第8話:腐蝕の宣告
大広間に満ちた空気は、凍りついた冬の池の水のように重く、そして耐え難い悪臭に濁っていた。
床に叩きつけられたバルテル司祭の股間から広がった尿の生温かいアンモニア臭と、口から吐き出された血の鉄錆の臭い。豪奢なシャンデリアの眩い光は、もはや貴族の優雅さを照らすものではなく、暴かれた欺瞞と恥辱の残骸を残酷に浮かび上がらせる照明に成り果てていた。
「ひ……っ……あ、あの大公閣下……」
絨毯の上に額を擦り付け、這いつくばったまま震えているのは、アルトハイム伯爵だった。
さきほどまで上座で尊大に口髭を撫で回していた男の威厳など、一片も残っていない。毛皮の襟巻きはみっともなく乱れ、床の埃を吸い込んで激しく咳き込みながら、ただひたすらにギルバートの軍靴の先へ向けて両手を合わせている。
ギルバートは、抜刀した長剣の切っ先をだらりと床へ向けたまま、静かに歩み寄った。
カツン、カツンと大理石を刻む拍車の音が、伯爵の頭蓋骨を直接踏み躙るかのように響く。
「アルトハイム伯爵」
低く、抑揚のない声。戦場で数千の敵兵を死地へと送り込んできた男の、感情の欠落した無機質な響き。
「顔を上げろ。貴様が私刑裁判を開いたその演壇から、我が主治医を見下ろしていたように、この俺の顔を正面から見上げてみろ」
「め、滅相もございません! 滅相もございません閣下……!」
伯爵は顔を上げるどころか、さらに深く頭を床に押し付けた。額が敷石にゴツゴツと当たる音が痛々しく広間に反響する。
「す、すべては愚かな娘の浅知恵! そして、あの不届き者の司祭の狂言に惑わされた結果でございます! 私めは決して、大公閣下の命の恩人であられるエルザを害そうなどとは……!」
「父上!?」
壇上で立ち尽くしていたクラリッサが、裏切られた衝撃に甲高い悲鳴を上げた。
だが、伯爵は娘を振り返りすらしなかった。己の首が胴体と繋がっているかどうかの瀬戸際において、親子の情愛など一片の価値も持たない。伯爵は血走った目を床に向けたまま、醜い保身の言葉を機関銃のように吐き散らし続けた。
「大公閣下! 我がアルトハイム家は代々、帝室に忠誠を誓う清廉なる門筋! 閣下の神聖なる快癒を妨げる意図など、爪の先ほどもございませんでした! どうか、どうかこの愚かな家長に慈悲を……!」
「慈悲、か」
ギルバートの唇の端が、三日月のように冷たく歪んだ。
「帝国軍規第十四条。戦時特例下における総司令官の生命・健康を意図的に脅かした者は、身分の貴賤を問わず国家反逆罪とみなし、即時処刑に処す。……アルトハイム伯爵。俺の軍団が北方の国境警備から帝都へ帰還する道中は、いまだ戒厳令下の軍事行動中であると知らぬわけではあるまいな?」
ピシリ、と広間の空気が凍りついた。
国家反逆罪。
その一言が出た瞬間、周囲に控えていた下級貴族や使用人たちの顔から完全に血の気が引いた。伯爵家の一存による私刑などという生ぬるい次元ではない。帝国の軍靴が館を踏み潰し、一族全員が断頭台へ送られる罪名だった。
「ひ……っ、あ……あ……」
伯爵はもはや言葉を紡ぐことすらできず、喉をヒューヒューと鳴らして泡を吹いた。
「貴家が我が専属主治医を豚小屋の地下牢へ叩き込み、あまつさえ火刑に処そうとした罪。……軍規に照らし合わせれば、この場で貴様ら一族を皆殺しにし、この館を跡形もなく焼き払ったとしても、帝室の法廷で俺を裁ける者はおらんぞ」
「ご容赦を! 何卒、何卒ご容赦をォォッ!!」
伯爵は狂ったように床に額を打ち付け、ついに皮膚が裂けて血が絨毯を汚した。
「我が家の全財産を差し上げます! 領地の鉱山も、帝都の屋敷も、何でもお望みのものを! ですから、どうか一族の命だけは……!」
「財産など要らん」
ギルバートは汚らわしい虫を見るような目で伯爵を一瞥し、冷酷に切り捨てた。
「大公家の倉庫に眠る黄金の山に比べれば、貴様の持てる全財産など埃に等しい。……話は極めて簡単だ」
大公は長剣を鞘へと滑り込ませた。チャキン、と冷たい金属音が響く。
「この娘――エルザ・ヴァルデックの身柄、我が大公家が買い取る。貴家が過去に帝都の銀行から借り入れ、我が家が肩代わりしている軍事債権の担保として、帝国法に基づき即時徴発する。……文句はあるか」
買い取る。
それは、法的な保護と所有の移転だった。
下級貴族の没落令嬢として、親の借金のかたにアルトハイム伯爵邸へ侍女として売り飛ばされていたエルザの契約書を、大公家が強権をもって丸ごと買い上げ、伯爵家の支配下から完全に引き剥がすという宣告。
「も、もちろんございますッ!!」
伯爵は顔を跳ね上げ、涙と鼻水と血に塗れた顔で叫んだ。
「エルザの身柄など、どうぞ、どうぞ今すぐお連れください! 書類は今すぐ執事に書かせます! 我がアルトハイム家はエルザに対する一切の権利を永久に放棄いたします! どうぞ、お連れくださいませッ!」
「お父様ッ!!」
耐えかねたクラリッサが、壇上の階段を駆け下りてきた。
レースの裾を踏み躙りながら、狂乱の形相で伯爵の肩を掴み揺さぶる。
「何を仰っているの!? 正気ですの、お父様! その娘は私の侍女ですのよ! 私のスープを運び、私の部屋を掃除し、私の足元に跪くために買い取った、私の所有物ですのよ! なぜそんな下賤な雑巾娘を、大公家へ差し出さねばなりませんの!?」
「黙れ、この阿呆がッ!」
伯爵は逆上し、平手でクラリッサの頬を力任せに張り飛ばした。
バチンッ!
鋭い音が広間に響き、クラリッサの華奢な身体が床へと倒れ込む。
塗られた分厚い白粉が衝撃でパラパラと剥がれ落ち、打たれた右頬が赤黒く腫れ上がっていく。
「お前が余計な真似をしてエルザを地下牢へ叩き込んだから、我が家は破滅の危機に瀕したのだ! 大公閣下の御前であるぞ、これ以上恥を晒すな!」
「いや……っ、嘘よ……!」
クラリッサは床に手をつき、乱れた亜麻色の髪の間からエルザを睨みつけた。
その瞳に渦巻いていたのは、到底人間とは思えないほどの、ドロドロとした黒い嫉妬と怨嗟だった。
自分よりも遥かに身分の低い、没落した男爵家の娘。
毎日泥水で手を真っ赤に腫らし、自分の理不尽な命令に怯えて頭を下げていたはずの娘が――なぜ。
なぜ、帝国最強の美貌の大公に守られ、その背後に凛として立っているのか。
なぜ、自分を救うはずだった『奇跡の光』が、あの薄汚い侍女の指先から放たれているのか。
「大公閣下……!」
クラリッサは泥水を啜るような無様さで、ギルバートの足元へと縋り付こうと手を伸ばした。
「騙されてはなりませんわ! その娘は悪魔ですのよ! その娘の不吉な言葉が、我が館を呪いで満たそうとしているのです! 私を見てくださいませ、閣下! 神の祝福を受けた、アルトハイムの誇る至高の美貌を……!」
ギルバートは、足元に伸ばされたクラリッサの白粉まみれの手を、踏みつける価値すらないとばかりに一歩引いて躱した。
大公の氷灰色の瞳が、クラリッサの上から下へと、冷淡に滑り落ちる。
制圧の対象ですらない。敵ですらない。
ただ、道端に転がる腐った汚物を見るような、絶対零度の侮蔑。
「騒ぐな、化粧崩れの女」
吐き捨てられた言葉は、剣よりも鋭くクラリッサの心臓を抉った。
「粉を撒き散らすな。目障りだ」
「あ……」
クラリッサの喉から、空気の抜けるような情けない音が漏れた。
化粧崩れの女。目障り。
自らの美貌こそが世界を支配する唯一の武器だと信じ込み、毎日何時間も鏡に向かって毒の粉を塗りたくってきた令嬢にとって、その一言は自らの存在理由を根底から否定される死刑宣告に等しかった。
ギルバートは二度とクラリッサに視線を向けることなく、背後のエルザを振り返った。
その瞳の奥に宿る冷気は、エルザを見つめた瞬間にだけ、微かな熱を帯びた敬意へと色を変える。
「行くぞ、エルザ。こんな澱んだ空気を吸い続けるのは、お前の言う衛生基準に反する」
「はい、大公閣下」
エルザは静かに一礼し、大公の半歩後ろへと歩みを進めた。
手首の擦り傷からはまだ血が滲んでいたが、その足取りは迷いなく、背筋は真っ直ぐに伸びていた。
大広間の出口へ向かう途中――床に這いつくばったまま、呆然と震えているクラリッサの横を通り過ぎる。
その刹那。
エルザはふと足を止め、わずかに腰を落とした。
周囲の誰にも、ギルバートにすら聞き取れないほどの、微かな、だが氷のように研ぎ澄まされた囁きが、クラリッサの耳朶へと滑り込む。
「クラリッサ様」
クラリッサがビクリと肩を跳ね上げ、怨毒に満ちた目をエルザへと向けた。
至近距離で見るクラリッサの素顔。
剥落した白粉の下から覗く皮膚は、激しい血流障害によって土気色の灰色を呈し、毛穴からは異常な皮脂が浮き出ている。
エルザの琥珀色の瞳が、その病変の進行度を冷徹にスキャンした。
「忠告を差し上げます。その神殿特製の美白粉を、どうか毎日欠かさずお使い続けなさい」
「……な、何ですって……?」
「あと三年もすれば、その美しい歯が根元から真っ黒に腐って抜け落ちます。そして五年も経てば、激しい頭痛と幻覚に夜ごと襲われ、ご自身の名前すら思い出せなくなって、正気を失うでしょう」
クラリッサの瞳孔が、恐怖によって限界まで見開かれた。
「う、嘘よ……! 私の美しさを妬んでいるのね! この下賤な負け犬が……呪いの言葉で私を陥れようとしても、そうはいかないわ!」
震える声で負け惜しみを吐くクラリッサを見下ろし、エルザはふっと、残酷なまでに柔らかな笑みを浮かべた。
「ええ、どうぞご自由にお使い続けなさい。あなたの骨が鉛に溶かされ、自らの毒で崩れ落ちるその日まで」
それは呪いではなかった。
ただの、避けようのない物質と反応の帰結。
無知にすがりつき、虚栄に溺れた愚者が、自らの手で自らの肉体を解剖台へ送る未来への、冷酷な確定申告。
エルザはそれ以上、言葉をかけることなく身を起こした。
一度も振り返ることなく、大公の背に従って歩みを進める。
背後で、クラリッサが喉を引き裂くような悲鳴を上げ、自らの髪を掻きむしりながら床を叩く音が響いていたが、エルザの耳にはもはや届かなかった。
◇
アルトハイム伯爵邸の大玄関を抜けると、そこには晩秋の冷たく澄み切った朝風が吹き抜けていた。
中庭に立ち並んでいた使用人や衛兵たちは、大公の姿を認めるや否や、一斉に地面へと平伏した。もはや誰もエルザを「雑巾娘」と嘲笑う者はいなかった。大公の絶対的な庇護のもと、死線を渡り切った少女を、ただ畏怖と戦慄の眼差しで見送るしかなかった。
正門の前には、黒狼騎士団の威容を誇る隊列が整然と待機していた。
中央に鎮座するのは、漆黒の樫の木で作られ、大公家の銀の狼紋が刻印された重厚な馬車。四頭の黒馬が白い呼気を吐き、車輪には泥一つ付いていない。
「乗れ、エルザ」
ギルバートが足を止め、馬車の扉を開けて自ら手を差し伸べた。
帝国の最高位貴族が、身分の低い少女に対して馬車のステップで手を貸す。宮廷の作法を知る者が見れば卒倒しかねない破格の厚遇。
だが、エルザはその差し伸べられた大きな掌を見つめると、静かに頭を下げ、その手を借りることなく自らの足で馬車のステップを踏みしめた。
「お気遣い痛み入ります、大公閣下。ですが、私の足はまだ動きますので」
麻の擦り切れた靴で、トントンとステップを登り、エルザは馬車の座席へと腰を下ろした。
身を委ねるのではなく、自らの足で立つ。
自分は救い出された無力なヒロインではなく、対等な契約のもとに大公の主治医となったのだという、強烈な職人の矜持。
ギルバートは空中に残された自らの手を見つめ、それから可笑しそうに口端を吊り上げた。
「……傲岸な主治医様だな」
大公は身軽に馬車へと乗り込み、エルザの向かいの革張りの座席へと腰を下ろした。
巨躯が収まった瞬間、馬車がギシリと重い音を立てる。
「テオバルト、出立だ。黒狼城へ戻る」
「はっ! 全軍、出立ッ!」
御者の鞭の音が鳴り響き、重厚な車輪が軋みながら回転を始めた。
馬車がゆっくりと動き出す。
エルザは窓の分厚いガラス越しに、後方を見つめた。
遠ざかっていく、アルトハイム伯爵邸。
前世で自分が十九年間を過ごし、理不尽な暴力に耐え、無知ゆえに利用され、最後には断頭台の上へ首を差し出す原因となった、あの「呪いの館」。
だが今、その館の尖塔は、朝の光を浴びながら急速に小さく縮んでいく。
(終わったわ、前世の悪夢は)
エルザは膝の上で、血の滲む自らの両手を静かに見つめた。
復讐のために刃を振るう必要などなかった。
クラリッサも、伯爵夫妻も、あの館に巣食うすべての愚者たちは、自らが信奉する毒の壁紙と白粉によって、勝手に自滅の道を転がり落ちていく。
自分はただ、その腐食のスピードを客観的に観察し、宣告を与えただけだ。
だが、これはまだ序章に過ぎない。
前世の自分が殺された元凶はアルトハイム家だが、その背後で病を「悪魔の呪い」と偽り、毒入りの聖水を売りさばいて帝国全土を暗黒の迷信で支配している巨悪――神殿と帝都の闇は、いまだ健在なのだ。
二度と誰にも命を脅かされない場所へ行く。
そのためには、大公領という足場を固め、誰も手出しのできない絶対的な近代医学の城を築き上げなければならない。
「……手を見せろ」
低く、掠れた声が向かいから響いた。
ハッとして顔を上げると、ギルバートが座席から身を乗り出し、エルザの手首を掴み取っていた。
大公の手は、戦場で刀を握り続けてきた無骨な胼胝に覆われていたが、エルザの傷口に触れる指先は、驚くほど慎重で、痛々しいほど優しかった。
「手錠の鎖で皮が剥けている。……テオバルトに清潔な水と包帯を持ってこさせよう」
「……閣下、私は医者です。これくらいの擦り傷、放っておけば三日で上皮化します」
「黙れ。患者の指示に従う医者がどこにいる」
ギルバートは自らの胸ポケットから、上等の絹のハンカチを引き抜くと、エルザの傷ついた手首に丁寧に巻き付けた。
その氷灰色の瞳の奥に宿る、昏く、重い熱。
自分を救い上げたこの小さな手を、二度と誰にも傷つけさせないという、獰猛なまでの過保護と独占欲。
エルザは眉をひそめながらも、包帯代わりに巻かれたハンカチの温もりを拒むことはできなかった。
馬車の窓の外、灰色の空がゆっくりと青へと溶け出していく。
冷徹な侍女と、最強の冷酷軍人。
二人の運命を乗せた漆黒の馬車は、迷信の帝国を解剖するための次なる舞台――大公領「黒狼城」へと向かって、力強く大地を疾走していった。




