第49話:米のとぎ汁と神罰の太鼓
アルトハイム伯爵家の改易と一族の処断から、わずか三日後のことだった。
前世の冤罪が灰となり、帝都が束の間の安堵に包まれたかに見えた冬の夜明け――その静寂は、帝都サンクト・オーガスタの最下層、貧民が密集する下町「水車長屋街」の底から湧き上がった、無数の凄惨な悲鳴によって叩き割られた。
水車長屋街は、大聖堂が聳え立つ東の丘陵から流れ落ちる汚水運河の最下流に位置していた。
木造の粗末な長屋が肩を寄せ合うようにひしめき、路地の中央には人糞と生活廃水が混ざり合った開渠がドブ川となって淀んでいる。陽光すらまともに届かぬその薄暗い泥濘の路地で、異変は前触れもなく、文字通り「爆発的」に始まった。
「う……っ、オエェッッ!!」
まだ夜の帳が明けきらぬ午前五時。
長屋の一室で、港湾労働者の男が突如として跳ね起き、床板の上へ激しい嘔吐をぶち撒けた。
酒に酔った吐瀉ではない。前夜に食べた食事の残渣を一度吐き出した後、休む間もなく胃の底からこみ上げてきたのは――強烈な吐気とともに噴き出す、無色に近く、わずかに白濁した大量の泡混じりの水だった。
だが、恐るべき惨劇は、その直後に始まった。
「ぎ……っ、あ、腹が……いや、痛まない……!? なのに、止まらねぇ……ッ!」
男は便器代わりに使っていた木桶へと駆け込み、ズボンを引き下ろした。
直後、雷鳴のような破裂音とともに、男の肛門から激しく噴射されたのは、通常の泥状の便ではなかった。
悪臭すら薄い。ツンとする酸臭も、腐敗した糞便の臭気もない。
ただ、ほんのりと生臭い魚の生肉のような匂いを漂わせる、半透明の粘液片が点々と浮遊した――まるで炊き立ての米を研いだ後の白い研ぎ汁そのもの(米のとぎ汁様便/ライスウォーターストゥール)が、水道の蛇口を全開にしたかのような勢いで、怒涛のごとく木桶を満たしていったのだ。
腹痛はなかった。
赤痢や食中毒のように、腸が雑巾のように絞り上げられる激痛はない。
発熱もない。
ただ、体内のあらゆる水分が、腸の壁を突き抜けて底の抜けた桶のように外へ外へと滝のように流れ出していく。
一度の排泄で一リットル。三十分で二リットル、三リットル。
桶は数回で溢れ返り、白濁した液体が長屋の板張りの隙間から階下へとボタボタと漏れ落ちていく。
「お前さん、どうしたんだい!? 顔が……顔が真っ青だよ!」
悲鳴を上げて駆け寄った妻の手が、男の腕に触れた瞬間、凍りついた。
男の体温は、急速に奪われていた。
額に触れても熱はない。それどころか、まるで冷水に何時間も浸け込まれていた死体のように、氷のように冷たく、ベタつくような冷汗が全身を覆っていた。
そして――何よりも妻を戦慄させたのは、男の肉体に起きた信じがたい「縮み」だった。
わずか一時間前まで筋骨隆々としていた男の皮膚が、まるで数十年もの歳月を一瞬で早送りされたかのように、老婆の皮膚のようにシオシオと萎縮していたのだ。
皮膚の張力は完全に消失し、手の甲をつまみ上げても、皮膚が山型になったまま元に戻らない(テント徴候)。
両の眼球は頭蓋骨の奥深くへと落ち窪み、まるで頭蓋骨に直接薄皮を張り付けたかのような骸骨の相貌へと変わり果てていく。
指先を見れば、指紋の凹凸すら消え去るほど皮膚がふやけ、白く皺だらけになっていた。
冷たい水の中で何時間も洗濯物を絞り続けた女たちの手――『洗濯婦の手(washerwoman's hands)』。
細胞と間質、そして血管の中から、すべての水分が絞り取られた者だけに現れる、極度の脱水の刻印。
「水……水をくれ……」
男の口から漏れたのは、しゃがれた、まるで乾いた砂を擦り合わせるような掠れ声(コレラ声)だった。
「喉が……喉が焼ける……! 水を……樽ごと持ってこい……ッ!」
妻が震える手で差し出した冷水を、男は狂ったように喉を鳴らして飲み干した。
だが、その水は胃を通り抜けると同時に、数十秒後には再び白い濁流となって下から噴き出すだけだった。
吸水するはずの小腸粘膜の上皮細胞が、狂乱の毒素によって逆流のポンプと化し、飲めば飲むほど体内の電解質を道連れにして体外へと排泄させていく。
「う……あ……ぎゃああああああああっっ!!」
突然、男が絶叫し、床の上でのたうち回った。
ナトリウム、カリウム、カルシウム――急速な脱水によって血中の電解質バランスが完全に崩壊した結果、男の両足のふくらはぎの筋肉(腓腹筋)が、自らの意志を無視して鋼鉄のように硬直したのだ。
筋肉が断裂せんばかりの力で収縮し、足首が内側へと不自然にねじれ曲がる。
有痛性筋痙攣――『コレラ痙攣』の地獄。
男は自らの足の筋肉を拳で打ち据えながら悶絶したが、やがてその痙攣は太腿、腹筋、そして胸郭へと広がり、呼吸筋すらも締め上げ始めた。
そして――異変の発生からわずか四時間後。
昼前、正午を告げる央宮の鐘が鳴り響く頃には。
男の全身は極度の血液濃縮によって末梢循環が完全に途絶し、唇と爪は黒紫色へと凍りつき、血圧は測定不能のゼロへと暴落した。
意識は混濁し、男は冷たい長屋の床の上で、干からびたミイラのような骸となって、ピクリとも動かなくなった。
◇
だが、それは地獄の序曲に過ぎなかった。
同じ現象が。
同じ米のとぎ汁のような下痢と、同じ激しい嘔吐と、同じ全身の萎縮が――。
水車長屋街の右隣の家でも、向かいの長屋でも、路地の奥の仕立屋でも、爆発的な連鎖反応となって同時に火を噴いたのだ。
「誰か助けてくれ! 赤ん坊が……うちの坊やが、白いのを吐いて冷たくなっちまった!」
「母さんが倒れた! 息をしてない! 体が氷みたいに冷たいんだ!」
「逃げろ……! 悪魔だ、悪魔が長屋の水を呪ったんだぁぁっ!」
正午を過ぎる頃には、水車長屋街の路地は、吐瀉物と米のとぎ汁様の水で文字通り水浸しになっていた。
自力で立ち上がれなくなった数百人の住民たちが、泥水の中に転がり、手足を痙攣させて「水をくれ」「助けてくれ」と掠れた声で泣き叫んでいる。
家族の遺体を抱きしめて号泣する親、痙攣する我が子の足を必死でさする母親。
だが、助けを呼ぼうにも、呼びに走った屈強な若者すらも、途中の路地で突発的な下痢に見舞われ、膝から崩れ落ちて数時間で事切れていく。
午後二時、死者十名。
午後四時、死者三十名。
日没を迎える頃には、水車長屋街とその周辺の路地だけで、確認された死者は五十名を超えていた。
かつて帝都が経験したことのない、あまりにも急速な死の行進。
ペストのように黒い斑点が出るわけでもなく、天然痘のように発疹に爛れるわけでもない。
ただ、朝に元気だった人間が、昼には白い水を垂れ流して干からび、夕暮れには息絶えて冷たい石畳の上に転がっている。
その未知の病の正体不明の凶暴性と、凄惨極まりない脱水の光景は、下町の全住民の理性を瞬く間に粉々に粉砕した。
パニックは、燎原の火のごとく帝都全域へと燃え広がった。
数千、数万の平民たちが家を飛び出し、着の身着のままで逃げ惑い、下町の中心にある巨大な石造りの広場――『聖マルティン広場』へと雪崩を打って押し寄せていった。
◇
夜の帳が完全に下りた聖マルティン広場。
数千人の群衆がひしめくその頭上で、突如として――重苦しく、不穏極まりない鐘の音が乱打され始めた。
ゴオオォォン……! ゴオオォォン……!
大聖堂の弔鐘。
普段であれば、皇族の崩御や国家の非常事態にしか鳴らされない、禍々しい重低音。
それに呼応するように、広場の四方に据えられた巨大な陣太鼓が、ドンドコ、ドンドコと、人々の鼓膜と胸骨を直接揺さぶるような狂乱のリズムを刻み始めた。
ドドン! ドドン! ドドン!
太鼓の地鳴りとともに、広場の東側の石段の上に、赤黒い松明の炎が数百本、一斉に掲げられた。
群衆が恐怖に息を呑んで見上げる中、白銀の法衣の上に、金糸で太陽の車輪を刺繍した絢爛豪奢極まる祭服を纏った一団が進み出てきた。
大聖堂の神官団、そして神殿親衛隊。
その中央、巨大な真鍮の十字架を掲げて壇上へと登ってきたのは――。
アンセルム首席司教だった。
額にはまだ生々しい傷の痕が残り、アルトハイム邸での失態によって皇帝から皇宮追放を言い渡されていたはずの男。
だが、いま壇上に立つその男の顔には、先日の狼狽や恐怖の色など微塵も残っていなかった。
松明の火に照らされたアンセルムの細い双眸は、爛々と、狂気と歓喜の光を宿して見開かれていた。
自らの手で地下第十三層の鉛ケースを開け、六本の培養瓶の死神を帝都の地下水路へと解き放った男。
下町を埋め尽くす死体と、恐怖に震える数千の羊たちを見下ろすその唇に、三日月のような残酷な笑みが刻まれる。
アンセルムは十字架を高く天へと突き上げた。
太鼓の音がピタリと止まり、広場を死のような沈黙が支配する。
そして――アンセルムの肺腑から、広場の隅々にまで反響する、朗々たる、そして耳朶を狂気で締め上げるような扇動の声が放たれた。
「――見よ!! 神を畏れぬこの帝国に、ついに下された『神の鉄槌』の姿を!!」
雷鳴のような一喝。
群衆がヒッと息を呑み、壇上を見上げる。
「哀れなる我が子らよ! 何ゆえに貴方方の家族が、いま、白い水を吐き散らして干からびねばならぬのか! 何ゆえに貴方方の愛する者が、一日にして骨と皮に変えられ、命を奪われねばならぬのか!
答えは一つ! 神の怒りだ! 千年にわたり帝国を守護し給うた主の御心が、いま、この不敬なる都を焼き尽くさんと激怒しておられるのだ!!」
アンセルムは身を乗り出し、広場の群衆へ向けて指弾するように腕を振るった。
「思い出してみるがいい! 数日前、この都で何が起きたかを!
皇帝は神の教えを捨て、神殿の門を閉ざした!
そして――あの忌まわしき小娘! エルザ・ヴァルデックなる魔女を宮廷に招き入れ、皇太子殿下の神聖なる玉体に刃を突き立てて腹を裂かせたのだ!
神の領域たる肉体を刃物で切り刻み、神殿の聖なる壁紙を火で焼き払い、物質の理屈などという悪魔の戯言を讃美した!
その大罪に対し、天が下された御答えこそが――この、業火ならぬ『渇きの疫病』なのだ!!」
「神罰……ッ!」「やっぱり神の罰だったんだ……!」
群衆の間に、激しい動揺の波が広がっていく。
無知な平民たちにとって、朝に元気だった人間が夕方に干からびて死ぬという不可解な惨劇は、「悪魔の学問に溺れた帝国への神罰」というアンセルムの言葉によって、最も残酷で、最も受け入れやすい説明として脳髄に突き刺さったのだ。
アンセルムの煽動は、容赦なく熱を帯びていく。
「人の知恵など、神の前には無力である! 見よ、あの小娘の唱える『衛生院』とやらが、貴方方の家族の命を一つでも救えたか!? 奴らの机の上の理屈が、噴き出す白い水を止めることができたか!?
否! 何一つ止められはせん!
病を止める道はただ一つ! 神への信仰を取り戻し、悔い改めの祈りを捧げることだけだ!
魔女エルザを火刑台へ送れ! 異端の医術を焼き払え! さもなくば、この都の民は一人残らず、自らの内臓を水に変えて干からび死ぬことになるぞッ!!」
「魔女を殺せぇぇっ!!」
「エルザを引きずり出せ! 火刑にしろ!」
「神様、お許しください! 助けてください、司教猊下!!」
狂乱。
恐怖によって理性を奪われた群衆が、巨大な暴徒の塊となって広場で叫び始めた。
家族を失った絶望と、明日は我が身という極限の恐怖が、アンセルムの思惑通りに「エルザへの憎悪」と「教会への狂信」へと誘導されていく。
その混乱の極致を見計らい、アンセルムは背後の神官たちへ向けて、満足げに手を掲げた。
「……神は、悔い改める子羊を見捨てはなさらぬ」
アンセルムの唇が、下卑た歓喜に歪む。
「大聖堂の地下深き聖壇より、この神罰の炎を鎮めるための、門外不出の秘薬を運ばせた! 全神官が血を流して祈りを捧げた、至高の『特級解呪聖水』である!」
ゴロゴロと車輪の音を立てて、壇上へと十数台の荷車が運び込まれた。
荷台の上に積まれていたのは――あの、かつてアルトハイム伯爵邸や皇太子を蝕んでいたものと同じ、怪しく濁った紫色のガラス瓶の山だった。
神官たちが、広場の群衆へ向けて声を張り上げる。
「聖水を求めよ! 一瓶につき銀貨五十枚! 全財産を神に捧げ、神罰の業火から魂を買い戻すのだ!」
「銀貨五十枚……!? そんな大金、あるわけない!」平民の男が悲鳴を上げる。
だが、神官は冷酷に言い放った。
「金がないなら、家財を差し出せ! 娘の首飾りを差し出せ! 命と金と、どちらが惜しいのだ!?」
「買う! 買うから助けてくれぇっ!」
「俺の家をやる! この指輪も全部やる! 聖水をくれぇぇっ!」
地獄の沙汰。
家族を救いたい一心で、平民たちが我先にと荷車へと殺到し、手持ちのわずかな貯金、先祖代々の形見の銀器、衣服までもをも神官たちの足元へと投げ出した。
神官たちは下卑た笑みを浮かべながらそれらを袋へと詰め込み、代わりに紫色の聖水瓶を手渡していく。
手に入れた聖水を、母親たちが泣きながら、痙攣する子供の口元へと流し込む。
「飲んで……! 神様の聖水だよ、これで治るからね……!」
だが――。
その聖水の中に含まれていたのは、微量の水銀と、強酸性の鉱物液、そしてアヘンチンキ。
すでにコレラ菌の毒素によって脱水と電解質喪失の極限にある小腸粘膜へ、強酸と重金属が流し込まれれば何が起きるか。
結果は、あまりにも残酷だった。
「ぎゃああああっ!! 熱い! 喉が焼けるぅぅっ!!」
聖水を飲まされた子供が、激痛に身を捩ってさらに激しく黄色い胃液を吐き散らし、下からは白い濁流がさらに勢いを増して噴き出していく。
治るどころか、粘膜の破壊が加速し、痙攣は激化し、数分後には白目を剥いて息絶えていく。
だが、アンセルムはそれすらも冷酷に切り捨てた。
「信仰が足りぬからだ! まだ悔い改めが足りぬのだ! さらに祈れ、さらに神に捧げよ!」
絶望と狂信が渦巻く、聖マルティン広場。
教会のプロパガンダは完全に帝都の底辺を支配し、いまや暴徒と化した民衆の刃は、大聖堂ではなく、白金宮の帝国衛生院――エルザ・ヴァルデックの首へと向けられようとしていた。
◇
その狂乱の広場から、わずかに離れた路地の暗がりの中。
深いフードを目深に被り、壁の影に身を潜めてその光景を見つめる、二つの人影があった。
「……酷い。酷すぎます、エルザ様……!」
隣で声を殺して震えていたのは、看護助手のマリカだった。
マリカは口元を両手で覆い、大粒の涙を瞳に溜めながら、広場で繰り広げられる地獄を見つめていた。
「神官様たち……治らないって分かってて、あの毒の聖水を売りつけてる……! あんなに苦しんでいる人たちから、最後のパンのお金まで奪い取って……!」
だが。
その隣に立つ少女――エルザ・ヴァルデックの琥珀色の瞳は。
涙など一滴も浮かべることなく、真冬の北極海のように、冷たく、静まり返っていた。
エルザは、路地の泥水の中に転がっていた、先ほど絶命したばかりの平民の遺体へと視線を落とした。
手袋をした指先で、遺体の皮膚を軽くつまむ。
……戻らない。完全な脱水徴候。
次いで、遺体の口元から漏れ出た吐瀉物、そして足元に広がっていた白濁した液体の性状を、鋭利な観察眼でスキャンする。
(……米のとぎ汁様便。激しい下痢と嘔吐。発熱の欠如。急激な循環血漿量の枯渇による低容量性ショックと、代謝性アシドーシス……)
エルザの頭脳の中で、前世で師ユーグから授けられた近代病理学のデータが、光速で照合されていく。
(ペストではない。チフスでも、赤痢でもない。……この爆発的な感染速度と、電解質の超大量漏出。間違いありません)
エルザは静かに立ち上がり、広場の壇上で松明を掲げて吼えるアンセルムの姿を、冷徹な光を宿した瞳で見据えた。
「神罰……? 天の業火……?」
少女の薄い唇から、感情の欠落した冷笑が漏れた。
「……笑わせないで。祈りで腸の浸透圧が変わるとでも思っているの」
エルザはフードを引き下げ、隣のマリカへ向けて、静かに、だが鋼の硬度を持つ声で命じた。
「マリカ。大公邸の地下秘密研究所へ戻ります。ユーグ先生とオスカーを叩き起こしなさい」
「えっ……? エルザ様、何をなさるのですか……!?」
「解剖よ」
エルザは懐から、オスカーに作らせていた滅菌済みのガラス採便管を取り出し、路地の汚泥の中から、白濁した液体を迷いなく一滴、採取した。
「神の奇跡を気取るあの男の喉首に、真実の顕微鏡を突きつけて差し上げます。……敵の正体を、今夜中に暴き出します」
狂信の嵐が帝都を呑み込もうとする中。
科学と医学の刃を研ぎ澄ませた少女の逆襲が、いま、静かにその胎動を始めていた。




