第51話:地図の上の死角
大公邸の地下秘密研究所を包む空気は、地上を吹き荒れる狂乱の冬風とは対照的に、張り詰めた硝酸と石炭酸の刺激臭によって重く沈殿していた。
アルコールランプの青白い炎が、石壁に掛けられた黒鉄の燭台の上で微かに揺らめき、実験台の上に据えられた顕微鏡の真鍮の鏡筒を鈍く照らし出している。
先ほどエルザが熱処理によって焼き殺したスライドガラスの上からは、すでに生命の蠢きは完全に消え失せていた。だが、接眼レンズの奥で目撃したあの狂乱の遊泳――無数の微小な『コンマ』の影が、獲物を屠る矢のように視野を乱舞していた戦慄の光景は、居合わせた男たちの網膜の奥底に、焼け爛れた傷跡のように生々しく焼き付いていた。
「……信じられん」
実験台の縁に両手を突き、低く掠れた声を漏らしたのは、テオバルトだった。
生真面目な副官の額には、冷気の中でも引かない脂汗がびっしりと滲んでいた。
歴戦の軍人として、敵の刃によって臓腑を抉られた同胞を幾度となく見てきた。だが、目に見えぬほど小さな虫けらが、人間の腸の中に巣食い、たった数時間で全身の血潮から水分を絞り尽くしてミイラに変えてしまうという病理の現実――それは、彼がこれまで信じてきた「武勇」や「神罰」という世界の理を、根底から粉々に粉砕していた。
「あのような、埃よりも微小な虫が……下町の人間を何十人も干からびさせているというのか。……だがエルザ、どうしても筋が通らん」
テオバルトは眉根を険しく寄せ、執務机の上に積まれていた、斥候たちが命がけで持ち帰ってきた被害報告書の束を乱暴に指差した。
「もし貴女の言う通り、空気の瘴気ではなく、水や食べ物によって体内に取り込まれる病だとするなら……なぜ、あの水車長屋街の周辺だけに、これほど爆発的に患者が集中しているのだ?」
テオバルトの疑問は、常識的な軍事論に基づいていた。
「帝都サンクト・オーガスタは、人口三十万を抱える過密都市だ。下町だけでも共同井戸は数十箇所、水汲み場に至っては百を超える。もし病原菌とやらが都の地下水に紛れ込んだのなら、下町全体、いや、貴族街や宮廷の周囲の井戸からも同じように患者が噴き出さねばおかしいはずだ。なぜ、あの区画の住民だけが、示し合わせたように一斉に白い水を吐いて倒れ伏すのだ?」
「良い着眼点です、テオバルト様」
エルザ・ヴァルデックは、山羊皮の手袋を脱ぎ捨てて石鹸水で指先を丹念に洗い流すと、背後の巨大な作戦台へと歩み寄った。
十二歳の小柄な体躯。だが、その足取りには、帝都の運命を一人で背負う者特有の、揺るぎない質量が宿っていた。
エルザは作戦台の端を掴むと、そこに丸めて置かれていた長大な羊皮紙の巻物を、躊躇なく一気に解き放った。
バサァッッ……!
埃を立てて作戦台いっぱいに広がったのは、帝室地理院が最高機密として保管していた『帝都サンクト・オーガスタ全域都市詳細区画図』だった。
縦横二メートルを超える大判の図面。
西の白金宮から、東の大聖堂が聳える聖なる丘、中央を貫く大通り、そして南東の低地に広がる網目のようなスラム街と下町の路地裏に至るまで、家屋の一軒一軒、路地の曲がり角、そして公共の給水施設の位置が、極細の烏口ペンで精密に描き込まれている。
「感覚や当て推量で戦うのは、祈祷師の仕事です」
エルザは作戦台の脇に置かれていた黒檀の小箱を開けた。中から現れたのは、ガラス瓶に入った深紅のインクと、真鍮製の細いペン先だった。
「病原体が目に見えないなら、それが引き起こした『死の足跡』を可視化すればいい。……テオバルト様、騎士団の斥候が記録した昨夜から今朝にかけての患者、並びに死者の発生住所を、一件残らずこの地図の上に赤い点でプロット(打点)していきなさい」
「……地図の上に、死者を打点するだと?」
テオバルトが目を丸くする。
「そうです。疫学の基本原則――『ドット・マップ(点分布図)』の作成です」
エルザの琥珀色の瞳が、冷徹な光を放つ。
「病気の発生には、必ず空間的な偏りが生じます。人間がどこに住み、何を飲み、どこで息絶えたのか。その統計データを二次元の平面上に集積すれば、目に見えぬ感染源の心臓部が、自ずと地図の上に姿を現します」
「……よし、やるぞ!」
ユーグが腕まくりをして作業台へ身を乗り出した。
「おいテオバルト、報告書を読み上げろ! 俺が位置を特定して印をつけてやる!」
「あ、ああ……! 水車長屋街第一区画、鍛冶屋のハンス宅、発症二名、死亡一名! その隣の長屋、仕立屋の家族四名が全員発症!」
「聖マルティン通り裏手、靴職人の工房で三名死亡!」
「運河沿いの居酒屋、給仕の少女と店主が発症!」
カリ、カリ、カリ……。
真鍮のペン先が羊皮紙を叩く乾いた音が、地下室に激しく鳴り響き始めた。
テオバルトが読み上げる住所を、ユーグとエルザが目にも留まらぬ速さで地図上に見つけ出し、深紅のインクを滴らせていく。
ポツリ、ポツリと、純白の地図の上に落とされる赤い血のような斑点。
十件。
五十件。
百件。
二百件――。
作業が進むにつれ、作戦台を囲む男たちの呼吸が、次第に浅く、荒くなっていった。
不気味だった。
あまりにも、異様だった。
赤い点は、帝都全域に散らばるどころか、下町全域にすら均等に広がっていなかったのだ。
西側の商業区画には、赤い点はほとんど見られない。
川を一本隔てた南側の皮革加工街でも、数名の点があるのみ。
死者の印は――まるで何者かが天の上から巨大な赤い絵の具を力任せに叩きつけたかのように、下町の中央を走るメインストリート――『ブロード通り』の交差点周辺だけに、異常な密度で密集していたのだ。
「……なんだ、これは」
テオバルトの手から、羊皮紙の報告書がハラリと滑り落ちた。
歴戦の副官の顔から、完全に血の気が引いていた。
「赤い点が……集まっている。まるで、この交差点を中心にして、同心円を描くように……」
「ええ。同心円の中心をごらんなさい」
エルザの指先が、赤い点が最も濃密に黒ずむほど重なり合っている、ブロード通りの交差点の真ん中をトンと叩いた。
そこには、帝室地理院の記号で、小さな真鍮の四角形が描かれていた。
記号の脇に記された文字――『聖ペテロの公共給水ポンプ』。
「……あ……」
ユーグの喉から、掠れた声が漏れた。
「聖ペテロの給水ポンプ……下町の連中が、一番水質が良くて冷たくて美味いと評判で、毎日汲みに集まっていた、あの鉄のポンプか……!?」
「そうです」
エルザの言葉は、逃れようのない告発状のように響いた。
「このブロード通り周辺で倒れた百名以上の患者は、全員、例外なくこの『聖ペテロの給水ポンプ』から汲み上げた水を、生のまま口にしていたのです」
さらに、エルザの指先は、密集地帯のすぐ目と鼻の先――わずか五十メートルしか離れていない裏路地の一角を指し示した。
「そして、ここを見なさい。この地図の死角……この長方形の区画には、周囲がこれほど赤い点に埋め尽くされているにもかかわらず、発症者が一人も出ていません」
「な……ッ!? 本当だ、ここだけポッカリと空白になっている!」
オスカーが身を乗り出して叫ぶ。
「この区画は何だ!? 聖なる結界でも張ってあるってのか!?」
「結界などありません。ここは『帝都麦酒醸造所』の作業員宿舎です」
エルザは淡々と、生化学と生活習慣の冷徹な事実を告げた。
「醸造所で働く職人たちは、福利厚生として支給される発酵済みのエールビールを水代わりに飲んでおり、生水を一切口にしていません。さらに、ビールを醸造する過程で、原料の水は必ず大釜で何時間も煮沸されている。……先ほどお見せした通り、コレラ菌は熱に極めて弱い。ビールを飲んでいた作業員たちは、知らず知らずのうちに、煮沸によって病原菌を無力化していたのです」
完璧なまでの対照実験。
同じ下町に住み、同じ空気を吸い、同じ貧困に喘ぎながら――。
聖ペテロのポンプの生水を飲んだ者は、数時間で干からびて死に。
ビールや煮沸した湯を飲んでいた者は、一人として病に冒されていない。
「空気感染(瘴気)など、完全に否定されました」
エルザの冷たい声が、作戦台を切り裂く。
「病原体を運んでいたのは、風でも悪魔でもない。この『聖ペテロの給水ポンプ』から汲み上げられていた、冷たい水そのものです。……この井戸の水だけが、致死的な高濃度のコレラ菌によって、異常に汚染されているのです」
「し、しかしエルザ!」
テオバルトが必死に食い下がる。
「聖ペテロのポンプは、地下深江の帯水層から水を汲み上げる深井戸だ! 地表のドブ水が染み込んだ程度で、これほど局所的に、これほど凶悪な毒水に変わるはずがない! なぜ、この井戸の水源だけがピンポイントで汚染されたのだ!?」
「その疑問を解くための鍵が、もう一枚あります」
エルザは作戦台の脇に立っていたユーグへ視線を送った。
「ユーグ先生。あなたが帝国医学校の地下書庫から持ち出してくれた、あの図面を」
「……ああ。まさか、あの埃を被った古い紙切れが、こんな形で役に立つとは思わなかったぜ」
ユーグは苦々しい表情で、自らの革鞄の底から、黄ばんでボロボロになった大判の設計図を引きずり出した。
広げられたのは――『帝都地下大暗渠並びに導水管網配置図』。
百年以上前、帝都が建設された初期に、教皇庁と帝室が共同で敷設した、地下水路と下水配管の全容を記した門外不出の極秘図面。
エルザは素早く、その配管図を先ほどの疫学マップの上へと重ね合わせた。
薄い羊皮紙を通して、地上の街並みと、地下の配管網が、透かし絵のようにピタリと重なり合う。
「聖ペテロの給水ポンプの取水管は、地下十五メートルの砂礫層に達しています」
エルザの指先が、地下の取水パイプのラインをなぞっていく。
「そして、その取水管の真上――わずか五メートルの至近距離を並走している、この太い石造りの地下暗渠。……ユーグ先生、この排水管の起点は、どこに繋がっていますか」
ユーグは図面の線を指で辿り、東の丘陵地帯――高く聳え立つ大聖堂の敷地へと目を走らせた。
そして、ある一点に指が触れた瞬間。
ユーグの筋骨隆々とした身体が、目に見えて硬直した。
「……おい」
ユーグの喉から、信じられないものを見るような、押し殺した呻きが漏れた。
「嘘だろ……。おい、見ろよ、これ……ッ!」
テオバルトとオスカーが顔を寄せる。
ユーグの指が震えながら指し示していたのは、大聖堂の広大な敷地の最奥、一般信徒が立ち入ることのできない神官専用の区画だった。
そこに記されていた施設名。
――『大聖堂直営・聖水製造大工房』。
そして、その真横に掘られた巨大な地下貯留槽――『製造廃液槽並びに神殿巡礼者汚物沈殿池』。
「な……ッ!?」
テオバルトの呼吸が止まった。
「大聖堂の聖水製造工房……」
ユーグの唇が、怒りと戦慄にガタガタと震え出した。
「数万人の巡礼者が垂れ流した糞尿……そして、あのアンセルムが『解呪の聖水』を精製する際に出た、強酸と重金属の混ざり合った腐食廃液……! そのすべてを溜め込むための地下廃液槽が、この石造り暗渠の真上に直結してやがる……!!」
エルザの琥珀色の瞳が、冬の氷嶺よりも冷たく、凍てつくように細められた。
すべての点と線が、完璧に、そして残酷なまでに一本の線へと繋がった。
「経年劣化です」
エルザの声は、法廷で死刑判決を読み上げる裁判長の宣告だった。
「百年の歳月を経て、石造りの暗渠は崩壊しかけていた。そこへ、アンセルムが聖水製造で垂れ流し続けた希塩酸と昇汞の廃液が流れ込み、石灰モルタルの継ぎ目を急速に化学腐食させ、地下水路の側壁に巨大な亀裂を生じさせたのです」
エルザの指先が、大聖堂の地下から、ブロード通りの給水ポンプへと向かって、一直線に滑り落ちた。
「そして、三日前。……アンセルム司教は、アルトハイム邸での失態によって追い詰められ、教会の地下深くから『あの瓶』を持ち出した」
「あの瓶……!?」テオバルトが息を呑む。
「五十年前に東方を滅ぼしたとされる、コレラ菌の原種です」
エルザの言葉は、確信に満ちていた。
「アンセルムは、その高濃度の病原菌培養液を、自らの手で大聖堂の排水溝へと流し込んだ。……愚かな男です。下水に流せば、汚泥とともに都の外の海へ流れ去るとでも思っていたのでしょう。
だが、現実は違った。
腐食した地下暗渠の亀裂から、漏れ出た猛毒の菌液は――直下に位置していた聖ペテロ給水ポンプの涵養層へと、そのまま滝のように流れ落ち、地下水脈を丸ごと致死的な培養液へと変貌させたのです!」
「あ……あああ……!」
テオバルトが頭を抱え、床に崩れ落ちそうになった。
神罰ではない。
悪魔の呪詛でもない。
天の業火でもない。
大聖堂が何十年にもわたって垂れ流し続けてきた杜撰な汚泥と、自らの権力を守るために放った禁断の生物兵器が、都市の老朽化した地下インフラを通じて、下町の井戸水へとダイレクトに逆流した――。
完全なる、人災。
教会の傲慢と強欲と無知が生み出した、極めて醜悪な、そして救いようのない『人為的無差別虐殺』。
「……アンセルム司教」
エルザの唇から、凍りつくような冷笑が漏れ落ちた。
「自らの杜撰な排水と狂気の毒によって都の井戸をコレラ菌で満たし、民を干からびさせて殺しておきながら……それを『神罰』と偽って恐怖を煽り、さらに毒入りの聖水を売りつけて金を巻き上げていた。
……これが、神の奇跡の正体です。
人の命を何千人と奪い、それを自分の権力を取り戻すための踏み台にする……これほど悍ましく、これほど吐き気を催す犯罪が、この帝国の歴史のどこにあったというのですか」
「許せん……ッ!!」
ドォンッ!!と、テオバルトの拳が作戦台の縁を砕かんばかりに叩きつけられた。
生真面目な軍人の瞳から、激しい憤怒の涙が溢れ出していた。
「神に仕える身でありながら……民の命を、何だと思っているのだ! 我が騎士団の総力を挙げて、今すぐ大聖堂へ突入し、あの老いぼれの首を刎ねてやる!!」
「待ちなさい、テオバルト様」
エルザの澄み切った声が、副官の激情を一瞬で静止させた。
エルザは作戦台の上の疫学マップを、手際よく巻き取った。
その琥珀色の瞳には、怒りすらも計算の燃料へと変換した、絶対零度の決意が宿っていた。
「アンセルムの首を刎ねるのは、後です。今すぐ軍を動かしても、教会に扇動された何千人もの民衆が暴徒となって立ちはだかるだけです」
エルザは白衣を脱ぎ捨て、棚から清潔な濃紺の公式軍用ドレスを取り出した。
胸元に輝く、皇帝直属の『帝国衛生院副総裁』の黄金章。
「今、この瞬間も、聖ペテロのポンプから水を汲んだ民衆が、体内の水分を奪われて死にかけています。……まずやるべきは、感染源の蛇口を物理的に破壊し、脱水で死にかけている何千人もの命を、科学の力で引き戻すことです」
エルザは大公邸の執務室へと続く扉を見据えた。
「テオバルト様。大公閣下を呼びなさい。……そして、白金宮の皇帝陛下とロザリア皇妃殿下へ、非常緊急参集の早馬を飛ばすのです」
「……エルザ、皇帝に直訴する気か?」ユーグが問う。
「ええ」
エルザは巻物を小脇に抱え、冷然と言い放った。
「帝国全土の全権を、私に委ねていただきます。……祈りでも、聖水でもない。『火と塩』によって、この帝国の病巣を完全に滅菌するための、真の戦争を始めましょう」
迷信の闇を切り裂く、反撃の狼煙。
少女の冷徹な知性が導き出した「死角の真実」は、いま、帝国の最高権力を巻き込む巨大な防疫作戦の号砲へと姿を変えようとしていた。




