第53話:外された鉄のレバー
白金宮の非常参集殿において、皇帝フリードリヒから黄金の『帝室至高の大印』がエルザ・ヴァルデックの小さな両の手のひらへと託された、まさにその瞬間から――帝都サンクト・オーガスタの時間は、猛烈な速度で軍靴と鉄の軋みによって塗り替えられていた。
――ズドォォォォォンッッッッ!!!!
宮殿を取り囲んでいた数万の暴徒の頭上を、耳を劈く号砲の轟音が貫いた。
固く閉ざされていた宮殿の三重の鉄門が、重厚な鎖を巻き上げながら一斉に跳ね上がる。
逃げ惑う民衆が息を呑んで見上げた視界の先、暗雲垂れ込める冬の夜明けの空を背負って突撃してきたのは――幾千の戦場を血で染め上げてきた帝国最強の私設軍、『黒狼騎士団』の重装騎兵千騎だった。
地響きが大地を揺らす。
黒鉄の甲冑に身を包んだ巨躯の騎士たちが、漆黒の軍馬を隙間なく並べ、密集方陣のまま宮殿の前庭から大通りへと雪崩れ込んできたのだ。
抜刀された長剣が夜明けの冷たい光を浴びてギラリと閃き、蹄の鉄音が石畳を粉砕せんばかりに鳴り響く。
「退けェッ! 帝室防疫戒厳令の発令であるッ!!」
「勅命を妨ぐる者は、反逆罪と見做しその場で叩き斬るッ!!」
先頭を駆ける騎兵たちの怒号が、投石を繰り返していた暴徒の群れを一瞬で両断した。
本物の軍隊、それも殺戮に特化した北方軍の圧倒的な武力の前に、農具や棍棒を握りしめていただけの平民たちは悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように左右へと逃げ惑う。
だが、黒狼騎士団は民衆を無駄に殺傷することはしなかった。
卓越した統率力のもと、騎兵たちは瞬く間に宮殿前広場を制圧すると、そのまま街道を封鎖するように隊列を展開し、帝都の中枢と下町を分断する巨大な「軍事防壁」を築き上げたのだ。
そして――その重装騎兵の分厚い壁が左右へと割れた中央から、砂煙を上げて進み出てきたのは、一隊の異様な車列だった。
最前列を進む漆黒の軍馬の背に跨るのは、ギルバート・フォン・ラングリール大公。
大剣を佩用し、風になびく黒貂の毛皮を羽織ったその姿は、帝国のあらゆる災厄を切り伏せる冷酷無比な死神そのものだった。
そして、その大公の愛馬の真横――。
特注の黒塗り軽馬車の御者台に立ち、真っ直ぐに下町の惨状を見据えていたのは、エルザ・ヴァルデックだった。
身に纏っているのは、華美な貴族のドレスでも、通常の白衣でもない。
オスカーとユーグが徹夜で仕立てさせた、近代防疫のための特殊装備――『密閉型防護服』。
煮沸滅菌された頑丈な厚手のキャンバス生地の上に、煮沸アマニ油を何層にも塗り重ねて完全な防水・防汚加工を施した外套。手には肘の上まで覆う特注の加硫ゴム手袋を嵌め、首元は隙間なくリネンで目張りされている。
胸元にだけ、皇帝から下賜された黄金の『帝国衛生院総裁章』が、死の都を照らす唯一の星のように燦然と輝いていた。
十二歳の少女が纏うその姿は、幼さなど微塵も感じさせず、目に見えぬ死神を解剖台の上に縫い止めるための、冷徹なる処刑人の威容を放っていた。
「テオバルト副官!」
馬車の上から、エルザの凛とした声が飛んだ。
「はっ!」
馬を寄せたテオバルトが、軍人らしい鋭利な敬礼を返す。
「予定通り、第一段階の『局所隔離作戦』を開始します。大聖堂の丘から吹き下ろす風下、ブロード通りを中心とした半径五百メートルの全交差点を物理的に遮断しなさい。……一匹のネズミ、一滴の水すら、この境界線を越えさせてはなりません!」
「応ッ!!」
テオバルトが馬上から腰の軍笛を高く吹き鳴らした。
鋭い金属音が下町の空を切り裂いた瞬間、後続の輜重隊から次々と降ろされたのは、頑丈な黒鉄の柵と、先端を鋭利に研ぎ澄ました拒馬、そして大量の有刺鉄線だった。
「全軍、鉄柵を展開せよッ!!」
テオバルトの裂帛の号令が木霊する。
「これより、ブロード通り周辺区画を『第一種防疫封鎖区域』に指定する! 何人たりともこの区画から出入りすることは罷りならん! 境界線を強行突破しようとする者は、帝室戒厳令に基づき、即刻拘束の上、軍法会議にかけるッ!!」
ガシャン! ガギィィッ!と、重厚な鉄柵が石畳の上に打ち込まれ、ブロード通りへと続く十数本の路地が、瞬く間に物理的な檻となって塞がれていった。
◇
封鎖された内側――ブロード通りの交差点へと足を踏み入れた瞬間、同行していた騎士たちの中から、息を呑む呻き声が漏れ出した。
そこは、まさに生ける地獄の底だった。
鼻腔を突いたのは、鼻毛が焦げ付くような強烈な悪臭――だがそれは、通常の糞便の臭気ではなかった。生臭い魚の腐肉と、酸っぱい胃液の匂い、そして生石灰の粉塵が混ざり合った、死の匂い。
道路の両脇には、家から這い出したまま力尽きた住民たちが、幾重にも折り重なるように倒れ伏していた。
泥水の中に転がる彼らの皮膚は、水分を極限まで奪われて老婆のようにシワシワに萎縮し、両目は頭蓋骨の奥へと深く窪み、唇は血流の途絶によって紫色に変色している。
手足の筋肉が激しい電解質喪失によって異常硬直(コレラ痙攣)を起こし、あちこちから「痛い、足が千切れる」「水を……水をくれぇ……」という、乾いた砂を擦り合わせるような掠れ声(コレラ声)が、絶え間なく響いていた。
道路の側溝には、患者たちの体内から噴き出した、あの半透明の粘液片が漂う白濁水――『米のとぎ汁様便』が、泡を吹いてドロドロと川のように流れていた。
その汚水の中に、幼い子供の遺体が横たわり、狂乱した母親が泥水に塗れながら泣き叫んでいる。
だが――その阿鼻叫喚の交差点の中央に、何よりも悍ましい光景があった。
古びたレンガ造りの円形水槽。
その上に据えられた、重厚な黒鉄の機械――『聖ペテロの公共給水ポンプ』。
何十年もの間、下町の住民たちの喉を潤し、「帝都で最も冷たくて清らかな名水」と讃えられてきたそのポンプの周りに、いま、数十人もの住民たちが我先にと群がっていたのだ。
「どけ! 俺が先だ! 喉が焼けるんだ!」
「子供が……うちの子が水を欲しがってるんだよぉ!」
激しい脱水によって猛烈な口渇に襲われた人々が、桶や水瓶を手に、押し合いへし合いしながらポンプの取っ手に群がっている。
キィコ、キィコ、と錆びた鉄のレバーが上下するたびに、ポンプの吐水口から、澄み切って冷たい地下水がドボドボと勢いよく吐き出されていた。
人々はその水を、手ですくい、あるいは瓶から直接、狂ったように喉を鳴らして飲み干していた。
――そして、数分後。
水を飲んだばかりの若者が、突如として喉を押さえて激しく嘔吐し、次いで股間から白い濁流を噴き出させて、泥水の中へのたうち回って倒れ伏していった。
死の水を求め、その水を飲むことで自らの死を加速させる、救いようのない無限の悪循環。
大聖堂の地下暗渠の亀裂から流れ落ちた、何億、何十億ものコレラ菌の培養液が、まさにそのポンプの地下水脈から、絶え間なく地上へと汲み上げられ続けていたのだ。
「……愚かな。自ら死神の乳房に吸い付いているようなものですね」
軽馬車から降り立ったエルザの冷徹な声が、泥濘の空気に落ちた。
エルザは防護服の裾を翻し、背後に控えていた十名の工兵隊へ向けて、迷いなく指先を突き出した。
工兵たちの手には、巨大な鉄製の大槌、分厚い鉄のバール、鏨、そして巨大な木樽に積まれた生石灰が握られていた。
「工兵隊、前へ。あの給水ポンプのシリンダーを粉砕し、汲み上げレバーを物理的に撤去しなさい」
「了解ッ!!」
屈強な工兵たちが大槌を構えて前進しようとした、その瞬間だった。
「――何をする気だァッッ!!」
絶叫とともに、泥まみれの路地から飛び出してきたのは、血走った眼をした数十人の住民たちだった。
彼らは棍棒や石、錆びた包丁を手に、給水ポンプを取り囲むようにして立ち塞がった。
その先頭に立っていたのは、大聖堂の印章が刻まれた紫色の聖水瓶を首から下げた、狂信的な神殿信徒の男だった。
「神聖なる聖ペテロの水を奪う気か! この水は神が我らに与え給うた唯一の命の水だぞ!」
「あいつだ……! あの白い化け物の服を着た小娘が、宮廷の魔女エルザだ!」
「アンセルム司教猊下が仰った通りだ! あの魔女が、悪魔の術で井戸を呪い、都の民を皆殺しにする気だ! 井戸を渡すな! 魔女を叩き殺せェェッ!!」
恐怖と狂信によって理性を完全に焼き尽くされた暴徒たち。
彼らにとって、喉の渇きを癒してくれる唯一の存在である給水ポンプを奪われることは、自らの命を奪われることと同義だったのだ。
アンセルムの吹き込んだ「魔女が井戸を呪った」という嘘が、彼らの絶望を暴力の燃料へと変換させていた。
「殺せ! 魔女を殺せ!」
男たちが怒号を上げ、手にした石礫や棍棒を振り上げ、エルザめがけて雪崩を打って突進してきた。
飛来する握り拳大の石が、エルザの防護マスクの額を狙って一直線に迫る――。
その、コンマ数秒の刹那。
――ガギィィィィィィィンッッッッ!!!!
鼓膜が破裂するかのような、凄まじい金属の打撃音が交差点に炸裂した。
飛来した石礫が、宙で火花を散らして木っ端微塵に粉砕され、白い粉となって四方へと弾け飛ぶ。
突進してきた暴徒たちの足が、凍りついたようにピタリと止まった。
彼らの視線の先――。
エルザの前に、音もなく割って入っていたのは、漆黒の巨躯だった。
ギルバート・フォン・ラングリール大公。
大公は馬上から音もなく飛び降り、その手には、抜刀されたばかりの漆黒の長剣が握られていた。
大剣の切っ先は、石畳をわずかに掠めただけで、深さ数寸の亀裂を地面に刻み込んでいる。
大公は誰を見るでもなく、ただ前へと歩み出た。
そして――大剣を、横一文字に力任せに薙ぎ払った。
――ズバアアアアッッッッ!!!!
轟音。
剣風の圧力だけで、先頭にいた暴徒十数名が足元をすくわれ、泥水の中へと派手に転がり落ちた。
さらに、大剣の切っ先が交差点の白大理石の敷石を激しく削り飛ばし、バチバチと凄まじい火花が宙を舞い、石畳の上に長さ三メートルにも及ぶ深い断絶の線が刻み込まれた。
「ひ……っ!?」
暴徒たちの喉から、引き攣った悲鳴が漏れた。
呼吸ができない。
目の前に立つ男から放たれているのは、宮廷の貴族が持つような生ぬるい威圧感ではない。
幾万の首を刎ね、幾千の城を焼き払い、自らの血すら冷酷に切り捨ててきた、本物の『戦場の死神』が放つ、質量を持った殺気。
ギルバートの氷灰色の双眸が、泥水に這いつくばる暴徒たちを、虫ケラを見下ろすように冷たく射抜いた。
その口から漏れ出たのは、地底のマグマが擦れ合うような、低く重厚な死の宣告だった。
「……誰に石を投げようとした、下賤のネズミどもが」
空気が、数十度も急降下したかのような錯覚。
ギルバートは左手をわずかに持ち上げ、背後の黒狼騎士団へと合図を送った。
チャキン、チャキン、チャキン!と、百人の重装歩兵が一斉に抜刀し、抜き身の切っ先を暴徒たちの喉元へとピタリと突きつける。
「エルザの髪の一筋にでも触れようとする者は、誰であろうと帝室反逆罪として即刻その場で一刀両断に処す。……手足を切り刻まれ、豚の餌になりたい奴から前に出ろ」
絶対的な軍事制圧。
反論の余地すらない、圧倒的な力の差。
先ほどまで「魔女を殺せ」と叫んでいた男たちは、顔面を土気色にし、震える手から棍棒や包丁をポロポロと泥水の中へ落としていった。
ギルバートは大剣の切っ先を地面に突き立てたまま、背後のエルザへと視線を向けた。
その瞳の奥に宿る、昏く甘美な狂熱。
「……邪魔なゴミは片付けたぞ、我が総裁。存分に、お前の仕事をしろ」
「感謝いたします、大公閣下」
エルザは乱れ一つない足取りで、ギルバートの横を通り抜けた。
防護服の擦れる衣擦れの音。
彼女は、泥水に膝をついて恐怖に震える住民たちを一瞥すらせず、真っ直ぐにあの黒鉄の給水ポンプの前に立った。
手袋をしたエルザの指先が、冷たいポンプの鉄肌に触れる。
微かに振動している。
地下から汲み上げられた水が、シリンダーを満たし、無数のコレラ菌を吐き出し続けている心臓の鼓動。
「工兵隊」
エルザの冷徹な声が、静まり返る交差点に響いた。
「この給水ポンプの『鉄の汲み上げレバー』を、根元からへし折りなさい」
「応ッッ!!」
工兵隊の屈強な大男二名が進み出た。
男たちは重さ数十キロの鉄製大槌を頭上高くに構え、全身の筋肉を唸らせて、ポンプの心臓部である鉄のレバーの支点めがけて振り下ろした。
――ドガァァァァァンッッッッ!!!!
耳を塞ぎたくなるような、強烈な金属の破壊音が響き渡った。
火花が飛び散り、何十年もの間、何千万人もの民の喉を潤してきた頑丈な鋳鉄のレバーが、グニャリと不自然にへし曲がる。
「もう一撃ッ!!」
エルザの容赦のない指示。
――バキィィィィィンッッッッ!!!!
二撃目の大槌が炸裂した瞬間。
鋳鉄の疲労限界を超えたレバーが、凄まじい破砕音とともに蝶番ごと弾け飛んだ。
重い鉄の棒が、石畳の上をカラン、カランと虚しい音を立てて転がり落ちていく。
取っ手を失ったポンプは、もはや水を一滴たりとも汲み上げることができない、ただの鉄の筒へと成り果てた。
住民たちから、息を呑むような絶望の呻きが漏れた。
だが、エルザの処置は、それだけでは終わらなかった。
「バールをシリンダーの隙間に打ち込み、上蓋をこじ開けなさい!」
工兵たちがテコの原理で鉄蓋を跳ね上げると、ポンプの内部、地下十五メートルの暗黒へと続く、直径三十センチの取水管の開口部が口を開けた。
管の奥底から、モワッとした冷気とともに、あの魚の生肉に似たコレラの悪臭が立ち上ってくる。
「生石灰(酸化カルシウム)を」
エルザの合図とともに、工兵たちが巨大な木樽を抱え上げ、井戸の開口部の真上へと掲げた。
「全量を、一気に流し込みなさい!」
ドサァァァッッ!!
純白の生石灰の粉末数百キロが、暗黒の井戸の底へと雪崩を打って投じられた。
数秒の静寂。
そして――。
――ボコッ、ボコボコボコッッ!!
――シュワァァァァァァッッッッ!!!!
地下の深淵から、まるで巨大な怪物が目覚めたかのような、凄まじい地鳴りと沸騰の咆哮が噴き上がった。
生石灰(CaO)が、井戸の底に溜まっていた汚染水(H2O)と激しく化学反応を起こしたのだ。
急激な発熱反応。
井戸の底の温度は、瞬く間に摂氏百度を超えて沸騰し、開口部からもうもうと白い過熱蒸気が煙突のように噴き出した。
さらに、生成された消石灰(Ca(OH)2)によって、井戸水全体の水素イオン濃度(pH)は、瞬時に極限の強アルカリ性(pH12以上)へと跳ね上がった。
熱と強アルカリの二重の地獄。
井戸の底に潜み、地下水脈を満たしていた何十億ものコレラ菌は、タンパク質を変性させられ、細胞膜を完全に破壊され、一匹残らず焼き殺され、泥炭のように炭化していった。
「最後に、鉛の蓋を被せなさい」
エルザの指示のもと、厚さ五寸の重厚な鉛の円盤が開口部へと被せられた。
工兵たちが大槌で鉄の鋲を打ち込み、周囲を溶かした鉛で完全に目張り(溶接)していく。
ガン! ガン! ガン!
最後の鋲が打ち込まれ、聖ペテロの給水ポンプは、文字通り地上からも地下からも、永久に完全封鎖された。
◇
噴き上がっていた白い蒸気が、冷たい冬風に流されてゆっくりと消え去っていく。
交差点には、ただ重い沈黙だけが残されていた。
泥水の中に這いつくばっていた住民たちは、取っ手を失い、鉛で固められた給水ポンプの姿を、呆然とした眼差しで見つめていた。
「あ……ああ……水が……水が、止められちまった……」
「俺たちは……渇きで死ぬしかないのか……!?」
絶望に打ちひしがれ、涙を流す民衆。
その彼らの前に、エルザは一歩、歩み出た。
防護服のマスクを外し、白磁の横顔を露わにする。
琥珀色の瞳は、哀れみでも怒りでもなく、ただ絶対的な真実の光を宿して、住民たちを見据えていた。
「泣き言を言うのは、おやめなさい」
澄み切った、だが凛とした少女の声が、交差点の隅々にまで響き渡った。
「このポンプから汲み上げられていた水は、神の恩寵などではありません。大聖堂の地下排水によって汚染された、あなた方の腸を内側から焼き殺す『死の毒水』です」
エルザはへし折られた鉄のレバーを一瞥した。
「このレバーを外さなければ、今夜中にさらに数百人の命が奪われていた。……私はあなた方から水を奪ったのではありません。あなた方の喉元に突きつけられていた、死神の刃を叩き折ったのです」
民衆が息を呑む。
エルザは胸元の黄金の衛生院総裁章を掲げ、堂々たる声で宣告した。
「これより、帝国衛生院による本格的な救護活動を開始します。
生水を飲むことは、本日只今より一切禁止とします。
水が欲しければ、必ずグラグラと沸騰させた白湯を飲みなさい。
そして――脱水で倒れた者たちには、命を引き戻すための特別な『塩と糖の粉末』を、無償で配給いたします!」
エルザの言葉に、住民たちの顔に驚愕と困惑が走る。
生水を断ち、火で煮沸し、塩を補う。
それは、教会の祈祷でも、金貨五十枚の聖水でもない――誰にでも実践できる、あまりにも素朴で、あまりにも確実な科学の防壁。
感染源の蛇口を物理的に破壊する――近代疫学の祖ジョン・スノウがロンドンのコレラ流行を鎮圧したあの歴史的英断が、いま、異世界の帝都において、迷信の闇を力づくで打ち砕いた瞬間だった。
ギルバート大公が大剣を鞘に納め、エルザの隣へと並び立った。
冷酷大公の口元に、誇らしげな、獰猛な笑みが浮かぶ。
「……レバーは外れたぞ、エルザ総裁。次はお前の言う『火と塩』の出番だな」
「ええ、大公閣下」
エルザは白磁の横顔を上げ、帝都の空を刺す大聖堂の尖塔を冷たく見据えた。
「病原体の蛇口は締めました。……次は、死の淵にいる何千もの民を、科学の力で引き戻して差し上げます」
迷信の井戸が封印され、真の救命の戦いが、いま、幕を開けようとしていた。




