第6話:消えた疝痛と嫉妬の牢獄
治療という名の解剖的介入は、容赦のない徹底ぶりで幕を開けた。
深夜の貴賓室においてエルザが最初に行ったのは、室内に存在するすべての「金属」を部屋の外へ放逐することだった。
「テオバルト副官、そこの棚にある銀の燭台と、壁の真鍮の飾り皿、そしてテーブルのピューター製水差しをすべて廊下へ出してください。大公閣下の身の回り半径三間(約五メートル)以内に、錫と鉛の合金が存在することを一切禁じます」
「……本気で言っているのか、小娘」
テオバルトは眉根を寄せ、露骨な不快感を隠さずにエルザを睨みつけた。
「閣下は帝国の最高位貴族であられるのだぞ。泥水を啜る平民ではない。格式ある調度品を取り払うなど――」
「格式で命が買えるのなら、大公家歴代の当主はみな百歳まで生き延びていたはずです」
エルザは目も合わせず、サイドテーブルの銀製トレイを手袋越しに掴むと、廊下の床へ向けて無造作に放り投げた。ガシャン、と甲高い金属音が静まり返った館の夜気に響き渡る。
「な……ッ!」
「文句を言っている暇があるなら手を動かしてください。閣下の血中鉛濃度は今まさに致死域の手前にあります。微量であれ、空気中に揮発した鉛の粉塵や、金属イオンが触れた水滴を体内に入れるわけにはいかないのです」
寝台の上で脂汗を流すギルバートが、荒い息の合間に微かに笑った。
「……やれ、テオバルト。俺の首を賭けた勝負だ。小娘の指図に従え」
「……御意」
主君の命を受け、テオバルトは歯噛みしながらも、室内の金属食器や調度品を次々と廊下へと運び出した。代わりにエルザが持ち込ませたのは、地下の物置から掘り出してきた粗末な素焼きの土瓶と、釉薬のかかっていない素朴な陶器の深皿、そして削り出しの木製スプーンだった。
名門大公家の逗留部屋とは到底思えない、修道院の独房のごとき殺風景な空間。だがエルザにとって、それこそが無菌室に最も近い、安全な治療環境だった。
夜明け前、エルザは眠ることなく本館の地下厨房へと乗り込んだ。
まだ薄暗い厨房では、朝食の仕込みを始めていた料理人たちが、埃だらけのエプロンをつけた十二歳の下働き侍女の乱入に目を白黒とさせた。
「おい、雑巾娘! なんでお前がこんな時間に本館の厨房に入り込んでるんだい! 朝のパン焼きの邪魔をするんじゃないよ!」
料理長が肉切り包丁を振り上げて怒鳴りつける。
だが、その背後から音もなく現れたテオバルトが、腰の軍刀の鞘を調理台のオーク材へドスンと叩きつけた。
「大公閣下の直命である。今よりこの厨房の火と食材の差配は、すべてこのエルザに一任する。逆らう者は大公家への不敬とみなし、即刻その首を刎ねる」
血塗られた戦場を生き抜いてきた副官の殺気に、厨房の男たちは一瞬で総毛立ち、床に平伏した。
「火を強めなさい。大鍋に井戸水を張り、沸騰させて」
エルザは淡々と指示を飛ばした。
作らせたのは、豪奢な宮廷料理とは真逆の、徹底的に計算された「解毒食」だった。
使用したのは、硫黄化合物を豊富に含むニンニク、タマネギ、ニラ、そしてアブラナ科のキャベツとカブの原種。これらを賽の目に刻み、肉の脂を徹底的に取り除いた鳥の骨の出汁でクタクタになるまで煮込ませる。
(含硫アミノ酸――メチオニンとシステイン。これらに含まれるチオール基(-SH基)が、遊離した重金属イオンを強力にキレート(吸着)し、安定した水溶性錯体となって腎臓からの排泄を促進する)
さらに、エルザは前世の記憶を頼りに、伯爵邸の裏山へ一人で分け入り、夜露に濡れた野生の薬草を採取してきた。
タンニンを大量に含むヤナギの樹皮、強い利尿作用と有機酸を持つスギナ、そして抗酸化作用の高い野アザミの根。これらを乳鉢で丹念にすり潰し、素焼きの土鍋で濃縮した苦味の強い暗緑色の煎じ薬を調合する。
「これを一日三回、食前に大公閣下に飲ませてください。一杯ごとに、必ず清潔な沸騰白湯を大杯で三杯、無理矢理にでも胃袋へ流し込ませること」
「……こんな泥水のようなものを閣下に?」テオバルトが薬杯の強烈な青臭さに顔をしかめる。
「血液の循環量を物理的に増やさなければ、腎臓の糸球体で毒素を濾過しきれず、急性腎不全で死に至ります。いいですか、白湯を飲ませ、汗をかかせ、尿を出させるのです。止めてはなりません」
初日、ギルバートはエルザの指示通り、粗末な木匙で硫黄臭の立ち込めるスープを口にし、苦汁のような煎じ薬を喉の奥へ流し込んだ。
味覚を麻痺させるほどの強烈な苦味と青臭さに、歴戦の大公ですら喉を詰まらせかけたが、エルザの冷徹な眼差しに見据えられ、無言ですべてを飲み干した。
◇
異変が起きたのは、治療開始から二日目の深夜だった。
「エルザ! 貴様、どこにいる! すぐに来い!」
使用人部屋の粗末な木扉を蹴破らんばかりの勢いで、テオバルトが飛び込んできた。その顔は蒼白を通り越し、額には脂汗が滲んでいる。
エルザは跳ね起きることもなく、静かに藁布団から身を起こした。
「……発作が起きましたね」
「貴様ッ、落ち着いている場合か! 閣下が高熱を発し、狂ったように身悶えておられる! 意識も混濁している! 貴様、やはり毒を盛ったのではないか!」
エルザは無言で足元の木靴を履き、テオバルトの手を振り払って貴賓室へと走った。
扉を開けた瞬間、室内に充満していたのは、ツンと鼻を突くアンモニア臭と、金属が酸化したような異様な体臭だった。
寝台の上で、ギルバートは上半身を仰け反らせ、荒い息を吐きながら激しく喘いでいた。
シャツは大量の汗で肌に張り付き、その褐色の皮膚はカッカと異常な熱を帯びて赤く上気している。
「う……ぐっ……熱い……内臓が、千切れる……!」
歯を食いしばるギルバートの口元から、苦悶の唸り声が漏れる。
ベッドの脇に置かれた素焼きの尿器と便器の中には、常軌を逸した色をした排泄物が溜まっていた。尿は黒褐色に濁り、便はまるで泥炭のように真っ黒で、腐敗した鉄の臭いを放っている。
「見ろ!」テオバルトが激昂し、軍刀の柄を握りしめた。切っ先がエルザの喉元へと突き出される。
「この黒い血のような便は何だ! 閣下の熱は下がるどころか燃え盛っている! 貴様、解毒と偽って閣下の内臓を腐らせる毒草を飲ませたな! 今すぐ白状しなければ、この場で首を叩き落とす!」
鋭利な刃先が、エルザの頸動脈の皮をわずかに圧迫した。
だが、エルザの瞳には動揺の欠片もなかった。
彼女はテオバルトの剣を無視し、大公の寝台へと踏み込んだ。
「どきなさい、テオバルト副官。刃を収めなさい」
「なっ……!」
「邪魔です。患者のバイタルを測定します」
エルザは大公の熱い手首を掴み、動脈の上に人差し指と中指を添えた。
トク、トク、トク、トク――脈拍は毎分九十回。速いが、不整脈はない。脈の緊張度は高く、血管の虚脱は起きていない。
次に大公の額に触れ、瞳孔の対光反射を確認する。光を近づけると、瞳孔は左右対称にキュッと収縮した。
「……良好です」
エルザは深く息を吐き、テオバルトを冷ややかに見据えた。
「毒を盛ったのではありません。これは『排泄危機』――好転反応です」
「コウテン……ハンノウ……?」
「骨や筋肉組織の深部に長年沈着していた鉛が、キレート生薬と有機酸の作用によって一気に血中へと遊離し、体外へ排出されている過程です。大量の黒ずんだ尿と便は、肝臓と腎臓が限界まで鉛を吸着して体外へ押し出している動かぬ証拠。急激な代謝の亢進によって一過性の発熱が起きるのは当然の生理現象です」
エルザは便器の中の黒い排泄物を指差した。
「もし毒を盛ったのなら、脈拍は不規則になり、瞳孔は散大し、血圧は急降下してチアノーゼを起こします。ですが閣下の脈は極めて力強い。心臓は、毒を吐き出すために全力で血液を巡らせているのです。ここで投薬を止めれば、遊離した鉛が再び脳幹へ向かい、今度こそ不可逆的な鉛脳症で命を落とします」
エルザは氷水に浸した清潔な麻布を絞り、ギルバートの熱い額と首筋、脇の下へと当てた。
冷たい布が触れた瞬間、ギルバートが「……っ」と小さく息を吸い込む。
「テオバルト副官、抜刀している暇があるなら、新しい白湯を汲んできてください。閣下が汗をかいた分だけ、水分を補給しなければ脱水で血液が凝固します。今夜が峠です。夜明けまで、一滴残らず毒を絞り出させます」
テオバルトは呆然と自らの剣を見つめ、それからエルザの小さな、だが一切の迷いのない手つきを見つめた。
大人の男すら恐れ慄く大公の凄惨な発作を前にして、十二歳の少女が、血と汚物の臭いにも眉一つ動かさず、完璧な理屈で死線を渡ろうとしている。
「……す、すぐ、湯を持ってくる!」
テオバルトは軍刀を鞘に納めると、転がるようにして部屋を飛び出していった。
嵐のような一夜だった。
エルザは一睡もせず、ギルバートの体を拭き、熱を測り、薬湯と白湯を交互にスプーンで口元へと運び続けた。
大公は譫言のように戦場の名を叫び、激痛に身をよじらせたが、エルザはその大きな体を細い腕でしっかりと支え、決して解剖の視線を逸らさなかった。
やがて、東の空が白み始め、鳥の囀りが窓の隙間から差し込む頃――。
ギルバートの呼吸は徐々に整い、激しい発汗が引いて、深い眠りへと落ちていった。
◇
三日目の朝。
晩秋の澄み切った陽光が、カーテンの取り払われた貴賓室の床を真っ白に照らし出していた。
「……ん……」
低いうめき声とともに、ギルバートの瞼がゆっくりと押し上げられた。
寝台の脇の椅子では、夜通しの看病で疲労の色を濃くしたエルザが、姿勢を崩すことなく静かに大公を見つめていた。その隣には、目の下に隈を作ったテオバルトが直立不動で控えている。
ギルバートは、天井の木目をぼんやりと見つめた。
それから、自らの身体の違和感に気づいたように、視線をゆっくりと胸元へ落とした。
静かだった。
あまりにも、静かだった。
過去五年もの間、朝目覚めるたびに彼を襲っていた、あの地獄のような苦痛――内臓を冷たい鉄の爪で抉り出され、雑巾のように力任せに絞り上げられるような、あの耐え難い鉛疝痛が。
どこにも、なかった。
「……あ……?」
ギルバートは震える左手を、自らの腹部へと当てた。
臍の周りを、指先で強く圧迫してみる。
痛まない。
鈍痛も、痙攣も、引き攣るような圧迫感も、何一つとして存在しない。まるで、分厚い鉛の鎧を脱ぎ捨てて、新しい肉体を与えられたかのような、信じがたい軽やかさ。
ギルバートは寝台の端に手をつき、ゆっくりと自らの足で床を踏みしめた。
テオバルトが慌てて手を貸そうとしたが、ギルバートはそれを手で制した。
スッと、何の苦悶の表情も浮かべることなく、彼の巨躯が立ち上がった。
夕暮れの中庭で無残に砕け折れたあの膝が、大地をしっかりと捉えている。
窓から差し込む朝の光が、ギルバートの顔を照らし出した。
鉛色に澱み、土気色に濁っていた皮膚には、血流の回復を示す微かな桜色の赤みが差し、その双眸からは病魔の熱狂が完全に消え去っていた。
「……痛まない」
ギルバートの口から、掠れた声が零れ落ちた。
彼は自らの腹を両手で撫で回し、信じられないものを見るように目を見開いた。
「痛まない……! あの痛みが……本当に、消えた……!?」
「閣下……ッ!?」
テオバルトが息を呑み、次の瞬間、その場に両膝をついて崩れ落ちた。
戦場で幾千の敵を斬り倒しても涙一つ見せなかった冷徹な副官が、両手で顔を覆い、子供のように肩を震わせて嗚咽を漏らした。
「ああ……神よ……! 閣下……本当にお身体が……! 痛みが消えたのですね……!」
「神の仕業ではありません」
冷水を差すような、エルザの澄んだ声が響いた。
エルザは椅子から立ち上がり、衣服の皺を払いながら淡々と告げた。
「適切なキレート剤による毒素の排出と、循環血液量の確保がもたらした必然の生化学的結果です。……約束の三日です、大公閣下。私の首を刎ねる理由は、もうどこにもありませんね」
ギルバートはゆっくりと振り返り、エルザを見つめた。
その氷灰色の瞳に宿っていたのは、もはや単なる驚愕ではなかった。
戦慄。畏怖。
そして――この底知れない少女に対する、狂気すら孕んだ強烈な興味と執着だった。
「……エルザ。お前は……」
ギルバートが何かを口にしようとした、まさにその時だった。
バァンッッ!!
静寂を破る暴力的な轟音とともに、貴賓室の重厚なオーク材の扉が、外側から乱暴に蹴破るようにして開け放たれた。
「なにごとだ!」
テオバルトが涙を拭い、一瞬で軍刀の柄に手をかける。
部屋へ雪崩れ込んできたのは、十数名の屈強な私設警備兵たちだった。抜き身の槍と剣を構え、物々しい殺気を放っている。
そして、その中央を優雅に、だが狂気を孕んだ足取りで進み出てきたのは――。
純白のレースのドレスを揺らし、顔面を異様な白粉で塗り固めた令嬢、クラリッサ・フォン・アルトハイムだった。
「見つけましたわ! ギルバート閣下、その悪魔に騙されてはなりません!」
クラリッサの甲高い金切り声が、朝の清浄な空気を切り裂いた。
その手には、泥と埃に汚れた数枚の羊皮紙の紙片――エルザが地下室の藁布団の芯に隠していた、あの暗号の医学ノートが握りしめられていた。
「クラリッサ令嬢……? 何の真似だ」
ギルバートの低く冷え切った声が室温を氷点下まで引き下げる。
だが、嫉妬と功名心に狂ったクラリッサには、大公の殺気すら見えていなかった。彼女は勝ち誇った笑みを浮かべ、エルザを鋭い指先で指弾した。
「閣下! 私の侍女たちが昨夜、この下賤なネズミの荷物を捜索いたしましたの! そうしましたら、寝床の藁の中からこのようなおぞましいものが見つかりましたのよ!」
クラリッサは羊皮紙を高く掲げて見せつけた。
「奇怪な悪魔の呪文! 人体を引き裂く解剖の儀式図! そして――特定の貴族を衰弱死させるための、毒薬の調合レシピですわ! この娘は、閣下が我が館に逗留されることを事前に知り、呪いの毒薬を用いて閣下を暗殺しようと企んでいた神殿の敵、邪悪な魔女です!」
背後に控えていた侍女長が、揉み手をしながら卑屈な笑みを浮かべて同調する。
「左様でございます、閣下! この娘は普段から気味の悪い言葉を呟き、死化粧などと不吉な呪いを振りまいておりました! 閣下の御容態が急変されたのも、すべてこの娘が裏山で摘んできた毒草を煎じて飲ませたからに違いありません!」
「……戯言を」
テオバルトが怒声を上げようとした。
ギルバートの氷灰色の瞳が、昏い殺意を帯びて細められる。
「誰の許可を得て俺の部屋に踏み込んだ。その紙を寄越せ。エルザは――」
「大公閣下! これは我がアルトハイム伯爵家の『内部規律』に関する問題でございます!」
クラリッサは狡猾に、大公の言葉を遮った。
「この娘は、我が家に身を売られた下働き侍女。主家に対する反逆、および館内での呪詛・毒殺未遂の容疑者を処断する権限は、帝国法に基づき、我がアルトハイム伯爵家にのみ存します! たとえ大公閣下といえども、他家の私刑権に武力で干渉することは、帝国法第十二条に対する明白な違反となりますわ!」
貴族の領地不可侵権。
他家の使用人の処分に対する私法特権の盾。
クラリッサは、ギルバートが軍規と帝国法に極めて厳格な軍人であることを知っていたのだ。法を破って私兵を動かせば、宮廷で大公家を追い落とそうと狙う政敵たちに格好の口実を与えることになる。
「衛兵、何をぼやぼやしているの! その魔女を捕らえなさい!」
クラリッサの鋭い下知が飛ぶ。
「はっ!」
四人の屈強な警備兵が槍をエルザに向け、一斉に飛びかかってきた。
冷たい鉄の手錠が、エルザの細い手首に乱暴に嵌められ、両腕を背後で締め上げられる。関節が軋み、鋭い痛みが走る。
「エルザ!」テオバルトが叫び、抜刀しかけた。
ギルバートの大きな手が、腰の佩刀の柄にかかる。大公の全身から立ち上る濃密な殺気が、警備兵たちの動きを一瞬で竦み上がらせた。
だが――。
「……お止めください、大公閣下」
拘束されたエルザの、あまりにも静かで、透き通った声が響いた。
警備兵たちに両腕を捻じ上げられながらも、エルザの表情は微動だにしなかった。眉一つ動かさず、乱れた前髪の隙間から、ギルバートの瞳をまっすぐに見つめ返す。
「法を破る必要はありません。閣下の手を、こんな下らない茶番で汚していただくには及びません」
「エルザ、貴様……!」ギルバートが歯ぎしりをする。
エルザはクラリッサを見ることすらしなかった。
その視線は、ただギルバートとテオバルトだけに向けられていた。
「閣下。私の言った通り、激しい疝痛は消え去りましたね。……あとは、あなたの頭脳で考え、あなたが決断を下す番です」
「黙りなさい、この罪人が! 早く地下牢へ叩き込みなさい! 明朝、大広間にて神殿の専属司祭をお呼びし、異端私刑裁判を開きますわ!」
クラリッサがヒステリックに叫び、警備兵たちがエルザを引きずるようにして貴賓室から連れ出していった。
廊下に響く足音。
扉が乱暴に閉ざされ、部屋には再び静寂が戻った。
◇
ガシャン、と重い鉄格子の扉が閉ざされ、真鍮の南京錠が鈍い音を立てて回された。
アルトハイム伯爵邸の最深部、光の届かない地下牢。
湿った石壁には冷たい結露が滴り、足元には汚水とカビの生えた藁が広がっている。
突き飛ばされたエルザは、泥水の中に膝をついた。手首の手錠が皮膚に食い込み、擦れた傷から赤い血が滲む。
だが、暗闇の中に一人取り残されたエルザの口元には――。
冷酷極まる、嘲弄の笑みが浮かんでいた。
(焦る必要なんて、欠片もない)
エルザは泥だらけの壁に背を預け、冷たい息をゆっくりと吐き出した。
クラリッサの浅薄な頭脳では、あの暗号化されたノートを解読することなど絶対にできない。
そして何より――ギルバート大公の鉛中毒は、確実に好転し始めたのだ。
五年もの間、彼を死の淵で苛み続けた激痛を、自分が三日で消し去ってみせたという動かぬ事実。
あの男が、戦場で幾万の軍勢を率い、敵の罠を破り続けてきた本物の軍人であるならば。
神官どもの祈祷と、自分の近代医学――どちらが本物の力であるかなど、考えるまでもない。
「明朝の大広間……私刑裁判、ね」
エルザは手錠の嵌められた両手を膝の上に置き、暗闇の奥を見据えた。
琥珀色の瞳の奥に宿る光は、処刑台の刃よりも冷たく、研ぎ澄まされていた。
「舞台を整えてくれてありがとう、クラリッサ。……あなたの神官たち諸共、その愚かな化けの皮を、全員の前で骨の髄まで解剖してあげるわ」




