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鳴神の花嫁 〜橋の下で拾った龍神様に、十五年越しに溺愛されています〜   作者: まきぶろ


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橋の下の出会い

あいよ!!当店秘伝の出汁を使った新作ラーメンだよ!

(`・ω・´)つ


 そこに現れた人は、いいえ龍神様は、この世のものとは思えないほど美しかった。


 濡れた黒髪のように艶やかな髪。そこから覗く、銀色の美しい角。夜の底に稲妻を閉じ込めたような、鋭く澄んだ瞳。

 白銀を溶かしたような衣の袖が揺れるたび、鱗が煌めくように光を散らす。

 その人の腕が、私を抱きしめていた。


 ……私を。

 御影家の長女で、いつも部屋の隅にいて、俯いて御札を書いている私を。


 高い天井から吊るされた灯籠の光が、磨き上げられた床にいくつも映っている。

 神祇省の役人たちが並ぶ広間には、今日のために用意された白木の祭壇と、季節の花を盛った大きな花瓶が両脇に置かれていた。

 朱塗りの膳には祝いの酒と菓子が並び、美しい刺繍が施された薄絹の几帳は人の熱気にあおられるようにゆったりと揺れている。

 誰もが、今日という日を祝いの日にするつもりだったのだと思う。

 ただし、祝われるのは私ではないはずだった。


 父は目を見開いていた。母は口元に手を当てたまま、声も出ないようだった。

 妹の澪は、信じられないものを見る目で私を見ている。弟の要も、神祇省の偉い方々も、みんな同じ顔をしていた。


 どうして。

 なぜ。

 そちらではないはずだ。

 そんな声が、言葉にならないまま広間の中に満ちている。

 私も、同じことを思っていた。どうして、私なのだろう。

 私なんかが、この方の腕の中にいていいはずがない。

 だって私は、今日も古い着物のまま、隅で控えているだけの予定だった。

 ただ、龍神様に選ばれた娘の姉として、家族として出席しただけで。

 主役は澪のはずだった。水神の加護を持つ、家族自慢の可愛い妹。なのに。


「わ、私が神様のお嫁様だなんて……本当に……?」


 声が震えた。

 聞き間違いなら、今すぐそう言ってほしかった。

 人違いなら、今すぐ謝って、妹の方へ行ってほしかった。


 そうすれば、きっとまたいつものように笑える。

 あはは、びっくりしました。やっぱり私なわけないですよね。

 そう言えば、きっとみんなも……家族も笑う。

 張りつめていた空気は元に戻る。私も、いつもの私に戻って、ひとしきり笑われてそれでお終い。そう思っていた。


 けれど、その人は私を離さなかった。

 荒々しい神威をまとっているのに、私の背に添えられた手は、不思議なほど優しかった。

 まるで、壊れ物を抱くように。

 まるで、長い間探していたものを、ようやく見つけたように。その人は、私を見下ろして微笑んだ。


「ああ。あの時の約束通り、お前を迎えにきたよ」


 あの時。

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で、遠い昔の川の音がよみがえった。


 水の匂い。湿った土の匂い。泣きすぎて痛くなった喉。

 小さな手で握りしめた包み。橋の下で倒れていた、ぼろぼろのおじいさん。


 十五年も前のことだ。

 私は、その人の名前も知らなかった。神様だなんて、思いもしなかった。


 ただ、その日、五歳の私は家を飛び出した。家出したのだ。

 ……あの日、母は生まれたばかりの澪を抱いていて。

 白くて柔らかいおくるみに包まれた妹は、赤い顔で眠っていた。母は澪をとても大事そうに抱いていた。

 私が小さな手でそっと覗き込むと、母はにっこり笑った。その笑顔は、妹に向けられたものだった。


「澪は私がお腹を痛めて産んだ、大事な子よ」


 私は、その言葉をよく覚えている。

 お腹を痛めて産んだ。大事な子。

 幼い私は、その言葉の意味を全部分かっていたわけではない。でも、それがとても特別で、優しくて、大切なものを包む響きだということだけは分かった。

 だから、聞いてしまった。


「ちさきも? ちさきも、おかあさまがおなかいたくしてうんだの?」


 母は、少しだけ目を丸くした。それから、父の方をちらりと見た。

 父は書類を読んでいた。

 家の中で女たちが何を話しているかなど、自分には関係がないと言いたげな顔だった。

 私の問いにも、母の笑いにも、妹の寝息にも、何ひとつ反応していない。

 母は、くすりと笑った。


「千咲はね、橋の下で拾ってきた子よ」


 その瞬間、部屋の空気が少しだけ変わった気がした。

 たぶん、本当は変わっていない。私がそう感じただけだ。母は冗談のつもりだったのだろう。大人にとっては、よくあるからかいだったのかもしれない。

 でも五歳の私は、そんな事を知らない。幼い子供にとって世界の全てである親にそんな事を言われて、その言葉が世界の終わりみたいに聞こえた。


「はしの、した……?」

「そう。川の橋の下。泣いていたから、かわいそうで拾ってきたの」


 母は妹をあやしながら、楽しそうに言った。

 かわいそうで拾ってきた。拾ってきた。

 じゃあ、私は。私は、この家の子じゃないの?

 お腹を痛めて産んだ、お母様の子じゃないの? お父様の子でもないの?


「ねーちゃん、よその子、よその子、あはは!」


 まだ小さかった要が、母の言葉に乗って笑った。

 要は悪気なんてなかったと思う。ただ母が笑っているから、自分も面白い事を言ったつもりだったのだろう。

 でも、私は笑えなかった。

 胸の中がぎゅっと痛くなって、目の奥が熱くなった。口を開こうとしたのに、声が出ない。

 妹は母の腕の中にいる。要は母の膝にくっついている。父は部屋の隅で書類を読んでいる。

 皆と向かい合わせに座っていた私は、どこに行けばよかったのだろう。


「……ちさき、ひろわれた子なの?」


 そう聞くと、母はまた笑った。


「そうそう、拾った子で……やだ、そんな顔をしないの。ちょっとした冗談でしょう。お母さんが悪い事を言ったみたいじゃない」


 冗談。

 それなら、痛くないはずだった。冗談なら、泣いてはいけないはずだった。でも五歳の私には、それが本当に冗談だったのか分からなくなって、悲しくなってしまったのだ。

 みんなが笑っているのに、私だけ泣いたら、きっと私が悪いのだから。

 でも、その時の私はまだ、うまく笑えなかった。

 今みたいに、先に自分を笑いものにして場を丸く収めることなんて、まだできなかった。

 だから泣いた。


「ちさき、ほんとうのおとうさまとおかあさまをさがす!」


 涙でぐしゃぐしゃになりながら、そう叫んだ。

 母が何か言って、要がまた笑った。父がようやく顔を上げたけれど、その目は驚きよりも面倒そうだった。

 私はそれを見て、ますます悲しくなった。


「ちさきをかわいがってくれる、ほんとうのおとうさまとおかあさまをさがす!」


 そう言って、私は家を飛び出した。西の空が薄っすら橙色に色付いていた。

 庭歩き用の小さな草履で走るには、舗装されていない家の前の道に転がる小石が痛かったのを覚えている。

 袖で涙を拭きながら、私は夢中で走った。どこへ行けば本当の父と母がいるのかなんて、分からなかった。

 でも、家にいたくなかった。

 橋の下で拾われた子なら、橋の下に戻れば何か分かるかもしれない。

 五歳の私は、本気でそう思っていた。


 だから、川へ行ったのだ。

 御影の家の近くを流れる川は、普段なら大人と一緒でなければ近づいてはいけないと言われている場所だった。

 けれどその日は、誰かに叱られることより、家にいることの方が嫌だったから。

 川の水は、夕暮れの色を映して鈍く光っていた。それはとても綺麗だったけど、橋の下は薄暗くて、湿っていて、少し怖かった記憶がある。


 そこに、人がいた。最初は、ただの布の塊かと思った。

 けれど近づくと、ぼろぼろの衣をまとったおじいさんだと分かった。

 白く乱れた髪に、痩せた頬。泥に汚れた肌。

 足元には血の跡のようなものが見えて、私は足を止めた。


 怖かった。

 知らない人だったという事もある。

 家の人に、知らない人には近づいてはいけないと言われていたから。

 まして橋の下で倒れている人なんて、大人になった今思うと絶対に近づいてはいけない相手だったと思う。

 でも、おじいさんは苦しそうだった。

 息をするたびに、胸が小さく上下していて、閉じたまぶたの上で、眉をきつく寄せていた。そしてその衣の隙間から見えた腕には、黒く焼け焦げたような傷があって。

 痛そう。

 そう思ったら、足が勝手に動いてしまっていたのだ。


「あの……だいじょうぶ?」


 返事はなかった。

 おじいさんは、うっすら目を開けた。その目を見た瞬間、私はびくりとした。

 怖い目だった。見た事がない目。

 夕闇より暗くて、真ん中だけ雷みたいに鋭くて、私なんかすぐに飲み込んでしまいそうな目。

 おじいさんは、かすれた声で言った。


「……失せろ」


 私は肩を震わせた。

 やっぱり怖い。逃げた方がいい。

 この人は、きっと怒っている。私なんかが近づいたら、もっと怒らせてしまう。


 そう思った。

 でも、おじいさんの声は怖かったのに、傷はもっと痛そうだった。

 私は持っていた小さな包みを見下ろした。

 家を出る時、部屋から持ち出した金平糖だ。

 本当のお父さんとお母さんを探す旅には食べ物がいると思ったから、幼いなりに必死で持ってきたものだった。

 私は、おそるおそる包みを開いた。


「これ、たべる?」


 おじいさんは答えなかった。


「ちさき、いま、おとうさまとおかあさまをさがしてるの。でも、ひとりじめはよくないって、おばあさまがいってたから」


 私は包みを開いて、おじいさんのそばに置いた。

 おじいさんは私を睨んだけれど、金平糖にも視線を向けた。

 しばらくして、震える手がゆっくりとそれをつまんで、一粒口に運ぶ。

 私は少しだけ安心した。


「おいしい?」

「……なぜ、俺に寄越した」

「だって、おなかすいてるみたいだったから」

「俺が、悪い者かもしれんとは思わぬのか」


 悪い者。

 そう言われて、私は考えた。たしかに怖い。顔も声も怖い。さっきは睨まれて泣きそうになった。

 でも。


「わるいひとは、おなかすかないの?」


 おじいさんが、ほんの少しだけ目を見開いた。


「いたいのも、がまんできるの?」


 私はおじいさんの腕の傷を見た。

 黒い傷は、まるで何かに焼かれたようだった。見ているだけで胸がざわざわする。

 周りの血は乾いているけど、傷の奥だけはまだじくじくと赤く滲んでいて、とても痛そうだった。


「いたい?」

「……痛くなどない」


 おじいさんはそう言った。


 けれど、その声は少し震えていた。

 私はそっと手を伸ばした。触っていいのか分からなくて、傷の上に手をかざすだけだったけど。

 おばあさまが昔、私が転んだ時にしてくれたことを思い出す。


「いたいの、いたいの、とんでいけ」


 小さな手を、傷の上でゆっくり揺らした。


「いたいの、いたいの、とんでいけ。おじいさんのいたいの、ぜんぶ、どこかにとんでいけ!」


 おばあさまが作っているような、治癒の御札をちゃんと書いた訳でもない。

 きちんとした法術でもない。ましてや神様に届くような立派な祈りでもない。

 でも、その時の私は子供なりに精いっぱい考えてやった事だった。

 この人の痛いのが、本当に少しでもなくなればいいと思った。

 私の胸が痛いのも、誰かがこうして飛ばしてくれたらいいのにと思った。

 そうしていると、おじいさんの目から涙が落ちて、私は驚いた。


「えっ、いたかった? ご、ごめんなさい。ちさき、へたくそだった?」

「……違う」


 おじいさんは、金平糖を持った手を震わせたまま、首を横に振った。


「違う」


 低い声だった。怖い声のはずなのに、どうしてか泣いているみたいに聞こえた。

 おじいさんは長い間、何も言わなかった。

 私はその隣に座った。橋の下は寒かったけれど、ひとりでいるよりはましだったから。


「おじいさんは、どうしてここにいるの?」

「追い出された」

「おうちから?」

「……まあ、そうだ」

「おとうさまと、おかあさまに?」

「俺に親などいない」


 私は、ぱちぱちと瞬きをした。


「いないの?」

「ああ」

「ちさきも」


 そう言ってから、胸がまた痛くなった。

 さっき母に言われた言葉がよみがえる。橋の下で拾ってきた子。かわいそうで拾ってきた子。

 冗談だと言われたけれど、五歳の私には、もう冗談と本当の違いが分からなくなっていた。


「ちさきも、ひろってきた子なんだって」


 声が小さくなった。


「だから、ほんとうのおとうさまとおかあさまをさがしてるの。ちさきをかわいがってくれるひと。ちさきのこと、いらないっていわないひと」


 おじいさんは、私を見た。

 怖い目だった。でも、さっきより怖くなかった。


「……お前の家の者は、お前を要らぬと言ったのか」

「いってない」


 私は首を振った。


「でも、はしのしたでひろったって。かわいそうだからひろったって」

「冗談ではないのか」

「おかあさまも、じょうだんっていった」

「なら、なぜ泣く」


 私は答えられなかった。

 冗談なのだから泣いてはいけない。そう思っていた。

 でも涙は勝手に出てくる。


「だって、いたかったんだもん」


 胸のところを、小さな手で押さえた。


「ここが、いたかったの」


 おじいさんは、息を止めたように私を見ていた。

 湿った空気の中、川の音だけが聞こえる。

 薄暗い空間。橋の上を誰かが通る足音もした。でも、橋の下には私たちしかいなかった。

 親のいないおじいさん。

 拾われた子だと言われた私。

 私は涙を拭いて、少しだけ笑った。


「わたしたち、いっしょだね」


 その言葉を聞いた時、おじいさんの顔がくしゃりと歪んだ。

 怒ったのかと思った。また「失せろ」と言われるのかと思った。

 けれど違う。

 おじいさんは、私の方へゆっくり手を伸ばした。大きくて、傷だらけで、震えている手だった。


「なら、俺がお前の家族になってやる」

「ほんとう?」

「ああ」

「ちさきの、かぞく?」

「ああ。お前が泣かずに済む場所を、俺が作る」


 その言葉の意味を、五歳の私はきっと全部は分かっていなかった。

 でも、嬉しかった。

 私を可愛がってくれる本当のお父さんとお母さんを探しに来たのに、見つけたのは怖いおじいさんだった。

 でも、その怖いおじいさんは、冗談だと言われたのに泣いた自分を責めず、私の家族になってくれると言った。

 それだけで、胸の痛いところが少しだけあたたかくなった。


「じゃあ、ゆびきり」


 私は小指を差し出した。おじいさんは不思議そうに見た。


「なんだ、それは」

「やくそくするときにするの。ゆびきりげんまん。うそついたら、はりせんぼんのますの」

「……恐ろしい約束だな」

「でも、やくそくはやぶっちゃだめなんだよ」


 おじいさんは、少しだけ笑った。それは初めて出た笑顔だった。

 怖い顔なのに、笑うと少しだけ寂しそうに見える。

 おじいさんのしわしわの固い小指が、私の小指に絡まる。


「ゆびきりげんまん、うそついたら、はりせんぼんのーます」


 私が歌うと、おじいさんは低い声でぎこちなく続けた。


「……指切った」


 その瞬間、橋の下を吹き抜けた風が、ほんの少しだけ温かくなった気がした。

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