思わぬ遭遇(後編)
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――赤。
赤、赤、赤。
それはかつていた場所の――『聖王』カイラードとしてでなく、ソラという一人の少年が生きた世界での最期の景色だった。
網膜が焼けつくような真っ赤な血の色。
雪が薄く降り積もった冷たい地面を夥しいまでのそれが赤く染め上げていく。
血まみれの身体。血まみれの手。血まみれの刃。
なけなしの力を振り絞って仰向けに体勢を変えたのはきっと、なんとなくだったのだろう。
下よりは上を向いて眠りたかったし……それに、その方があの子の顔がよく見えると思ったから。
少年の傍らには幼い少女がいた。
視界が滲んで、顔がよく見えない。
けれど、少女が泣いているのは声の様子からすぐに解った。
少女は血で汚れるのも構わずに、ソラの身体にしがみつき、必死に懇願する。
奪われないように。
連れて行かれないように。
零れ落ちる命の砂を懸命に掴みとろうとする。
けれど、少女の願いも空しく――少年の身体は次第に熱を失い、声は遠く、瞼は重くなっていく。
『………おいてかないで』
薄れゆく意識の中、涙で滲んだ声が脳に響く。
……ああ、泣かないでほしい。
そんな表情をしないでほしい。
泣かせたかったんじゃない。
悲しませたかったわけじゃないんだ。
そうだ。
ちゃんと名前を呼んであげないと。
自分にとって何よりも大切な、少女の名前。
ずっと傍にいて、ずっと自分を支えてきてくれたこの子に。
なのに、言葉が出ない。
役立たずの口から漏れ出るのは掠れた呼吸と血だけで……たった一言さえ、伝えられない。
そんな己の無力を恨みながら、少年は迫りくる死に身を委ねることしか出来なかった。
†
「―――兄様ッ!」
名前を呼ばれてソラは我に返った。
自分がどこにいるのか一瞬分からなくなって辺りを見回す。
大通りから外れた路地裏。
自分たちがさっきまでいた場所だ。
ソラはアウローラに抱きかかえられていた。
少年の意識が戻ったことを確認すると、アウローラは安堵したようにほっと息を吐く。
それから、殺意に満ちた視線を前方へと叩きつけた。
「小娘がッ……! 兄様に何をしたッッ!!」
アウローラの怒号が路地裏に木霊する。
その剣幕に白髪の少女の肩が竦み上がった。
しかし、それでも少女は感情の読めない瞳でソラだけを見据えている。
「今のは……」
……一体なんだったんだ?
ソラはズキズキと痛む頭を押さえながら考える。
先ほど観せられた映像。
あれは紛れもなく今の自分が見た最期の光景だった。
痛み、苦しみ、悲しみ、怒り、不甲斐なさ。
あの時、自分が抱いた感情まで含めて鮮明に。
そうだ。
あの映像を観る直前、ソラはあの少女に触れられた。
ならば必然、あの少女にこそ原因があるのだろう。
あの少女の力によってソラの記憶が呼び起こされ、一時的に意識が過去に引き戻されたのだとしたら―――
「君は……」
「――スピカッ!」
少女を問いただそうとしたその時。
張り詰めた声がソラの耳朶を打った。
声がした方へ振り返ると、黒い法衣を着た女がこちらに駆け寄ってくるのが見える。
豊かな銀色の髪。
女性的な身体のラインを持つ妙齢の女だった。
胸に提げているのは、アルカディア聖王国の国教である『聖天教』のシンボル――剣十字。
目が不自由なのか、両目を覆うように黒い眼帯が掛けられている。
女は相当焦って来たらしい。
法衣は所々が乱れ、その額からは汗が滲んでいた。
「シスター……」
スピカと呼ばれた少女が女を見て呟く。
眼帯の女は少女を守るよう背にしながらソラたちと相対する。
そして状況を察したのか、女はソラたちに頭を下げ、謝罪の言葉を口にした。
「申し訳ありません。どうやらこの子が粗相をしたようで……」
「ふざけるな! 何が粗相よ……ッ! そんな言葉で片付けられてたまるものか! 貴女、その小娘が何なのか知っているわね!? この人は今その小娘にッ……」
「アーラ、いい」
激昂するアウローラの言葉を遮って、ソラは自分を抱きしめている彼女の手を叩いて立ち上がった。
状況は把握しきれていないし、気になる点もあるにはあるが……恐らく彼女たちに敵意はない。
それなら、ここで大事にすることもないだろう。
「俺は平気だ。身体にも異常はない。だから一度落ち着け、アーラ」
「でも……ッ!」
「――アーラ」
宥めるためにもう一度彼女の名前を呼んだ。
完全には納得していないが、それでもアウローラは悔し気に唇を噛みながら押し黙る。
それを確認して、ソラは改めて眼帯の女と向き直った。
「えーと……シスター? 貴女がその子の保護者ですか?」
「はい。アンジェラと申します。見ての通りこの街の教会で修道女をしています」
「そうですか。俺はソラ。こっちはアウローラです」
「ふんッ!」
ソラが軽く紹介すると、アウローラは不機嫌そうにそっぽを向く。
そんな態度だと話が進まないだろうに。
そうは思うが、彼女の怒りも正当なものでもある。
眼帯の女――アンジェラもそう感じたのだろう。
不快感を表すどころか、むしろ恐縮した様子で俯いた。
「ええ、そちらの女性……エヴァーフレイム卿のことは存じておりますわ。かの名高き『聖騎士』の存在を知らぬ者はこの街におりませんから。それで、その……」
「身構えなくて大丈夫ですよ。騒ぎを大きくする気はありませんから。ちなみにその子に会ったのはついさっきです。道に迷ってて大通りに戻ろうとした時にその子が俺の服を掴んできたんですよ」
「……そうでしたか。それはご迷惑をおかけしました。ですが、エヴァーフレイム卿はあまり納得がいってないようですが……」
「当たり前よ。出会い頭にいきなり仕掛けてくるような相手をどうやって許せと言うの? 子供だろうと関係ない。普通なら斬り殺されても文句は言えないわよ」
「それについては真摯に謝罪を。ですが、誓ってこの子に害意はありません。詳しい事情は話せませんが、その少年が受けたものは少なくとも肉体に後遺症が残る類のものではありません。この子に非がないとは申しませんが、どうか寛大なお心でご容赦を」
そう言ってアンジェラはさらに深々と頭を下げる。
ソラは鷹揚に肩を竦めて返した。
「だから騒ぎを大きくする気はないですって。そちらも訳ありのようですし、これ以上は訊きませんよ。それより、お詫びというなら少し道を教えて欲しいんですが。大通りへは『こっちの道』で合ってますか?」
「いえ、それでは逆へ行ってしまいます。大通りへ行きたいのであれば、その道の突き当りを右へ真っ直ぐですわ」
迷うことなくアンジェラはソラとは反対の道を指差した。
「……なるほど」
眼を細めて頷く。
ソラはわざと逆方向を差したのだが、彼女はノータイムで間違いを指摘してきた。
ラルクスに住む者であれば当然ではあるが、それはあくまで健常者であればの話だ。
少女との間に割って入った時といい、眼帯をつけているにも関わらずアンジェラは周囲の状況を正確に把握できている。
ただの修道女、なんてことはない。
間違いなく何かしらの背景があるのだろう……が、まぁそれはいい。
これ以上、彼女たちの事情に深入りする必要は今のところはないのだから。
「分かりました。ありがとうございます。それじゃあ俺たちはこれで――」
失礼します、と言いかけ、ソラの袖が引かれた。
そちらを向くと、スピカと呼ばれた少女が変わらずぼんやりとした瞳でソラを見上げている。
「……えっと、どうかした?」
「………」
無言でソラの目を見つめる少女。
少女が何をしたいのか解らず、ソラはスピカが話し始めるまでじっと待つ。
アウローラは苛立たし気にスピカを見ていたが、主が何も言わなかったので黙って少女の言葉を待つ。
奇妙な沈黙が流れる中、やがて少女はゆっくりと口を開いた。
「……さむくなるまえに、もどる。そっちはきっと、さびしいから」
そう言い残し、今度こそ少女はソラの手を離してアンジェラの元へ向かう。
アンジェラはソラたちに軽く目礼をした後、スピカの手を引き、来た道を戻っていった。
「……あの小娘。最後まで訳の解らないことを」
アウローラが吐き捨てる。
その口調には未だ刺々しさが残っていた。
まるで毛の逆立った猫のようだとソラは思った。
「はて、何を言っていたんだろうな? 俺にもよく解らなかったけど」
言いながら、なんとなしにソラはアウローラに手を伸ばした。
アウローラはこちらの意図を察し、すぐに身をかがめて頭を差し出してくる。
ソラはアウローラの艶やかな紅い髪に指を通し、ゆっくりと頭を撫でてやった。
彼女の髪は相変わらずサラサラとしていて触り心地が実に良い。
「くふふっ♪」
アウローラは気持ちよさそうに眼を閉じ、頬を綻ばせる。
しばしの間、気持ちよさそうに目を細めていたアウローラが、やがて心配そうに見つめてくる。
「兄様。あの小娘、恐らく『異能者』です。このまま放置しておいて良いのですか?」
「だろうな。まぁ珍しくはあれど、別に罪を犯したわけでもなし。そう目くじら立てるほどのことじゃないさ」
「……兄様がそう言うのであれば」
アウローラはまだ何か言いたげではあったが、それ以上食い下がることはしなかった。
「さて、それじゃあ買い物の続きと行きますか。さっさとしないと陽が暮れるからな」
「はいっ」
ソラたちは手を繋ぎ、大通りの方へと足を向ける。
最後に、ソラは一度だけ後ろを振り返った。
そこにはすでに二人の姿はなく、ただ静寂だけが鎮座していた。
「寒くなる前に、か……」
あの少女が言っていたことがどういう意味なのかは解らない。
けれど、不吉な予言じみたその言葉が、ソラの心にしこりのように残り続けた。
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