第44話:紫の飛沫と鋼の盾
主寝室での凄惨な公開検証を終え、皇帝フリードリヒの冷酷な親裁が下された直後、アルトハイム伯爵邸の二階吹き抜けから一階へと続く大広間は、重苦しい死の静寂と、冷え切った冬のすきま風に支配されていた。
天井高八メートルを超える大広間のドームからは、埃を被った巨大なクリスタルシャンデリアが無数の涙のように垂れ下がり、磨き上げられた白大理石の床板に、集まった宮廷貴族たちの歪んだ影を落としている。
伯爵夫妻を蝕んでいた「呪い」の正体が、教会の利権が生み出したエメラルドグリーンの猛毒壁紙――亜ヒ酸銅から気化した有機ヒ素ガスであると白日の下に晒され、連行されていくアンセルム首席司教の背中を、貴族たちは唾棄すべき汚物を見るような眼差しで見送っていた。
だが、その張り詰めた空気の底流には、別の不気味な異臭が澱んでいた。
大階段の踊り場にへたり込み、二人の近衛兵に両脇を固められながら階下へと引きずり降ろされようとしていた少女――クラリッサ・フォン・アルトハイムの全身から立ち上る、腐敗した脂肪と金属の饐えた臭気だった。
分厚く塗り固められていたセメントのような鉛白粉は、先ほどの狂乱によってすでに大半が剥落していた。
晒し出された素肌は、泥水に何ヶ月も浸け込まれた死体のように濁った鉛灰色。毛細血管が破綻したことによる無数の赤黒い紫斑が、首筋からデコルテにかけて毒々しい斑点を散らし、眉毛も睫毛も抜け落ちた瞼は赤く腫れ上がっている。
口元からは血混じりの黄色い唾液が垂れ、グラグラと不自然に傾いた前歯の隙間から、ヒュー、ヒューと笛を鳴らすような呼気が漏れ出していた。
かつて「陶器の美姫」と讃えられ、宮廷の令嬢たちの頂点に君臨していた伯爵令嬢の面影は、微塵も残されていなかった。そこにあるのは、自らの虚栄心と美への病的な妄執によって、全身の組織を毒で溶かし尽くした哀れな怪物の姿だけだった。
「ひ……っ、化け物が……」「近寄るな、穢らわしい……」
階段の脇を取り囲む貴族令嬢たちが、ハンカチで鼻口を覆い、露骨に身を引いて蔑みの視線を投げかける。
かつてクラリッサの取り巻きとして甘言を弄していた令嬢たちですら、いまや彼女を道端の汚水のように見下していた。
その視線の雨が、鉛脳症によって狂気に冒されていたクラリッサの最後の神経を、容赦なくズタズタに引き裂いた。
(なぜ……? どうして皆、私をそんな目で見るの……? 私はアルトハイムの令嬢よ……! 誰よりも気高く、誰よりも白く、誰よりも美しく愛されるべき……皇太子妃になる女なのよ……!)
脳内で、ドロドロとした暗黒の熱が沸騰していた。
頭蓋骨の内側を焼きごてで抉られるような激しい偏頭痛。
耳元で何千匹もの羽虫が飛び交うような幻聴。
視界がぐにゃりと歪み、階下の広間の中央に佇む、たった一つの人影へと焦点が結ばれていく。
エルザ・ヴァルデック。
汚れ一つない純白の医療用ローブを身に纏い、背筋を寸分の乱れもなく伸ばして立つ少女。
皇帝フリードリヒの隣に立ち、ロザリア皇妃から盟友としての眼差しを向けられ、そして帝国最強の武将ギルバート大公を背後に従えている。
かつて、自分の足元に這いつくばり、冷たい地下洗濯場で泥にまみれた雑巾を絞っていたはずの、下級貴族の捨て子。
(あいつよ……。あいつが私のすべてを奪ったのよ……! あいつさえ現れなければ……あいつが私の前に立ち塞がらなければ、私は今でも宮廷の華で、殿下の愛を一身に受けていたはずなのに……!)
すべての因果が逆転した。
自分が毒を使ったことなど、自分が美白粉で身体を溶かしたことなど、狂乱の脳からは完全に消滅していた。
目の前にいるあの少女こそが、自分の人生を奪い去った悪魔であり、世界の理不尽そのもの凶刃であるという、絶対的な被害妄想。
――殺さなければ。
――あいつを殺さなければ、私の人生は終わってしまう。
クラリッサの震える右手――重度の橈骨神経麻痺により、重力に逆らえず幽霊のように垂れ下がっていたその右手が、奇跡的な痙攣の力によって、ドレスのスカートの奥深くへと滑り込んだ。
幾重にも重なるレースの裏地。その奥に仕込まれた、誰にも見つからぬよう縫い付けられていた隠しポケット。
指先が触れたのは、冷たく滑らかな、硬質な感触だった。
一本の、手のひらに収まるほどの細長い紫色の遮光ガラス瓶。
それは、大聖堂の闇商人から「特級聖水」とともに買い取っていた、最後の切り札だった。
アンセルムが地下組織を通じて密かに製造させていた、教会の敵を秘密裏に暗殺するための、最高純度の即死性毒薬。万が一、自らの野望を阻み、裏切る者が現れた時のために、大金を積んで手に入れ、肌身離さず隠し持っていた破滅の種子。
(死ね……死ねばいい……! お前さえ消えれば……お前が消えさえすれば、私は元の場所へ戻れるのよ……!!)
ガクンッ!
「うわっ!?」
クラリッサの両腕を支えていた近衛兵が、不意を突かれてバランスを崩した。
クラリッサが、突如として狂人の火事場の馬鹿力を発揮し、自らの体重を投げ打つようにして兵士の手を振り払ったのだ。
彼女は階段の最後の数段を転がるようにして滑り降り、大広間の大理石の床へと着地した。
「クラリッサ令嬢!?」近衛兵長が叫ぶ。
だが、その制止の声が届くよりも早く、クラリッサの喉から、主寝室の天井すら震わせるような、凄惨極まりない絶叫が噴き上がった。
「ああああああっっ!! お前のせいよォォォッッ!!」
広間にいた貴族たちが、一斉に息を呑んで凍りついた。
クラリッサは乱れた金髪を振り乱し、剥き出しになった黒ずんだ素肌を痙攣させながら、エルザめがけて一直線に突進を開始した。
その左手には、ドレスの隠しポケットから引き抜かれたばかりの、怪しい光を放つ紫色の遮光瓶が握りしめられていた。
「お前さえ……ッ! お前さえ生まれてこなければああああっっ!!」
怨嗟。嫉妬。狂気。
人間としての尊厳をすべて喪失した女の、命の炎の最後の一滴を燃料にした、剥き出しの殺意の突撃。
クラリッサは走りながら、瓶を塞いでいた真鍮の留め具を親指で力任せに弾き飛ばし、分厚いコルク栓を歯で食い千切るようにして引き抜いた。
プシュッ、と微かな内圧の抜ける音が響いた瞬間、瓶の口から、ツンと目を射るような強烈な異臭が気化した。
苦いアーモンドに似た植物性の毒草臭と、粘膜を激しく刺激する腐食性の酸臭。
距離は、わずか五メートル。
エルザは逃げようともせず、ただ静かに、突進してくる狂乱の令嬢を見据えていた。
その琥珀色の瞳は、迫り来る死の液体を前にしても、瞬き一つしていなかった。
「死ねぇぇっ!! 私の人生を奪った魔女めええええッッ!!」
クラリッサの腕が、狂乱の力で振り抜かれた。
紫色の遮光瓶から放たれたのは、無色透明の、だが致死的な質量を持った猛毒の飛沫。
弧を描いて宙を舞う液体が、エルザの無防備な顔面、その白磁のような両目と鼻梁めがけて、まっすぐに降り注ごうとした――。
コンマ数秒の刹那。
広間の貴族たちの誰もが、息を呑み、絶望の悲鳴を喉に詰まらせた、その絶対的な時間の隙間。
「エルザッ!!」
背後で、ギルバート大公の雷鳴のような怒号が爆発した。
大公の手が長剣の柄にかかり、その巨躯が突風のように前へと踏み出そうとした――。
だが。
それよりも速く。
音すら置き去りにするような神速の反応で、エルザの真横からその射線へと割り込んできた一つの影があった。
――ドォンッッッッ!!!!
空気が爆縮したかのような衝撃波とともに、エルザの視界を完全に遮断したのは、分厚い鋼鉄の壁だった。
テオバルト。
黒狼騎士団の筆頭副官であり、歴戦の戦場を幾度も生き抜いてきた生粋の軍人。
彼はクラリッサがポケットに手を伸ばしたその最初の筋肉の緊張を、すでに軍人の本能で捉えていたのだ。
テオバルトは左腕に装備していた黒鉄の重厚な大盾――『黒狼の円盾』を一閃させ、エルザの全身を頭の先から足元に至るまで、完全にその鋼の裏側へと包み隠していた。
バシャアアアアッッッッ!!!!
叩きつけられた猛毒の液体が、テオバルトの掲げた鋼鉄の盾の表面へと、凄まじい勢いで激突した。
だが、テオバルトの動きは、防御だけでは終わらなかった。
盾を構えた体勢のまま、男の右足が白大理石の床板を力強く踏み抜いた。
踏み込みざま、テオバルトの褐色の右手が、鋼の万力のような軌跡を描いて振り抜かれた。
武器は持たない。
だが、幾千の敵の甲冑を素手で歪ませてきた軍人の、骨をも砕く強烈無比な『掌打』。
その掌の付け根が、毒瓶を振り抜いた直後の、クラリッサの剥き出しの右腕の尺骨と橈骨の真ん中へと、容赦のない角度で直撃した。
――ボキィィィッッッッ!!!!
大広間の天井の隅々にまで反響する、生々しく硬質な骨折音。
枝木を両手でへし折ったかのような、一切の慈悲のない破壊の響き。
「ぎゃあああああああああっっ!?」
クラリッサの口から、人間の声とは思えない絶叫が迸った。
右腕の前腕部が、関節でもない場所でくの字にへし折れ、皮下で折れた骨の断端が皮膚を内側から突き上げている。
衝撃によって、彼女の手から紫色の遮光瓶が弾け飛んだ。
宙を回転する小瓶。
瓶の中に残されていた大量の無色の液体が、遠心力によって四方へとぶち撒けられ、そして大広間の中央の床面へと降り注いだ。
パシャリ。
床に敷き詰められていた、極上のペルシャ産羊毛絨毯。
そして、その下にある純白の花崗大理石。
その二つの物質の上に、毒液が接触した――その瞬間だった。
――ジュウウウウウウウッッッッ!!!!
耳を塞ぎたくなるような、激しい化学的腐食の咆哮が、大広間に響き渡った。
「……っ!?」
最前列にいた貴族たちが、恐怖に顔を引き攣らせて飛び退いた。
何が起きたのか。
液体が触れた羊毛の絨毯が、まるで高熱の鉄板を押し当てられたかのように、瞬く間にジュクジュクと泡を吹いて黒変し、チリチリと縮れながら煙を噴き上げ始めたのだ。
それだけではない。
絨毯の繊維を貫通して染み込んだ液体が、床の白大理石に触れた瞬間――。
シュワシュワシュワッ!!と、猛烈な勢いで白い炭酸ガスの泡が沸騰するように噴出し、硬い大理石の表面が、まるで熱したチーズのようにドロドロに溶け崩れ、白濁したヘドロとなって陥没していった。
立ち上る、暴力的な白煙。
ツンと目を焼き、肺腑を突き刺すような、猛烈な酸の刺激臭と、苦い植物性の悪臭が広間全体へと拡散していく。
「ひぃぃぃぃっ……!!」
「猛毒だ! 絨毯が……石の床が溶けているぞッ!!」
「即死毒だ! あんなものを浴びたら、骨まで溶かされてしまうぞッ!!」
貴族たちから、狂乱の悲鳴が上がった。
もし、あの盾がわずかコンマ数秒でも遅れていれば。
もし、あの液体がエルザの顔面に直撃していれば――彼女の皮膚は一瞬で焼け爛れ、両目は溶かされ、気道は腐食して窒息死していたはずだった。
殺意の塊。
道連れにするためだけに調合された、紛れもない即死の劇薬。
泡を吹いて溶け続ける大理石の床板を見つめながら、テオバルトは額からタラリと冷たい脂汗を一筋、流れ落ちさせた。
盾の表面には、跳ね返った毒液によって、黒鉄の塗装がジュウジュウと音を立てて剥がれ落ち、金属が白く腐食した痕跡が残されていた。
テオバルトは荒い呼気を一つ吐き出すと、ゆっくりと、その重厚な盾を下ろした。
そして――背後に無傷のまま佇む少女へと、視線を向けた。
「……副総裁。ご無事ですか」
低く、だが安堵の震えを必死に押し殺した副官の声。
かつて、大公領の黒狼城でエルザの喉元に抜刀寸前の威圧をかけ、「下働きの小娘」と侮っていたその男が。
いまや、自らの命を盾にして彼女を守り抜き、敬意の念を込めてその名を呼んでいた。
エルザは、乱れ一つない呼吸のまま、テオバルトを見上げた。
その白磁の頬には、飛沫の一滴すら触れていなかった。
琥珀色の瞳は、死の淵を覗き込んだ直後であるにもかかわらず、凪いだ水面のように微動だにせず、ただ静謐な光を湛えている。
「ええ、テオバルト様」
エルザは静かに頭を下げ、完璧な礼を返した。
「見事な反応速度でした。あなたの盾がなければ、私の角膜と顔面組織は重度の化学熱傷を免れなかったでしょう。……感謝いたします」
「……滅相もございません」
テオバルトは居心地悪そうに眉根を寄せ、短く答えた。
「大公閣下より、貴女の身の安全には我が命を賭せと厳命されております故。……当然の務めにございます」
その時、エルザの真後ろから、大地を揺るがすような重厚な足音が響いた。
ギルバート・フォン・ラングリール。
大公は佩刀の大剣の鍔を親指で弾き、半身を抜刀態勢にしたまま、エルザの隣へと歩み寄ってきた。
その氷灰色の双眸は、広間のシャンデリアの光すら吸い込んで凍結させるほどの、完全なる死神の光を湛えていた。
大公の視線は、床で折れた右腕を押さえ、白目を剥いてのたうち回っているクラリッサへと、冷酷無比に突き刺さっていた。
「……テオバルト」ギルバートの低く地を這うような声。
「はっ」
「腕を一本折っただけで済ませたのは、貴様の生温さか」
「……申し訳ございません、閣下。副総裁の御前を無駄な血飛沫で汚さぬよう、配慮いたしました」
「次はないぞ。エルザの髪の一筋にでも触れようとした者は、その場で四肢を切り刻めと命じたはずだ」
身の毛もよだつような会話。
皇帝フリードリヒの御前であるにもかかわらず、大公の殺気は寸分も衰えていなかった。
もしテオバルトの介入がなければ、ギルバート自身の大剣が、クラリッサの首を胴体ごと一刀両断にしていたことは、誰の目にも明白だった。
だが、エルザはギルバートの殺気を手で制した。
「大公閣下。これ以上、あの者に刃を向ける必要はありません」
「エルザ?」ギルバートが眉をひそめる。
「死ぬよりも、生き延びて自らの破滅を味わう方が、あの者にとっては遥かに重い刑罰となりますから」
エルザは白衣の裾をわずかに持ち上げると、大理石の床を踏みしめ、静かに歩みを進めた。
目指す先は――。
折れた右腕を抱え、脂汗と涙と鼻水に塗れながら、床の冷たい石畳の上でピクピクと痙攣している、元主家の令嬢の元。
泡を吹いて溶け続ける絨毯の煙が、二人の間を薄暗く遮っていた。
だが、エルザの足取りには、一片の躊躇も、一片の恐怖もなかった。
前世で自分を断頭台へと追いやった悪女の、最後の悪あがきを。
自らの知性と科学のメスをもって、完全に解剖し尽くすための冷徹な歩み。
静まり返る大広間の中、少女の靴音だけが、カツン、カツンと、運命の終わりを告げる秒針のように響き渡っていた。




