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呪いではなく鉛中毒です〜死に戻り侍女は近代医学で冷酷大公を救い、宮廷の嘘を解剖する〜  作者: タカケンサンバ


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第52話:火と塩の全権委任

白金宮(プラチナ・パレス)の外縁を取り囲む高さ十メートルの白亜の城壁は、いまや帝都の底辺から噴き上がった怒りと恐怖の炎によって、黒々と焦がされつつあった。

深夜から夜明けにかけて、下町の聖マルティン広場から雪崩れ込んできた数万の民衆。

家族を奪われ、白い水を吐き散らして干からびていく我が子の亡骸を抱きかかえた平民たちが、農具や棍棒、投石用の敷石を手に、宮殿の鉄門を取り囲んで激しい怒号を叩きつけていた。


「門を開けろ! 魔女エルザを引き渡せ!」

「皇帝は神を捨てたのか! 神殿に祈祷を頼め! 大聖堂に詫びを入れろ!」

「このままじゃ都の人間が全滅だ! 悪魔の医術を焼き払え!」


ドガァンッ! バキィッ!と、投石器で放たれた大石が鉄格子の門扉を激しく打ち据え、分厚い装飾のレリーフを粉々に砕く。

松明の黒煙が夜明けの薄暗い空を覆い尽くし、門を死守する近衛兵たちの盾には、泥水と血と生ゴミが絶え間なく浴びせかけられていた。

アンセルム首席司教が聖マルティン広場で打ち鳴らした「神罰の太鼓」と、毒入りの聖水を配りながら吹き込んだ悪意に満ちたプロパガンダは、見事に機能していた。

未知の病原体への恐怖は、民衆から理性を根こそぎ奪い去り、彼らを「神殿に縋り、医学を悪魔と糾弾する暴徒」へと作り変えていたのだ。


その怒号と地鳴りのような振動が、分厚い大理石の壁を震わせる皇宮の最奥――『非常参集殿』。

有事の際にのみ皇帝と最高顧問、軍司令官、各大貴族の当主が集うその円形の大広間は、逃げ場を失った廷臣たちの醜悪な恐慌と罵声によって、足の踏み場もないほどに混乱していた。


「陛下! 一刻の猶予もございません! 近衛の防衛線が突破されるのも時間の問題ですぞ!」

「下町の死者はすでに五百を超えたとの報告です! これはもはや人知の及ぶ災厄ではない、正真正銘の神の怒りです!」

「今すぐ大聖堂へ使者を送り、アンセルム首席司教猊下に平伏して祈祷を願うべきです! そして……あのエルザという小娘の身柄を神殿へ引き渡し、民衆の前で異端審問にかけさせれば、民の怒りは鎮まります!」


口々に叫び立てる老貴族たち。

首席薬師ファビアンが都を脱出した今、旧来の医師団の残党もまた青ざめた顔で頷き合い、自らの無能を棚に上げて「神への全面降伏」を皇帝に迫っていた。

玉座に座る皇帝フリードリヒの表情は、鉄のように硬く凍りついていた。

その猛禽のような双眸には、外を取り囲む暴徒への苛立ちと、保身のために恥も外聞もなく平伏を勧める重臣たちへの底知れぬ侮蔑が渦巻いている。

その隣で、ロザリア皇妃は扇を固く握りしめ、爪が手のひらに食い込むほど強く拳を震わせていた。

教会の言いなりに戻るということは、愛息ディルク皇太子の胃を再び毒水で焼かれ、帝室が永久にアンセルムの傀儡(かいらい)へと成り果てることを意味していた。

だが、現実に下町で爆発している「渇きの疫病」を止める手立てが、帝室には何一つとして存在しなかったのだ。


「……静まれ、愚図どもが」

皇帝の低く唸るような声が、重臣たちの騒乱をわずかに押し留めた。

「神殿に頭を下げよと申すか。余に、我が帝国の主権をあの老いぼれ司教の足元へ投げ出せと申すか」

「し、しかし陛下! 現実に人が死に続けているのです! 病を治せぬ以上、奇跡に縋るより他に――」


老侯爵が涙ながらに叫びかけた、その刹那だった。


――ドォォォンッッッッ!!!!


非常参集殿の重厚な二重扉が、まるで破城槌を打ち込まれたかのような凄まじい衝撃音とともに、内側へと跳ね飛ばされた。

扉を警備していた二名の近衛兵が、弾き飛ばされるように床へと転がる。


冷え切った冬の外気と、廊下の冷気が渦を巻いて広間へと吹き込んできた。

騒然となる重臣たちが一斉に抜刀しようとした視線の先――。

敷居を踏み越えて現れたのは、二人だった。


先頭を進むのは、漆黒の甲冑の上に黒貂の毛皮を羽織った、ギルバート・フォン・ラングリール大公。

佩刀した長剣の鍔に無骨な手を添え、戦場そのものの無慈悲な殺気を目から放ちながら、左右の貴族たちを一瞥のもとに威圧して道を開けさせる。

そして――その大公の半歩後ろ。

汚れ一つない濃紺の公式軍用ドレスに身を包み、胸元に黄金の衛生院副総裁章を燦然と輝かせた少女が、凛とした足取りで歩み入ってきた。


エルザ・ヴァルデック。


十二歳の小柄な体躯。だが、その背筋は定規で引いたように真っ直ぐに伸び、一切の躊躇いもなく大理石の床を踏みしめていた。

その両手には、地下研究所から持ち出された巨大な羊皮紙の巻物と、真鍮の顕微鏡スケッチのバインダーが固く抱えられていた。


「ぎ、ギルバート大公……!? それに、エルザ副総裁……!?」

「貴様ら、御前であるぞ! 暴徒の狙いはお前なのだぞ、よくも図々しく顔を出せたものだ!」

重臣たちの怒号が飛ぶ。

だがエルザは、それらの罵声を風の音ほどにも気に留めず、玉座の前――皇帝と皇妃の御前わずか五歩の距離まで進み出ると、完璧な礼法でカーテシーを捧げた。


「帝国衛生院副総裁、エルザ・ヴァルデック。皇帝陛下、並びにロザリア皇妃殿下に拝謁いたします」


静かな、だが鈴の音のように澄み切った声が、参集殿の混乱を一瞬で鎮圧した。

皇帝フリードリヒの鋭い双眸が、エルザの姿を射抜く。

「……エルザか。外の騒乱は耳に入っておろう。民はお前を魔女と呼び、神殿はこれを神罰と呼んでおる。……余の御前に、何の用向きで参った」


「申し上げます、皇帝陛下」

エルザは顔を上げ、琥珀色の瞳で皇帝の視線を真っ向から受け止めた。

「外の民衆が怯え、狂乱している『神罰』の虚構を解剖し、帝都の壊滅を阻止するための、決定的な生化学的知見と対抗策を奏上するために参上いたしました」


「戯言を!」老侯爵が唾を飛ばして割り込む。

「机の上の理屈で民が救えるか! 現に下町では朝に発症した者が夕方には干からびて死んでおるのだ! お前のような小娘の言葉など――」


「――静かにしなさい、無知なる者よ」


エルザの氷の刃のような一喝が、老侯爵の言葉を真っ二つに切り裂いた。

十二歳の少女が放ったとは思えぬ、底知れぬ知性の威圧感。

息を呑む諸侯たちの前で、エルザは抱えていた長大な巻物を、玉座の直下――皇帝の足元の大理石の床の上へと、力任せに解き放った。


バサァッッ……!


広間いっぱいに広がったのは、先ほど地下研究所で完成させたばかりの、あの巨大な都市区画図だった。

白大理石の上に広がる、帝都の精細な地図。

そして――その地図の上、下町のブロード通りの交差点を中心にして、同心円状に狂気的な密度で打ち込まれた、数百個におよぶ深紅の血のようなインクの点(ドット・マップ)。


「な……なんだ、この赤い染みは……?」皇帝が眉をひそめる。


「昨夜から今朝にかけて、下町で発生した患者、並びに死者の発生地点を一件残らずプロットした、疫学解析図です」

エルザの声は、広間の全員の耳朶を容赦なく打ち据えた。


「陛下。ご覧なさい。もしこの病が神の罰であり、空気中に満ちた悪魔の瘴気(ミアズマ)であるとするならば、なぜ死者は下町全体、あるいはこの宮廷に均等に散らばらないのですか?

なぜ、このブロード通りの交差点――『聖ペテロの公共給水ポンプ』を取り囲む半径五百メートルの中にだけ、死者の九割以上が異常密集しているのですか!?」


エルザはすかさず、もう一枚の薄い羊皮紙――帝都の地下水路と配管の設計図を、その上に重ね合わせた。

「理由は明白です。病を運んでいるのは、天上の怒りでも風でもありません。

この聖ペテロの給水ポンプから汲み上げられていた、地下水そのものです!」


エルザの指先が、大聖堂の地下廃液槽から、給水ポンプの直下へと伸びる石造り暗渠の亀裂を鋭く指し示した。

「大聖堂の聖水製造工房から垂れ流された腐食廃液によって、地下の古い暗渠が崩壊し、汚水が聖ペテロの井戸の取水層へと滝のように流れ込んでいた。

……そして数日前、アンセルム首席司教が自らの失脚を恐れ、大聖堂の地下に封印されていた禁忌の病原体――五十年前に東方を滅ぼしたとされる細菌の培養液を、自らの手で排水溝へ流し込んだのです!」


――ッ!?

参集殿の空気が、凍結した。

重臣たちが、息を呑んで地図とエルザを交互に見つめる。


「神罰などではありません。

教会の老朽化した地下排水の杜撰さと、追いつめられたアンセルム司教の狂気によって、たった一つの井戸水が致死的な細菌で汚染された――完全なる人災、人為的無差別虐殺でございます!」


「ば……馬鹿な……!」老貴族の唇が震える。「大聖堂の排水が……井戸水を汚染しただと……!? そんな奇怪な理屈、信じられるか!」


「信じる必要などありません。現象を観察なさい」

エルザはバインダーから、オスカーとユーグと共に描き上げた、千二百倍の顕微鏡スケッチを掲げた。

そこに描かれていたのは、あの湾曲した『コンマ』の形をした微小な細菌――コレラ菌の姿だった。


「この病の正体は、微小なる単細胞生物――コレラ菌です。

汚染された生水を口にすることで小腸に侵入し、細胞の蛇口を全開にする毒素を放出し、体内の全水分と塩分を腸の中へと強制的に汲み出させる。

……患者を殺しているのは、悪魔の業火などではありません。

ただの急激な脱水による低容量性ショックです!」


エルザの言葉は、逃れようのない真理の光となって、広間の暗闇を焼き払っていった。

病態の完全な解明。

敵の正体の可視化。

そして――エルザの口から紡ぎ出されたのは、絶望の淵にいた帝国にとって、唯一無二の希望の福音だった。


「この病の感染力と致死速度は凄まじいですが、弱点もまた、あまりにも明白です」

エルザの澄み切った声が、玉座の間を震わせる。

「第一に、このコレラ菌は熱に極めて弱い。摂氏百度の沸騰した湯の中に投じれば、わずか数分でタンパク質が熱変性し、一匹残らず死滅します。生水を一切断ち、煮沸した水だけを口にすれば、新たな感染は百パーセント防ぐことができる!

そして第二に――患者の死因が脱水であるならば、失われた水分と塩分を、腸が吸収できる特別な比率で体外から補給し続ければ、人間は自らの免疫力で菌を排泄し、必ず生き延びることができます!」


静寂。

広間を支配していたのは、もはや恐怖のざわめきではなかった。

神の領域とされていた疫病を、ただの熱と水と塩の物理現象として解体してみせた、少女の圧倒的な知性に対する――戦慄と、狂おしいほどの期待。


エルザは白磁の横顔を上げ、皇帝フリードリヒの双眸を真っ直ぐに見据えた。

そして――帝国史上、いかなる臣下も口にしたことのない、驚天動地の要求を突きつけた。


「――皇帝陛下」


凛と張り詰めた、鋼の声音。


「神殿の祈祷など、一切不要でございます。あの者たちが売りつける聖水こそが、水銀と酸によって患者の腸を焼き殺す毒に他なりません。

私に――帝国全土の医療、並びに帝都の軍事・治安に関わる全権をお預けください」


「な……ッ!?」

諸侯たちが息を呑む。


「戒厳令を敷き、汚染された聖ペテロの給水ポンプを物理的に破壊し、帝都全域で生水の飲用を禁じ、煮沸と消毒を強制執行いたします。

神の奇跡など一滴も必要ありません。

この病は――『火と塩』だけで、完全に滅ぼしてみせます!」


「全権だと……ッ!?」

最前列にいた老侯爵が、我を忘れて絶叫した。

「正気か、小娘! 身分も定かならぬ、下級貴族の捨て子に……帝都の全軍の指揮権と戒厳令の全権を委ねろというのか!? そのような暴挙、帝国建国以来、前代未聞の狂気の沙汰だ!!」


重臣たちが一斉にざわめき、怒号が広間を満たそうとした。

その瞬間――。


――ズザァッッッッ!!!!


大理石の床を軍靴で踏み抜く重厚な轟音とともに、一振りの黒鉄の長剣が、広間の中央へと抜刀された。

銀光が一閃し、切っ先が老侯爵の鼻先わずか一寸の位置でピタリと止まる。


ギルバート・フォン・ラングリール大公。


その全身から放たれたのは、幾万の敵を屠ってきた本物の軍神が放つ、吐き気を催すほどの濃密な殺気だった。

広間の温度が一瞬で氷点下へと叩き落とされたかのような錯覚。

老侯爵は白目を剥き、恐怖のあまり音もなく腰を抜かして床へとへたり込んだ。


ギルバートは抜刀した大剣を床へと突き立て、玉座の皇帝フリードリヒを見上げた。

その氷灰色の双眸には、迷いなど微塵もなかった。

己の命を救い、己の呪縛を解き放ってくれた唯一の光に対する――魂のすべてを賭けた、絶対の誓約。


「皇帝陛下」

ギルバートの低く、地底のマグマのような声が参集殿に轟いた。


「俺が率いる黒狼騎士団、並びに大公家の全私設軍三万の戦力を、本日只今より、エルザ副総裁の指揮下に置く」


「大公……!?」諸侯が息を呑む。


「外を取り囲む暴徒を叩き伏せ、都を封鎖し、エルザの敷く防疫の陣を死守する盾となる。……もし、この作戦が失敗した時は」

ギルバートの切っ先が、自らの首筋を指した。

「エルザを責める必要はない。この俺の首を刎ね、大聖堂の門前に晒すがいい。……だが、エルザの知性に異を唱え、邪魔立てをする者がいるならば、皇族だろうが貴族だろうが、俺がこの場で一刀両断に斬り捨てる」


命を賭した、絶対の進言。

冷酷無比な大公が、たった一人の少女のために、己の首と全軍の運命を丸ごと質箱へと投げ入れたのだ。

その圧倒的な覚悟の重さに、広間にいた誰一人として、もはや反論の声を上げられる者はいなかった。


そして――。

玉座の隣で立ち上がったのは、ロザリア皇妃だった。

皇妃は優美なドレスの裾を払うと、皇帝フリードリヒの腕を、両手で力強く掴み締めた。

その双眸に宿っていたのは、我が子ディルクを死の淵から救い出してくれた少女に対する、絶対の信頼。


「陛下。……迷う理由はございません」

皇妃の凛とした声が、皇帝の背中を押した。

「かつて、我が息子の腹を裂き、動脈を縫い合わせて命を買い戻したのは、神殿の祈りではなく、このエルザの刃でした。……今、帝国の命を買い戻せる刃を持つ者もまた、この少女をおいて他にはおりません」


沈黙。

広間を揺るがす外の暴徒の怒号と、石壁を打つ投石の音だけが、遠く響いていた。


皇帝フリードリヒは、ゆっくりと目を閉じた。

数秒の瞑目。

そして――再び開かれた覇王の双眸には、迷妄をすべて断ち切った、絶対の決断の光が宿っていた。


皇帝は玉座から、威風堂々と立ち上がった。

その巨躯から放たれる皇帝大権の威圧感に、居並ぶ諸侯たちが一斉に平伏する。

皇帝は階段を降り、床に広がる地図の前に立つエルザの眼前にまで歩み寄った。


皇帝は自らの腰から、帝国の最高権力を象徴する、純金で作られた重厚な印章――『帝室至高の大印(シギルム・インペリアリス)』を外した。

皇帝の手が、その黄金の印章を、エルザの小さな両の手のひらの上へと、厳かに載せた。


ズシリと、国家の命運そのものの質量が、エルザの華奢な手へと預けられる。


「――帝国衛生院副総裁、エルザ・ヴァルデック」


皇帝フリードリヒの朗々たる宣告が、非常参集殿の天井を突き抜けた。


「本日只今をもって、そなたを『帝国衛生院総裁』に任命する!

あわせて、帝都防疫戒厳令を発令し、黒狼騎士団、並びに帝国近衛軍を含む全軍の指揮権、並びに全行政の差配権を、そなたに一任する!」


総裁への昇格。

平民同然の下級貴族の、わずか十二歳の少女が――。

帝国史上初、女性として唯一無二の、国家全土を統べる『全権防疫司令官』へと就任した瞬間だった。


「エルザ総裁」

皇帝はエルザの肩に手を置き、低く、力強く命じた。

「帝都を救え。民を救え。……そなたの科学の刃をもって、この国に巣食う死神の息の根を止めてみせよ!」


エルザは、両の掌の中にある黄金の印章を強く握りしめた。

その白磁の貌に、驕りも恐れもなかった。

あるのは、長年待ち望んだ「不可侵の医療権力」を手中に収めた、冷徹な外科医の静寂。


エルザは深々と一礼し、顔を上げた。

その琥珀色の瞳の奥に、帝国の夜明けを告げる白銀の炎が、爛々と点火していた。


「――謹んで、拝命いたします。皇帝陛下」


少女の澄み切った声が、参集殿の空気を震わせた。


「迷信の夜を終わらせます。……これより、科学と医学による、帝国防疫作戦を開始いたします!」


全権のメスを手にした少女の進撃が、いま、狂乱の帝都を塗り替えるべく、力づくで幕を開けた。

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