第9話:黒狼城の悪臭
北方の風は、帝都のそれとは比べものにならないほど乾燥し、肌を刃物のように切り裂いていく。
アルトハイム伯爵邸を後にしてから、五日。
黒狼騎士団の車列は、黒い玄武岩が牙のように突き立つ険峻な渓谷を抜け、ついにラングリール大公領の本拠地――『黒狼城』の膝元へと到達していた。
馬車の窓から顔を出したエルザの視界に飛び込んできたのは、自然の断崖絶壁と人工の巨石構造が一体化した、異形の山岳要塞だった。
標高数百メートルはある巨岩の頂に、鉛色の空を突き刺すようにそびえ立つ天守閣。幾重にも張り巡らされた黒鉄の胸壁、弓狭間、そして空堀を渡す跳ね橋。外敵の侵入を一切拒絶する威容は、まさに「帝国の黒狼」の根城と呼ぶにふさわしい、冷徹な軍事合理性の結晶に見えた。
「あれが黒狼城だ」
向かいの革座席に座るギルバートが、腕を組みながら低く呟いた。
その顔色は、五日前とは見違えるほど血色が戻っていた。エルザが調合したキレート茶を道中も一日三回欠かさず飲み干し、素焼きの壺に詰めた清浄な白湯で水分を補給し続けた結果、血中を漂っていた鉛は急速に体外へ排泄され、麻痺していた右腕の筋力も確実に覚醒しつつあった。
「どうだ、エルザ。アルトハイムの豚小屋に比べれば、少しは骨のある城だろう」
「……ええ。軍事要塞としての防御構造は完璧ですね」
エルザは淡々と評した。だが、その琥珀色の瞳は、城の威容に呑まれることなく、別の異変を敏感に捉えていた。
「ですが――大公閣下。鼻孔の奥に届く風の匂いが、あまり感心いたしません」
「匂い?」
ギルバートが片眉を跳ね上げる。
跳ね橋を渡り、城門をくぐり抜けた瞬間、エルザの鋭敏な嗅覚を襲ったのは、外気の冷たさを塗り潰すほどの、濃密で重苦しい「澱み」だった。
煤煙の臭い。酸化して腐りかけた獣脂の匂い。
下水設備が不十分な跳ね橋の袂に溜まった、人馬の糞尿の蒸気。
そして何より――エルザの背筋を微かに粟立たせたのは、城壁の隙間、陽の当たらない回廊の奥底から漏れ出てくる、あの特有の甘ったるい臭気だった。
アミン類と硫化水素、そして壊死した動物性タンパク質が融解する際に放つ――化膿と腐敗の匂い。
死の影が、この巨大な黒鉄の城の至るところに染み付いている。
◇
中庭に馬車が滑り込むと、地響きのような歓声が上がった。
石畳が敷き詰められた広大な主中庭には、留守を預かっていた数百人の将兵、家臣団、そして使用人たちが整列していた。
先頭に立っていたのは、豪奢な毛皮のついたローブを纏い、胸に大公家の家紋章を佩いた白髪の老人だった。大公家の筆頭家老、ハインツ・フォン・ローゼンバーグ。七十近い高齢でありながら、眼光だけは抜け目のない官僚のそれだった。
「大公閣下! よくぞ、よくぞご無事で北方の任を果たし、ご帰還あそばされました!」
馬車の扉が開き、ギルバートが自らの足で地面を踏み降ろした瞬間、ハインツをはじめとする重臣たちが一斉に膝をついた。
だが、その瞳の奥には、隠しきれない驚愕が走っていた。
帝都からの密書では、「大公の持病が悪化し、余命幾ばくもない」「馬から落ちて片膝をついた」と報じられていたはずだったのだ。それが今、目の前に立つ主君は、背筋を真っ直ぐに伸ばし、自らの足でしっかりと大地を捉え、右手には重厚な軍刀を平然と握りしめている。
「……閣下、お身体の呪いは……」ハインツが恐る恐る口を開く。
「見ての通りだ。問題ない」
ギルバートの冷徹な一喝が、老家老の詮索を切り捨てた。
ハインツは慌てて愛想笑いを浮かべ、立ち上がって手をもみしだいた。
「おお、神の御加護でございます! 大聖堂へ捧げた日々の寄進と祈祷が、ついに悪魔を退散させたのでございましょう! さあ閣下、大広間へお越しくださいませ! 無事の凱旋と快癒を祝し、選りすぐりの名酒と子牛の丸焼きを用意させ、領内の有力貴族を集めた祝宴の席を整えております!」
家臣たちが安堵の笑みを漏らし、歓迎の喇叭を吹き鳴らそうとした。
だが――。
「式典は後回しだ」
ギルバートの重々しい声が、中庭の喧騒を一瞬で圧殺した。
大公は振り返ると、馬車のステップから降りてきた小柄な影へと、自ら手を差し伸べた。
降り立ったのは、仕立て直されたばかりの質素な灰色のウールワンピースを着た、十二歳の少女――エルザだった。
煤に汚れた手には、オスカーの工房から持ち込んだ木製の薬箱がしっかりと握りしめられている。
ざわり、と家臣団の間に不穏な動揺が走った。
「……な、なんだあの子供は?」「下働きか?」「なぜ大公閣下の馬車から……」
不審と侮蔑の視線が集中する中、ギルバートはエルザの肩に大きな手を置き、広場に居並ぶ重臣たちを見据えて堂々と宣告した。
「紹介する。我が主治医、エルザ・ヴァルデックだ」
静寂。
風の音すら途絶えたかのような、完全な凍結が中庭を支配した。
老家老ハインツの顔が、笑みの形のまま引き攣る。
「……は? しゅ、主治医……? 閣下、ご冗談を。その娘は、どう見ても平民か、せいぜい下級の使用人風情……」
「冗談ではない」ギルバートの声は氷よりも硬かった。「我が肉体から悪魔の呪いとやらを消し去ったのは、神殿の祈祷ではない。このエルザの頭脳と手腕だ。本日ただいまより、黒狼城における全衛生管理、調理場の監督、および軍医体制の全権を、すべてこのエルザに委ねる。城内の者は身分の高低を問わず、この者の指示に絶対服従せよ」
「な……ななな……ッ!?」
ハインツの顎が外れんばかりに落ち、重臣たちの間に怒号に近いざわめきが爆発した。
「正気とは思えません!」「大公家百年の伝統を愚弄する気か!」「神殿の薬師長を差し置いて、このような乳臭い小娘に城を牛耳らせるなど、断じて認められん!」
大公の背後に控えていた副官のテオバルトですら、いたたまれなそうに進み出た。
「閣下……エルザの腕が本物であることは私もこの目で確かめました。ですが、いきなり城の差配をすべて任せるなど前代未聞です! 家臣団の反発は避けられません、まずは形式的な侍医見習いとして――」
だが、その騒乱の渦中にあって、当のエルザ本人は眉毛一つ動かしていなかった。
自分を射殺さんばかりに睨みつける家臣たちの怒号など、まるで羽虫の羽音であるかのように聞き流している。
エルザは無表情のままギルバートを見上げ、淡々と言い放った。
「大公閣下。祝宴の席に着く前に、医務室と厨房の査察を行います。案内を」
「お、おい貴様! 閣下の御前であるぞ!」
ハインツが顔を真っ赤にして杖を振り上げた。
「下賤な小娘が、大公閣下の言葉を遮って指図をするなど万死に値する無礼! 衛兵、この娘を――」
「ハインツ」
ギルバートの低く、地這うような殺気が老家老の喉元を塞いだ。
「俺の主治医に杖を向けるな。次はその腕を切り落とすぞ」
「ひっ……!」
老家老が息を呑んで後退る。ギルバートはエルザに向き直り、口端を吊り上げた。
「好きにしろ、エルザ。誰に案内させる?」
エルザの視線は、すでに怒り狂う重臣たちを素通りしていた。
彼女の琥珀色の瞳が捉えたのは、出迎えの列の最前列から遠く離れた、城壁の隅の影。
冷たい風に震えながら、埃まみれの雑巾とバケツを抱え、怯えたようにこちらを見つめていた一人の少女だった。
十五歳前後。色褪せた茶色い髪をお粗末な三角巾で包み、あかぎれだらけの手を胸の前で握りしめている平民の下働き侍女。
「そこのあなた」
エルザが真っ直ぐに指差した。
「え……? わ、私……ですか?」
少女が弾かれたように肩を跳ね上げ、周囲の使用人たちが一斉に道をあける。
「名前は?」
「マ、マリカと申します……!」
「マリカ。案内しなさい。この城で、傷病兵たちが集められている部屋へ」
「エルザ様! あのような不浄な場所へ立ち入るなど――」テオバルトが止めようとしたが、エルザはすでに木靴の音を響かせて歩き出していた。
「案内を、マリカ。急ぎなさい。腐敗の匂いが風下からここまで漂ってきています」
十二歳の少女が放つ、抗いがたい職人の威圧感。
怯えていた下働き侍女のマリカは、なぜかその声に魂を射抜かれたように、反射的に「は、はい!」と頭を下げ、駆け足でエルザの先導を買って出たのだった。
◇
本館から渡り廊下を抜け、外郭の西塔の地下へと続く石段を降りるにつれ、空気は目に見えて湿気を帯び、冷え込んでいった。
そして――あの甘ったるい死臭が、一歩ごとに濃度を増していく。
「あ、あの……エルザ様……」
先を歩くマリカが、震える声で振り返った。
「本当に、あそこへ行かれるのですか? あそこは……北方の戦で傷ついた騎士様たちが寝かされているのですが、入った者はみんな悪魔の風に当てられて熱を出して死んでしまうんです。お医者様たちも『神の試練だ』と言って、お祈りをする時以外は誰も近づかなくて……」
「悪魔の風などありません」
エルザは手にした薬箱の留め金を確かめながら、冷然と返した。
「あるのは、不潔な環境で爆発的に増殖した細菌と、壊疽した組織のガスだけです」
最下層の通路の突き当たり。
分厚い鉄張りの樫の扉。
その隙間という隙間には、外への空気の漏出を防ぐためか、脂で固められたボロ布が目張りとしてびっしりと詰め込まれていた。
「……換気すら遮断しているのですね。最悪の密閉空間です」
追いついてきたテオバルトが、眉根を寄せて鼻を押さえた。
「仕方あるまい! 外から悪魔の瘴気が入らぬよう、神殿の指示で窓も扉も固く閉ざしているのだ!」
「それが彼らを殺している元凶です」
エルザは躊躇いなく手を伸ばし、目張りの布を引きちぎると、重厚な扉を力任せに押し開けた。
ギィィィィ……。
蝶番が悲鳴を上げ、開かれた扉の向こうから――。
まるで熱帯の沼地で動物の死骸を煮詰めたかのような、濃厚で生々しい悪臭の塊が、突風となって押し寄せてきた。
「うぐっ……!?」
歴戦の軍人であるテオバルトですら、思わず胃液が逆流しかけて口元を手袋で覆い、マリカは悲鳴を上げてその場にしゃがみ込んだ。
だが、エルザだけは瞬き一つせず、足を踏み入れた。
そこは、この世の地獄だった。
薄暗い大部屋の中、細い高窓はすべて黒い板で打ち付けられ、日の光は一筋も差し込んでいない。
冷たい石畳の上に敷かれているのは、湿ってカビが生え、黒ずんだ汚水と糞尿を吸い込んだ粗末な藁。
その上に、国境警備で刃傷や槍傷を負った四十人近い兵士たちが、折り重なるようにして雑魚寝させられていた。
「あ……あぁ……熱い……水を……」
「母さん……足が……足が疼く……」
譫言と呻き声が、重苦しい闇の中に木霊している。
エルザは手近な寝床に横たわる若い騎士の元へ歩み寄った。
二十歳にも満たない青年。その右太ももには、包帯が巻かれていた。
だが、その包帯を見て、エルザの琥珀色の瞳の奥に、氷よりも冷たい怒りの火が灯った。
包帯は白くなどない。
何度も使い回され、他人の血と泥で黄色く濁り、傷口の浸出液を吸ってパリパリに硬直している。
包帯の隙間からは、ドロリとした緑がかった黄色の膿汁が溢れ出し、傷口の周囲の皮膚は赤黒く腫れ上がり、触れずとも熱気を放っているのが分かった。
ブーン、と耳障りな羽音を立てて無数のハエが傷口に群がり、包帯の繊維の奥では、米粒のような白いウジ虫が蠢いていた。
床の隅には、吐瀉物が固まった桶が何日も放置され、排泄用の素焼きの壺は溢れかえっている。
部屋の最奥の祭壇では、神殿の紋章をつけた下級薬師が二人、香炉を振り回して煙を撒き散らしながら、聖典を棒読みで唱えていた。
『主よ、この穢れた罪人たちの魂を救いたまえ……悪魔の業火を鎮めたまえ……』
祈りの煙が充満し、換気のない室内で呼吸不全を起こした負傷兵たちが、ゲホゲホと激しく咳き込んで胸を掻きむしっている。
「……ひどい」
背後から恐る恐る覗き込んだマリカが、涙を流して唇を震わせた。
「こんな……こんなところで、騎士様たちが……」
「これは治療場ではありません」
エルザの低く、透き通った声が、祈祷の声と呻き声を切り裂いた。
彼女は青年の膿んだ包帯から視線を上げ、立ち尽くすテオバルトと、祈祷を続けていた薬師たちを冷然と見据えた。
「ただの、生ゴミの集積所――『死体置き場』です」
「な……無礼なッ!」
香炉を持っていた薬師が血相を変えて怒鳴りつけた。
「何を言うかと思えば、小娘が! 我らは大聖堂の教えに従い、悪魔の風を遮断し、聖なる香煙で部屋を清め、神の手当てを施しているのだぞ! 傷口が膿むのは、兵士たちの信仰が足りず、悪魔に肉体を明け渡しているからだ!」
「貴様!」テオバルトもまた、顔を紅潮させてエルザに詰め寄った。
「言葉を選べ、エルザ! ここにいるのは国境を守り、血を流して戦った黒狼騎士団の誇り高き勇士たちだ! 薬師たちも不眠不休で祈りを捧げ、手厚く手当てをしている! それを死体置き場とは何事だ!」
「手厚い手当て?」
エルザの口元から、憐憫の欠片もない冷笑が零れ落ちた。
彼女は青年の足元にしゃがみ込むと、躊躇いなく素手で、膿とウジの湧いた包帯の端を掴み取った。
「ひっ……!」薬師が悲鳴を上げる。
ペリペリ、と肉に張り付いた繊維が剥がれる鈍い音が響く。
露出した傷口は、縁がドロドロに溶け崩れ、黄色い壊死組織がクレーターのように深く穿たれていた。
エルザは剥がした包帯を、テオバルトの眼前へと突きつけた。
「テオバルト副官。この包帯の繊維をよく御覧なさい。洗われもせず、煮沸もされず、何十人もの血と膿を吸った布を使い回している。あなたが『手厚い手当て』と呼んでいる行為の実態は――傷口に他人の腐敗菌を直接擦り付け、ウジと細菌を培養しているだけです」
「な……ッ」テオバルトが絶句する。
「窓を塞ぎ、換気を止め、香煙で肺を痛めつけ、汚物を放置してハエを呼ぶ。……これのどこが手当てですか?」
エルザの言葉は、氷の針のように正確に、無知な者たちの急所を刺し貫いていく。
「彼らを殺しているのは悪魔ではありません。信仰の不足でもありません。あなた方の怠慢と、無知と、不衛生という名の毒です! このまま放置すれば、あと三日で全員が敗血症とガス壊疽を起こし、多臓器不全で全滅します!」
凛とした、怒気すら孕んだエルザの一喝が、薄暗い病棟に雷鳴のように轟いた。
歴戦の騎士であるテオバルトが、薬師たちが、そして痛みに呻いていた負傷兵たちまでもが、息を呑んで十二歳の少女を見つめていた。
そこにあるのは、子供の戯言ではない。
死の淵に立つ者たちを、力ずくで生者の側へと引き戻そうとする、絶対的な医療の意志。
「マリカ!」
エルザの鋭い声が飛んだ。
「は、はいっ!」
マリカが直立不動で応える。
「城内の大鍋という大鍋をすべて中庭へ集めさせなさい! 井戸から水を汲み上げ、湯を沸かすのです! そして――」
エルザは壁際に歩み寄ると、窓を塞いでいた分厚い黒板を固定する鉄の留め具を、手近にあった火かき棒で力任せに叩き折った。
バキィッ、と木が割れる快音が響く。
エルザは両手で黒板を外側へと突き飛ばした。
ガタァンッ!
外れた板の向こうから、晩秋の澄み切った眩い陽光と、冷涼で清浄な北方の風が、怒涛の勢いで淀んだ室内へと雪崩れ込んできた。
暗闇が払われ、日光が床の汚濁を白日の下に晒し上げる。
風が吹き抜け、甘ったるい死臭を吹き飛ばしていく。
「すべての窓を開け放ちなさい!」
逆光の中に立つエルザのシルエットが、病棟の全員を見下ろしていた。
「悪魔の風など恐れるな! 呼吸をしなさい! この部屋の空気を、今すぐ総入れ替えします!」
黒鉄の要塞に、近代衛生の嵐が吹き荒れようとしていた。




