第7話:私刑裁判と神殿の化けの皮
地下牢の鉄扉が開かれたのは、翌朝の陽光がまだ地表の冷気を溶かしきれぬ時刻だった。
二人の屈強な私設警備兵が、泥水に濡れた床の上で膝を抱えていたエルザの細い両腕を乱暴に掴み上げ、石段の上へと引きずり出した。背後で固く締め上げられた鉄の手錠が手首の骨を軋ませ、擦れた傷口からじんわりと温かい血が滲み出して指先へと伝う。だが、エルザは足をもつれさせながらも、決して自ら膝をつこうとはしなかった。
「歩け、呪われ娘が」
衛兵の罵声とともに背中を小突かれ、本館の大広間へと続く重厚な扉の前に立たされる。
冷たい地下から上がってきたエルザの鼻孔を突いたのは、濃厚な乳香とミルラの煙の匂い、そして――大理石を温める暖炉の熱気だった。
ギィィ、と軋んだ音を立てて観音開きの扉が開け放たれる。
アルトハイム伯爵邸の大広間。
普段は舞踏会や貴族たちの宴が開かれるその絢爛たる空間は、今や異様な空気を孕んだ「私設法廷」へと作り替えられていた。
天井からは無数のクリスタルが吊り下げられた大シャンデリアが輝き、床には深紅の豪奢な絨毯が敷き詰められている。その絨毯の両脇には、屋敷の執事長、侍女長をはじめとする上級使用人たち、さらには近隣から呼び集められた下級貴族の面々が、息を呑んで立ち並んでいた。誰もがエルザを「恐ろしい病を撒き散らそうとした魔女」として遠巻きに見つめ、その瞳には露骨な嫌悪と、自らに火の粉が降りかかるのを恐れる怯えの色が混ざり合っていた。
エルザは広間の中央、冷たい床の上に無理やり膝をつかされた。
手錠で後ろ手に拘束されたまま、首筋に泥と煤をつけ、みすぼらしい麻のワンピースを纏った十二歳の少女。
その頭上、三段の階段を設けた上座に並べられた豪奢な椅子には、この館の支配者たちが鎮座していた。
中央には、毛皮の襟巻きを羽織り、落ち着かなげに口髭を撫で回しているアルトハイム伯爵。
その隣には、これでもかとばかりに白粉を叩き込み、死蝋のような青白い肌を陶器の仮面のように仕立て上げた令嬢クラリッサ。クラリッサの胸元には、エルザの母の形見であるサファイアの首飾りが、朝日を浴びて嘲るように鈍く青い光を放っている。扇を握る彼女の指先は、今朝も小刻みに痙攣していたが、その口元に浮かぶ笑みは勝利を確信した残酷な喜悦に歪んでいた。
そして――伯爵の右手に立っていたのは、金糸の刺繍が施された白銀の祭服を纏った男だった。
アルトハイム伯爵家の専属司祭、バルテル神官。
油で撫で付けた髪、浅黒い顔に浮き出た血管、そして手には分厚い装丁の聖典と、大聖堂の紋章が刻印された銀の十字架を握りしめている。正教会の権威を傘に着て、伯爵家の財政から毎月莫大な寄進を吸い上げている俗物だった。
「静粛に!」
バルテル司祭が聖典の角を壇上の演台へ叩きつけた。重苦しい音が広間の高い天井に反響する。
「これより、神聖なる主の御名において、主家たるアルトハイム伯爵家に対する背信、および帝国を揺るがす大罪人の審問を開始する!」
司祭の朗々たる声が広間を威圧する。
バルテルは演台の上から、数枚の薄汚れた羊皮紙の紙片をつまみ上げた。昨夜、クラリッサがエルザの藁布団から強奪した、あの暗号の医学ノートだった。司祭はそれをまるで毒虫を扱うかのように指先で抓み、参列者たちに見せつけるように高く掲げた。
「見よ! この忌まわしき紙片を! ここに描かれているのは、主が創りたもうた尊き人の肉体を無残に切り裂き、内臓の重さを量り、血管を糸で縛るという、前代未聞の冒涜的な呪詛の図面である!」
広間の貴族や使用人たちから、ヒッと短い悲鳴が漏れた。
「人の身体は神の神殿であり、触れることすら禁忌の領域! それを解剖などという悪魔の所業で穢そうとする思想そのものが、破門に値する大罪である! さらに、この娘は北方の英雄たるギルバート大公閣下に近づき、裏山で採取した毒草を煎じた呪いの薬を飲ませ、あまつさえ館の神聖なる銀器をすべて破壊しようと画策した!」
バルテル司祭は演台から歩み出ると、階段を一段降り、床に跪くエルザを指弾した。その目は狂信と、自らの権威を誇示する独善にギラギラと輝いている。
「動かぬ証拠は揃っている! この娘は悪魔に魂を売り渡した魔女であり、神罰をその身に宿す穢れの根源である! 異端審問所に引き渡すまでもない! 帝国の純潔と大公閣下の身の安全を守るため、直ちに裏庭の処刑杭に縛り付け、火刑に処して灰を風に散らすべきである!」
「火刑だ!」「悪魔の手先を焼き払え!」
使用人たちの中から、扇動された叫びが上がる。
壇上のクラリッサが、扇で口元を隠しながら優雅に立ち上がった。
彼女は憐れむような、だが底知れぬ嘲弄に満ちた眼差しで、床のエルザを見下ろした。
「聞いたでしょう、下賤なネズミめ。何か申し開きはあるかしら? もっとも、悪魔の言葉など誰一人として信じはしないけれどね」
クラリッサの甲高い声が響く。
「大公閣下に媚びを売り、主家を呪い殺そうとした罪……その身をもって神の業火に詫びるがいいわ。お前のその薄汚い骨まで燃え尽きれば、私の肌も、この館の空気も、ようやく清らかになるというものよ」
嘲笑の波が広間を満たしていく。
かつて断頭台の上でエルザを取り囲んでいた、あの無知と悪意に満ちた群衆の顔と、目の前の貴族たちの顔が重なり合う。
だが――。
エルザは、ゆっくりと顔を上げた。
乱れた黒髪の間から覗く琥珀色の双眸。
そこには、死への恐怖も、理不尽に対する絶望も、一片たりとも浮かんでいなかった。
氷山のように冷たく、深淵のように静まり返った瞳。その絶対零度の視線に射抜かれた瞬間、壇上で勝ち誇っていたクラリッサの言葉が喉元でつっかえた。
「……申し開き、ですか」
エルザの声は、広間の騒音を吸い込むように低く、だが驚くほど透き通って全員の耳朶に届いた。
「ええ。申し開きなら、山ほどございます」
「な……何をふざけたことを!」バルテル司祭が怒鳴りつける。
エルザは司祭の怒号を歯牙にもかけず、冷ややかに唇の端を吊り上げた。
「まず、バルテル司祭様。あなたが先ほどから胸元で後生大事に握りしめていらっしゃる、その小さな硝子瓶――あなたが『悪魔を祓い、万病を癒やす神聖なる解呪の聖水』と称して、伯爵家に毎月金貨十枚で売りつけている特級の聖水を、ここに持ってきていただけますか?」
「な、何だと……!?」
司祭の顔に、不意を突かれた動揺が走った。
「何を血迷ったことを言い出すか! 神聖なる聖水が、貴様のような魔女の指先に触れてよいはずがなかろう!」
「触りませんよ、穢れますから」
エルザは淡々と言い放った。広間の使用人たちが息を呑む。
「ただ、皆様の目の前にかざしていただくだけで結構です。……なぜなら、その瓶の中に詰まっているものの正体を、この広間にお集まりの皆様に知っていただく必要があるからです」
「無礼者! 聖水の中身は神の恩寵と、大聖堂の地下深くで祈祷を捧げられた奇跡の滴であるぞ!」
「奇跡、ですか」
エルザの口元に、怜悧な刃物のような冷笑が刻まれた。
「ただの井戸水に、重曹――炭酸水素ナトリウムを溶かして微弱なアルカリ性にした水ですね。さらに沈殿を防ぎ、光に当てた際に怪しく輝かせるため、微量の昇汞――塩化第二水銀の粉末を混ぜ、香油として阿片チンキを数滴垂らしたもの。……違いますか?」
広間の空気が、ピシリと音を立てて凍りついた。
バルテル司祭の顔面から、目に見えて血の気が引いていった。
「き、貴様……何をデタラメを……!」
「デタラメではありません」
エルザは後ろ手に縛られたまま、背筋を真っ直ぐに伸ばした。その姿は、囚人ではなく、無知な生徒を前に講義を行う解剖学教授そのものだった。
「アルカリ性の重曹水は、一時的に胃酸を中和し、胸焼けや胃の不快感を麻痺させます。さらに微量のアヘンに含まれるモルヒネが中枢神経の痛覚を鈍麻させ、多幸感をもたらす。飲んだ人間は『ああ、痛みが消えた、神の平穏が訪れた』と錯覚するのです」
エルザの視線が、上座で口髭を震わせているアルトハイム伯爵へと向けられた。
「ですが伯爵閣下、よくお聞きなさい。その一時的な平穏の対価として、体内に流し込まれているのは水銀という名の重金属の猛毒です。水銀は腎臓の尿細管を不可逆的に破壊し、脳の神経細胞を徐々に壊死させます。飲み続ければ、手足の震えが止まらなくなり、視野が狭まり、やがて激しい幻覚と狂気の発作に襲われて廃人と化す。……司祭様、あなたが伯爵家に売っているのは神の恵みなどではない。金貨十枚の対価として、家族全員を緩やかに狂死させるための毒薬です」
「ざ、ざわ……!」
大広間に、猛烈な動揺の波が広がった。
列席していた貴族たちが顔を見合わせ、使用人たちがざわめき始める。
「聖水に……毒が……?」「そういえば、司祭様のお薬を飲んだ後、いつも頭がぼうっとすると旦那様が……」「手の震えって、クラリッサお嬢様も……!」
「だ、だまれええっ!!」
バルテル司祭の金切り声が響き渡った。
司祭の額には大量の脂汗が吹き出し、握りしめた聖典を持つ手が小刻みに震えている。図星を突かれた人間の、醜悪極まる狼狽と逆上。
「出鱈目を! 悪魔の虚言である! 聖なる教会への冒涜だ! これ以上この魔女の舌を動かしてはならん! 衛兵、何をしている! 今すぐその場で首を刎ねろ! 神の敵を叩き斬れぇぇッ!」
「は、はっ!」
司祭の狂乱の号令を受け、エルザの背後に控えていた二人の私設衛兵が、鞘から幅広の鉄剣を一気に抜き放った。
金属の鋭い擦過音。
銀色の切っ先が振り上げられ、朝日を浴びてエルザの首筋へと狙いを定める。
クラリッサの口元に、狂気の笑みが戻った。「死になさい、エルザ!」
衛兵の腕が、力任せに振り下ろされた――その刹那。
――ズドンッッッッ!!!!
大砲の直撃を受けたかのような、凄まじい爆発音が広間を揺るがした。
分厚いオーク材で作られていた大広間の両開きの大扉が、蝶番ごと、漆喰の壁の破片を巻き散らしながら、内側へと激しく吹き飛んだのだ。
轟音とともに舞い上がる石粉と煙塵。
突風が吹き込み、シャンデリアのクリスタルが無数に衝突して狂ったような金属音を奏でる。
「ぎゃああっ!?」
飛び散った木片をまともに浴びた衛兵たちが悲鳴を上げて吹き飛び、床を転がった。剣がエルザの首元を外れ、大理石の床に火花を散らして突き刺さる。
「な、なんだ!? 何事だ!?」
アルトハイム伯爵が腰を抜かして椅子から転がり落ち、クラリッサが耳を塞いで悲鳴を上げた。
白煙が渦巻く破壊された扉の向こうから、冷たい北風とともに、重厚で狂いのない軍靴の谫み音が響いてきた。
カツン、カツン、カツン。
規則正しい、鋼の意志を宿した足音。
煙を切り裂いて姿を現したのは、黒鉄の甲冑の上に漆黒の軍外套を完璧に着こなした、一人の巨漢だった。
夜の深淵を宿した漆黒の髪。氷の刃のように研ぎ澄まされた氷灰色の双眸。
背後には、抜き身の大剣を掲げ、一糸乱れぬ隊列で広間を包囲していく数十名の黒鉄の騎兵たち――黒狼騎士団の精鋭。
「……ひ、あ……」
転がった衛兵の一人が、恐怖のあまり喉を詰まらせた。
ギルバート・フォン・ラングリール大公。
だが、その姿は、夕暮れの中庭で片膝をついて苦悶に喘いでいたあの男とは、完全に別人だった。
背筋は天を突くように真っ直ぐに伸び、その足取りには一片の淀みも衰弱の影もない。大理石の床を踏みしめるその両脚は、大木のように力強く大地を捉えている。
そして何より――かつて麻痺してだらりと下を向いていたはずの右腕が、自らの腰に佩いた大剣の鞘を、寸分の狂いもなく力強く握りしめていた。
ギルバートの氷灰色の瞳が、広間を一瞥する。
その全身から放たれる濃密な殺気の圧迫感に、広間にいた貴族も使用人も、呼吸をすることすら忘れて硬直した。歴戦の軍神が戦場で放つ、本物の死の気配。
「我が専属主治医の首を――誰の許可で刎ねる気だ?」
低く、地底から響くような声が、静まり返った大広間を支配した。
震え上がる一同の中を、ギルバートは迷うことなく歩みを進めた。
床に転がる衛兵を踏み越え、真っ直ぐにエルザの前へと近づく。
大公の影がエルザを覆い尽くした。
ギルバートは無言で左手の軍刀を抜き放った。
シュン、と銀光が一閃する。
エルザの背後を固く縛り上げていた麻縄と、鉄の手錠の鎖が、まるで薄紙を裂くかのように両断され、乾いた音を立てて床へ落ちた。
拘束から解放されたエルザの両腕が、静かに前へと戻る。擦り切れた手首から血が流れていたが、エルザは痛みに顔を歪めることもなく、ただ静かにギルバートを見上げた。
「……ぎ、ギルバート閣下……!?」
壇上の下で腰を抜かしていたアルトハイム伯爵が、震える声で這い寄ってきた。
「お、お身体は……!? 悪魔の呪いで、寝たきりであられたはずでは……!?」
ギルバートは伯爵を一瞥すらしなかった。
大公は床に膝をつくと、自らの大きな手で、床に散らばっていたエルザの暗号の医学ノートを一枚ずつ、丁寧に拾い集めた。泥に汚れた羊皮紙の端切れを、自らの革手袋でそっと拭う。
そして立ち上がると、演台の陰でガタガタと歯の根を鳴らして震えていたバルテル司祭の前へと歩み寄った。
「ひ……っ……た、大公閣下……私は神の代理人として、この魔女を――」
司祭の弁解は、最後まで続かなかった。
バシィィィィンッッ!!
ギルバートが手にした医学ノートの束が、万力のような力でバルテル司祭の頬へと叩きつけられたのだ。
激しい衝撃音とともに、司祭の首が不自然に跳ね上がり、口から血と折れた前歯が飛び散った。
司祭は演台ごと床へ倒れ伏し、鼻血を流しながら悶絶する。
「この娘の書いた処方で」
ギルバートは倒れた司祭の胸ぐらを、麻痺から完全に回復した右腕で力任せに掴み上げ、宙へと吊り上げた。
大公の巨躯の前に、司祭の身体がまるで惨めな案山子のようにぶら下がる。
「俺の五年越しの激痛は、三日で消えた」
広間中の人間が、雷に打たれたように凍りついた。
五年越しの激痛が、三日で消えた――。
その一言が意味する圧倒的な事実の重みが、貴族たちの脳髄を激しく揺さぶる。
「貴様ら神官どもが五年かけて大公家から貪り尽くした金貨の山と、中身のない祈祷は――この娘が裏山で摘んできた三日の煎じ薬にすら及ばなかった」
ギルバートの氷灰色の双眸が、司祭の目を至近距離から射抜く。
「誰が魔女だ。誰が神罰の穢れだ。……言ってみろ、神の代理人面した生ゴミめ」
「ひぃ……っ! ご、ごぶ……許し……お許しを……!」
司祭の股間から、生温かい黄色い液体がジュッと音を立てて漏れ出し、白銀の祭服を汚しながら床へと滴り落ちた。
失禁。
神の権威を振りかざし、エルザを火刑に処そうとしていた男の、あまりにも無残で醜悪な自滅。
ギルバートは汚物を見るような目で司祭を床へ投げ捨てると、軍靴の先でその顔面を踏みにじることもせず、振り返った。
その視線の先、壇上で扇を取り落とし、幽霊でも見たかのように顎をガクガクと震わせているクラリッサの姿があった。
「さて」
ギルバートの冷え切った低音が、静まり返る広間の空気を氷解させることなく切り裂いた。
「我が専属主治医を豚小屋の地下牢へ叩き込み、私刑裁判にかけた落とし前……どうつけてくれるのだ、アルトハイム伯爵」
絶対的な権力と軍事力を背負った怪物が、牙を剥いて伯爵家の喉元へと食らいつく瞬間だった。




