橋の下の子の日常
かくん、と頭が落ちて、私は目を覚ました。
頬に触れていたのは、冷たい机の板だった。鼻のすぐ先には、墨の匂いがする。
文鎮が置かれたままの和紙には、まだ乾ききっていない黒い文字が光っていて、私は慌てて体を起こした。
「あっ……」
いけない。御札を書いている途中で寝ていたみたい。
筆は手に握ったままだった。幸い、筆先は折れていなかった。御札の文字も乱れていない。最後の一画を書き終えて紙から筆先が離れたところで、ほんの少しだけ意識が落ちたらしい。
私はほっと息を吐いて、肩を回した。
窓の外はもう明るい。
夜明け前から書き始めたはずなのに、いつの間にか日が高くなっていた。
今日中に家の名前で納める御札、母に頼まれたというお茶会で渡す御札、澪に頼まれた水守りの御札、父の書類の下書き、要の神祇学校高等科の課題のまとめ。
それから、昼餉の支度と、洗濯物の取り込みと、夕方までに神祇省へ返す帳面の整理。
指折り数える前から、気が遠くなった。
忙しすぎると、人は座ったまま眠れるらしい。
そんな変なことに感心しながら、私は目元をこすった。眠りが浅かったせいか、夢の中の川の音がまだ耳に残っている。
橋の下。金平糖。ぼろぼろのおじいさん。怖い目をしていたのに、子供みたいに泣いた人。
あの後、私は家の使用人に見つけられて連れ戻された。
母には「どうして私を困らせるの」と叱られた。父には「騒ぎを起こすな」と言われた。二人共、心配していたという言葉は一言も出てこなかった。
要には「ねーちゃん、ほんとに橋の下に行ったの?」と面白がられて。生まれたばかりの澪は、そんなことなど何も知らず、母の腕の中で眠っていたのを覚えている。
それきり、あのおじいさんには会っていない。
何度か、川の近くまで行こうとしたことはある。けれど見つかれば叱られるし、五歳の子供が一人で橋の下へ行くのは危ないと、祖母にも止められた。
少し大きくなってから見に行った時には、もう誰もいなかった。
あの人は、どこへ行ったのだろう。
親はいないと言っていた。追い出されたとも言っていた。あの傷は痛そうだった。
どこかで元気にしているといいな。
そう思ってから、私は自分で小さく笑った。
十五年も前に橋の下で会った、名前も知らないおじいさん。普通なら、もう忘れていてもおかしくない。
でも私は、忙しすぎてうたた寝をするたびに、時々あの夢を見る。
たぶん、あの人が私を笑わなかったからだ。
冗談なのに泣いた私を責めなかった。「なら、なぜ泣く」と聞いてくれた。胸が痛いと言った私を、変な子だと笑わなかった。
だから、覚えているのだと思う。
あの時五歳だった私は、もう二十歳になった。
御影家の長女。陰陽師と巫女の家系に生まれた娘。けれど、陰陽師として外へ出るのは父と弟で、巫女として表に立つのは母と、水神の加護を持つ妹だけ。
私は毎日、家の中で御札を書き、帳面を整え、洗濯をし、食事を作り、家族の予定を確認し、神祇省へ出す書類の下書きをする。
そういうものなのだと思っていた。
長女だから。家族だから。
私には表に出るほどの能力もないから。そう思えば、なんとか納得できた。
机の上には、乾かした御札が何十枚も並んでいる。厄除け、火伏せ、旅守り、商売繁盛、病除け。
どれも簡単なものではない。集中して書かなければ作れない。朱墨で書く印も、筆の運び方まで細かく決められている。私はとろいから、一枚書くのにも時間がかかるわねって母にいつもそう言われる。
これだけの量の御札を書くには、いつもの事だが大変だ。でも、御札の裏に記した名前は、私のものではない。
御影菊乃。
御影澪。
母と妹の名前だ。
私は乾いている事を確認して御札を重ね、順番を整え、上から白い和紙をかける。その時、廊下の向こうから軽い足音が近づいてきた。
「千咲。できているでしょうね」
襖が開き、母が顔を出した。私の母は、外では上品で穏やかで優秀な巫女として知られている。この家に嫁いできたのも、お母様が優秀だったから選ばれたのだと何度も聞かせてくれた。
こうしていつも髪をきれいに結い、香を焚きしめた着物を着て、柔らかな声で人に話す。けれど、私に話しかける声はいつも、どこかピリピリしている。私がとろいからだろう。
今日も素敵な淡い藤色の着物を着ていた。肩口と袖に銀糸で水紋が刺繍されている見事な品だ。……見覚えのない着物だった。恐らく、また新調したのだろう。
私が小さい頃、お手伝いさんがいたような時とは違って我が家の家系はそこまで余裕があるものではない。大丈夫なのだろうか……いいえ、社交をするには必要経費だから、仕方がないのだろう。前もそう、怒らせてしまったではないか。危うく、同じ失敗をするところだった。
「はい。お母様の分は、こちらに」
私は立ち上がり、お金の心配に曇りそうになる顔に笑みを浮かべて、束ねた御札を差し出した。
母は受け取ると、まず一番上の御札の名を確認した。
パラパラと数枚めくり、そこに間違いなく「御影菊乃」と記載されている事を確認して、満足したようにうなずく。
「ちゃんと私の名前で書いてあるわね」
「はい、もちろんです」
「字の癖は出していないでしょうね。あなたは時々、変なところで気を抜くから。下手な字で書いたら笑われるのはわたくしなのですからね」
「気をつけました」
「そう。今日のお茶会でお渡しするものなの。神祇省の奥方たちもいらっしゃるから、粗相があっては困るのよ」
母は御札を最後の一枚まで確かめると、和紙に包み直した。
そこには少しの後ろめたさも感じない。
「まあ、悪くないわ。こういう地道なことは、あなたにも向いているのね」
「ありがとうございます」
「ただ、分かっていると思うけれど」
母は声を少し低くした。
「この御札のことは、余計なことを言わないように。あなたの手習いにもなるから任せているだけで、外に出す時は優秀な巫女である『御影菊乃』の札として出すのが一番いいの。家の格というものがあるでしょう?」
「はい。分かっています」
笑顔を浮かべたままそう答えると、母は当然のように微笑んだ。これは、いつ頃からこうなったのだったっけか。でもそれが思い出せなくなるくらいには、私にとって当然の事になってしまった。
母に頼まれた御札は、有名な巫女である母の名前で世に出る。
澪に頼まれた御札は、水神の加護を持つ澪の名前で世に出る。
私は書くだけ。祈りを込めるだけ。
おかしいと思う事はあった。けれど、「こんな事にかまける時間はわたくしにはない」「きちんと書かれていれば誰が書いても効き目は同じなのだから」とそう言われ続けて……これが私の家の中での役割なのだと覚えてしまった。
母は御札を大事そうに懐紙に包みながら、自分の袖を見下ろした。
「この着物、どうかしら。お茶会のために仕立てたの。やっぱり神祇省の奥方たちと会うのに、古い着物では恥ずかしいでしょう」
「……とてもお似合いです」
「そうでしょう。澪にも新しいものを用意してあげなくてはね。あの子は水神様の加護をいただいているのだもの。人前に出る時は、それにふさわしくしておかないと」
母はにこにこと微笑みながら言った。
私は自分の袖を見る。何度も洗って色の薄くなった、紺の普段着。袖口は少し擦り切れていて、祖母が生きていた頃に直してくれたものだ。
別に、羨ましくない。だって、私には必要ないし。そう思った。
お茶会に行くのは母で、人前に出るのは澪だ。
私は家にいて御札を書くのだから、動きやすい着物の方がいい。そう思おうとした。
「では、これはいただいていくわ。家の名前で奉納する御札は?」
「これから仕上げます」
「遅れないようにね。我が家の名誉に関わるのだから」
お母様はそう言って、部屋を出ていった。
私は襖が閉まるのを見送ってから、少しだけ息を吐く。母の分が終わった。
次は澪の分。その後は明日父が出仕する時に持って行く御札を書かないと。
母は、澪も私に御札を全部任せていることを知らない。課題をやっているのは博していると思うけど、ほとんど全部私が書いているとはさすがに思ってないだろう。
澪も、母が私に自分の御札を任せていることを知らない。
お互いに知らないまま、二人とも私に言う。
少しだけでいいから。手習いになるから。これも練習よ。
家族なのだから。助けてよお姉様。
あなたはこういう地味な作業が得意でしょう。
そして私は、どちらにも「はい」と答えてきた。それが一番、波風が立たないから。
筆が乾く暇もなく次の御札を書き始めようとしたところで、今度は別の足音が近づいてきた。今度は遠慮のない、軽い足音。
「姉さん、いる?」
返事をする前に、襖が開いた。声で分かっていた通り、そこにいたのは弟の要だった。
私の二つ下の弟で、御影家の大事な跡取りとして育てられている。
父は、要のことを「御影家の要だ」とよく言う。名前の通りだと、要自身も思っているらしい。
要は手に何枚かの紙を持っていた。
「姉さん、これお願い」
「何?」
「神祇学校高等科の課題。古い神様の祀ってある社に関しての調べもので、明後日までなんだけどさ。俺、今日は父上に陰陽術の稽古を見てもらうし、明日は友人と約束があるんだよね」
そう言いながら、要は紙を机の端に置いた。
私は思わず、その紙の枚数を見た。
課題というより、ほとんど小論だ。資料も要る。清書も要るだろう。でも、神話時代の神の話なら、前に私が作った要点をまとめたものを見ながら書けば、要でも半分くらいはできるはずなのに。
「要、これは自分で書いた方がいいんじゃない? 昇級にも関わるでしょう」
「だから、姉さんに頼んでるんだよ」
要は悪びれずに笑った。
「姉さんはこういう地味な作業が得意でしょ。俺はもっと重要な仕事があるから」
「重要な仕事?」
「跡取りの勉強。父上にも言われてる。俺は御影家を継ぐんだから、細かい書き物に時間を取られるより、実技を磨いた方がいいって」
要は胸を張った。神祇学校の成績は悪くない。
むしろ、要は家族から「優秀だ」と言われている。
試験前に私が作る要点のまとめを読んで、出そうなところだけ覚えて、提出物は私がほとんど作っているからだ。
それでも、評価は要の評価になる。私が同じ成績を取った当時は特に何も言わなかった父は、要が成績表を持ち帰って来る度に「さすが跡取りだ」と笑う。
私がまとめた紙は、試験が終わるとくしゃくしゃになって捨てられる。
「お願い、姉さん。得意だろ?」
「……うん。分かった」
「助かる。やっぱり姉さんは、こういうの好きだもんな」
要は満足そうにうなずいた。褒め言葉のように聞こえる。……でも、その中に敬意はない。
便利だと言われているだけだと分かっていても、私は「ありがとう」と言ってしまいそうになった。
言わなかっただけ、少しはましだと思いたい。
「お姉様、いる?」
今度は澪の声がした。
要が振り向くより先に、襖の隙間から、ふわりと甘い香りが入ってきた。
澪は今日も綺麗だった。
艶のある黒髪を丁寧に結い上げ、淡い水色の小袖を着ている。鮮やかな桃色の半幅帯がよく似合っている。帯留めには小さな水晶がついていて、動くたびにキラキラと光を反射した。
十五歳の澪は、母に似た華やかな顔立ちをしていて、笑うと誰もが可愛いと言った。
私に似ているところは、あまりない。……当然ね。私は「橋の下で拾ってきた子」だし。
澪は両手を合わせるようにして、私を見た。
「お姉様、お願いがあるの」
嫌な予感がした。
「どうしたの?」
「今日、晴親さんと出かける約束をしているの。だから、これお願いしたくて」
そう言って、澪は当たり前のように御札に使う、ミツマタで作られた上等な和紙の束と、神祇学校の課題を置いた。
和紙の束の上に置かれたメモ書きの内容に眩暈がしそうだった。かなりの数がある。
水守り、雨乞い、井戸清め、水難避けに豊水祈願。
水神の加護を持つ澪が書くべきものだ。
「澪、これは今日中?」
「うん。明日の朝。水神の加護を受けた巫女にどうしてもって言われてて、神祇省に出すものなの。でもお姉様ならできるでしょう?」
「でも、私も御影の名前で書かなきゃいけない御札と、要の課題が……」
「え、要のも?」
澪が要を見る。
要は少しだけ気まずそうに目をそらした。
「別にいいだろ。姉さんはこういうの得意だし」
「そうよね。お姉様、こういう地味な事は得意だもの」
澪は悪気のない顔で笑った。
悪気がないのか、それともあるのか……昔はよく分からなかった。今も、分からないことがある。
澪は私に仕事を押しつける時、いつも甘えた声を出す。
まるで本当に、仲の良い姉にほんの少し助けてもらっているだけのような顔をするのだ。
けれどその御札が澪の名で出され、澪の評価になることも、澪は分かっているはずだった。
「私も、晴親さんとデートの約束をしてるの! お姉様、課題もお願いね」
「澪、課題も?」
「だって、晴親さんが迎えに来るんだもの。身支度しなきゃ。水神様の加護をいただいている娘として、みっともない格好はできないでしょう?」
澪は当然のように言った。そう言われると、反論しづらい。
澪は特別な娘だ。
この家の中だけでなく、この国でもそう扱われている。
「千咲、澪は予定があると言ってるでしょう。こんな時くらい、家族なんだから意地悪しないで手伝ってあげなさい」
母が廊下から声をかけてきた。おそらく、澪の声を聞きつけたのだろう。
「でも、お母様。今日中に全部は少し難しくて……」
「そのくらいは役に立ってくれないと困るわ」
綺麗に着飾った母は私の机の上を見た。そこに積まれた御札や課題の量を見ても、少しも驚いていない。
「長女だけ出来が悪いと、本当に橋の下で拾ってきた子じゃないのって聞かれるのよ」
まるで面白い事のように言う母に、胸の奥がちくりとした。
小さな痛みだった。もう慣れているはずの痛み。
母は冗談のつもりだ。昔からそう言う。
泣けば「そんな顔をしないの」と言われる。黙れば「愛想がない」と言われる。怒れば「冗談も分からない」と言われる。
だから、私は笑うしかない。
嫌な顔をしそうになった瞬間、空気が重くなる前に、私はぱっと声を明るくした。
「それは大変! 汚名返上のためにも、役に立たないと!」
母が笑った。澪もくすりと笑った。要も「そうそう」と軽く笑った。
よかった。空気が悪くならなかった。誰も不機嫌になってない。お母様も。
そう思ったけど、胸の奥は少しだけ冷たかった。
別に、私は本当に橋の下で拾われた子だと信じているわけではない。二十歳にもなって、そんな冗談を真に受けるほど子供ではない。
戸籍もあるし、母のお腹の中にいた時から知っているって親戚の方にも会った事があるし。きちんと御影家に生まれたことくらい分かっている。
自分は母のお腹を痛めて産んだ子ではない、なんて本気で思っているわけでもない。
でも。
分かっていることと、平気なことは同じではなかった。
本当に拾われたわけではない。でも、実際拾われた子みたいに扱われている。
澪が失敗すれば、まだ幼いからってお母様は庇う。
要が面倒なことを避ければ、跡取りだから仕方がないと大目に見てもらえる。
母が自分の御札を書かなくても、巫女として社交も忙しいから仕方がないと言われる。
父が私の顔色に気付かなくても、当主として外で働いているからしょうがないのだと諦めるしかない。
では、私は?
私が疲れている理由は、いつも聞いてもらえなかった。
私が嫌だと思うことは、いつも我慢が足りないという事にされた。
私が傷ついた顔をすると、冗談の分からない子と言われた。
神祇学校を卒業して、両親に頼まれたから家の事をしているのに。母は「立派なお勤め先にいる子が羨ましいわ。わたくし、あなたの同級生のお母様に『千咲さんはどこにお勤めですか』って聞かれて、何も言えなかったのよ」ってため息交じりに言う。
だから、笑う。「私は家のお手伝いをするくらいしか役に立てないから」って。だって、私がいなかったらこの家で誰が家事をするのだろう。もう我が家にお手伝いさんはいないのに。それが分かっているから。
自分を下げて笑えば、母は怒らない。
澪は機嫌を悪くしない。
要は面倒そうな顔をしない。
父も「また家の中のくだらない揉め事か」と眉をひそめて不機嫌にさせずに済む。
私が私を少しだけ雑に扱えば、この家は丸く収まるのだ。
それが上手にできるようになったことを、誰も褒めてはくれないけれど。
「助かったわ、お姉様」
澪は嬉しそうに笑った。
「私、お姉様がいてくれて本当に助かってるの」
「うん。私も、澪の役に立てて嬉しいよ」
口は勝手にそう言った。
実際本当に、澪の役に立てる事が嫌なわけではない。澪は妹だ。可愛いと思った事もある。小さな頃、泣いている澪をあやした思い出もある。病気をした時、夜中まで看病した事だって。雷が怖いと泣く澪を抱っこして頭を撫でて宥めた事も。
ただ、いつからだろう。
澪のためにする事が、澪のためだけではなくなった。
澪の評価のため。澪の立場のため。御影家の名誉のため。母の機嫌のため。父に怒られないため。
そして、私がこの家にいてもいい理由のため。
しょうがないよね。
要は跡取りの勉強があるし。澪は、水神の加護を持つ大切な身だから。
そう思えば、苦しかった喉が緩んで少しだけ息がしやすくなった。
澪に水神の加護があると分かったのは、十五年前のことだ。
それまで、この国は水の問題に随分苦しんでいた。雨が降らない土地では井戸が枯れ、田畑がひび割れて。かと思えば、ようやく雨が降った地方では、川が荒れるほど水が降り注いで家や橋を流してしまって。水が足りないのに、降ったと思ったら行き過ぎる。
そんなおかしな年が何年も続いていたらしい。
けれど十五年前、急にそれが落ち着いた。
水不足は少しずつ解消され、暴れる雨も川も穏やかになった。神祇省は、その年に生まれた子供の中に、水を鎮める神の加護を受けた者がいるのではないかと考えた。
そして、国中が調べられた。その結果、この御影家に生まれた澪に、水神の加護があると判明したのだ。
水神の加護を持つ娘。国を救った神に愛された子。御影家の誇り。
澪はそう呼ばれて育った。
私はその時、五歳だった。
調べられたのは、その年に生まれた赤ん坊達だけだったから、私は関係ない。険しい顔をして澪を取り囲む大人達を毎日見続けて、関係ないことに少しほっとしたのも覚えている。
それに、神様に選ばれるような子が私であるはずがない。
選ばれるのは澪だ。可愛くて、綺麗で、甘え上手で、誰からも大切にされる妹。
私は、それを支える姉。きっと、それでいいのだ。
「澪、そろそろ支度をなさい。晴親さんがいらっしゃるでしょう」
母に言われ、澪はぱっと顔を輝かせた。
澪の婚約者である鷹宮晴親は、神祇省高官の子息だ。国の重鎮のお家と水神の加護のある澪を繋ぐという意図での婚約だったが、今では晴親さん本人も澪を溺愛している。
「はい、お母様。お姉様、私の水色の髪紐、どこにあるか知ってる?」
「昨日、鏡台の右の引き出しにしまっておいたよ」
「さすがお姉様」
「あと、晴親様に渡す御守りは?」
「それは、そこの文箱に入れてある。澪の名前で書いておいたから」
「ありがとう」
澪はにこにこしながら、当たり前のようにそれを受け取った。
水難守りの御札。澪の婚約者である鷹宮晴親さんに渡すものだ。
もちろん、書いたのは私だ。でも晴親さんは、きっと澪が書いたと思うだろう。御札の裏に書いてあるのは澪の名前だから。
澪も、もちろんいつものように訂正しない。
それでいい。それが一番、面倒がない。
少しして、玄関の方から「ごめんください」と来訪を告げる挨拶がして、澪は小さく歓声を上げた。
「晴親様だわ!」
母は嬉しそうに澪の肩を整えた。
「さあ、行ってらっしゃい。粗相のないようにね」
「はい」
澪は私の方を振り返った。
その顔には、ほんの少しだけ優越感が混じっていた。
先日仕立てたばかりの綺麗な着物。水神の加護。高官の息子である婚約者。家族の期待。水難を治めた巫女という神祇省からの評価。
澪には、私にないものがたくさんある。
「お姉様、御札と課題、お願いね」
「うん。行ってらっしゃい」
私は笑ってそう言うと、澪は満足そうにしてから廊下へ向かった。
私も見送りのために立ち上がる。玄関まで行くと、そこには晴親さんが立っていた。
晴親さんは十七歳。神祇省高官の息子で、澪の婚約者だ。
年は私より三つ下だけれど、彼はいつも私を見る時、ひどく上から見下ろすような顔をする。
整った顔立ちをしていると思う。背も高いし、良い家柄の方だから身なりも良く、立ち居振る舞いも美しい。
でもその目には、私への隠しもしない軽蔑が常に宿っていて、苦手だった。
「澪、今日も綺麗だね」
「晴親さん」
澪は頬を染めて微笑んだ。晴親さんは澪の手を優しく取り、それからスッと目を細めて私を見た。
その視線が、私の古い着物と、墨のついた指先を見下ろす。
「また姉君は家にいるのか」
私は軽く頭を下げた。
「鷹宮様。お迎えありがとうございます」
「二十にもなって嫁にも行かず、実家に居座る年増だと、ずいぶん暇そうだな」
胸の奥が、またちくりとした。
年増。
二十歳で年増と言われるのは、たぶん少しおかしい。
でも晴親さんは十七歳で、澪は十五歳だ。
彼らから見れば、私はそういうものなのかもしれない。
実家に居座っている。それも、間違ってはいない。
嫁ぎ先もなく、仕事の名もなく、家の中でほんの少し手伝いで御札を書いているだけの長女。そう見えるのだろう。でも、暇ではない……んだけどなぁ。
「妹を羨むだけじゃなくて、少しは努力したらどうだ」
晴親さんは言った。澪が困ったように眉を下げる。
「晴親様、そんなふうに言わないで。お姉様だって、悪い人ではないの。ただ、素敵な婚約者がいる私が羨ましいのよ」
「澪は優しすぎる。君に嫉妬して冷たく当たるような姉を、庇う必要はない」
そう言われて、私は澪を見た。
澪は目を伏せている。けれど、その口元はほんの少しだけ緩んでいた。
ああ、そうか。澪は晴親さんに、そう話したのだ。嫉妬されて冷たくされた、と。
これはきっと、この前歌会始の儀に奉納する和歌を自分で考えるように断った仕返しなのだろう。……詠んだ歌について詳しく聞かれるから、自分で考えないと澪が困るよと説明したんだけど。
でもそれ以外で、普段私は澪が書くべき御札をほとんど全部書いている。神祇学校の課題も引き受けている。
使っては放りっぱなしの髪紐も片付けて、しまった場所も教えている。晴親さんへの御守りも用意した。
それでも晴親さんの中で、私は澪に嫉妬して冷たく当たる姉なのだ。
一瞬、何かを言いたくなった。
違います。私は澪に冷たくなんてしていません。
今日渡されるその御守りを書いたのも私です。普段の澪の課題も、御札も、いつも私が。
……言えたら、何か変わっただろうか。
たぶん、変わらない。晴親さんは澪を信じるだろうから。
信じてもらえなくても母は「家族の中のことを外で言うなんて」と怒るだろう。要は面倒そうな顔をして、父は家の体面を気にして私を叱る。
そして澪は泣く。きっと泣く。いや絶対に泣くだろう。
そして、私が澪をいじめたことになる。
……だから私は、笑った。笑うしかなかった。
「そうですね。出来損ないなのでお恥ずかしいです。澪は可愛いし加護持ちだし、羨ましいところだらけですから」
私がそう言うと、晴親さんは鼻で笑った。
「分かっているならいい。せめて僕の澪に迷惑をかけてくれるなよ」
「はい。気を付けます」
澪は晴親さんの腕にそっと手を添えた。
「晴親様、行きましょう。遅れてしまうわ」
「そうだね。澪、今日は君の好きな甘味の店を予約しているんだ。帰りに寄って行こう」
「本当? 嬉しい」
二人は寄り添うようにして歩き出した。
澪は玄関を出る前に、もう一度こちらを振り返る。晴親さんの腕に頬をくっつけて、優越感の混じった、可愛らしい笑顔だった。
「お姉様、よろしくね」
「うん。楽しんできて」
私は笑って手を振った。
澪と晴親さんを乗せた鷹宮家の迎えの車が遠ざかっていく。母は満足そうに見送った後、自分も茶会に出るために出かけて行った。要は「俺も出る」と言って、課題を私の机に置いたまま振り返りもせずに出て行く。
やがて玄関が静かになると、私は自分の部屋へ戻った。
机の上には、母の名前で書かなければいけない御札の一覧。
澪の御札に使う和紙の束。要の神祇学校高等科の課題。
神祇省へ提出する帳面。家計の記録。まだ畳んでない、取り込んだ洗濯物の入った籠。
山みたいだった。
私はしばらくそれを見つめてから、笑った。
「……さて。汚名返上、頑張らないと」
誰もいない部屋で言った冗談は、思ったより小さく響いた。
さっきまでは、上手く笑えた。母も、澪も、要も、晴親さんも、皆愉快そうに笑っていて、……いつも通りだった。
いつも通り。私が、ちょっと笑いものになっただけ。
だから、平気なはずだ。
私は本当に拾われた子ではない。晴親さんが言うような実家に居座る年増でも、たぶんない。澪に嫉妬して冷たくしている姉でも、ないと思う。
でも、否定して何になるのだろう。
この家で私が一番得意なのは、たぶん御札を書くことではない。帳面を整えることでも、家事をすることでもない。
嫌な事を、ちょっと我慢して笑う。それが一番、上手になってしまった。
私は椅子に座り、祖母の形見の筆を手に取る。細くて、持ち手の木が使い込んで少し色が濃くなっている。
祖母が生きていた頃、私の手に合うようにと選んでくれた筆だ。祖母は私の字をよく褒めてくれた。神祇学校に入るよりも先に御札の書き方を教えてくれたのも祖母だ。
この筆を持つと、ざわついていた心が少しだけ落ち着く。
墨を含ませ、白い和紙に向かう。
最初に書くのは、澪の名で出す水守りの御札達。その次は、要の課題。その次は、神祇省への帳面。夕餉の支度までに、どこまで終わるだろう。
考えるだけで目が回る。それでも私は、筆をひたすら紙に走らせるしかない。
御影澪。
自分の名前ではない文字を、今日も丁寧に書く。
込めた祈りだけは、嘘にならないように。この札を持つ人が、どうか守られますように。御札に残るのは私の名前ではないけれど、私はいつも心からそう願っていた。




