第55話:月下の狩場
帝都イースト・ヒルの頂に聳える帝国正教会の総本山――大聖堂の地下回廊は、昼夜を問わず冷え切った湿気と、煤けた蝋燭の油煙に重苦しく包まれていた。
だが、その冷気を灼き焦がすように、首席司教密談室の奥からは、狂気に狂乱する老人の絶叫と、陶器が粉々に砕け散る破壊音が絶え間なく木霊していた。
「嘘だッ! 出鱈目だ! そんな報告、この私が認めるものかァッ!!」
ガシャンッ!!と銀の燭台が壁の宗教画を直撃し、聖人の額を無残に引き裂いて床へと転がった。
アンセルム首席司教は、乱れきった祭服の胸元を自らの爪で掻きむしりながら、息を荒らげて床に平伏する神官たちを見下ろしていた。
額の古傷からは赤黒い膿が滲み出し、血走った眼球は落ち窪み、その両眼にはもはや宗教的権威の影すらない。そこにあるのは、手中に収めていたはずの世界が指の隙間から砂のように零れ落ちていく恐怖に、完全に脳を灼かれた獣の錯乱だった。
「猊下……し、しかし、現実でございます!」
床に額を擦り付ける神官が、震える声で叫ぶ。
「下町の水車長屋街において、新規の患者が……ほぼゼロにまで激減いたしました! あの小娘――エルザ総裁が配った『塩と砂糖の湯』を飲んだ者たちが、ことごとく息を吹き返し、起き上がって歩き始めております! 聖マルティン広場には、民衆が投げ捨てた我が神殿の聖水瓶が、山のように打ち捨てられておりまして……!」
「黙れェッ!!」
アンセルムは神官の頭を泥靴で蹴り飛ばした。
鈍い衝撃音とともに神官が石床に転がり、鼻血を滴らせて呻く。
「神罰の業火だぞ!? あの青き死は、五十年前、大陸東方の都をわずか数ヶ月で百万人干からびさせて滅ぼした、神の絶対の鉄槌なのだ! それを……たかが塩水だと!? 湯を沸かして飲ませただけで治ったなどと、そのような下劣なペテンが通用してたまるかァッ!!」
耐え難い現実。
アンセルムが自らの失脚を防ぎ、皇帝と大公を屈服させ、帝都の全臣民を再び神殿の足元に平伏させるために解き放った、最悪の生物兵器――コレラ菌。
数万の民が白い水を吐いて干からび、都が地獄と化せば、民は再び奇跡に縋り、教会は絶対の救世主として君臨するはずだった。
だが、その完璧な破滅の筋書きを、あの十二歳の小娘は――祈りも聖水も使わず、ただ給水ポンプのレバーをへし折り、大鍋で湯を沸かし、わずか数グラムの塩と砂糖を混ぜ合わせただけの「ただの塩湯」で、完全に無力化してみせたのだ。
神の奇跡は、暴かれ、地に堕ちた。
今や下町の民衆は、大聖堂ではなく、泥まみれで指示を飛ばし続けたエルザ・ヴァルデックと、その看護部隊に狂信的な敬愛を捧げている。
聖水を買い求めて財産を失った者たちの怒りは、いまや大聖堂の門を焼き払わんばかりの猛火となって丘を取り囲んでいた。
このまま夜が明ければ、皇帝の近衛兵と大公の騎士団が、公然と大聖堂の扉を破って踏み込んでくる。
破滅。断頭台。
千年の歴史を誇る教会の利権構造とともに、自らの首が胴体から切り離される未来が、秒読みの足音となってアンセルムの鼓膜を乱打していた。
「……殺せ」
アンセルムの喉から、掠れた毒液のような呟きが零れた。
男は床に落ちていた羊皮紙の報告書を踏み躙り、顔面を異形に歪ませて笑い始めた。
「あは……あははははっ! そうだ……殺せばいいのだ! あの小娘を! エルザ・ヴァルデックを、今夜中にこの世から消し去ればいいのだァッ!!」
「げ、猊下……!?」神官たちが息を呑む。
「あいつの頭脳だ……! あの娘の指先と、あの娘が書き残した奇怪な図面……『疫学マップ』とやら、あの悪魔の記録のすべてが元凶なのだ!」
アンセルムは祭壇の前に駆け寄り、隠し扉の奥に納められていた重厚な鉄の小箱を鷲掴みにした。中には、教皇庁が極秘裏に飼い慣らしてきた暗殺組織――異端審問所直属の私兵部隊を動かすための、黒漆の割符が収められていた。
「大公邸の裏手にある地下研究所を急襲せよ! 寝込みを襲い、あの小娘の喉笛を掻き切れ! 実験器具をすべて叩き壊し、研究記録を灰燼に帰せ!
小娘さえ死ねば……! あの知恵さえ地上から消え去れば、病は再び広がり、愚民どもは再び神の奇跡に縋るしかなくなるのだ! 一人も生かして返すな! 大公邸を血の海に変えてでも、あの魔女の首を持ち帰れェッッ!!」
狂乱の神託。
すべてを失った男が選んだのは、保身のための逃走ではなく、己の破滅を認められぬがゆえの、最悪の夜襲だった。
◇
草木も眠る深夜二時。
帝都の西翼、貴族街の最果てに位置するラングリール大公邸の広大な敷地は、重苦しい静寂と、冷え切った冬の濃霧に閉ざされていた。
大公邸の本館から、背後に広がる深い針葉樹の原生林へと続く一本の細い林道。
その林道の最奥、岩山をくり抜くようにして築かれた「地下秘密研究所」の窓からは、微かなアルコールランプの明かりが、霧の中にぼんやりと滲み出していた。
一週間にわたる下町の防疫作戦を完遂し、三十万の民を救い上げたエルザ・ヴァルデックは、いま、極度の過労によってその研究所の奥の私室で、泥のように深い眠りに落ちていた。
サクッ……。
凍てついた熊笹を踏みしめる、微小な摩擦音。
風の音ではない。
霧の奥深く、漆黒の夜闇の中から、音もなく這い出てきたのは――全身を泥色のボロ布で覆い、黒塗りの軽装甲冑を纏った、異様な集団だった。
総勢、百二十名。
大聖堂の地下組織から招集された、狂信的な私兵暗殺部隊。
彼らの腰には、音を立てぬよう革布で巻かれた抜き身の肉厚短剣と、標的を無差別に射抜くための連発式クロスボウ。
背嚢には、大公邸の木造部分を一瞬で火の海に変えるための、濃縮鉱物油と硫黄を満たしたガラスの投擲瓶(火炎瓶)が何十本も詰め込まれていた。
その双眸は、アンセルムの洗脳と阿片チンキの投与によって濁りきり、恐怖や痛覚を完全に麻痺させた狂信者の光を宿している。
(目標は前方の石造り研究所……。小娘の首を獲り、建物を焼き払う……)
先頭を進む大柄な暗殺隊長が、手信号で部下たちを扇状に展開させた。
大公邸の正面には、皇帝直属の近衛兵や黒狼騎士団の重装騎兵が陣取っている。だが、この険しい裏山の林道は、普段から警戒が薄い死角のはずだった。
音もなく間合いを詰める暗殺者たち。
研究所の入り口まで、あと五十歩。
三十歩。
二十歩――。
だが。
その距離に達した瞬間、暗殺隊長の首筋の毛穴が、ゾワリと総毛立った。
(……おかしい)
不自然だった。
森の中に、虫の鳴き声一つない。
冬とはいえ、夜鳥の羽ばたきも、風に揺れる梢の擦過音すらも、ピタリと止まり果てていた。
まるで――この空間全体が、巨大な獣の胃袋の中へと飲み込まれてしまったかのような、息の詰まるほどの濃密な「死の気配」。
「おい……足を止め――」
隊長が制止の囁きを漏らそうとした、その刹那だった。
――ボォッッッッ!!!!
闇を切り裂いて、一条の火柱が天へと噴き上がった。
次いで、二条、十条、五十条――!
林道の両脇、木々の梢の上、岩肌の陰、そして暗殺者たちの背後の退路に至るまで、あらかじめ配置されていた何百本もの松明が一斉に点火されたのだ。
カァッ……!と白日のように照らし出された林道。
突然の閃光に、暗殺者たちが目を射抜かれて足を止めた。
そして――彼らの視界の四方を完全に塞ぐようにして、夜の闇の中から音もなく姿を現したのは。
黒鉄の甲冑。
狼の頭骨を模した不気味な兜。
一糸乱れぬ隊列で長槍の穂先を水平に揃えた、『黒狼騎士団』の精鋭歩兵三百名だった。
「な……ッ!?」
暗殺隊長の顎が外れんばかりに開いた。
包囲されていたのだ。
最初から、この林道に足を踏み入れたその瞬間から、彼らは巨大な檻の中へと、自らの足で歩み入っていたのだ。
「ひ、伏兵だと……!? なぜだ、大聖堂の秘密の抜け穴を使ったはず――」
「……ネズミの考える浅知恵など、手に取るように分かる」
地底のマグマが擦れ合うような、低く、冷え切った重低音が、林道の正面から落ちてきた。
ザッ、ザッ、ザッ。
霜柱を踏み砕く、重厚な軍靴の足音。
研究所の扉の前、青白い松明の火に照らし出されて歩み出てきたのは、一人の男だった。
ギルバート・フォン・ラングリール。
甲冑の上から羽織った黒貂の軍外套を夜風に翻し、長身の体躯をわずかに傾けた大公。
佩刀した漆黒の大剣の柄には、手袋を外した無骨な手が添えられている。
その氷灰色の双眸は、松明の赤黒い光を吸い込んで凍結させ、獲物の頭蓋骨を噛み砕くことしか知らぬ、飢えた漆黒の巨大な狼そのものの残虐な光を湛えていた。
「……ネズミどもが。待ちくたびれたぞ」
ギルバートの口元に、三日月のような獰猛な笑みが浮かび上がった。
その笑みを目にした瞬間、阿片で感覚を麻痺させていたはずの暗殺者たちの膝が、自らの意志を無視してガチガチと激しい音を立てて震え始めた。
人間ではない。
目の前に立っているのは、戦場という名の地獄で幾万の首を刎ね、幾千の敵兵を血の海に沈めてきた、帝国の絶対の守護神――本物の『軍神』。
「ぎ、ギルバート大公……!」
暗殺隊長が、絶望のあまり顔面を青黒く引き攣らせた。
だが、狂信の毒が男の理性を焼き尽くしていた。退路は塞がれている。ならば、目の前の怪物を討ち倒し、強行突破するしかない。
「ひ、怯むなァッ!!」
隊長は手にした曲刀を抜き放ち、唾を撒き散らしながら絶叫した。
「相手は一人だ! 異端を討て! 神の敵を焼き殺せ! 小娘の首を獲って大聖堂へ――」
その言葉が、男の喉から出切ることはなかった。
――ヒュッ。
風が爆発した。
ギルバートの姿が、暗殺隊長の網膜から一瞬にして掻き消えたのだ。
距離にして十五メートル。
重装甲冑を纏った大男が踏み抜いたはずの大理石のような凍土から、ドォンッ!と大気が弾けるような重い炸裂音だけが置き去りにされた。
「……え……?」
隊長が異変に気づいた時には、すでに、氷灰色の双眸が自分の鼻先わずか数寸の位置に存在していた。
銀光の一閃。
大剣が抜刀された音すら、誰の耳にも届かなかった。
――スパァンッッッッ!!!!
硬質な、あまりにも滑らかな切断音が夜気を切り裂いた。
次の瞬間、暗殺隊長の首が、首飾りの十字架ごと、驚愕に見開かれた顔面のまま音もなく宙を舞った。
頸動脈から噴き上がった鮮血の噴水が、夜空の松明の光を浴びて真紅の雨となって降り注ぐ。
首を失った胴体が、数秒間その場に直立したまま両手を痙攣させ、やがてドサリと泥土の上へと崩れ落ちた。
宙を回転した首が、石畳の上へとボト、と落ちる。
その転がる生首を、ギルバートは軍靴の先で無造作に踏み潰した。
グシャリと頭蓋骨の軋む音が森に響く。
ギルバートは大剣の切っ先を斜め下へと向け、返り血で赤く染まった自らの頬を、手の甲で冷淡に拭った。
そして――暗殺者たちの群れを見据え、氷点下の死の宣告を下した。
「――エルザの眠りを妨げるな」
低く、地鳴りのように響く声音。
その声には、怒りすらなかった。
ただ、自らの宝物が眠る城に足を踏み入れた害虫を、一匹残らず駆除するという、絶対的な冷酷さ。
「……一人も生かして返すな。骨の一片すら残すな」
ギルバートが左手を掲げ、無慈悲に振り下ろした。
その瞬間――。
「――突撃ッッッッ!!!!」
テオバルトの裂帛の号令が木霊した。
森を取り囲んでいた黒狼騎士団が、左右と背後から、怒涛の鉄の津波となって雪崩れ込んできた。
ガギィィィンッ! ドガァンッ!と、暗殺者たちの放ったクロスボウの矢が、騎士たちの分厚い鉄盾に弾かれて無力に砕け散る。
隊列の整わぬ暗殺部隊と、戦場を幾度も生き抜いてきた重装歩兵の密集陣形。
それは、戦闘と呼べるものですらなかった。
完全なる、一方的な『屠殺』。
「ぎゃあああああっ!」
「助けてくれ、神よぉぉっ!」
長槍の切っ先が狂信者たちの胸甲を易々と貫通し、引き抜かれるたびに鮮血の飛沫が霧を赤く染め上げる。
火炎瓶を投げようとした暗殺者の腕が、騎士の戦斧によって肩口から叩き落とされ、足元に落ちた油瓶が割れて自らの体を紅蓮の炎で包み込む。
逃げようと森へ飛び込んだ者は、暗闇で待ち構えていた弓兵隊の矢衾となってハリネズミのように縫い止められた。
そして――その殺戮の嵐の中心で、最も凄惨な嵐を巻き起こしていたのは、ギルバート大公自身だった。
大剣が一閃するたびに、二重の甲冑ごと人間の胴体が真っ二つに両断される。
振り抜かれた剛腕が暗殺者の頭蓋骨を兜ごと粉砕し、脳漿と血液が四方へと飛び散る。
かつて鉛の毒によって右腕の神経を麻痺させられ、死の淵を彷徨っていた男の肉体は――いまや、エルザの冷徹な医療によって完全に蘇り、帝国最強の破壊のエンジンとして狂おしく駆動していた。
「ひぃっ……化け物……! 死神だぁぁっ!」
最後の一団が悲鳴を上げて武器を投げ出し、泥の上に這いつくばって命乞いをした。
だが、ギルバートの双眸に、慈悲の欠片は微塵も存在しなかった。
大剣が横薙ぎに一閃され、三人の首が同時に宙を舞う。
戦闘開始から、わずか十五分。
百二十名におよんだ大聖堂の暗殺部隊は――負傷者すら残らず、文字通り、全員が物言わぬ肉塊となって、冷たい林道の上に転がっていた。
立ち込める濃密な血の湯気と、鉄の臭気。
黒狼騎士団の兵士たちには、擦り傷一つ負った者はいなかった。
◇
ヒュウウウッ……と、冷たい夜風が吹き抜け、立ち込めていた血煙を森の奥へと押し流していく。
静寂が、再び大公邸の裏手を支配した。
ギルバートは、足元に広がる血溜まりの中に立ち尽くしていた。
大剣の刀身には、おびただしい鮮血がべっとりとこびりつき、切っ先からポタ、ポタと赤い雫が石畳の上に落ちている。
ギルバートは懐から白い布を取り出すと、慣れた手つきで刀身の血を拭い去り、シャキンッと澄んだ音を響かせて鞘へと大剣を納めた。
「……テオバルト」
「はっ」
返り血を浴びたテオバルトが進み出て、直立不動の敬礼を捧げた。
「エルザは起きたか」
「いえ。研究所の完全防音扉は閉ざされたままでございます。副総裁は、一切の物音に気づくことなく、安らかに休息を取られております」
「……そうか」
ギルバートの口元から、ふっと安堵の呼気が漏れた。
先ほどまで百人を超える人間を眉一つ動かさずに切り刻んでいた男の表情が、その瞬間だけ――ただ一人の少女を想う、狂おしいほどに不器用で、深い熱を帯びた色へと戻る。
ギルバートは振り返り、林道の奥にある研究所の窓を見上げた。
あそこで眠っているのは、自分の命の恩人であり、この帝国の未来そのものである少女。
あいつの手は、血で汚れてはならない。
あいつの指先は、人を切り刻んで殺すためではなく、命を縫い合わせ、世界を解剖するために使われねばならないのだ。
血を流し、泥を被り、怨嗟と死神の役目を引き受けるのは――自分一人で十分だった。
「テオバルト」
ギルバートの声は、再び冷酷な軍神のそれへと引き締まった。
「この汚らわしい死体どもを、今すぐ片付けろ。……エルザの教えに従い、死体にはすべて生石灰を大量に撒いて消毒した上で、深さ十尺の穴を掘って埋め立てろ。病原菌の温床を一欠片たりとも残すな」
「承知いたしました! 直ちに工兵隊を動員いたします!」
「そして――」
ギルバートは腰の佩刀の柄に手を添え、東の空を睨みつけた。
遠く、帝都の丘の上に聳える大聖堂の巨大な尖塔。
夜明け前の漆黒の闇の中、その黄金のドームだけが、最後の断末魔を恐れるように冷たく凍りついていた。
ギルバートの氷灰色の双眸に、完全なる狩りの終わりを告げる光が宿る。
「……全軍、武装を解くな。夜明けとともに大聖堂を完全包囲する」
低く、残酷な宣告。
「鼠の親玉を……あの老いぼれの息の根を、止めに行くぞ」
暗殺の刃を叩き折り、狂気の夜襲を完膚なきまでに粉砕した黒狼騎士団。
過去の怨念と偽りの神殿に終止符を打つための、最後にして絶対の突入が、いま、夜明けの光とともに始まろうとしていた。




