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呪いではなく鉛中毒です〜死に戻り侍女は近代医学で冷酷大公を救い、宮廷の嘘を解剖する〜  作者: タカケンサンバ


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第57話:死すら赦さぬ胃管

大聖堂の主祭壇を取り囲む空気は、外の世界から切り離された氷窟のように冷え切っていた。

千年にわたり帝国の頂点に君臨してきた宗教的権威――その心臓部である黄金の十字架の真下には、大聖堂の地下書庫から押収された膨大な帳簿の山が、血塗られた現実の質量となって散らばっていた。

亜ヒ酸銅を用いた毒壁紙の密輸台帳。重曹と水銀を混ぜた偽聖水の原価表。そして、歴代皇族や反抗的貴族に対する毒殺指示書。

神の奇跡を騙り、何千もの民の命を奪い、皇太子の胃を焼き、都をコレラの地獄へと叩き落とした真の元凶の正体が、エルザ・ヴァルデックという十二歳の少女の掲げた科学の光によって、骨の髄まで解剖し尽くされた瞬間だった。


だが――。

祭壇の冷たい大理石に膝をつき、自らの罪の証拠を踏みにじろうとしていたアンセルム首席司教の瞳から、最後の光は消え失せていなかった。

否、それは理性や悔悟の光などでは断じてない。

何十年もかけて築き上げた己の栄光が崩壊したことを受け入れられず、かといって皇帝の前に引きずり出されて法廷で断罪され、民衆の罵声の中で晒し者にされる屈辱に耐えきれぬ――老いた怪物の、極限の狂気と執念だった。


「……あ……あはは……」


アンセルムの喉から、空気の漏れるような不気味な笑いが漏れ出した。

男の右手は、法衣の深い袖の裏地――誰の目にも触れぬよう頑丈な絹糸で縫い付けられていた隠しポケットの中へと、電光石火の速さで滑り込んでいた。

指先が触れたのは、手のひらに収まるほどの極小の黒色遮光ガラス瓶。

教会の暗殺組織を統括していたアンセルムが、万が一の破滅の瞬間に備え、肌身離さず身に帯びていた最後の劇薬。


(法廷だと……? 大審問だと……!? この私が……神の代理人たるこのアンセルムが、下賤な愚民どもの前で首枷を嵌められ、あのような下級貴族の小娘に裁きを受けろというのか……! そんな恥辱、死んでも受けるものかァッ!!)


ギチリ、と男の指先が瓶の鉛封を力任せに引き千切った。

真鍮の金具が弾け、分厚いコルク栓が爪で掻き出される。


「お……お、の、れ、ぇぇぇぇッッ!!!!」


主祭壇のドーム天井を震わせる、凄まじい絶叫。

アンセルムは床を蹴って跳ね起きると、抜き取った黒いガラス瓶を、自らの渇ききった唇へと一気に押し当てた。

瓶の中に満たされていたのは、無色透明の、だが触れただけで命の火を瞬時に吹き消す最高濃度の液体――高濃度シアン化カリウム(青酸カリ)飽和水溶液。


「私は神のもとへ行くッ!! 貴様らのような異端の裁きなど受けるものかァッ!!」

アンセルムの喉が、ゴクリと激しい音を立てて波打った。

「我が命は神にのみ捧げられたもの! 死をもって神の無実を……教会の聖なる正義を証明してやるわァッ!!」


ガシャァァンッッ!!

飲み干されたガラス瓶が、大理石の床板へと叩きつけられ、鋭利な破片となって飛び散った。

漂い出たのは、鼻腔の粘膜を突き刺すような、猛烈に濃厚で苦いアーモンドの異臭――シアン化水素の死の芳香。


「しまっ……!?」

階段の下で鉄の首枷を構えていたテオバルトが、血相を変えて叫んだ。

「服毒自殺だ! 自害を図ったぞッ!!」


ドサァッッ……!

瓶を投げ捨てたアンセルムの身体が、まるで操り糸を断ち切られた人形のように、主祭壇の床へと崩れ落ちた。

シアン化カリウムの致死作用は、人知を超えた速度で生体を侵食する。

胃粘膜から吸収された高濃度のシアン化物イオン(CN⁻)は、血流に乗って一瞬で全身の細胞へ到達し、ミトコンドリアの電子伝達系における最重要酵素――チトクロームcオキシダーゼ(チトクロームaa3)の三価鉄イオン(Fe³⁺)に不可逆的に強固に結合する。

全身の細胞呼吸が、瞬時に、完全に停止。

血液中には酸素が豊富に存在するにもかかわらず、細胞が酸素を受け取ることができなくなる――内呼吸の完全遮断、超急性の細胞内窒息。


「が……ッ、カハッ……お、あ……ッ!!」

アンセルムの顔面が、酸素化ヘモグロビンの利用障害により、皮肉にも鮮やかな真紅(チェリー・レッド)へと染まり上がった。

だが、その紅潮とは裏腹に、男の肺は空気を求めて狂ったように痙攣し、口元からはブクブクと大量の白い泡と血混じりの唾液が溢れ出した。

瞳孔が散大し、眼球が上を向き、激しい全身性の強直性痙攣がその老いた肉体を弓なりに跳ね上げさせる。

わずか三十秒。

あと一分もすれば、延髄の呼吸中枢が完全麻痺し、心拍が停止して脳死に至る――不可逆の死の深淵。


ギルバート大公が舌打ちをし、佩刀の柄を握りしめた。

「……チッ、逃げられたか。死人に口なしとはこのことだな」

騎士たちが息を呑み、万事休すかと諦めの色が広間を覆いかけた――その、コンマ数秒の瞬間。


――バサァッッッッ!!!!


大聖堂の静寂を切り裂いたのは、衣擦れの爆音だった。


「――何をボーッとしているのですか、テオバルト様ッ!!」


雷霆(らいてい)の如き一喝。

少女の澄み切った声が、凍りついていた空間の空気を叩き割った。

エルザ・ヴァルデックは、濃紺の軍用ドレスの裾を乱暴に手で引き裂き、すでに両手に装着していた加硫ゴム手袋をパンと鳴らしながら、主祭壇の上へと跳び上がっていた。

その琥珀色の瞳には、狼狽も、驚愕も、諦めすらない。

ただ、急変した重篤患者を前にした救命救急医の、研ぎ澄まされた冷徹な狂気だけが宿っていた。


「シアン化カリウムの経口摂取! 胃酸と反応してシアン化水素ガスが発生する前に、物理的に胃内から強制排除します!

テオバルト様、アンセルムの上半身を押さえ、顎を固定して開口器を噛ませなさい!

マリカ、救急トランクを展開! 太径のゴム製胃管、手動陰圧吸引器、並びに三パーセント炭酸水素ナトリウム水十リットル、大至急!!」


電光石火の号令。

その声の絶対的な気迫に、歴戦の副官テオバルトの身体が反射的に動いた。

「はっ……応ッッ!!」


テオバルトは長剣を放り捨て、床で激しく痙攣するアンセルムの背後へと飛び込んだ。

膝で男の両肩を床へと縫い止め、褐色の剛腕を伸ばしてアンセルムの顎関節を万力のような力で締め上げる。

「う、ぐ……がァッ……!」

泡を吹いて暴れる司教の口腔内へ、テオバルトは腰の装備から引き抜いた真鍮製の開口器(バイトブロック)を力任せにねじ込んだ。

ガチリッ!と金属音が響き、アンセルムの歯が真鍮の枠に噛み合わされ、その口が強制的に限界までこじ開けられる。


そして――。

「エルザ様! 機材、揃いましたッ!!」


駆け上がってきたマリカが、主祭壇の上に大型の革張り緊急トランクを開帳した。

中から取り出されたのは、オスカーがエルザの設計図に基づいて試作を重ねていた、近代医療の粋を集めた器具の数々。

滑らかな天然ゴムを何層にも圧延して作られた、外径十五ミリ、内径十ミリ、長さ一メートルにおよぶ太径の医療用ゴム胃管(胃洗浄チューブ)。その先端には、内容物が詰まらぬよう側孔がいくつも開けられている。

さらに、大型の真鍮製陰圧シリンダーポンプ、そして大量の透明なガラス瓶。


「マリカ、胃管の先端にグリセリンを塗布。吸引ポンプのバルブを開放」

「はいッ!」


エルザは白衣の袖口を捲り上げ、太いゴム管の先端を右手に取った。

躊躇は一秒すらなかった。

倒れ伏すアンセルムの胸ぐらを左手で掴み上げ、その顔面を自らの眼前へと引き寄せる。


アンセルムの濁りきった眼球が、至近距離に迫ったエルザの白磁の貌を捉えた。

泡を吹く口の奥、開口器の隙間から、男の掠れた喉が戦慄の音を漏らす。

「な……に……を……? や……め……ろ……ッ!」


「黙りなさい」

エルザの唇から零れ落ちたのは、小春日和の湖面よりも静かで、絶対零度よりも冷たい一言だった。


「私の前で、勝手に死ぬことなど許可しません」


次の瞬間。

エルザの手が、流れるような、だが一切の慈悲のない速度で動いた。


ズチュッ……!


「う……ッ!? ご……ッ!?」

太径のゴム管が、アンセルムのこじ開けられた口腔内へと迷いなく滑り込んだ。

舌根を強く圧迫し、咽頭後壁を刺激しながら、喉頭蓋を越えて食道へと一直線に押し込まれていく。

人間の防衛本能である激しい嘔吐反射が、アンセルムの全身を襲った。

喉が雑巾のように絞られ、胃液が逆流しようとするが、開口器によって口を塞ぐことも、管を吐き出すことも叶わない。


「オエェッ! ゲホッ、ゴホッ……! オボロォォッッ!!」

鼻と口から黄色い粘液と涙と血唾液を噴き出し、白目を剥いてのたうち回るアンセルム。

喉が裂けるような激痛。食道を無理やり押し広げて突き進む分厚いゴムの異物感。

だが、エルザの指先はミリ単位の狂いもなく、アンセルムの呼吸のタイミングに合わせて、ズズ……ズズズ……とゴム管を奥へ、さらに奥へと押し進めていった。


四十センチ。

食道を突破。

五十センチ。

胃の入口――噴門部を貫通。


――ジュルリッ。

管の先端が、アンセルムの胃底部の液体の中へと到達した手応え。

エルザは瞬時に聴診器をアンセルムの心窩部(みぞおち)へと当て、注射器で管の中に空気を十ミリリットル一気に送り込んだ。

ボコッ!と、胃の中で空気が弾ける確かな重低音。


「胃内到達を確認」

エルザは即座にチューブの末端を、マリカが抱える大型の陰圧吸引ポンプへと直結させた。

「オスカー、陰圧を最大に引いて!」

「応ッッ!!」


オスカーが真鍮のピストンレバーを力任せに引き抜いた。

キュウウウウッ――!と、シリンダーの内部が強力な負圧へと変わる。


その瞬間。

太いゴム管の内側を、信じられない濁流が逆流し始めた。


ズチュルルルルルッッッッ!!!!


「ぶぼぉぉぉっっ!?」

アンセルムの胃袋が外側から目に見えるほど激しく収縮した。

管を通じて吸い上げられてきたのは――まだ胃酸によって分解されきっていなかった、あの黒色ガラス瓶の残留物。

未消化の朝食の残渣と、黄色い胆汁、そして強烈な苦扁桃油の異臭を放つ、ドロドロとした暗紫色の毒液混じりの胃内容物が、太い管を通ってガラス瓶の中へと、怒涛の勢いで吸い出されていったのだ。


五百ミリリットル。

七百ミリリットル。

瓶が一瞬で汚汁で満たされる。

アンセルムの体内に吸収されかけていた致死量のシアン化カリウムの原液が、物理的な吸引力によって、強制的に体外へと引きずり戻されたのだ。


だが、エルザの処置は、それだけでは終わらなかった。


「毒液の粗ドレナージ完了! 直ちに胃洗浄を開始します!」

エルザは三方活栓(さんぽうかっせん)を素早く切り替えた。

「マリカ、三パーセント炭酸水素ナトリウム水を注入! 胃内の残留酸を中和し、シアン化水素ガスの気化を抑え込みます!」


「はいッ!!」

マリカが掲げた大型のガラス漏斗から、弱アルカリ性の洗浄液五百ミリリットルが、ゴム管を通じてアンセルムの胃袋の中へと勢いよく注ぎ込まれた。

グチュグチュグチュ……と、冷たい液体が胃壁を満たしていく。


「うぐっ……! ゲロォッ……! お腹が……裂ける……っ!」

アンセルムが膨張する胃の苦痛に涙を流して悶絶する。

だが、エルザは容赦なく三方活栓を再び吸引へと切り替えた。

「排液!」


ズババババッ!と、胃壁を洗い流した白濁した中和液が、再びポンプへと吸い出される。

注水、攪拌、そして吸引。

五百ミリリットルを流し込み、五百ミリリットルを吸い出す。

一度。

三度。

五度――。


何十リットルもの洗浄液が、アンセルムの胃袋を徹底的に、容赦なく洗い清めていった。

吸い出される排液の色は、暗紫色から黄色、そして次第に透明に近い色へと変わっていく。

さらにエルザは、トランクから取り出した真っ黒な懸濁液――薬用活性炭(チャコール)の溶液と、シアンの体内解毒を促進するチオ硫酸ナトリウム水溶液を胃管から直接胃内へと流し込み、腸管への移行を完全にブロックさせた。


凄惨を極めた医療介入の現場。

大聖堂の主祭壇の上は、飛び散った洗浄液と胃液、そして泥水によって水浸しになっていた。

だが、その嵐のような処置が完了した時――。


「……は……っ、ハァ……ハァ……ッ……!」


激しくのたうち回っていたアンセルムの痙攣が、ピタリと止まっていた。

男の顔面を覆っていた異常な真紅の紅潮が急速に引き、代わりに正常な血色が戻り始めていた。

瞳孔が光の刺激に反応してキュッと収縮する。

呼吸中枢の麻痺が解け、肺が自らの力で酸素を取り込み始め、毎分百二十回を超えていた狂乱の心拍が、毎分七十五回の規則正しいリズムへと落ち着きを取り戻していった。


死の淵からの、完全なる強制送還。

即死毒の王たるシアン化カリウムを飲み干しながら――。

男は、死ぬことすら許されず、生者の側へと力ずくで引き戻されたのだ。


「……処置、終了」


エルザは静かにゴム管の基部を鉗子で挟み、アンセルムの喉から、一気に管を引き抜いた。


ズルルッ……!


「ゲホッ!! オエェッ……!!」

アンセルムが最後の汚汁を床へ吐き散らし、胸元を上下させて荒い息を吐いた。

開口器を外された男の顎は、涎と涙と鼻水に塗れ、だらしなく半開きになったままガタガタと震えていた。


静寂。

大聖堂を支配したのは、あまりの光景に対する、言葉を失った戦慄だった。


テオバルトが、手袋の汗を拭いながら呆然と呟いた。

「……助かったのか……? あの即死毒をあおって……生きているというのか……!?」

ユーグが煙草を取り落とし、乾いた笑いを漏らした。

「おいおい……化け物め。死神の鎌を素手でへし折って、地獄の釜の底から罪人を引っ張り上げちまったぜ……」


床に泥のように突っ伏したアンセルムは、朦朧とする意識の中で、ゆっくりと顔を持ち上げた。

その血走った眼に映ったのは――。

返り血ならぬ、吐瀉物と洗浄液で汚れたエプロンを平然と脱ぎ捨て、手袋を外すエルザ・ヴァルデックの姿だった。


「あ……あぁ……」

アンセルムのひび割れた唇から、掠れた空気の音が漏れた。

男の脳髄を満たしたのは、生への喜びなどでは断じてなかった。

死ぬことすらできなかった。

自らの命を絶ち、神の殉教者として伝説になることすら、この少女の指先によって無惨に阻止されたのだ。

男は床を這い、震える手でエルザの靴元へ縋り付こうとした。


「な……なぜだ……! なぜ、私を死なせてくれなかった……! 殺せ……! いっそ、この場で私を殺せェッ!!」


涙と鼻水を垂らし、惨めに命乞いならぬ「死に乞い」をする老いた怪物。

かつて帝国の頂点に立ち、何千もの民を虫ケラのように見下していた男の、見るも無残な精神の完全崩壊。


だが。

その足元に這いつくばる哀れな肉塊を見下ろすエルザの眼差しには――。

怒りも、復讐の快感すら浮かんでいなかった。

そこにあったのは、ただ冷徹に、解剖台の上の標本を観察するような、絶対零度の静寂。


エルザは一歩も退かず、アンセルムの頭頂部を、冷たい刃のような視線で射抜いた。


「勘違いしないでください、アンセルム司教」


澄み切った少女の声が、静まり返る主祭壇に、一語一語、残酷なまでに明瞭に響き渡った。


「死んで神の裁きから逃げられるなどと、甘ったれた妄想を抱かないことです」


「ひ……っ!?」


「あなたが犯した罪は、神への反逆などという抽象的な言葉で済まされるものではない。

あなたが殺したのは、生きて、血を通わせ、明日を生きようとしていた何千人もの生身の人間です。

毒壁紙で肺を焼かれた貴族たち。

偽聖水で胃を溶かされたディルク殿下。

そして――あなたの垂れ流したコレラ菌によって、白い水を吐き散らし、干からびて冷たい石畳の上で死んでいった、下町の罪もなき民衆たち」


エルザはしゃがみ込み、床に這いつくばるアンセルムの顎を、手袋を外した冷たい指先で強引に持ち上げた。

逃げ場を塞ぐ、絶対の視線の交錯。


「あなたには、自らの手で殺した人々の遺族の前で。

皇帝陛下と全臣民が見守る公開法廷の大審問において――自らの犯した罪と、教会の腐敗の構造のすべてを、生きたまま解剖される義務があるのです」


エルザの口元に、慈悲のかけらもない冷笑が刻まれた。


「私の前で、勝手に死ぬことなど許可しません。

……安心なさい。あなたの内臓は、私が完璧に管理して差し上げます。

大審問の判決が下り、その首が正義の裁きによって断頭台の上に落ちるその最後の瞬間まで――決して死なせないよう、最高の医学で生かし続けてあげますよ」


――ヒィッッッッ!!!!


アンセルムの喉から、人間の声とは思えない絶叫が迸った。

死ぬことすら許されず、生きたまま自らの罪を晒し物にされ続けるという、地獄以上の刑罰。

少女の底知れぬ知性と冷酷さに、男の精神は完全に音を立てて粉々に砕け散った。

アンセルムは白目を剥き、自らの吐瀉物と失禁の汚泥の中に突っ伏し、ただ赤ん坊のようにヒクヒクと痙攣して泡を吹き続けた。


神の代理人を気取っていた老人は、いまや自らの汚汁に塗れ、ただ震えるだけの惨めな肉の塊へと成り果てていた。


◇


主祭壇の階段を、テオバルトが重厚な足音を立てて上がってきた。

副官の手には、冷たい黒鉄の首枷と、太い鎖が握られていた。


ガチャン! ジャラララッ!

床に転がるアンセルムの首と両手首に、容赦なく鉄の枷が嵌め込まれる。

「近衛兵! この大逆人を引きずり出せ!」

テオバルトの一喝のもと、駆け上がってきた兵士たちが、もはや抵抗する力すら失ったアンセルムの両脇を抱え、大理石の床を引きずりながら大聖堂の出口へと運んでいった。


ズズズ……と、床の上に汚泥の筋が引かれていく。

千年にわたり帝国を牛耳り、何万人もの命を貪り食ってきた帝国正教会の腐敗構造は――。

いま、完全に、修復不可能なまでに白日の下へと引きずり出されたのだ。


夜明けの陽光が、砕け散った大聖堂の正面扉から、まっすぐに主祭壇へと差し込んできた。

黄金の光が、エルザの乱れ一つない黒髪と、胸元の衛生院総裁章を眩いばかりに照らし出す。


そのエルザの隣に、ギルバート大公が静かに歩み寄った。

大公は自らの軍外套の端を翻し、エルザの肩にそっと寄り添わせると、深淵のような氷灰色の瞳を細めて低く笑った。


「……死すら赦さぬ主治医殿か。相変わらず、敵に対しては骨の髄まで容赦がないな」


「当然です、大公閣下」

エルザは白磁の横顔を上げ、差し込む朝の光を真っ直ぐに見据えた。

「病原菌を途中で逃がす外科医はいません。……すべての膿を、法廷の解剖台の上で晒し終えるまでが、私の仕事ですから」


大聖堂の外からは、大逆人の捕縛を知った数万の民衆の、地鳴りのような歓声が轟いていた。

迷信と偽善の長い夜が、いま、完全に終わりを告げようとしていた。

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