第45話:解剖学者の品定め
ジュウジュウと泡を吹き、白煙を噴き上げる白大理石の床板から、鼻腔を麻痺させるような異臭が立ち上っていた。
ペルシャ絨毯の羊毛繊維は炭のように黒ずんで縮れ、大理石は強酸と猛毒の腐食によってドロドロとした白濁のヘドロへと溶け崩れ、直径半メートルほどの無残な陥没孔を穿っている。
もしテオバルトの黒鉄の盾がコンマ数秒でも遅れていれば、その破壊のすべてがエルザの顔面と頭蓋を直撃していたはずだった。
大広間を取り囲む数十人の宮廷貴族たちは、顔から血の気を完全に失い、ドレスの裾を掻き抱いて壁際へとへばりついていた。呼吸をすることすら恐れるような静寂。
その凍りついた空間の真ん中で、床の冷たい石畳に突っ伏し、泥水のような脂汗を流しながら激しく痙攣していたのは――アルトハイム伯爵令嬢、クラリッサだった。
「あ……ぎ……っ、あぁぁぁ……っ!!」
テオバルトの強烈無比な掌打によってへし折られた右腕の前腕部が、尋常ならざる角度で折れ曲がっている。皮膚の下で橈骨の断端が筋膜を突き破らんばかりに隆起し、内出血によって赤黒く腫れ上がっていた。
だが、その骨折の激痛すら、彼女の狂気に濁りきった脳には届いていないようだった。
剥落した白粉の下から覗く素肌は、鉛の毒に侵された土気色の鉛灰色。眉毛も睫毛も抜け落ち、ただれきった瞼の奥で、左右で大きさの狂った瞳孔(不同瞳孔)が、血走ったまま床の血溜まりとエルザの影を狂乱の勢いで見つめ返している。
口元からは、壊疽した黒ずんだ歯肉と、グラグラに傾いた前歯の隙間から、黄色い泡混じりの血唾液がダラダラと垂れ流されていた。
「あいつ……あいつを……殺せ……! 魔女……私の顔を……私の美しさを返せぇぇっ……!」
折れた腕を庇うことすら忘れ、健常な左手で大理石の床を掻きむしり、爪を割いて血を滲ませながら、クラリッサは蛇のように地を這っていた。
人間としての理性も、貴族令嬢としての矜持も、すべてが崩壊した狂態。
近衛兵たちが抜刀したまま腰を引いて近寄れずにいる中、大広間の空気を切り裂いて響いたのは、靴音だった。
カツン、カツン、カツン。
静かで、一定のリズムを刻む足音。
汚れ一つない純白の医療用ローブの裾をわずかに揺らしながら、エルザ・ヴァルデックが、その溶け崩れる床の穴へと向かって、迷いなく歩み寄っていた。
「エ、エルザ副総裁……! 危険です、まだ毒液が気化しております!」
近衛兵長が青ざめて制止の声を上げた。
だがエルザは足を止めることなく、ただ右手の手袋を外すことすらせず、淡々と告げた。
「濃度と気流を計算しています。この広間の容積と天井高、そして北側の窓から吹き込む風速であれば、揮発性ガスが致死域に達する前に四方へ拡散します。問題ありません」
背後で長剣に手をかけたまま仁王立ちしていたギルバート大公が、口元に昏い笑みを浮かべて見守っている。
テオバルトは盾を構えたまま半歩下がり、エルザの安全を確保しつつ、その一挙手一投足に全神経を集中させていた。
エルザは、泡を吹いて煙を上げる大理石の陥没孔の縁、わずか三十センチの位置で立ち止まった。
そして――何のためらいもなく、純白のローブの裾を汚さぬよう片膝をつき、かがみ込んだ。
床に這いつくばるクラリッサの顔面と、エルザの視線の高さが、ほぼ水平に交錯する。
クラリッサの血走った眼が、間近に迫ったエルザの白磁のような顔を憎悪で射抜いた。
「死ね……! 死ねばよかったのよ……! なぜ生きているのよ、この泥水啜りがぁっ……!」
クラリッサの口から放たれた血唾液と罵声。
だが、エルザの瞳には、怒りも、蔑みも、復讐の快感すら浮かんでいなかった。
そこにあったのは、ただ冷徹に、机の上に置かれた出来損ないの生体標本を値踏みするような――絶対零度の観察眼。
「……静かになさい。呼気が乱れていて、肺胞のガス交換が観察しづらいわ」
あまりにも平坦な、あまりにも無機質な一言。
クラリッサの喉が、息を呑んで引き攣った。
エルザはクラリッサの顔から視線を外すと、白衣の胸ポケットから、オスカーに作らせていた清潔な耐熱ガラスの攪拌棒と、小型のピンセットを取り出した。
エルザはガラス棒の先端を、溶け崩れた絨毯の繊維、そして大理石の表面でジュクジュクと泡立っている無色の液体の残滓へと、躊躇なく接触させた。
チリチリと微かな化学反応の音が鳴る。
エルザはガラス棒を持ち上げ、先端に付着した微量の液体を、自らの鼻先から三十センチほど離した位置へと掲げた。
そして、左手の手のひらで空気を扇ぐようにして、漂い出た極微量の蒸気を、己の鼻腔へと手繰り寄せた。
クン、と一度だけ、短く鼻孔を広げる。
エルザの眉が、わずかに、微小な角度で動いた。
「……なるほど」
エルザの唇から、感情の欠落した呟きが漏れた。
その声は、静まり返った大広間の天井の隅々にまで、透き通るような明瞭さで響き渡った。
「ツンと鼻腔を刺す強烈な苦扁桃油の臭気――シアン化水素、すなわち青酸化合物の特異臭。そして、それに混ざり合う、青臭く重々しい植物性の刺激臭。……ベースとなっているのは、キンポウゲ科トリカブト属の塊根から抽出された植物性アルカロイド――アコニチン(aconitine)ですね」
エルザの淀みない毒物鑑識。
大広間にいた貴族たちが、息を呑んだ。
トリカブト。かつて帝国の暗殺劇や北方部族の毒矢に用いられていた、触れただけで心臓を麻痺させるという伝説の劇薬。
だが、エルザの口から続いたのは、その毒への警戒でも恐怖でもなかった。
それは――職人としての、あまりにも容赦のない「酷評」だった。
「……粗雑極まりない調合ね。抽出法が、あまりにも甘いわ」
「な……に……?」
床に這いつくばるクラリッサの掠れた喉から、疑問の音が漏れた。
「アコニチンは、神経細胞の電位依存性ナトリウムチャネルを持続的に開口させ、過分極による神経伝達の遮断と致死的な不整脈を引き起こす猛毒です。本来であれば、成人の致死量はわずか数ミリグラム。極めて微量で人を即死せしめる」
エルザはガラス棒の先端に付着した液体の粘度を、光にかざしながら冷淡に観察した。
「だが、この液体は濁りが強すぎる。植物組織のペクチンやタンニン、樹脂分が大量に残存しているわね。……アンセルム司教の闇工房の薬師たちは、乾燥させたトリカブトの根をただ強い酸性のアルコールに浸し、乱暴に圧搾しただけで満足したのでしょう。アルカロイドを遊離アルカリとして沈殿させ、有機溶媒で再抽出した上で、酒石酸や硫酸を用いて再結晶化するという、純度向上の初歩的な精製工程を完全に怠っている」
エルザの口元に、嘲笑すら含まない、ただ技術の未熟さを呆れ果てるような冷笑が刻まれた。
「さらに致命的なのは、青酸化合物を雑多に混ぜ合わせたことよ。酸性の溶液の中に青塩をぶち込めば、その瞬間に猛烈な勢いでシアン化水素ガスが揮発を始める。密閉容器の中でガス圧が高まり、栓を開けた瞬間に成分の大半が宙へと逃げてしまうわ。……現に、今この床で泡を吹いて大理石を溶かしているのは、毒の本体ではなく、不純物として残された過剰な鉱物酸の反応に過ぎない」
エルザはガラス棒をトレイへと戻し、手袋をした指先で、床に転がる紫色のガラス瓶の破片を軽く弾いた。
カラン、と乾いた音が広間に木霊する。
「これでは、標的に浴びせかけたところで、粘膜に付着する前に成分が揮発し、皮膚の角質層を腐食させるのが関の山よ。血流に乗って心停止を引き起こすまでに、無駄な時間がかかりすぎる。……暗殺や毒殺を目論むのであれば、せめて薬理学の初歩的な基礎理論と、有機化合物の精製手順くらい学んでからになさい、クラリッサ様」
――静寂。
大広間を支配したのは、息の詰まるような、絶対的な沈黙だった。
皇帝フリードリヒが、目を細めてエルザを見つめている。
ロザリア皇妃が、扇の陰で息を呑んでいる。
宮廷の老練な諸侯たちも、完全武装の近衛兵たちも、全員が鳥肌の立つような戦慄に身を震わせていた。
何という娘だ。
何という精神の硬度だ。
今まさに、目の前で顔面を溶かされ、即死させられかけたのだ。
普通の人間であれば、恐怖に腰を抜かすか、激昂して相手を罵倒するか、あるいは護衛の背後に隠れて震えるのが当たり前の極限状況。
それにもかかわらず、この十二歳の少女は――。
顔色一つ変えず、自らを殺そうとした猛毒の溜まりに自ら歩み寄り、ガラス棒でその成分を分析し、あまつさえ「抽出法が甘い」「純度が低すぎる」「薬理学の基礎から学び直せ」と、まるで出来の悪い生徒の答案を採点するかのように、冷酷にダメ出しをして見せたのだ。
そこには、怒りすらなかった。
憎悪すら存在しなかった。
あるのは、圧倒的な知性の高みから、未熟な毒物の稚拙さを値踏みし、見下す――絶対的な格の違い。
科学と医学を極めんとする職人の、底知れぬ狂気と誇り。
「ば……化物め……」
最前列にいた老貴族が、震える唇で呟いた。
「あのような毒の飛沫を浴びせられかけて……どうして、あんな眼で毒を論じることができるのだ……」
そして――。
そのエルザの冷徹極まる品定めを、最も至近距離で浴びせかけられたクラリッサの心身に起きたのは。
完全なる、不可逆の「精神の崩壊」だった。
「あ……が……あ……?」
クラリッサの喉から、掠れた空気の音が漏れ出した。
彼女の脳髄が、激しい拒絶反応を起こしていた。
殺そうとしたのだ。
自らの人生のすべてを賭け、残された財産のすべてを叩きつけ、憎悪の炎を燃え盛らせて放った、渾身の復讐の刃だったはずなのだ。
相手が恐怖に怯え、泣き叫び、あるいは怒り狂って自分を罵倒する――それこそが、彼女が求めていた「復讐」の結末だった。
だが、返ってきたのは何だったか。
怒りでも、恐怖でもない。
ただの、「不純物が多すぎる」「作り方が下手だ」という、あまりにも無機質な嘲笑と品定め。
自分の命がけの殺意すら、この少女にとっては、研究室のフラスコの中で起きる稚拙な失敗実験の一つに過ぎなかったのだ。
自分の憎悪など、相手の心に掠り傷一つつけられなかった。
自分の存在など、この少女にとっては、路傍の石ころよりも価値のない、ただの無知な愚者に過ぎなかった。
(私の……私の殺意すら……届かないの……? 私は……私は何のために……!)
プツリ。
目に見えぬ、細い糸が切れる音がした。
クラリッサの脳内で、鉛毒によってボロボロに傷ついていた最後の理性の防壁が、音を立てて粉々に砕け散った。
「あ……ひ……あは……あははははっ……!」
突然、クラリッサの喉から、奇妙な嗤い声が漏れ出した。
折れた右腕をだらりと床に垂らしたまま、彼女は健常な左手で、自らの顔面を激しく掻きむしり始めた。
「あははははっ! あはははははははっ!! お人形……! 私、お人形よぉぉっ!!」
バリバリと、爪が皮膚を裂く。
鉛色に変色し、紫斑の浮き出た皮膚が爪によって削り取られ、血が滲み出る。だが彼女は痛みを感じる様子もなく、笑い続けた。
その瞳孔は左右で完全に狂い、焦点は天蓋のシャンデリアでもなく、エルザでもなく――ただ虚空の闇だけを見つめていた。
「見て……見てよ、お父様……! お顔が割れちゃった……! 白い粉が、ぜーんぶ落ちちゃった……! あははっ、泥の味がする……! 神様、痛いよぉ、頭の中で鐘が鳴ってるの……! あはははははははっ!!」
狂乱。
譫妄と幻覚の暴走。
クラリッサは床の上でのたうち回り、自らの剥落した白粉と泥水を両手で掬い上げては、血の滲む自らの顔面へと塗りたくろうとした。
口から黄色い胃液と血唾液を噴き出し、激しい痙攣がその細い身体を弓なりに反らせる。
ジョボボボボ……。
大理石の床の上に、温かい液体が広がる音が響いた。
クラリッサの豪奢なドレスの裾から、黄色い尿がとめどなく漏れ出し、白大理石の床板を濡らしていった。
括約筋の完全な弛緩。
失禁。
かつて帝国の頂点に立つ皇太子妃の座を夢見、他者を虫ケラのように見下していた伯爵令嬢は――いまや、自らの排泄物と血と白粉の混ざり合った汚泥の中に転がり、ただ壊れた笑い声を上げ続けるだけの、哀れな肉塊へと成り果てていた。
「……見苦しいな」
静寂を破ったのは、皇帝フリードリヒの低く、冷え切った声だった。
皇帝の猛禽のような双眸には、もはや慈悲のかけらも残されていなかった。
帝国の秩序を乱し、宮廷の至宝たる皇太子の命を危険に晒し、あまつさえ御前において猛毒を撒き散らした狂女。
皇帝は右手の手袋をわずかに持ち上げ、近衛兵たちへ向けて、虫ケラを掃き出すかのように冷淡に振った。
「近衛兵。その狂女を拘束せよ」
皇帝の絶対の勅命。
「はっ!!」
抜刀していた近衛兵の四名が、意を決して踏み出した。
兵士たちは汚泥を避けるようにしながら、床で暴れるクラリッサの折れた腕と健常な腕を背後から力任せに取り押さえ、太い麻縄で厳重に縛り上げた。
「あははっ! 痛い、痛いよぉっ! 舞踏会が始まるの! 殿下が私を待っていらっしゃるのよぉぉっ!!」
狂乱の叫びを上げ、泡を吹いて暴れるクラリッサ。
兵士たちは彼女の身体を床から乱暴に引きずり起こすと、足を引きずらせたまま、大広間の大扉へと向かって引きずっていった。
ズズズ……と、大理石の床の上に、尿と血と白粉が混ざり合った一本の汚れた筋が引かれていく。
クラリッサの壊れた笑い声と絶叫は、長い廊下の彼方へと、次第に遠ざかり、やがて重厚な扉の向こうへと完全に消え去っていった。
前世のタイムライン。
十九歳のエルザに無実の罪を着せ、民衆の罵声の中で断頭台の露へと消え去らせた元主家の令嬢。
今世において、彼女は誰の手によって処刑されることもなく。
自らの虚栄心と、美への病的な執着が生み出した毒によって、人間としての尊厳のすべてを失い、完全に自滅した。
残された大広間には、溶け崩れた床の穴から立ち上る、かすかな白煙だけが漂っていた。
エルザは、ゆっくりと立ち上がった。
膝の埃を軽く払い、手袋の汚れを整える。
その琥珀色の瞳は、引きずられていったクラリッサの血痕を一瞥しただけで、すぐに背後の皇帝と皇妃へと向けられた。
役目を終えた職人の、静謐な佇まい。
そのエルザの肩に、ふわりと、温かい重みが寄り添った。
ギルバート大公だった。
大公は自らの黒鉄の軍外套をエルザの背中へとわずかにかけ、その氷灰色の瞳を爛々と輝かせながら、彼女の耳元へと低く囁いた。
「……見事な品定めだったぞ、エルザ」
大公の喉から漏れる、深い狂熱を含んだ吐息。
「毒を撒き散らした狂女を前にして、薬理学の講義を垂れる主治医など……世界中を探しても、お前一人しかおらん」
「当然です、閣下」
エルザは前を向いたまま、唇の端をかすかに動かした。
「粗悪な毒物に動揺するほど、私の頭脳は暇ではありませんから」
二人の視線の先。
大広間の上座に立つ皇帝フリードリヒが、静かに息を吸い込み、アルトハイム伯爵邸の全臣民、そして帝国の未来へ向けた、最後にして決定的な親裁の言葉を紡ごうとしていた。




