君よ、英雄となれ。
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騎士団支部には訓練施設だけでなく、職員の心身のために造られたリラクゼーション設備も多く存在する。
そのうちの一つがこの大浴場だった。
一度に十数人は入れるほど内部は広々としており、湯船には傷を癒やす効能の薬草が浮かんでいる。
騎士たちにとっては任務や訓練での汗や汚れを洗い落とし、疲れを取る憩いの場であったが、今はソラとアウローラの二人だけがそれを味わっている。
アウローラが『聖騎士』の権威を濫用し、他の利用者を無理やり追い出した結果だった。
アウローラの白磁のような滑らかな肌に水滴が流れ落ち、紅色の髪が湿気を含んで少し色濃くなる。
細い頸筋には玉の汗が浮かび上がり、そこから漂う色香は湯煙に上気した頬と相まって実に艶めかしい。
そんな誰もが羨む美貌の女騎士は浴槽の中でひどく困惑した表情を浮かべていた。
「……えっと、あの……兄様?」
アウローラは先ほどから黙ったままでいる少年に恐る恐る声をかける。
「その……機嫌が悪い、ですか?」
「……別に」
ソラは否定したが、嘘だということはすぐに分かった。
口数が少ないのもそうだが、何よりその態度だ。
普段の彼ならもっと自分の身体に興奮してくれるというのに。
「ひょっとして、強引に女湯に連れ込んだのを怒ってます?」
「いや、それについては眼福なんでむしろありがとうございます」
……いいんだ。
ならお風呂は今後もずっと一緒に入ろう。
ではなく、
「なら、兄様は何をそんなに……?」
解らなかったので問うことにした。
アウローラは自分が壊れた欠陥品であるということを自覚している。
彼女には人の気持ちがよく解らない。
主以外の人間に関心がなかったゆえに、人との交流によって培われる他者への思いやりや共感性がアウローラには致命的に欠けていた。
だからこそ、彼女の想いはすべて目の前の主君へと向けられる。
彼の心に影を落とすというのなら、たとえそれがどんな些細なことでも見過ごすことは出来なかった。
「兄様」
ぐっと顔を近づける。
目と鼻の先に愛しい主の顔がある。
思わずキスをしてしまいそうになるのをなんとか耐えた。
「言ってください。私は兄様が何を思っているのかちゃんと知りたい。兄様だって言わなければ解らないことがあると言っていたではないですか」
「……お前もこの10年で大分口が回るようになったな」
迫ってくる視線に根負けしたのか、少年がため息を吐いて、濡れた髪を掻き上げる。
そして、
「そうだな。はっきり言って俺は怒ってる。というか、アーラ。お前の方こそキースに侮辱された時、どうして怒らなかった?」
「はい?」
言っている意味が分からず、アウローラはこてんと首を傾げる。
……侮辱、と言われても。
はて。
そういえば、この小さな主は先ほどヴァイルシュタインに食って掛かっていたなと思い出す。
侮辱してくれるな、と。
そう言っていた。
その気持ち自体はもちろん嬉しい。
それだけ自分が、主に大切にされていることの証明だから。
しかし、アウローラ自身はというとヴァイルシュタインに対して煩わしいとは思えど、怒りそのものは感じなかった。
興味がなかった、というのもあるけれど。
「どうしてって……あの男の発言は正しいものだったから」
その言葉にソラは一瞬目を見開き、すぐに不機嫌そうに眼を眇めた。
「本気で言っているのか? アイツはお前に死んでおけば良かったと、そう言ったんだぞ? これほど明確に侮辱されておきながら、お前の心は動かなかったというのか?」
「正しいことを言われたとて、それを侮辱とは呼ばないでしょう。私が怒る道理はないと思います」
たとえ世界中の人間に訊いても、誰もがきっと同じ答えを返すだろう。
あの時、生き残るべきだったのは自分ではなく彼の方だったと。
その意見に対し、アウローラは異を唱えるつもりは毛頭なかった。
自分は他人の心が解らない欠陥品ではあるけれど、それでも一つだけ。
――『聖王』カイラードの命は自分のそれより遥かに重い。
その一点だけは、共感出来たから。
「……ごめんなさい、兄様」
「何に対しての謝罪だ、それは」
「……………」
言われて、アウローラは押し黙る。
正直なところ、自分でも何に謝っているのか良く解っていなかった。
ただ目の前の主の怒りを鎮めたかっただけの中身のない謝罪。
ソラはそれ以上追及せず、ガシガシと頭を掻く。
それから心中の苛立ちを吐き出すように大きく息を吐き出して、
「別に謝ってほしいわけじゃない。そもそも、お前が俺の思い通りにならなかったからといって、それをどうこう言う権利なんて俺にはないんだ。けど、その上で言わせてもらうなら……俺は、俺が命懸けで護ったものをお前にも大事にしてほしかった」
かつて聖王と呼ばれた少年は自身の本音を吐露する。
彼女に言った通り、言わなければ伝わらないことがあるから。
「俺はお前のことが大切だったよ。自分の命を引き換えにしても納得できるくらい大切で、特別な存在だった。慕ってくれるのは嬉しかったし、頼られるのは誇らしかった。……でも、依存させたかったわけじゃない」
主君に対し、絶対の忠誠を誓う騎士。
言葉にすれば美しいが、アウローラの場合はそれが行き過ぎている。
アウローラが抱く愛情は主だけに向けられていて、それ以外のものに彼女は価値を見出していない。
その中にはアウローラ自身の命や尊厳も含まれているのだろう。
たった一人の存在だけが心の全てを占め、それがなくなれば空っぽになってしまうなんて、そんなのはあまりにも寂しい生き方だとソラは思う。
「俺は、お前に生きて笑ってほしかった」
自分が行けなかった場所に行って、自分が出会えなかった人たちと出会って。
その先を生きて、幸せになってほしかった。
たとえそこに自分がいなかったとしても。
「本当に俺以外になかったのか? お前にとって大切な人。お前の味方になってくれる人。俺のいないこの10年、生きて、暮らして。誰かと触れ合い、何かを護って。望む明日を生きたいと、ほんの少しでも思わなかったのか?」
「……さぁ、どうだったんでしょうね」
アウローラは曖昧に言葉を濁す。
主を喪ってから、生きる意味も目的もなくなった。
この10年ずっと、アウローラの中にあったのは後悔だけだった。
けれど、それでも―――
『一緒に戦おう、アウローラ』
もう随分と昔に、そう言ってくれた人がいたような気がするけれど。
あれは一体、誰の言葉だっただろうか……?
沈黙するアウローラをソラは哀しそうに見つめた。
そして空気を切り替えるように、まぁ、と前置きして、
「ともかく俺は、お前が『偽焔の騎士』だの何だの言われてるのが気に食わない。だから、今のお前の現状の評価は必ず覆す」
「……どうやって、ですか?」
「封印されている『魔王』を滅ぼす」
アウローラの質問に端的にソラはそう答えた。
決定事項のように。
「理性的なキースですら『ああ』だったんだ。お前の汚名は相当根深く広まってるんだろう。真っ当に騎士としての義務を果たしてるだけじゃそれを雪ぐのは難しい。だから、新たな偉業をもってその汚名を塗りつぶす。『魔王』を完全に殺すことはカイラードにも出来なかったことだ。それを成した時、お前を『偽物』と呼ぶ者は誰もいなくなる」
だから、と。
「アウローラ=ヴァン=エヴァ―フレイム。我が騎士よ。お前が『魔王』を斃せ。そして、お前は今度こそ――『本物』の英雄となるんだ」
アウローラを見つめる真っすぐな瞳。
それは必ず成し遂げるという、力強く、純粋な意思による輝きなのか。
眩しくて、アウローラは少しだけ視線を落とした。
そして結局、顔を上げてその命令に頷く。
「……仰せのままに」
『聖王』カイラードにさえ出来なかったことが自分に成せるとは、とても思えなかったけれど。
主君の命に従って戦い、そのために死ぬ。
それはきっと、騎士として悪い死に方ではないと思ったから。
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