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御影澪。
自分の名前ではない文字を、今日も丁寧に書く。
込めた祈りだけは、本物になるように。この札を持つ人が、どうか守られますように。御札に残るのは私の名前ではないけれど、私はいつも心からそう願っていた。
札紙の上を筆が走る。朱墨で水の流れを示す印を置き、黒墨で力を持つ言葉を書く。最後に、澪の名を細い筆で入れる。
何度書いても、その瞬間だけは少しだけ息が詰まった。私だけ何度も嘘を吐かされてるみたい。
母の名を書く時もそう。御影菊乃の御札と、御影澪の御札、そう呼ばれるもののほとんどは私が書いている。
でも、私が書いたという証拠は、どこにも残らない。私の字は二人に似せて書くように言われてるから見分けもつかないだろう。
祈りを込めたのが私である事も、誰にも知られない。でも、それも仕方がないだろう。ちっとも名前を知られていない私が書いたものであるよりも、優秀だと名高いお母様や、水神の加護を持つ澪が書いた事にした方が使う人も心強いし。
私は書き終えた札を乾かすため、机の端にそっと並べた。それから、机の隅に置いてある木箱へ視線を落とす。
古い桐で出来た硯箱。
角は少し擦れていて、漆が剥げている。かつて祖母が使っていて、亡くなる少し前私にくれたものだ。
『千咲の手には、これが合うだろうね。筆管は細め、穂先がしなやかな良い品だよ。これに入れて使いなさい』
そう言って、祖母は今私が握っている筆と、この硯箱を私の膝に乗せた。
祖母の名前は、御影八重。父方の祖母で、御影家の中で唯一私をからかう言葉を口にしない人だった。
けれど、御札を書く文字には誰より厳しかった。御札に込める祈りが雑になった時も、すぐに見抜かれた。
『千咲。御札はね、ただ文字を書けばいいものじゃないよ。正しく書いてあれば誰が書いても同じなんて言われてるけど、そんな事はない』
祖母はよくそう言った。
『人を守りたい。厄を遠ざけたい。無事でいてほしい。そういう願いを、筆と文字を使って形にするものだよ』
幼い私は、祖母の隣に慣れない正座をして、たどたどしく和紙に祝詞を書いていた。
母には「下手ね。ほらご覧なさいわたくしの書いた字とこんなに違う」と笑われた字も、祖母だけは一枚一枚見てくれた。
文字の形が歪んでいても、線が変に太くなっても、祖母は札を手に取り、目を細めてしっかり指導してくれた。
『字はまだまだだよ。でも千咲の作る御札は、人を守ろうとする願いの込められた、いい御札だね』
その言葉を、今でも覚えている。
いい御札。そう言ってくれたのは、家族の中で祖母だけだったから。
神祇学校初等部の課題で初めて御札を書いた時、先生にとても褒めてもらえて。けれど家に帰って報告したら、母に「まあ、百点。すごいけど、そういう事は得意げに見せびらかすものではないわ。褒めてもらいたくて仕方がないみたいで、少しみっともないもの。加護を持ってる澪に張り合ってるの?」と言われて、私は途端に恥ずかしくなって花丸を書いて返してもらった模擬札をくしゃくしゃにしてしまった事がある。
でも祖母は屑籠からそれを取り出して丁寧にシワを伸ばし、ノートに貼り付けて、良く出来たと褒めてくれた。
だから私は、この筆を大切にしている。
細くて、少し古くて、毛は少し抜けてしまっていて、持ち手の木は手に馴染んで色が濃くなった筆。
澪の名を書く時も、母の名を書く時も、この筆だけは私の味方のような気がした。祖母が亡くなってから、この家で祖母のように言ってくれる人はいなくなってしまったから。
最初は、少し手伝うだけだった。
『千咲、この護符を作っておいてくれないかしら。この前書けるようになったって言ってたでしょう? わたくし、巫女の会合にいかなければならないの。名前は後で入れるから書かなくて良いわよ』
『お姉様、この水難避けの紋様が複雑で上手く書けないの。紋様だけ先に書いておいてもらえる?』
少しだけ。
今日だけ。
これも千咲自身の手習いになるから。
家族だから助け合わないと。
そう言われるたびに失望されるのが怖くて引き受けているうちに、いつの間にか母の分も、澪の分も、家の名前で納める札も、ほとんど私が書くようになっていた。
祖母が生きていたら、きっと止めてくれたと思う。
でも、祖母はもういない。
私は重ねられた文箱の一つの蓋を開けた。
中には、今日御札を書く札紙の束が入っている。この束は、母名義で書く、茶会用で配る御札用。この束は澪名義で書く水守りと水難避けに使うもの。こっちの一番枚数が多いものは、御影家の名で神祇省へ納める各種厄除けと、簡易護符。
私の名前で出すものは、簡易護符が数枚だけだ。
小さな戸口守り。通学時の子供用の厄除け。そういうものだけが、私のやった仕事として記録される。なぜなら、私には時間がないから。
母と澪に頼まれた御札を代わりに書き、家の名で納める札を書く。
家事をする。我が家の家計簿をつける。要の課題を終わらせて、試験前なら対策ノートをまとめる。
そこまでして、ようやく夜の終わりに少しだけ時間が残る。その時にはもう、手は筆を持つ形に強張っていて、肩は重く、目も霞んでいる。
だから私の成果として自分の名前のついた箱に入れて提出できるのは、簡単なものだけ。
だから、私はそういう札しか書けない娘だと思われている。
父も、要も、たぶんそう思っている。
妻と澪は優秀な巫女。千咲は家事と雑用と、少しばかり簡単な御札を書ける長女。
父にとって、私はきっとその程度だ。
私は澪名義の御札を乾かしながら、横に置いた帳面を開いた。御札の納品数と、謝礼として支払われた金銭や物品の控えを残すための帳面だ。
父は家計の細かいところを見ない。母は見るふりをして、私に「もっとやりくりしてちゃんと貯蓄に回しなさい」と言うけれど、実際には支出を増やすばかりだ。
要は当然見ない。澪は、帳面の存在すら知らないんじゃないだろうか。望めば欲しいだけお小遣いの都合を付けてもらえる生き方をしていたら、そうなるのも仕方ないけど。
だから、家の帳面を書いて、支出と収入を見比べてうんうん悩むのも私の仕事だった。
御影家の収入は、外から見るよりずっと頼りない。
父の陰陽師としての俸給はある。神祇省に仕える家として、十分体裁は保てる額だ。
けれど、それだけでは頻繁に仕立てる母の着物も、水神の加護を持つ少女としてあちこちに顔を出す澪の支度も、要の神祇学校の費用も、晴親さんの家との付き合いに必要な贈り物も、とても足りない。
帳面を付けている私には分かっている。
今の御影家を支えているのは、父の俸給ではない。母と澪の名前で納められる御札の謝礼だ。
水神の加護を持つ澪の札は、神祇省でも評判がいい。水守り、井戸清め、水難避け。澪の名前で出された札は、より良い物として喜ばれる。
母の札も評判がいい。
優秀な巫女である菊乃様の札は、文字も美しいから良く効くに違いないと奥方たちが褒めているのを聞いた事がある。
その札を書いたのは、私だった。でも、私の名前はどこにもない。
しょうがないと思っている。正しく書いてあれば同じ御札なら誰が書いても持つ力は一緒だ。だって、澪やお母様の名前で書いて、使う人が喜んで謝礼を弾んでくれなくなったら我が家の家計は破綻してしまう。
神祇省だって、私の名前で書いた御札だったらこんなにたくさん買い取ってくれないだろう。
御札の製作者には母と澪の名義だけが残る。実際に筆を執り、祈りを込めた者が私であっても誰も気にしない。
気にしないというより、知らない。
父も知らない。要も知らない。
父はきっと、母が巫女として御札を書いていると思っているのだろう。そして私は、その母の代わりに家事や雑用をしているだけだと思っているのだ。
巫女である妻が御札を書くために忙しいから、長女が台所に立つ。
澪は水神の加護を持つ大切な娘だから、姉が補佐する。
要は跡取りだから、姉が下支えする。
父の中では、それで筋が通っているのだろう。
母が実際には御札を書かず、茶会や観劇に出かけてばかりいる事も。
澪が自分の名で出さなければいけない水守りすら、ほとんど私に任せている事も。
要の課題や報告書を私がどれだけ手伝っているかも。
父は知らない。
知らないから、悪くないのだろうか。そう思いかけて、私は筆を止めた。……御札を書く時にこんな嫌な事を考えていては、筆が乱れてしまう。おばあ様に怒られちゃうな。
知らないのは、仕方ない。私が言わないから。私がきちんとうまく伝えられないから。
父は悪くない、私が話してないだけ。それで家の空気が悪くなって責められるよりはずっといい。……だから、大丈夫。
私は乾いた御札を拾い上げると、短冊状に切った紙で巻いて束ねた。
御影澪。御影菊乃。御影家。
御札に書かれているのはどれも私の字だ。けれど私の名前ではない。
祖母の筆を握る指に、少しだけ力が入った。
『千咲の作る御札は、人を守ろうとする願いの込められた、いい御札だね』
祖母の声が、遠くで聞こえたような気がした。
「……おばあ様」
小さく呼んでみても、返事はない。当然だ、祖母はもういないのだから。




