ある暗殺者の最期
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『魔の森』は巨大な樹木が乱立し、鬱蒼とした枝葉が空を覆い尽くす一種の異界だった。
陽の光は地上まで届かず、昼間であっても薄暗い森の中では時間が歪んだような錯覚さえ感じる。
湿った土と腐葉土の臭いが鼻をつき、時折視界を覆う黒い霧――瘴気が肺腑を締め付ける。
瘴気はあらゆる生物の精神を蝕み、肉体を変貌させる『毒』だ。
魔力を纏えない者であれば、触れるだけで心身に重大な障害を及ぼす。
――『魔王』が封じられて10年。
未だ『聖剣』による浄化が追い付かず、死と呪いに満ちた魔獣の巣窟。
そんな不吉な森を今、一人の男が死に物狂いで駆けていた。
「くそっ! なんなんだ、この状況は……ッ!?」
背後を窺いながら、男は苛立たし気に毒づく。
呼吸は荒く、全身からは滝のような汗が噴き出していた。
男はラルクスに潜入した聖天教の暗部の一人だった。
彼らの標的である『偽焔の騎士』が魔の森に向かうという知らせを聞いたのはほんの小一時間ほど前のこと。
目的は先日討伐した魔獣たちの死骸――その浄化のためだという。
本来であれば討伐した魔獣はその場で焼却するのが鉄則だ。
瘴気に満ちた魔獣の死骸は土地を穢し、より邪悪な瘴気を発生させる。
大量の魔獣の死骸をそのまま放置などすれば、それこそ新たな『災害級』を生み出すことになりかねない。
そんな新米の騎士でも徹底するような当然の措置をあの女が怠った理由など知る由もないが、今重要なのはそこではない。
重要なのは、このタイミングこそが男たちにとってあの紛い物を暗殺する最後のチャンスということだ。
『――昨夜の襲撃で敵も警戒している。今回の暗殺も恐らくは失敗するだろう。だが、怖れることはない。俺たちが真に怖れるべきは自らの信念を果たせず死ぬこと。共に信じ、貫き、そして死のう。俺もいずれそちらへ逝く。先に神の御許で待っていてくれ』
それがグリフィスと共に男たちを率いたリーダーの最後の言葉だった。
彼は今も一人ラルクスの街に残っている。
男を含め、仲間たちの誰もそれを臆病だと謗ることはなかった。
何故なら彼には事の成否を見極め、次に繋げる役目がある。
男たちにはもはや後が無かった。
街の結界が修復されればラルクスからの脱出も困難となり、いずれ追い詰められ全滅する。
そうなる前にせめてあの紛い物に一矢報い、名誉ある死を迎える。
それが彼らが定めた聖天教暗部としての矜持だった。
なのに―――
「ふざけるなッ!! これではまるで一方的な虐殺ではないか!? あの紛い物は! 俺たちに戦うことさえ許さないと言うのかッ!?」
男の口から標的への怨嗟が吐き出される。
と、同時に。
「うわぁぁぁッ、来るなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
「嫌だ、やめてくれッ! 嫌だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!」
「―――ッッ!!?」
仲間たちの断末魔が背後から木霊した。
男の胸中が恐怖と絶望で塗りつぶされる。
奇襲は完全に失敗だった。
アウローラ=ヴァン=エヴァーフレイムの実力は男たちの想定を遥かに超えていた。
男たちが魔の森に入った直後に、逆にアウローラによる襲撃を受けたのだ。
圧倒的な暴力によって齎される殺戮劇。
仲間たちの命が次々と刈り取られていく中、男は必死に森を駆け抜ける。
事ここに至っては、もはや一矢報いることさえ不可能だ。
居場所が割れるリスクを承知で男は魔力の出力を最大限に引き上げ、加速。
この地獄から逃れるために、一歩でも遠くへ。
それだけを考え、全速力で逃走する。
樹々の合間を縫い、高速で移動するその様は黒の装束も相まってまさに影の如く。
その速度は並の魔術士のそれを遥かに凌駕していた。
だが、次の瞬間。
稲妻の如く飛来した一振りの剣が、男の右足を刺し貫いた。
「―――ギッ!? がああああああああああああッ!!?」
バランスを崩し、樹上から地面へと叩きつけられる。
強烈な衝撃と共に男の視界が激しく揺れた。
そして、
「――まったく。余計な手間を取らせてくれたわね」
気だるげな、若い女の声が男の耳を打った。
燃え立つ焔のような紅い髪と瞳。
均整のとれた肢体に、端正に過ぎる艶やかな美貌。
男が振り向いた先にその女――アウローラ=ヴァン=エヴァ―フレイムがいた。
「はっ、な、なん―――ッ!?」
「いち、に、さん……えーと、全部で9人? これで終わり? ……まぁ、セリアも残存戦力はそう多くないって言いていたし、こんなものかしら」
右足に走る激痛を押さえながら、男は少しでも距離を取ろうと後ずさるが、アウローラは特に気にした様子もなく、己が殺した死体を指折り数えながら呟く。
死屍累々の地獄絵図を作り出しておきながら平然としているその姿に、男の心は恐怖で引き裂かれた。
肺の中の空気がすべて押し出され、筋肉が硬直する。
アウローラの手には一振りの剣が握られていた。
その剣には赤黒い血がべったりとこびりついている。
「さて……とりあえず仕事を締めましょうか」
アウローラは急ぎもせず、男の方へと近づいてくる。
ざりっ、ざりっ、と。
土を踏む音が響くたびに、男の鼓動が早まった。
「う、わあああああああああああああああああああああああああああああああああああ―――ッッ!!!!」
叫びながら男は懐から手の平サイズの水晶を取り出す。
表面にびっしりと魔術式が刻み込まれたソレは男が隠し持っていた自爆用の魔具だった。
アウローラとの距離はもう五メートルもない。
この至近距離で喰らえば、いかに『煌』の魔術師であろうとただでは済まない。
周囲一帯を諸共に吹き飛ばし、アウローラにも致命傷を与える―――はずだった。
「おっと、危ないわね」
そんな呑気な声と共に、アウローラは手にしていた剣を一閃する。
まるでぶつかりそうになった通行人を避けるかのような気楽さで。
だが声とは裏腹に鋭く、滑らかに放たれた斬撃は男の両腕を一瞬で斬り飛ばした。
「あ、がッ、ギぃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああッ!!?」
男の悲鳴が再度森の中に響き渡る。
斬り飛ばされた手に握られていた水晶は砕け散り、無数の破片となって周囲へ飛散した。
「まったく。死に際の悪あがきっていうのは誰も彼も似たようなものね」
激痛にのたうち回る男を、アウローラは冷徹な眼差しでもって見下ろす。
その瞳には何の感情も浮かんではいない。
あるのはただ、地を這う蟻を眺めるような無関心さだけだった。
「ぐ、ぁ……あぁ……ッ、なぜ……だッ!?」
「……?」
「何故……貴様は、こうも簡単に人を殺すことが出来る!? さも自分が正しいような顔をして! お前の、お前のせいで俺たちは……!」
「はぁ? 何をいまさら。先に仕掛けてきたのは貴方たちの方でしょう。私はただ降りかかる火の粉を払っただけ。自分たちが殺される側に回ったからって文句を言われる筋合いはないわ」
「黙れッ!! 聖剣を奪った大罪人が俺たちを責めるか!? 俺が、俺たちこそが正義だ! 貴様に……貴様のような紛い物にッ、俺たちの正義を語る資格などないッ!」
男の表情が歪む。
痛みと恐怖と。
それ以上の憤怒によって。
両腕を失い、右足を貫かれた男にはもはや叫ぶことしか出来なかったから。
狂気を孕んだ瞳で男はアウローラにその激情をぶつける。
だが、その悲痛な訴えは、アウローラの心に何の感情も呼び起こさなかった。
昏く冷淡な眼差しで男を見下ろし、鼻を鳴らす。
「別に正義を語ったつもりなんてないし、貴方たちの赦しも必要ないわ。私が赦しを乞うのは一人だけ。でも――自分たちの理想を相手に押し付ける貴方たちこそ、果たして本当に正義を語る資格があるのかしらね?」
「なに、を……」
「理想も正義も大いに結構。けど、それらが万人に共感されるとは限らない。人にはそれぞれの世界がある。他者の在り方を許容できない独りよがりの正義に一体どれほどの価値があるというの? 人生最後に抱くのがそんなのなんて滑稽よね。笑えるくらい」
「―――ッッ!!!」
くすくすと嘲るアウローラに男の理性が今度こそ弾け飛ぶ。
そして激昂のままアウローラの足を食い千切ろうとして―――
「く、そ……っ」
力なく地面へと前のめりに倒れこんだ。
失血で意識が遠のく中、男は草葉を噛みしめる。
涙腺からは熱い雫が溢れて止まらなかった。
「主よ……なぜ我々を、お救いくださらないのですか……?」
男の嘆きが深い森の中に沈みゆく。
アウローラはそれに、至極どうでもよさそうに。
「さぁ? あの世で神様とやらに会えたら訊いてみれば?」
――ヒュンッ、と。
風を切る唸りが鳴ると、視界がくるくると回転した。
自分の首が刎ね飛ばされたのだと男は朧気ながらに理解する。
(ああ……)
成すべきを成したという達成感を得ることも、信念を貫くことも出来なかった。
ただ無為に殺された。
この女の前で何もできなかった己の無力が全てを物語っていた。
(結局……俺は、なにも……)
それが最期。
血と涙に塗れた男の人生はそこで終わりを迎えた。
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