第56話:聖壇の解剖台
東の空が、夜と朝の境界を告げる冷たい鉛色から、刃先のような薄青へとゆっくりと溶け出し始めていた。
帝都イースト・ヒルの頂に聳える帝国正教会の総本山――大聖堂を取り囲む広大な巡礼広場は、昨夜まで鳴り響いていた狂乱の太鼓の音も消え果て、張り詰めた冬の氷のような静寂に包まれていた。
だが、その静けさは平穏などでは断じてない。
大聖堂を取り囲んでいたのは、昨夜、我が子の息を吹き返させてもらい、教会の欺瞞に気づいた数万人の下町住民たち。そして――その怒れる民衆の波を背後に従え、二重三重の包囲網を完成させていた、黒鉄の甲冑に身を包んだ『黒狼騎士団』の精鋭歩兵と、白銀のサーコートを翻す皇帝直属の近衛軍だった。
大聖堂の巨大な外門は、すでに騎士団の工兵隊によって鉄鎖を断ち切られていた。
包囲網の最前線、大聖堂の正面玄関へと続く大理石の階段の下に、四頭立ての黒塗り馬車が静かに停車した。
ステップを踏んで降り立ったのは、汚れ一つない濃紺の公式軍用ドレスを纏った少女――帝国衛生院総裁、エルザ・ヴァルデック。
その胸元には、皇帝から全権を委託された証たる黄金の大印が、夜明けの淡い陽光を反射して冷たく輝いていた。
その隣には、佩刀した漆黒の大剣に手を添え、戦場そのものの無慈悲な威圧感を全身から放つギルバート大公。
そして背後には、大聖堂の地下抜け穴から押収したばかりの重厚な鉄箱を担いだ解剖学者ユーグと、抜刀態勢のまま周囲を警戒する副官テオバルトが控えていた。
「……夜が明けたぞ、エルザ」
ギルバートの低く、地鳴りのような声が落ちる。
「昨夜、研究所を襲撃した暗殺隊百二十名は、一人残らず土の中に埋めさせた。大聖堂の内側に残っているのは、腰を抜かした神官どもと、逃げ場を失った老いぼれ一匹だけだ」
「ええ、大公閣下」
エルザは白磁のような横顔を上げ、天を突く大聖堂の威容を冷徹に見据えた。
「神聖なる仮面を被り続けた病巣の心臓部……いよいよ、最後の切開を執り行います」
「よし。――工兵隊、道をあけろッ!!」
テオバルトの裂帛の号令が木霊した。
大理石の階段を、巨大な攻城兵器――黒鉄の装甲を施された『重装破城槌』を抱えた三十名の巨漢騎士たちが、足並みを揃えて駆け上がっていく。
目指すは、千年にわたり一度たりとも外部の武力によって破られたことのない、大聖堂の正面大扉。
樹齢五百年を超える樫の巨木を鉄帯で幾重にも補強し、教皇庁の神聖なる封印が刻まれた、高さ十メートルの巨大な門扉。
「構えェッ!!」
「打てェッッッッ!!!!」
――ズドォォォォォンッッッッ!!!!
大地を揺るがす凄まじい衝撃波が、イースト・ヒルの丘全体を震わせた。
一撃。
樫の巨木が悲鳴を上げ、鉄の閂が軋みを上げる。
「もう一撃ッ! 叩き折れェッ!!」
――ドガァァァァァンッッッッ!!!!
二撃目の鉄槌が炸裂した瞬間。
神の絶対不可侵を誇っていた巨大な門扉が、中央の蝶番から爆発するように弾け飛んだ。
メリメリ、バリバリと木材が裂け散り、何十本もの鉄のボルトが小石のように吹き飛んで石畳へと降り注ぐ。
千年の歴史を誇る大聖堂の正面扉は、無残な木屑と鉄屑の残骸となって、聖堂の内部へと向かって力任せに打ち倒された。
立ち上る、古びた木材の粉塵と、何百年も蓄積されていた白檀の香煙の煙。
その粉塵を軍靴で踏み砕きながら、黒狼騎士団の重装歩兵が一斉に聖堂の内部へと突入した。
「帝室戒厳令の執行である! 武器を捨てて床に伏せよ!」
「抵抗する者は、神への反逆ではなく皇帝陛下への反逆と見做し、即座に処刑するッ!!」
騎士たちの怒号が、大聖堂の広大なドーム天井に反響した。
回廊に隠れていた数十名の神官や見習い修道士たちは、抜刀された長剣の群れと甲冑の軋む音の前に、悲鳴を上げてその場にへたり込み、頭を抱えて震え上がった。
誰一人として、剣を握ろうとする者はいなかった。
彼らが頼みとしていた「神の奇跡」も「神罰の恐怖」も、いまや完全に打ち砕かれていたのだから。
粉塵が晴れゆく中、エルザは静かに敷居を踏み越えた。
カツン、カツンと、彼女の小さな靴音が、大聖堂の静まり返った大理石の床に澄んだ音を響かせる。
隣にはギルバート大公。背後にはユーグとテオバルト。
四人は、左右に平伏する神官たちを一瞥すらせず、身廊の中央に敷かれた深紅の絨毯の上を、真っ直ぐに奥へと向かって歩みを進めた。
大聖堂の内部は、異様なまでの冷気と、死の沈黙に支配されていた。
左右の壁面を飾る壮麗なステンドグラスから、未明の青白い光が差し込み、磨き上げられた大理石の床に冷たい幾何学模様の影を落としている。
普段であれば、敬虔な信徒たちの祈りの声と、荘厳なパイプオルガンの調べが満ちているはずの祈りの空間。
だが、いま漂っていたのは、聖なる香油の匂いなどではなかった。
昨夜の暴動で投げ込まれた石礫の埃、地下から漂い上がる下水の饐えた臭気、そして――何かが内側から腐敗し、追い詰められた者が放つ、脂汗と絶望の悪臭。
身廊を抜け、百段の大理石の階段を上がった最奥。
神の玉座を模した、巨大な主祭壇。
天井高三十メートルを超える黄金の天蓋の下、眩いばかりの純金で作られた巨大な十字架が聳え立っていた。
その十字架の根元。
暗い影の中に隠れるようにして、へたり込んでいた一つの人影があった。
「……あ……あぁ……」
アンセルム首席司教だった。
かつて宮廷貴族たちを顎で使い、皇帝にすら尊大な態度を崩さなかった帝国の宗教的最高権力者。
だが、いま主祭壇の影に竦み上がっていたその姿は、見る影もなく凄惨な老残の骸骨へと成り果てていた。
最高位の白銀の祭服は破れ、泥と煤に汚れ、胸元の金糸の刺繍は無残にほつれている。
額の古傷からは赤黒い血と膿がタラタラと顎へと伝い落ち、手入れを怠られた白髪は脂汗で額にへばりついていた。
その両目は落ち窪み、充血した瞳孔を左右で狂わせながら、自らの右腕で抱きしめた小さな真鍮の小箱を、狂ったように撫で回していた。
祭壇の周囲には、彼を護衛すべき親衛隊の姿は一人すらなかった。
昨夜の暗殺部隊の全滅を知った私兵たちは、我先にと地下水路から逃亡し、この広大な大聖堂の中に、ただ一人、彼だけが置き去りにされていたのだ。
階段を上がりきったエルザたちが、主祭壇の十歩手前で足を止めた。
ギルバートの大剣の鞘が、カチリと音を立てる。
その音に過敏に反応し、アンセルムがビクリと肩を跳ね上げた。
「……ひっ!?」
アンセルムは血走った眼を跳ね上げ、自らの前に立つ者たちを見据えた。
黒鉄の軍装を纏うギルバート大公。
かつて異端として自らが追放したはずの解剖学者ユーグ。
そして――汚れ一つない軍用ドレスを纏い、琥珀色の双眸で己を無機質に見下ろす、十二歳の少女、エルザ。
その顔を認めた瞬間、アンセルムの顔面が、恐怖から一転して狂乱の憎悪へと歪み狂った。
男は祭壇の縁に縋り付き、震える膝に力を込めて、ふらふらと立ち上がった。
そして、手にした真鍮の十字架をエルザへと突きつけ、喉を引き裂くような金切り声を張り上げた。
「き……貴様らァッ!!」
主祭壇のドーム天井を震わせる、狂気の絶叫。
「神聖なる……主の御前であるぞ! 帝国の至高たる大聖堂の主祭壇に、武器を帯び、土足で踏み入るとは何たる冒涜! 神への大逆罪であるぞッ!!」
アンセルムの口から、泡混じりの黄色い唾液が激しく飛び散る。
「不浄なる魔女め! 大公の武力を笠に着て、神の家に仇なす異端者どもめが! 天を畏れぬ罰当たりが……今すぐひれ伏して神に詫びよ! さもなくば……さもなくば、天より真なる業火が降り注ぎ、貴様らの肉体は地獄の底へと叩き落とされるぞォォッッ!!」
地獄の業火。神の天罰。
何百年もの間、帝国の民衆を縛り付け、貴族たちを震え上がらせてきた、教会が誇る絶対の呪詛の言葉。
だが。
その狂乱の怒号を正面から浴びせられながらも――。
エルザ・ヴァルデックは、眉一つ動かさなかった。
恐怖も、嘲弄も、怒りすらない。
ただ、解剖台の上に横たえられた腐敗した組織を、冷静に顕微鏡の視野に収めるような、絶対零度の静寂。
エルザは一歩、大理石の床を踏み出した。
そして――高く澄み切った、だが刃物のように研ぎ澄まされた声を、静まり返る主祭壇へと響かせた。
「――地獄なら」
ピシリ、とアンセルムの呼吸が止まった。
「あなたが下町に作ろうとした、あのドブ水の中にありましたよ。アンセルム司教」
静かな、だが逃れようのない真理の一喝。
エルザの琥珀色の瞳が、司教の濁りきった網膜を真っ向から貫いた。
「米のとぎ汁のような下痢を垂れ流し、水分を奪われ、老婆のように干からびて死んでいった何百人もの民衆。
手足の筋肉を痙攣させ、喉を焼かれて泥水を啜りながら息絶えていった幼い子供たち。
……天から業火が降ったのではありません。
地獄の業火をこの都に撒き散らしたのは――他でもない、神の代理人を自称していた、あなた自身の薄汚い両手です」
「な……な、何を……戯言をォッ!」
アンセルムが激昂し、十字架を振り上げる。
「証拠もない言いがかりを! あれは神を捨てた帝国への天罰だ! 小娘の捏造に騙されるものか!」
「証拠なら、ここに山ほどあるぜ」
背後から、野太く嘲弄に満ちた声が割って入った。
ユーグだった。
かつてこの男によって帝国医学校を追われ、スラムの地下で豚の腹を裂く日々を強いられていた異端の解剖学者。
ユーグは肩に担いでいた重厚な漆黒の鉄箱を、主祭壇の大理石の上へと、力任せに叩きつけた。
――ドガァァァンッッ!!!!
純金の祭壇布が埃を上げて裂け、重い鉄箱の蓋が跳ね上がった。
中から転がり出たのは――大聖堂の地下第十三書庫、あのアンセルムがコレラ菌の培養瓶を隠していた禁忌の密室から、テオバルト率いる騎士団が押収してきたばかりの、膨大な証拠物件の山だった。
バサリ、バサリと、主祭壇の上に散らばる分厚い極秘帳簿の束。
そして、カラン、カランと音を立てて転がる、鉛の緩衝材に包まれた数本の黒ずんだガラス小瓶。
「ひ……っ!?」
それらを目にした瞬間、アンセルムの喉から、ヒューッという息の逆流する音が漏れた。
男の顔面から、完全に、一滴の血の気すらも失われていった。
「お前の隠し金庫の鍵は、逃げ出した側近の神官が喜んで差し出してくれたぜ」
ユーグが煙草の煙をふわりと吹きかけ、冷酷に笑った。
「見ろよ、アンセルム。お前が何十年もかけて神の祭壇の真下に溜め込んできた、薄汚い帳簿の数々だ」
エルザが主祭壇へと歩み寄った。
手袋をした指先で、散らばる帳簿の中から最初の一冊を拾い上げる。
表紙には、大聖堂の印章とともに金文字で記されていた。
――『聖ルカ商会・顔料密輸配給台帳』。
エルザはページをめくり、冷徹な声で朗々と読み上げ始めた。
その声は、主祭壇の石壁に反響し、大聖堂の全空間を裁判廷へと変貌させていく。
「罪状、その一。『有害毒壁紙の密輸、並びに組織的詐欺配給』」
エルザの指先が、帳簿の数字を叩く。
「教皇庁の免税特権を利用し、大陸東方の鉱山から安価な亜ヒ酸銅――『シェーレ緑』の顔料を数トン単位で密輸。
毒性を知りながら、それを『神聖なる緑』と偽り、アルトハイム伯爵邸をはじめとする帝都の有力貴族二十八家へと、通常の壁紙の十倍もの暴利で売り捌いていた記録。
そして――壁紙を貼った貴族の屋敷から原因不明の衰弱死が出始めた時期に合わせ、教会へ流れていた巨額の裏金。総額、金貨八万枚」
「あ……ああ……」アンセルムの膝が震え出す。
エルザは帳簿を無造作に放り捨て、二冊目の薄い革表紙の手帳を手に取った。
「罪状、その二。『有害薬品を用いた偽聖水の製造、並びに医療詐欺』」
手帳が開かれ、精密な薬品の調合比率が白日の下に晒される。
「大聖堂の地下工房で製造されていた『特級解呪聖水』の原価表。
ただの井戸水に重曹を溶かし、沈殿防止と称して希塩酸を加え、さらに中枢神経を麻痺させるアヘンチンキと、腎臓と胃粘膜を破壊する昇汞――塩化第二水銀を微量混入。
原価、わずか数コッパー。
それを、病に苦しむ貴族や平民に対し、『悪魔を祓う奇跡の水』と偽り、一瓶につき金貨五十枚から銀貨五十枚で売りつけていた。
飲めば飲むほど胃潰瘍を悪化させ、死ぬまで教会に金を貢ぎ続けさせるための、極めて周到で悪質な薬理学的罠」
エルザの視線が、最後に残された、黒い羊皮紙のファイルへと向けられた。
その表紙には、血のように赤い蜜蝋で、アンセルム自身の個人印章が捺されていた。
「そして――罪状、その三。『歴代皇族、並びに反抗的貴族に対する、計画的毒殺指示』」
エルザの声が、一段と低く、鋭利に研ぎ澄まされた。
「教会の意に沿わぬ発言をした先代の法務卿、財政卿に対し、専属司祭を通じて徐々にヒ素と鉛を投与させ、衰弱死に見せかけて暗殺した全記録。
さらに――ディルク皇太子殿下に対し、幼少期より『解呪の聖水』を毎日飲ませ、意図的に胃潰瘍を形成させ、大夜会の場において大量喀血を引き起こさせて廃嫡に追い込もうとした、毒物投与計画書。
すべての末尾に、あなた直筆の署名と、首席司教座の黒蝋の印章が、寸分の狂いもなく残されています」
カラン……。
エルザは手帳を閉じ、アンセルムの足元へと投げ落とした。
主祭壇の床に散らばる、動かぬ証拠の山。
毒壁紙の帳簿。
偽聖水の原価表。
暗殺の指示書。
そして、コレラ菌の原種が入っていた鉛のケースの受領証。
千年にわたり、神の奇跡と信仰という名の分厚いベールに覆い隠されていた帝国正教会の暗黒が。
少女の掲げた帳簿の数字と、冷徹な化学のメスによって、内臓の隅々に至るまで、完全に白日の下へと解剖し尽くされたのだ。
「お……お、の、れ……ッ!!」
アンセルムの喉から、血を吐くような絶叫が噴き上がった。
男の顔面は、もはや土気色を通り越して、死人のような鉛灰色へと変色していた。
額の包帯が完全に剥がれ落ち、膿と血が右目を塞ぐ。
男は床に落ちた帳簿を、自らの足で狂ったように踏みにじろうとした。
「捏造だ! そんな紙切れ、悪魔の欺瞞だァッ!! 私は神に選ばれし者だ! 帝国の魂を導く最高司教なのだ! 下賤な侍女風情が……泥水啜りの小娘が、この私を裁くことなど許されるものかァッ!!」
狂乱。
だが、その見苦しい悪あがきに対し、エルザは一歩も退くことなく、主祭壇の階段をゆっくりと一段、登った。
視線の高さが、祭壇に縋り付くアンセルムと真っ向から並び立つ。
エルザの琥珀色の瞳の奥に宿っていたのは、怒りでも憎悪でもなかった。
ただ、自らの虚飾に押し潰されていく哀れな寄生虫を見つめるような、底知れぬ絶対零度の冷酷さ。
そして――エルザの薄い唇から、逃れようのない最後の引導が、静かに、だが大聖堂の全空間を揺るがす質量をもって言い渡された。
「……アンセルム司教」
澄み切った声が、男の鼓膜を打ち抜く。
「神の奇跡など、最初からこの大聖堂のどこにも存在しませんでした」
「な……ッ!?」
「あるのは――ただの化学物質。
人を殺す鉱物の毒と、下水に湧く細菌の群れ。
そして、それを売り捌いて私腹を肥やしていた、薄汚い帳簿の数字だけです」
エルザの指先が、アンセルムの胸元――真鍮の十字架を冷ややかに指し示した。
「あなたの神は、天上の光などではありませんでしたよ。
この汚れた帳簿の数字と、人を殺す薬品の瓶の中にしか……あなたの神は、いなかったのです」
――ドォンッ。
目に見えぬ雷鳴が、アンセルムの頭蓋骨の内側で炸裂した。
男の全身から、力が完全に抜け落ちた。
信仰という名の盾を奪われ、奇跡という名の剣を叩き折られ、自らが犯した生々しい物質の罪だけを突きつけられた宗教者の末路。
アンセルムの手から、真鍮の十字架が滑り落ちた。
ガラン、と甲高い金属音を立てて、大理石の床を転がっていく。
「あ……あ……あぁ……」
アンセルムの喉から、意味を成さない空気の音が漏れ出した。
完全なる自滅。
千年の歴史を誇る神殿の権威は、一振りのメスすら持たぬ少女の、ただ事実を解剖する言葉の前に、跡形もなく木っ端微塵に粉砕されたのだ。
背後で、ギルバート大公が静かに歩み寄り、大剣の切っ先を主祭壇の大理石へと突き立てた。
氷灰色の双眸が、床に崩れ落ちたアンセルムを見下ろす。
「……終わったな、老いぼれ」
ギルバートの低く冷酷な声。
「お前が神の名を騙って犯した罪は、白日の下に晒された。皇帝陛下の御前で、法廷の大審問が待っているぞ。……テオバルト、このゴミを拘束しろ」
「はっ!」
テオバルトが鉄の首枷を手に、階段を踏み出そうとした――その刹那だった。
床に這いつくばっていたアンセルムの血走った両目に、最後の、最悪の狂気の閃きが走った。
男の震える右手が、法衣の深い袖の奥深くへと、電光石火の速さで滑り込んだのだ。
法廷での大審問。
民衆の前の晒し台。
自らの罪を生きたまま解剖され、すべての富と権力を奪われて終身刑に処される――その屈辱の未来を、男の狂ったプライドは、死んでも受け入れることができなかった。
アンセルムの指先が掴み取ったのは、袖の内側に縫い付けられていた、一本の極小の黒色ガラス瓶だった。
自らを裏切った神官たちを秘密裏に暗殺するために、常に肌身離さず隠し持っていた、最高純度の即死劇薬。
(死んでたまるか……! 貴様らのような異端の裁きなど、この私が受けてたまるものかァッ!!)
アンセルムの口元が、狂乱の笑みに引き攣った。
破滅の淵に追い詰められた怪物の、最後の悪あがきが、いま、主祭壇の上で牙を剥こうとしていた――。




