第47話:止まった時計と冷たい涙
帝都サンクト・オーガスタの空を朱色から暗藍色へと染め変えていた薄暮の残光が、西の稜線へと完全に没した。
アルトハイム伯爵邸の中庭で天を焦がしていた毒壁紙の炎――青緑色に燻り狂ったあの猛毒の煙は、すでに冬の強風によって北東の荒野へと吹き散らされ、後には耐熱レンガの囲いの中に残された真っ白な生石灰と灰の堆積だけが、冷たい夜気に晒されていた。
皇帝の親裁が下され、名門アルトハイム家は地上からその名を消し去られ、罪人となった一族は護送馬車の檻の中へと消えた。諸侯たちを乗せた豪奢な馬車列も、騒乱の熱狂を引きずりながら次々と貴族街の通りを去り、屋敷の周囲を固めていた黒狼騎士団と近衛兵の隊列も、後片付けと封鎖の手順を終えて撤収の途についていた。
だが、その喧騒から滑り落ちるように、一人、馬車にも乗らず帝都の石畳を歩み去った影があった。
エルザ・ヴァルデック。
彼女は、新設された帝国衛生院の副総裁であることを示す黄金の徽章を懐の奥へと滑り込ませ、純白の医療用ローブの上から、飾り気のない深いフード付きの外套を羽織っていた。
華やかな大通りを避け、街灯の乏しい裏路地を選んで歩く。
冬の夜気は容赦なく肌を刺し、吐き出す息は白く凍りついて宙へ散る。
彼女が向かっていたのは、皇帝から下賜された衛生院の官舎でも、黒狼大公が待つ豪奢な大公邸でもなかった。
彼女の足が、まるで何者かに導かれるように向かっていた場所。
それは――帝都央宮の北側、旧城壁と下町の境目に位置する、広大な石造りの広場だった。
◇
帝都処刑場広場。
夜の帳が完全に下りたその場所には、人影一つなく、冷え切った静寂だけが淀んでいた。
昼間であれば、軽罪人の晒し台や、異端審問所によって引き立てられた罪状の読み上げが行われる忌まわしき場所。
広場の中央には、黒ずんだ花崗岩を積み上げた円形の壇――処刑台が、夜の闇の中に巨大な獣の骨のように聳え立っていた。
カツン、カツン。
エルザの小さな靴音が、石畳を叩いて乾いた音を響かせた。
彼女は壇の階段の前で立ち止まり、ゆっくりと見上げた。
階段は十三段。
その頂点、いまは何も置かれていない吹きさらしの石の床。
だが、エルザの網膜には、そこに何が据えられていたのかが、狂おしいほどの鮮明さで焼き付いていた。
(……ここだわ)
前世。
十九歳のエルザ・ヴァルデックが、その短い生涯を終えた場所。
アルトハイム伯爵夫妻の怪死の責任を押し付けられ、手足に重い鉄の首枷と足枷を嵌められ、降りしきる晩秋の冷たい雨の中で、民衆の罵声を浴びせられながら首を刎ねられた、まさにその断頭台が立っていた座標。
エルザは一段、また一段と、石の階段を登った。
一段踏みしめるたびに、記憶の深淵から冷たい雨の感触が蘇ってくる。
鎖骨に食い込む錆びた鉄の冷たさ。
三日三晩、地下牢で水を一滴も与えられず、叫ぶことすらできずにひび割れていた喉の渇き。
壇上に立ったクラリッサが、喪服の胸元をハンカチで押さえながら、エルザの母の形見であったサファイアの首飾りを揺らし、悲劇の令嬢として流していたあの嘘の涙。
そして――。
『首を差し出せ、魔女め!』
『伯爵様を呪い殺した恩知らずの毒婦!』
雨混じりの泥を投げつけ、狂乱の笑みを浮かべて処刑を歓呼していた、群衆の無知なる悪意。
頂点に辿り着いたエルザは、壇の中央へと歩み寄った。
視線を足元へと落とす。
月光に照らし出された花崗岩の継ぎ目。
幾重にも彫り込まれた石の溝には、何十年、何百年もの間に流された無数の罪人たちの血液が、雨水とともに酸化し、決して落ちることのない黒褐色の染みとなってこびりついていた。
その黒ずみの中に、前世の自分が流した血もまた、混ざり合っていたはずだった。
ヒュウウウッ……。
夜風が吹き抜けた。
冷たい風がフードを押し戻し、束ねた黒髪を乱暴に揺らす。
首筋に触れた突風の冷気――。
その瞬間、エルザの首の皮膚の毛穴が、ゾワリと総毛立った。
錯覚ではない。
ギロチンの冷酷な重厚な鋼刃が、上空の滑車から解き放たれ、重力に従って急降下し、頸椎の骨を断ち切る直前の――あのコンマ数秒間に首筋を撫でた、刃風の感触と寸分違わぬ冷たさ。
思わず、エルザは右手を自らの首元へと伸ばした。
指先が触れたのは、温かい、生きた人間の柔らかな皮膚。
脈打つ総頸動脈の確かな拍動。トクン、トクンと、毎分七十回の規則正しいリズムで血を脳へと送り届けている生体反応。
(繋がっている……)
首は落ちていない。
自分は十二歳の肉体の中にいて、生きている。
(……終わったのね)
エルザの唇から、白い吐息とともに、掠れた独白が零れ落ちた。
終わったのだ。
アルトハイム伯爵家は改易され、爵位も領地もすべて剥奪された。
自分を陥れた元凶たる令嬢クラリッサは、自らが愛用し続けた鉛白粉によって中枢神経を破壊され、美貌も正気もすべてを失って地下監獄の闇へと消え去った。
伯爵夫妻を蝕んでいた「呪い」の正体は、教会のエメラルドグリーンの猛毒壁紙であることを、皇帝と全貴族の御前で完全に解剖し尽くした。
前世で自分を死へと追いやった悪夢のタイムラインは、いまや完全に寸断され、灰となって燃え尽きた。
もう、無知のまま首枷を嵌められる自分はいない。
もう、誰かの罪を押し付けられて断頭台の上に立たされる自分はいない。
生き延びたのだ。
七年前の洗濯場へと死に戻ったあの日から、ただこの日のためだけに、感情を殺し、血と内臓と毒の知識だけを研ぎ澄まし、冷徹に計算を積み重ねてきた戦いは、いま、完全なる勝利をもって幕を閉じた。
だが――。
(……なぜかしら)
エルザは自らの小さな掌を見つめた。
胸の中に押し寄せてくるはずだったもの。
歓喜、達成感、復讐を遂げた者特有の甘美な陶酔――。
それらの感情は、どれほど胸の奥底を探しても、一欠片すら見つからなかった。
代わりに彼女の全身を急速に満たしていったのは。
底知れぬ、重々しい「虚脱感」だった。
手足の先から、熱が急速に抜けていくような感覚。
指先が氷のように冷たくなり、微かに、カタカタと震え始める。
死に戻ってからの数ヶ月間、彼女の肉体は常に、過剰な緊張と交感神経の暴走によって支えられていた。
いつ誰に毒を盛られるか分からないという恐怖。
大公の鉛中毒を治せなければ首を刎ねられるという極限のプレッシャー。
ヴェルデ村での審問官との暗闘。
皇太子の胃動脈破綻という一秒の狂いも許されない開腹手術。
そして、今日の公開検証における、一歩間違えれば自らが火刑台に送られていたはずの毒物鑑定。
常にアドレナリンを分泌させ、心拍数を意志の力で統御し、恐怖や悲哀といった「生存に不要な感情」をすべて凍結させてきた脳の防壁。
その防壁が、敵の消滅という結果を迎えた瞬間――急速にその強度を失い、崩壊を始めていた。
(……疲れたわ)
あまりにも率直な、本音の吐息。
全身の筋肉から力が抜け落ちていく。
十二歳の幼い肉体にとって、近代外科学の執刀と、宮廷の権謀術数を一人で捌き切る負荷は、生理学的な許容量を遥かに超えていたのだ。
膝の力がふっと抜け、エルザの身体が、冷たい処刑台の石畳の上へ向かってガクンと傾きかけた。
その、倒れ込む寸前の刹那――。
サァッ、と夜風を切り裂く微かな衣擦れの音が響いた。
背後から音もなく差し伸べられた巨大な影。
冷え切った冬の大気の中に、ふわりと、濃密な体温と、使い込まれた黒革と鋼の匂いが立ち込めた。
バサリッ――。
エルザの華奢な肩を、頭の上からすっぽりと包み込んだのは、重厚極まりない漆黒の毛皮の裏地がついた、黒狼大公の軍外套だった。
冷気を完全に遮断する圧倒的な布の質量。
外套の裏地に残されていた、生きている人間の生々しい熱が、凍えかけていたエルザの背中と鎖骨へと、暴力的なまでの温もりとなって浸透してくる。
「……寒空の下で、何を考えている」
耳朶のすぐ後ろから降ってきたのは、低く、深く、チェロの最低音のように心地よく胸骨を震わせる声だった。
振り返る必要すらなかった。
この帝国において、これほどまでに重厚で、これほどまでに無慈悲で、そして――自分に対してだけこれほどまでに狂おしい熱を帯びる男など、ただ一人しか存在しない。
「……大公閣下」
エルザの掠れた声。
だが、彼女が身体を起こし直すよりも早く、ギルバートの逞しい両腕が、外套ごとエルザの細い身体を背後から力任せに抱き寄せた。
ギュウッ、と肋骨が微かに軋むほどの力強い抱擁。
エルザの後頭部が、ギルバートの硬い胸板――黒鉄の軍服の合わせ目へと、隙間なく押し付けられる。
ドクン、ドクン、ドクン。
男の胸の奥底で、かつてエルザ自身が鉛の毒から救い出したあの心臓が、力強く、大地を揺るがすような確かなリズムで拍動している音が、後頭部の骨を通じて直接頭蓋へと響いてきた。
「……追ってきたのですか」
エルザは外套の襟元を掴んだまま、前を見据えて言った。
「馬車を抜け出して、このような処刑場跡へ足を踏み入れるなど……大公家の格式に傷がつきますよ」
「格式など知ったことか」
ギルバートの低い呼気が、エルザの耳元の髪を揺らした。
「中庭でお前の姿が見えなくなった瞬間、俺がどれほど肝を冷やしたか……お前のその冷徹な頭脳では計算できんのか。テオバルトに後始末をすべて押し付け、馬を飛ばして帝都中を探し回ったぞ」
大公の無骨な手が、革手袋を乱暴に外して床へと投げ捨てた。
剥き出しになった、戦傷の残る温かく硬い指先。
その指が、エルザの冷え切っていた両の頬を、壊れやすいガラス細工を包み込むかのように、驚くほど優しく、両側から包み込んだ。
男の掌から伝わってくる、圧倒的な熱。
寒風に晒されて感覚を失いかけていたエルザの頬の皮膚が、その熱に触れてチリチリと痛むような感覚を覚える。
「……ここは、処刑場です」
エルザは逃げようともせず、男の指先の熱を受け止めながら、静かに告げた。
「七年前……いいえ、かつて私が、無実の罪を着せられて首を刎ねられた、まさにその場所です」
「知っている」
ギルバートの返答には、一片の迷いも動揺もなかった。
「お前がアルトハイムの館を去った時から、お前が何を見つめ、何に復讐しようとしていたのか……俺にはすべて分かっていた。お前が一度、この場所で理不尽に命を奪われたという狂おしい悪夢を抱えていたこともな」
「閣下……私は……」
「何も言うな」
ギルバートの腕が、さらに一段、強くエルザを抱きしめた。
その抱擁には、先夜のような支配欲や独占欲のトゲはなかった。
ただ、嵐の中を一人で歩き続けてきた小さな戦士を、世界中のあらゆる悪意から完全に遮断し、守り抜こうとする――絶対の庇護者の熱。
「お前の戦いは、俺が一番近くで見ていた」
耳元で囁かれる、深く、揺るぎない声音。
「泥水を啜らされ、魔女と罵られ、毒を浴びせられながらも……お前は一歩も退かず、己の知性と刃だけであの腐った主家を叩き潰した。神殿の欺瞞を暴き、帝国の頂点へと己の足で這い上がった。……見事だった、エルザ。お前は、お前自身の力で、己の過去を完全に殺し尽くしたのだ」
ギルバートの顔が、エルザの首筋へと深々と埋められた。
男の吐き出す熱い息が、冷え切っていたエルザの皮膚を包み込む。
「過去は終わった」
呪縛を解き放つ、絶対の言霊。
「お前を縛り付けていた鎖は、すべてあの炎の中で灰になった。お前の首を狙う者は、もうこの世界のどこにもおらん。……これからは、お前の未来を作れ。お前の望む、病のない新しい世界を作れ。……俺の隣で。俺の腕の中で」
ドクン。
エルザの心臓が、大きく、痛いほどに跳ね上がった。
過去は、終わった。
その言葉が、耳から脳髄へと染み渡り、全身の血管を駆け巡った瞬間――。
エルザの身体の内側で、何かが、決定的な音を立てて崩れ去った。
ずっと、張り詰めていた。
死に戻ったあの日から、一瞬たりとも気を緩めることは許されなかった。
弱音を吐けば、首が落ちる。
涙を流せば、足を掬われる。
無知であることは罪であり、無力であることは死そのものだった。
だからこそ、感情を殺した。痛みを感じぬよう心を凍らせ、他者を解剖学的な生体標本として見つめ、己自身すらも「延命のための機械」として扱い続けてきた。
十九歳で断頭台に立ったあの瞬間すら、彼女は涙を一滴も流さなかったのだ。
泣いても誰も助けてくれないことを知っていたから。
理不尽を呪う暇があるなら、首が落ちる痛みの神経伝達速度を計算する方が、よほど合理的だったから。
だが――いま。
目の前にいるこの男は。
帝国最強の軍神でありながら、己の命の恩人として、一人の女性として、エルザのすべてを全肯定し、その小さな背中に背負っていた荷物のすべてを、自らの剛腕で丸ごと抱え上げようとしていた。
「あ……」
エルザの喉から、掠れた空気の音が漏れた。
胸の奥底が、焼けるように熱い。
何かが込み上げてくる。
止めようとしても、脳の統御が効かない。自律神経の抑制が、完全に決壊していた。
ポロリ、と。
エルザの琥珀色の瞳から、一筋の透明な雫が零れ落ちた。
大粒の涙。
それは彼女の白磁の頬を伝い、ギルバートの温かい手のひらの上へと落ちて、小さく弾けた。
「……っ……」
エルザは自らの両手で口元を押さえようとした。
だが、一度溢れ出した感情の濁流は、もはや止まることを知らなかった。
ポロポロと、次から次へと、堰を切ったように涙が溢れ出し、視界を滲ませていく。
前世の十九年と、今世の七年間。
二十六年分の孤独と、恐怖と、凍りついていた痛みのすべてが、温かい雫となって溶け出していく。
「……っ……う……あ……っ……」
声を殺して泣くエルザの小さな肩が、激しく上下に震えた。
十九歳の知性を持ち、帝国の最高医官となった少女が――いま、ただの一人の、傷つき疲れた子供のように、男の胸の中で顔を歪めて泣いていた。
外套の胸元を、小さな指先が力任せに握りしめる。
離れたくないと縋るように、男のシャツの布地を爪が食い込むほど強く掴んでいた。
「……泣け、エルザ」
ギルバートの声は、どこまでも優しく、どこまでも甘やかだった。
大公はエルザの頭を、自らの逞しい腕でそっと抱きとめ、彼女の顔を己の胸の中へと完全に包み隠した。
「誰も見ておらん。ここにはお前と俺しかおらん。……泣き尽くすまで、俺の胸を濡らせ」
ヒュウウウッ――と吹き荒れる冬の夜風。
だが、その冷たい突風は、エルザの髪の一筋にすら触れることはできなかった。
ギルバートが自らの大きな背中を壁にし、漆黒の外套で彼女をすっぽりと覆い隠し、夜の冷気のすべてをその身で遮り続けていたからだ。
「……う……ぅぅ……っ……!」
処刑台の石畳の上。
かつて血と泥に塗れて散った場所で、エルザは初めて、生きている人間の確かな温もりに抱かれながら、声を上げて涙を流し続けた。
止まっていた時計の針が、いま、確かな音を立てて動き出していた。
過去の悪夢を完全に葬り去った少女の魂は、この夜、冷酷な復讐者から――己の未来を己の意志で紡ぐ、真の生者へと生まれ変わったのだ。
夜空の彼方、冬の星座たちが、静かに、だが澄み切った光を広場へと投げかけていた。
冷たい夜の底で、二人の魂は、決して引き裂かれることのない鋼の絆となって、深く、熱く、結び合わされていた。




