ、ごめんごめん。だって、せっかくこうして顔を合わせているのに取り繕った態度じゃ味気ないでしょう? 遠慮はいらないわ。本性を出しなさい」
アルカディアはこれ以上ないほどに挑発的な笑みを浮かべた。
両者の視線がぶつかり合う。
ユーフィリアは俯き、小さく息を吐いた。
「――――」
その瞬間、空気が変わった。
他の者がこの場にいたら、あまりの重圧に背筋が凍っていただろう。
顔を上げた時、ユーフィリアの瞳の輝きは消失していた。
万人を蕩かせる淑女の仮面は剥がれ落ち、彼女の素顔が顕れる。
深く、暗い、憎しみの瞳。
慈悲も、容赦もない。
最愛の人を奪った全てを焼き尽くさんとする復讐者としての素顔だった。
「――ふふっ」
アルカディアは懐かしいものを見たように、薄く笑う。
これだ。
アルカディアがユーフィリアに目をつけた理由。
10年前、この世を去った彼が再び死に戻ってくる時、彼の後ろ盾となる存在がどうしても必要だった。
当時まだ子供だったユーフィリアを彼の後見人として選んだのは、彼女があらゆる手段を行使してでも目的を達成することができうる人間だと確信したからだ。
悲願を果たすためなら他の一切を顧みないその狂気。
遠い遠い彼女たちの願いを果たすためには、それが必要だった。
事実ユーフィリアは己の目的のため、彼が護ったこの国を維持するために三つの国を滅ぼし、その領土を奪い取ってみせた。
「その様子だと、ちゃんと逢えたみたいね」
「ええ」
ユーフィリアの脳裏に先ほどまでの少年との邂逅が蘇る。
彼の前で取り乱すような愚は犯さなかったけれど、それでもあの決闘を観た瞬間からずっと心は震えていた。
だって、涙が出てしまうくらいに変わっていなかったから。
自分を顧みないあの無鉄砲さも。
真っ直ぐに前を見据えるあの強い瞳も。
たとえ姿形が変わろうとも、その気高き在り様は少しも色褪せてはいなかった。
本当は泣き叫びながら彼の胸に縋りつきたかったけれど、さすがにそれは自重した。
泣きたいのは彼の方であったろうし、その甲斐もあってあの頃は見れなかった彼の弱さを見ることもできた。
そう考えれば、概ね満足の結果と言えるだろう。
「アルカディア様には感謝しております。貴女のおかげでお兄様との再会が叶いました。お兄様が死に戻ってくることを貴女が教えてくれなければ、私はこうして生きてはいなかったでしょう」
「どういたしまして。その代わり、未払いだった対価はきちんと支払ってもらうわよ」
「もちろんです。貴女の望みは私の目的とも一致している。断る理由はありません」
ユーフィリアの口元が歪に吊り上がる。
アルカディアの望みは本来の契約者である彼と再び契約を結ぶこと。
そのためには仮初の契約者であるアウローラを排除する必要がある。
それが、アルカディアがユーフィリアに出した条件だった。
「あの日から私の想いは何一つ変わらない。心はずっとあの人だけを求めている。今こそ奪われたすべてを取り戻す。そのために、私はこの10年を生きてきたのですから」
「……ふふっ。やっぱりいいわね、貴女」
静かな、けれど内に秘めた劫火の如き熱量に、実体のないはずのアルカディアの身体が震えた。
果たして彼女の願いが結実するのか、あるいは絶望の中に潰えるのか、アルカディアにすら解らない。
だが、その先に待つものが破滅だったとしても、ユーフィリアは最後の一瞬まで決して立ち止まることはないだろう。
そして、その想いはきっとあの少年の何かを変える。
あまりにも退屈だった微睡みの10年が終わり、時代が再び動き出す予感にアルカディアは破顔した。
――ああ、それでこそだ。
「ならば見せてみなさい。貴女が紡ぐ物語を。あの日途絶えた英雄譚の続きを。貴女がそのためにこの10年を生きてきたように、私もそれを間近で見られることをずっと心待ちにしていたのだから」
そう言ってアルカディアは踵を返し、黄金の粒子となって姿を消した。
影なき祝福の声にユーフィリアは頭を垂れる。
ほどなくその気配が完全に消え去るまで、彼女は礼の姿勢を崩さなかった。
「――さて。聞こえていますね? アストレア」
そして、ユーフィリアは胸元のペンダントを通し、『魔の森』にいる己の従者へと呼びかける。
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