第43話:剥落する美貌
アルトハイム伯爵邸の主寝室に敷き詰められた白大理石の床板の上には、純白の磁器皿に焼き付けられた漆黒のヒ素鏡面と、大聖堂の血塗られた取引台帳が、冷酷な現実の質量をもって転がっていた。
皇帝フリードリヒが下した峻烈なる怒号と、近衛兵たちによって取り押さえられたアンセルム首席司教の無様な呻き声。
三年にわたって伯爵夫妻を蝕み、手足を麻痺させ、内臓を焼き爛れさせていた「呪い」の正体は、教会が暴利を貪るために貴族街へ売り捌いていたエメラルドグリーンの猛毒壁紙――亜ヒ酸銅から気化した有機ヒ素ガスであったという、反論の余地すらない完全なる生化学的証明。
その決定的な破滅の宣告が下された瞬間、寝室を取り囲んでいた宮廷諸侯たちの空気は、教会に対する激しい憎悪と怒号へと塗り潰されていた。
「私たちを……我が一族を、毒ガスで間引きしようとしていたのか!」「アンセルムめ、神の名を騙る希代の毒殺魔めが!」「聖水すらも毒だったとは……何という冒涜、何というおぞましさだ!」
かつて教会の権威に平伏し、神託を盲信していた貴族たちが、いまや手のひらを返してアンセルムを唾棄し、その足元を踏みにじらんばかりに詰め寄っていく。
神の奇跡という名のメッキは完全に剥がれ落ち、そこには強欲と毒薬の瓶しか残されていなかった。
だが――。
その怒号と断罪の坩堝のただ中にあって、ただ一人。
その厳然たる現実を、世界の崩壊を、頑として拒絶し続けている異様な影があった。
「……あ……あぁ……」
主寝室の豪奢な大理石の暖炉の脇。
陰鬱な影の中にへたり込んでいたクラリッサ・フォン・アルトハイムの喉から、空気の抜けるような引き攣った音が漏れ出した。
ガクガクと、膝が激しく震えていた。
レースのガウンは泥と破片で汚れ、爪は自らの皮膚を掻きむしったせいで血に染まっている。
だが、何よりも異様だったのは、その顔面だった。
表情筋の動きを完全に封殺するほど、何層にも、何ミリもの厚みで塗り固められた、セメントのような純白の粉末(高純度炭酸鉛の白粉)。
その白壁のような仮面の奥で、クラリッサの両目は限界まで見開かれ、血走った眼球が、床に落ちた帳簿と、冷然と佇むエルザの姿を、狂乱の勢いで往復していた。
(嘘よ……嘘よ、嘘よ、嘘よ……ッ!)
クラリッサの脳髄の中で、神経細胞が悲鳴を上げていた。
慢性鉛中毒による末期的な中枢神経症状――鉛脳症(lead encephalopathy)。
高濃度の鉛イオンが血液脳関門を突き破り、大脳皮質と大脳辺縁系を日常的に侵食し続けた結果、彼女の脳内ではすでに、現実を正しく認識し、論理的な思考を保つためのシナプスがズタズタに寸断されていた。
激しい偏頭痛。視界の端でチカチカと明滅する光の幻覚。
耳の奥底で鐘が乱打されるような耳鳴り。
そして――己の都合の悪い現実を一切受け入れられず、すべてを他者の悪意として処理しようとする、極限の偏執病。
認められるはずがなかった。
自分が手に入れたかったもの。
ディルク皇太子の側室となり、やがて帝国の頂点に君臨する国母となるという、眩いばかりの白日夢。
その足がかりとなるはずだった「アルトハイム伯爵家の格式」が、ただの毒壁紙の売人であり、教会のカモに過ぎなかったという現実。
何より――かつて自分が家畜のように見下し、冷たい洗濯場で雑巾を投げつけていたあの下賤なエルザが、いまや皇帝と皇妃の絶大な信任を背負い、帝国の医療制度の頂点たる衛生院副総裁として自分を見下ろしているという、天地が逆転したこの屈辱。
「……認めないわ」
ポツリと、乾いた呟きが零れた。
クラリッサは暖炉のへりに手をかけ、爪を軋ませながら、ギチギチと立ち上がった。
その動作は、まるで関節に錆びた鉄屑を詰め込まれた操り人形のように不自然で、ぎこちなかった。
「認めない……認めないわよ……! こんな出鱈目……何の意味もないわ!!」
ヒタ……ヒタ……と、引きずるような足音が主寝室の中央へと進み出る。
ざわめいていた貴族たちの声が、その異様な気配に気づき、一人、また一人と途切れていった。
全員の視線が、部屋の中央へとふらふらと歩み出てきた令嬢の姿へと注がれる。
「クラリッサ……?」
ベッドの上で辛うじて意識を取り戻していたアルトハイム伯爵が、掠れた声で娘を呼んだ。
だが、クラリッサの耳には、瀕死の父の声など届いていなかった。
彼女の血走った双眸は、ただ一点――純白の医療用ローブを纏い、泰然自若として立つエルザ・ヴァルデックの姿だけに、縫い付けられていた。
「嘘よッ!!」
鼓膜を劈くような、甲高い金切り声が大広間に爆発した。
クラリッサは両手を振り上げ、激しい唾を撒き散らしながら、エルザを指弾した。
「嘘よ! 全部デタラメよ! 何がヒ素よ、何がカビの毒ガスですって!? そんな奇怪な理屈で、この神聖なるアルトハイムの館を穢さないでちょうだい! 私の家が……帝国屈指の誇り高き我が伯爵家が、教会の詐欺に引っかかって自滅しただなんて……そんな恥辱、この私が認めるわけがないでしょうッ!!」
広間の貴族たちが、息を呑んで後退った。
もはや令嬢の体裁すら保っていない、狂乱の叫び。
近衛兵長が剣の柄に手をかけるが、皇帝フリードリヒは無言のまま片手を挙げ、それを制した。冷徹な覇王の瞳は、破滅の瀬戸際に立つ哀れな悪女の末路を、最後まで見届ける構えを崩していなかった。
「お聞きなさい、皆様!」
クラリッサは周囲の諸侯へ向けて、狂ったように両腕を広げてアピールした。
「騙されてはなりませんわ! この女……このエルザは、かつて我が屋敷で泥水を啜っていた、ただの身分の卑しい雑巾娘ですのよ! 主家に恨みを抱き、大公様を奇怪な術でたぶらかし、皇太子殿下の腹を切り裂いて宮廷に入り込んだ魔女ですのよ!
我が両親が倒れたのも、すべてこの女の呪詛に決まっているわ! この女の悪魔の術を隠すために、壁紙のせいにして誤魔化しているだけなのよ!」
クラリッサは胸元を激しく上下させ、額に青筋を浮かび上がらせた。
その呼吸はヒューヒューと喉を鳴らし、酸欠と狂乱によって血圧が限界まで跳ね上がっていた。
彼女は一歩、エルザへと詰め寄った。
その唇が、嘲弄と狂乱の笑みに歪む。
「……そして、何よりも! 私の美しさは本物よ!!」
誇らしげな、だが寒気のするような絶叫。
クラリッサは自らの両手で、自らの頬を、首筋を、撫で回すように抱きしめた。
「見てごらんなさい! この雪のように純白な肌を! 毛穴の一つもなく、神の祝福を一身に浴びた、この陶器のような完璧な白さを! 大聖堂の秘蹟によって清められた、選ばれし者だけに許された至高の美貌なのよ!
殿下が……ディルク殿下が私をお選びにならないはずがないわ! 私は皇太子妃となり、帝国の母となる女なのよ! こんな下賤なネズミの戯言に、私の栄光が傷つけられてたまるものですかッ!!」
美への狂信。
己の唯一のアイデンティティであり、他者を見下すための絶対の武器であった「白さ」への、病的な執着。
エルザにすべてを奪われようとも、この美貌さえあれば、自分はまだ勝てる――そう信じ込むことでしか、彼女の崩壊しかけた自我は、その形を保つことができなかったのだ。
だが。
その絶叫を正面から浴びせられながらも――。
エルザ・ヴァルデックは、一歩も引かなかった。
眉一つ動かさず、侮蔑の色すら浮かべず、ただ、解剖台の上の組織標本を見つめるような、絶対零度の静謐。
そして、エルザの薄い唇から、氷の針のような一言が静かに放たれた。
「……哀れですね、クラリッサ様」
「な……に……?」
クラリッサの狂乱の笑みが、ピキリと凍りついた。
「その『美しさ』の代償として、ご自身の肉体が、いま、どのような音を立てて崩れ落ちているのか……。中枢神経を冒されたあなたの脳には、それすら認識できなくなっているのですね」
「黙りなさいッ! この負け犬が、私の美貌に嫉妬して――」
「嫉妬? 腐敗しつつある死肉に対して、誰が嫉妬などするものですか」
エルザの声は、感情を完全に排したメスのように、残酷な事実を切り刻んだ。
「クラリッサ様。……鏡をごらんなさい」
「え……?」
「今、この瞬間も。あなたのその陶器の仮面は――あなた自身の熱と脂汗によって、崩壊を始めていますよ」
ピシリ。
主寝室の静寂の中に、極めて微小な、だが決定的な亀裂の音が響いた。
「……あ……?」
クラリッサの喉が、息を呑んだ。
顔面の皮膚に、異様な違和感が走ったのだ。
激昂による急激な血圧上昇、興奮によって噴き出した大量の脂汗、そして叫び声を上げたことによる表情筋の無理な伸縮。
その物理的な張力に、何層にもわたってセメントのように塗り固められていた高純度炭酸鉛の分厚い層が、耐えきれなくなったのだ。
ピキ、ピキピキッ――。
目に見える速度で、クラリッサの右頬から額にかけて、蜘蛛の巣のような細い亀裂が走った。
純白の仮面に走る、無数のヒビ割れ。
クラリッサは恐怖に瞳を揺らし、震える両手で自らの顔を触ろうとした。
「あ……? な、何……? 私の肌が……?」
その指先が触れた瞬間――。
――ボロッ。
乾いた音を立てて、親指大の白粉の塊が、右頬から剥がれ落ちた。
次いで、パラパラ、パラパラと、音を立てて。
額から、鼻筋から、唇の周囲から、そして首筋から。
塗り固められていた分厚い鉛白粉の層が、まるで乾燥して劣化した漆喰壁が崩れ落ちるように、猛烈な勢いで床の白大理石の上へと崩落していったのだ。
「いやああああああああっっ!!」
クラリッサが喉を引き裂くような絶叫を上げ、両手で顔を覆い隠そうとした。
だが、すでに遅かった。
舞い散る白い粉煙の向こう側から。
満場の皇帝、皇妃、諸侯たち、そして近衛兵たちの目の前に――白日の下に晒された、アルトハイム伯爵令嬢の「真の素顔」。
「――っ!?」
「ひぃぃぃぃぃっっ!!」
寝室のあちこちから、悲鳴と、生理的な嫌悪に満ちた呻き声が同時に噴き上がった。
最前列にいた老侯爵が顔色を変えて手袋で口元を覆い、何人もの若い貴族たちが耐えきれずに胃液を喉まで逆流させて後退る。
そこに現れたのは――人間の生者の顔面とは、到底呼べないものだった。
剥落した白粉の下から覗いていた素肌。
それは、瑞々しい肌色などでは断じてなかった。
末梢の毛細血管が鉛の毒性によって極限まで攣縮し、慢性の虚血に陥った皮膚は、まるで泥水に何ヶ月も浸け込まれていたかのような、濁りきった鉛灰色から、どす黒い土気色へと変色していた。
それだけではない。
皮膚の角質層は完全に壊死し、干からびた魚の鱗のようにボロボロと毛羽立ち、その隙間という隙間から、鉛毒による毛細血管の破綻がもたらした、無数の赤紫色の紫斑(点状出血)が、おぞましい毒キノコの斑点のように散らばっていた。
さらに、異様さを極めていたのは、顔貌の細部だった。
美白粉の連用によって毛包が完全に破壊され、彼女の自慢だった美しい眉毛は、一本残らず抜け落ちてツルツルの皮膚を晒していた。睫毛も抜け落ち、剥き出しになった瞼の縁は、赤黒く腫れ上がってただれている。
「見ないで……! 見ないでえええっ!!」
クラリッサが泣き叫び、手袋の手で顔を隠そうとする。
その拍子に、開かれた彼女の口元から――。
ウッ、と周囲の鼻腔を直撃する、強烈な金属臭と腐敗臭の混ざり合った悪臭が漂い出た。
覗き見えた口腔内。
上顎と下顎の歯肉は、健康的なピンク色など微塵もなく、まるで腐った泥のように赤黒く腫れ上がり、一部は壊疽して黄色い膿汁が滲み出ていた。
そして、歯の付け根の全周を取り囲むように、はっきりと沈着した――幅二ミリにも及ぶ、漆黒の帯。
硫化鉛の沈着線――バートン線(Burton's line)の極期。
歯肉の壊疽によって歯槽骨が溶け崩れ、クラリッサの上顎の前歯二本は、支えを失って不自然な角度へとグラグラと傾き、今にも血混じりの唾液とともに抜け落ちそうに揺れていた。
「あ……あ……あぁ……」
クラリッサの細い喉から、意味を成さない呻きが漏れる。
震える彼女の手首は、重度の橈骨神経麻痺により、重力に逆らう力を完全に失い、幽霊の手のようにだらりと下を向いていた――下垂手(wrist drop)。
陶器の美姫。社交界の華。
その虚飾の皮膚を一皮剥ぎ取った後に残されていたのは――。
自らの虚栄心と美への病的な狂気によって、自らの手で全身の組織を毒で溶かし尽くした、哀れで醜悪な「生きた死体」の姿だった。
「……これが」
エルザの冷徹な声が、静まり返る主寝室に、刃物のように突き刺さった。
「あなたが命を懸けて手に入れた、『美しさ』の全貌です、クラリッサ様」
エルザは一歩も動かず、床に崩れ落ちかけたクラリッサを、ただ事実の重みだけで見下ろした。
「肌を白く塗り固めるたびに、あなたは自らの毛穴から、致死量の炭酸鉛を体液の中へと注ぎ込み続けた。
鉛は赤血球のヘム合成を阻害して重篤な貧血をもたらし、末梢神経を麻痺させてその手首を殺し、歯肉を壊疽させ、そして――あなたの脳幹を内側から腐食させて、その狂気を加速させたのです」
エルザの指先が、床に散らばる白い粉の破片を冷ややかに指した。
「悪魔の呪いなど、最初からこの世のどこにもありませんでした。
伯爵夫妻を蝕んだのは、教会の壁紙から立ち上るヒ素の毒ガス。
そして――あなたをその醜悪な怪物へと変え果てさせたのは、他でもない、あなた自身が愛用し続けた、その白粉の毒です」
慈悲のかけらもない、完全なる真理の宣告。
「美しさを求めて毒を貪り、自らの手で自らの肉体を解剖台のゴミへと変えた。……因果応報。これ以上、理屈の通った自滅が、この世のどこにあるというのですか」
「あ……あぁぁぁぁっ……!!」
クラリッサの全身が、激しい痙攣のように震え出した。
彼女は床に這いつくばり、割れた鏡の破片へと手を伸ばした。
そこに映り込んだ、自らの素顔。
眉毛はなく、肌は黒ずみ、歯肉は腐り、紫斑に塗れた、化物のような顔。
「嘘よ……嘘よぉぉぉっ!! こんなの……こんなの、私じゃないわあああああっっ!!」
主寝室の天井を突き破らんばかりの、喉を引き裂く絶叫。
クラリッサの精神を辛うじて繋ぎ止めていた最後の防壁が、音を立てて粉々に砕け散った。
自らの美しさが嘘であったこと。
自分が信じていたすべてが、自らを殺す毒であったこと。
その耐え難い現実の質量に、中枢神経を冒されていた彼女の脆弱な脳は、完全に耐えきることができなかったのだ。
クラリッサの瞳孔が、左右不同のまま、完全に虚空へと固定された。
口から泡混じりの血唾液を垂らし、自らの髪を狂ったように引き抜きながら、彼女の喉から漏れ出したのは――もはや人間の言葉ではない、壊れた蓄音機のような異様な嗤い声だった。
「あは……あははははっ! あははははははははっ!! 見て……見てよ、殿下……! 私、白くなったわ……! 誰よりも……誰よりも白い、お人形になったのよぉぉぉっ!!」
完全なる精神錯乱。
前世において、エルザに無実の濡れ衣を着せ、民衆の罵声の中で断頭台へと送り込んだ元主家の傲慢な令嬢は――。
誰の手で処刑されることもなく。
自らの虚栄と、自らが塗りたくった毒の海の中で、人間としての尊厳のすべてを失い、完全に崩壊していった。
満場の貴族たちが、恐怖と戦慄に息を呑み、一歩、また一歩と後退る。
だが、その狂乱の自滅劇の真ん中にあって。
エルザ・ヴァルデックの琥珀色の瞳だけは、凪いだ水面のように、ただ静かにその光景を見据えていた。
復讐の快感すら、そこにはなかった。
ただ、原因があり、結果が生じた。
生化学の法則通りに現象が完結したことを確認した、冷徹な外科医の静寂だけが、血塗られた寝室の空気を支配していた。




