第48話:深淵の培養瓶
帝都サンクト・オーガスタの夜を切り裂いていたのは、神への祈りの賛美歌ではなく、数千人もの人間が喉を潰して放つ怒号と呪詛の叫びだった。
東の丘に聳え立つ帝国正教会の総本山――大聖堂を取り囲む巨大な広場は、松明の赤黒い炎と、投げつけられる石礫の嵐によって埋め尽くされていた。
鉄柵で固められた聖堂の外門には、夜を徹して押し寄せた群衆が怒涛の津波のように殺到し、分厚い鉄扉を力任せに揺らし続けている。
「ペテン師! 神の皮を被った毒殺魔どもめ!」
「金貨を返せ! 我が家の全財産を騙し取り、毒入りの聖水を飲ませていたのか!」
「私の息子を返せ! 悪魔の呪いなどではなく、貴様らの毒壁紙が息子を殺したんだ!」
投擲された敷石がステンドグラスの窓を激しく打ち砕き、色鮮やかな聖人たちのガラス細工が無残な破片となって聖堂の床へと降り注ぐ。
群衆の中にいたのは、下町の貧民たちだけではなかった。
アルトハイム伯爵邸でエメラルドグリーンの猛毒壁紙――亜ヒ酸銅のからくりを白日の下に晒された宮廷諸侯たち、その親族や代理人たちが、自らの従僕や私兵を率いて押し寄せていたのだ。
神殿の免税特権を利用して安価な毒を売り捌き、病人が出れば「悪魔の呪詛だ」と脅しをかけて金貨百枚もの法外な聖水を売りつける――その極めて組織的で冷酷な二重搾取のからくりは、エルザ・ヴァルデックが掲げた一本の毛髪データと、押収された帳簿によって完全に暴かれた。
千年にわたり帝国の頂点に君臨し、皇帝すら傅かせてきた教会に対する盲目的な信仰は、一夜にして、騙され、肉体を蝕まれていた者たちの底知れぬ殺意へと裏返っていた。
さらに、大聖堂の正門前には、皇帝直属の近衛兵団が一箇大隊の規模で布陣していた。
近衛副長が手にした真鍮の筒から、皇帝フリードリヒの親署が刻まれた重々しい勅書が、大聖堂の閉じられた扉へ向けて朗々と読み上げられていた。
『正教会首席司教座、並びに大聖堂管轄の全修道院に対し、帝室査察官による強制立ち入り会計監査を命ず。教会の保有する一切の財産台帳、薬品調合記録、並びに地下金庫の封鎖を即時執行せよ。抵抗する者は帝室に対する反逆と見做す』
教会の治外法権の剥奪。
神の代理人を自称していた者たちから、国家の法の下へと引きずり下ろす冷酷な包囲網。
大聖堂が何百年もかけて築き上げてきた絶対の権威は、いまや四方から退路を塞がれ、音を立てて瓦解しつつあった。
◇
その狂乱と怒号が石壁を震わせる大聖堂の内部――。
豪奢を極めた礼拝堂の奥、一般信徒はもちろん、通常の神官すら立ち入ることを許されない『最深部回廊』の闇の中に、引きずるような足音が響いていた。
カツ、ズルリ……カツ、ズルリ……。
右足を引きずり、肩で荒い息を吐きながら歩く人影。
アンセルム首席司教だった。
かつて純白の輝きを誇っていた最高位の祭服は、引き裂かれ、泥と煤で薄汚れていた。
額に巻かれていた包帯は赤黒い血と黄色い膿でじっとりと湿り、そこから滲み出た悪臭が男の脂汗と混ざり合って鼻を衝く。
その顔面には、もはや聖職者の威厳など一欠片も残されていなかった。
頬は不健康に落ち窪み、充血した両目は狂乱の炎を宿して見開かれ、ひび割れた唇からは絶え間なく意味を成さない呪詛が漏れ出していた。
「……小娘め……。エルザ……エルザ・ヴァルデック……! あの下賤なネズミが……我が神殿を……この私を……!」
アンセルムの右腕には、重厚な真鍮の柄を持つ一本の松明が握られていた。
ゆらゆらと揺れる火の粉が、地下へ地下へと続く螺旋階段の濡れた石壁を照らし出していく。
ここは、大聖堂の地下第十三層。
歴代の大司教の遺骨が安置された霊廟のさらに下、帝都が築かれる遥か昔の古代遺跡の基礎を転用して作られた、教会の暗黒の心臓部――『禁忌保管庫』へと続く回廊だった。
ひんやりとした湿気が、肺腑の奥まで凍りつかせるように忍び寄ってくる。
地上の群衆の怒号は、何十メートルもの分厚い花崗岩の地層に遮られ、いまや低く唸る地鳴りのような振動としてしか届かない。
耳朶を打つのは、天井の鍾乳石から滴り落ちる冷たい水滴の音と、アンセルム自身の引き攣った喘鳴だけだった。
「し、司教猊下……! お待ちください! 引き返してくださいませ!」
背後から、怯え切った悲鳴のような声が追いかけてきた。
アンセルムの長年の側近であり、毒壁紙の配給や聖水の調合実務を取り仕切ってきた青年神官――ルカだった。
ルカは法衣の裾を泥水で濡らしながら階段を駆け下り、アンセルムの背中に縋り付くようにして立ち塞がった。
その若い顔面は恐怖で蒼白になり、歯をガタガタと鳴らしている。
「猊下、地上はもう持ちません! 近衛兵が外門の閂を破ろうとしております! 貴族たちも、聖ルカ商会の倉庫を焼き払うと叫んで……! 今ならまだ、地下の隠し水路から帝都の外へ逃れる船の手配が間に合います! 金塊を抱えて教皇領へ亡命いたしましょう! これ以上、ここから奥へ進んではなりません!」
ルカの叫び。それは、現実的な破滅を前にした、唯一の生き残りの算段だった。
だが――。
その必死の制止を聞いた瞬間、アンセルムの歩みがピタリと止まった。
ギチ……ギチギチ……。
首の骨が軋むような音を立てて、アンセルムが振り返る。
松明の赤黒い火に照らし出されたその顔を見て、ルカは息を呑んで後退った。
そこにあったのは、もはや人間の表情ではなかった。
理性をすべて焼き尽くし、ただ己の権勢の崩壊を受け入れられぬ獣の、漆黒の狂気。
「逃げる……? この私が……教皇領へ逃げ延びろと、そう言うのか……?」
「猊下……っ!」
「黙れッ!! 黙れ、黙れ、黙れぇぇぇッッ!!」
アンセルムは咆哮とともに、握りしめていた重厚な松明を力任せに横へと薙ぎ払った。
ゴオッ!と火炎が空気を裂き、松明の柄がルカの側頭部をまともに打ち据えた。
「ぎゃあっ!?」
鈍い衝撃音とともに、ルカの身体が石壁へと叩きつけられ、泥水の中へと崩れ落ちる。
額から鮮血を流して呻く側近を、アンセルムは血走った眼で見下ろし、泥靴でその胸板を踏み躙った。
「私が築き上げた帝国正教会の栄光だぞ! 皇帝を平伏させ、皇太子を病に縛り付け、全貴族の生殺与奪を握っていたこのアンセルムの城だ! それを……あのような下級貴族の捨て子、十二歳の小娘如きに奪われて、尻尾を巻いて逃げ出せだと!? ふざけるな! 誰が許すものか! 誰が認めるものかッ!!」
アンセルムの口から、泡混じりの唾液が激しく飛び散る。
額の傷口から滲み出た血が、右目を真っ赤に染め上げ、男の視界を血の海へと塗り潰していた。
「皇帝も、大公も、あの愚民どもも……全員、神の奇跡を忘れたのだ! 目に見える物質の理屈などに誑かされ、医学などという悪魔の学問に魂を売り渡したのだ! 忘れたのなら、思い出させてやるまでだ! 神の真の恐怖を……人の知恵など一瞬で塵芥に変える、真の業火の味をなァッ!!」
アンセルムは足元のルカを蹴り飛ばすと、再び松明を掲げ、回廊の最奥へと向かって大股で進み始めた。
ルカは床を這い、血塗れの手を伸ばして叫んだ。
「お、おやめください猊下! そこから先は……そこから先は、教皇庁より厳重に封印された『禁忌の領域』です! 先代の大司教様が、死の床で決して触れてはならぬと遺言された、悪魔の遺産なのですぞッ!!」
「遺産だと? 違う、あれは神の鉄槌だ!」
アンセルムは回廊の行き止まり――天井から床までを覆い尽くす、黒く錆びついた巨大な鉄の二重扉の前に立ち止まった。
扉の表面には、教皇庁の封印を示す重厚な鎖が何重にも巻き付けられ、鉛の封蝋が施されている。
アンセルムは懐から、首から下げていた古びた真鍮の巨大な鍵束を引き抜いた。
歴代の首席司教のみに秘匿されて受け継がれてきた、最後の封印鍵。
ガチリ、ギチギチギチ……。
重厚な鍵穴に真鍮の鍵が差し込まれ、力任せに回される。
鎖が断ち切られ、鉛の封蝋が粉々に砕け散って石床へと落ちた。
アンセルムは両手を扉にかけ、全体重をかけて押し開いた。
ギィィィィィィィィッッ……。
数十年、あるいは百年以上もの間、外界から完全に遮断されていた密室の扉が、悲鳴のような金属音を立てて開かれた。
その瞬間――。
ヒュウッ……と、扉の隙間から吹き抜け出してきた空気が、アンセルムの全身を撫でた。
「……っ!?」
背後で這いつくばっていたルカが、その空気に触れた瞬間、喉を詰まらせて激しい悪寒に震え上がった。
それは、ただの地下室の冷気ではなかった。
冬の外気よりも遥かに冷たく、骨の髄まで凍りつかせるような絶対的な冷たさ。
そして――鼻腔の奥を鋭利な氷の針で突かれたかのような、独特の臭気。
腐敗臭ではない。薬品の臭いでもない。
生命の活動が完全に停止し、ただ純粋な「死」そのものが濃縮されて結晶化したかのような、乾いた、澱んだ、異様な匂い。
松明の火を掲げ、アンセルムが密室の中へと足を踏み入れた。
広さは、十メートル四方ほどの円形の石室だった。
壁面には一面に、神への祈りではなく、太古の文字で刻まれた退魔の呪文と、封印の紋章がびっしりと彫り込まれていた。
そして――部屋の中央。
黒大理石で組まれた祭壇の上に、それは鎮座していた。
重厚な、厚さ数寸にも及ぶ巨大な鉛の直方体ケース。
放射線すら遮断するほどの頑丈な鉛の装甲。その四隅には、純銀の帯が巻き付けられ、厳重な南京錠で何重にも封印されていた。
「これだ……。これこそが、神がこの愚かな地上を滅ぼすために遺された、真なる御力……!」
アンセルムの瞳に、爛々とした狂気の歓喜が宿った。
男は祭壇へと駆け寄り、松明を傍らの燭台へと乱暴に突き刺すと、震える手で鉛ケースの南京錠へと鍵を差し込んだ。
カチリ、カチリと、封印が次々に解かれていく。
ルカが震える声で叫ぶ。
「猊下……まさか、それを解き放つおつもりなのですか……!? 五十年前、大陸東方の諸国を襲い、わずか数ヶ月で百万人を超える民を干からびさせて殺し尽くしたという……あの『東方の青き死』……! 人が水を失い、米のとぎ汁のような下痢を垂れ流して一日で骨と皮になって死に至るという、あの伝説の疫病原体を……!」
「そうだ」
アンセルムの答えは、あまりにも冷酷だった。
「かつて、大陸東方の異教徒どもが神の教えに背いた時、教会が極秘裏に現地へ持ち込み、異教の都を壊滅させた神の奇跡の種だ。……当時の先代大司教が、将来、神に叛逆する不敬な国家が現れた時のための『神の最終兵器』として、現地の汚染水から採取し、極秘裏に培養・封印させておいた至宝よ」
教会の暗黒史。
神の罰を自作自演し、疫病を人為的に流行させて民衆を絶望へと叩き落とし、自らの売り出す聖水と祈祷によって「救済」を演出するための、禁断の生物兵器。
近代病理学における、最も凶悪な経口感染症――コレラ菌(Vibrio cholerae)の超高濃度原種。
ギチリ、と重い鉛の蓋が持ち上げられた。
ケースの内側から、冷気とともに立ち上ったのは、淡い燐光のような青白い気配だった。
鉛の緩衝材に守られてそこに並んでいたのは、厚さ一センチを超える頑丈な大型の密閉ガラス瓶――計六本。
瓶の中には、まるで深海の泥水のように、青黒く、重々しく濁った液体が波打っていた。
振る必要すらなかった。
静止しているはずの液体の内部で、目に見えぬ何十億、何百億もの凶悪な病原体が、休眠から目覚め、飢えた牙を研ぎ澄ますように微かに蠢いているのが、アンセルムの狂乱の目にははっきりと見えていた。
「美しい……。なんと神聖なる、神の鉄槌の姿か……」
アンセルムの手が、震えながら伸びた。
男は最前列のガラス瓶を、自らの骨張った両手で愛おしそうに抱え上げた。
ガラス越しに伝わってくる、氷のような冷たさと、死の質量。
「エルザ……大公……皇帝……そして、私を蔑んだ帝都の愚民どもめ……」
アンセルムの唇が、狂気と怨嗟で歪み、引き攣った笑いを漏らす。
「お前たちが信じる医学とやらが、この神の真の業火に耐えられるか試してやろう。……目に見える物質の世界? 生化学の理屈? 笑わせるな! 一滴で街一つを地獄へと変えるこの聖なる雫の前に、お前たちの小賢しいメスが何を守れるというのだ!」
アンセルムの計画は、もはや国家の統治すら破滅させる、完全なる無差別虐殺の暴走だった。
この六本の培養瓶を、大聖堂の真下を通る帝都の中央地下水路――下町の何万人もの平民たちが日々汲み上げている「聖ペテロの公共給水ポンプ」の直上の水源へと、すべて流し込んでやるのだ。
「都の水を……すべての井戸を、死で満たしてやる」
アンセルムは瓶の封蝋を爪で撫で回し、喉を鳴らして嗤った。
「水車長屋の貧民どもが、一人残らず自らの汚泥を垂れ流して干からびるがいい! 貴族どもが、自らの内臓を吐き散らして神に許しを乞うがいい! 街が死体で溢れ返り、帝都が業火の底に沈んだ時……民は再び気付くのだ! 命を救えるのは、あの小娘のペテンではなく、神の慈悲だけなのだと!」
そして――すべてが絶望に染まった時。
アンセルム自身が、大聖堂の門を開き、「神の怒りを鎮める真の聖水」を掲げて降臨するのだ。
皇帝を失脚させ、エルザを火刑台へ送り、自らが帝国の絶対の救世主として君臨するために。
「止められん……もう誰にも、このアンセルムを止めることはできんぞ……!」
カチリ。
アンセルムの親指が、一本目のガラス瓶を塞いでいた、頑丈な鉛の封印金具を外した。
真鍮のワイヤーが解かれ、コルクの密閉栓が、微かな音を立てて緩む。
深淵の底に封じられていた死神の封印が、いま、狂乱の宗教者の手によって、完全に引き抜かれようとしていた。
帝国全土を巻き込む、史上最悪のバイオハザード。
数万の命を数日で干からびさせる「渇きの疫病」の濁流が、帝都の地下水脈を通って、無防備な民衆の喉元へと向かって、音もなく解き放たれようとしていた――。




