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呪いではなく鉛中毒です〜死に戻り侍女は近代医学で冷酷大公を救い、宮廷の嘘を解剖する〜  作者: タカケンサンバ


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第40話:エメラルドグリーンの寝室

週末の午前、帝都サンクト・オーガスタの高級貴族街を貫く大通りは、かつてないほどの異様な緊張感と厳戒態勢に包まれていた。

アルトハイム伯爵邸の鉄の門柱を挟むように、皇帝直属の近衛兵たちと、漆黒の軍装に身を包んだ黒狼騎士団の精鋭が、幾重にも二重の包囲網を敷いて固めていた。野次馬として詰めかけた数百人の市民や下級貴族たちは、物々しい兵装の騎士たちに押し返され、遠巻きに息を呑んでその様子を見守っている。

「おい、聞いたか……? アルトハイム伯爵邸で、教会の異端審問所と帝国衛生院が真っ向から衝突するらしいぞ」

「魔女裁判だとよ。元侍女だったエルザ副総裁が、かつての主家を呪い殺したって告発されたらしいが……」

「馬鹿を言え、あの副総裁閣下は皇太子殿下の命を救ったお方だぞ! 教会が仕組んだ泥縄の陰謀に決まってるだろ!」


ざわめく群衆の怒号と噂話を切り裂くように、白亜の近衛馬車と、大公家の漆黒の馬車が続々と屋敷の庭園へと滑り込んでいった。

馬車の扉が開き、降り立ったのは――皇帝フリードリヒとロザリア皇妃、さらには大聖堂の威信を背負って顔面を蒼白にしたアンセルム首席司教、そして事件の裁定を見届けるべく集まった大勢の宮廷貴族たちだった。

薄曇りの冬空の下、冷たい風が枯れ果てた庭木の枝を揺らし、アルトハイム伯爵邸の豪奢な玄関口には、これから繰り広げられる「公開検証」の異様な熱気と死の気配が澱んでいた。


◇


本館の重厚なエントランスを抜け、一同が足を踏み入れた邸内は、すでに人間の住む場所ではない、荒廃した墓場のような気配に満ちていていた。

埃を被った大理石の床、誰も手入れをしない階段の手すり。

その淀んだ空気の中を、先頭を切って進むのは――純白の医療用ローブを身に纏い、一切の迷いのない足取りで歩むエルザ・ヴァルデックだった。

その背後には、冷酷な眼光で周囲を威圧するギルバート大公、絶望と復讐の炎を瞳に宿したロザリア皇妃、そして実験器具を詰め込んだ黒革のトランクを両手に抱えたユーグとオスカーが、完璧な陣形を組んで従っている。


「――エルザ副総裁」

階段の途中で、皇帝フリードリヒが重々しい足取りを止め、振り返った。

その猛禽のような双眸が、エルザの白磁の横顔を射抜く。

「そなたの申し立て通り、現地での検証を許可した。伯爵夫妻の病が『魔女の呪詛』などではなく、別の何者かによる科学的事実であると言うのなら……その証拠を、今ここですべて示してみせよ」


「御意に、皇帝陛下」

エルザは立ち止まり、深く一礼した。

その直後、階段の吹き抜けの上から、狂気に満ちた甲高い金切り声が降ってきた。


「嘘よ……! 嘘よ、全部デタラメよッ!!」


見上げれば、そこにはボロボロのレースガウンを引きずり、顔面をセメントのような厚い白粉で異様に塗り固めたクラリッサが立っていた。

その目は充血し、不同瞳孔で狂気の光を爛々とギラつかせながら、手すりにしがみついて下を睨みつけている。

「証拠などあるはずがありませんわ! この女は、我が家を破滅させるために嘘の芝居を打っている詐欺師よ! 神聖なる教会の審問官様、早くこの魔女を捕らえて火刑台へお引き立てなさい!」

クラリッサの絶叫を聞いたアンセルム首席司教は、胸元の包帯を抑えながら、冷酷な笑みを浮かべて一歩進み出た。

「陛下、お聞き及びの通りでございます。令嬢の訴えこそが天の声。神の領域を冒涜した魔女の邪法を、これ以上野放しにしてはなりませぬ」


エルザは、狂乱するクラリッサを一瞥すらせず、ただ冷ややかに言い放った。

「騒がしいですね。……皆様、伯爵夫妻の主寝室へご案内いたします」


◇


一行が到着したのは、アルトハイム伯爵邸の最上階、南西の角に位置する「主寝室」だった。

部屋の扉が開かれた瞬間、同行していた貴族たちの中から、思わず「っ……!」と息を呑む音が漏れた。


室内には、尋常ではないモワッとした湿気と、どこか鼻を衝く異臭が充満していた。

天蓋付きの豪奢なベッドの上では、アルトハイム伯爵と夫人が激しい苦痛に悶え、意識を混濁させながらうめき声を上げている。二人の皮膚には雨だれのような黒褐色の色素沈着が浮かび、手足は動脈炎と神経炎によって完全に萎縮していた。


だが、部屋に足を踏み入れた貴族たちの視線を最初に釘付けにしたのは、患者たちの惨状ではなかった。


「……な、なんだ、あれは……?」

「壁が……壁がすべて、異様な緑色に染まっている……?」


そう。

その寝室の四方の壁を埋め尽くしていたのは、息を呑むほどに鮮やかで、そしてどこか不気味なまでの光沢を放つ――豪奢なエメラルドグリーンの輸入壁紙だった。

細やかな金糸の植物文様が織り込まれ、一見すれば、帝都の最高級サロンで「最も洗練された貴族の証」として大流行している最新の最高級装飾品。

だが、その緑色は、自然界の植物が持つ瑞々しさとは根本的に異なっていた。

どこか人工的で、生命の気配をすべて拒絶するような、毒々しいまでに鮮烈な青緑色の波紋。


「……なんと美しい緑だ。これが病と何の関係があるのだ?」

最前列にいた老侯爵が、怪訝そうに眉をひそめて呟いた。

アンセルム司教は、自信に満ちた冷笑を浮かべ、前に進み出た。

「見当違いも甚だしい。あのような美しい調度品に難癖をつけ、主家を呪い殺した罪から逃れようとは、見苦しい限りですな。陛下、これを見れば、この小娘がどれほど的外れな言い掛かりをつけているか明白でございます」


アンセルムの言葉に、クラリッサが「そうだわ! あれは流行の素晴らしい壁紙よ!」とヒステリックに同調する。


だが――エルザの表情は、湖面のように微動だにしなかった。

彼女は白衣のポケットから手袋を取り出し、装着しながら、ゆっくりとそのエメラルドグリーンの壁紙へと歩み寄った。


「ええ、とても美しい緑ですね」

エルザの冷徹な声が、寝室の静寂に落ちた。

「別名『シェーレ緑』――亜ヒ酸銅(あひさんどう)を主原料とした、死を呼ぶ猛毒の顔料です」


ピシリ、と室内の空気が凍りついた。

「……しぇーれ、みどり……?」貴族たちが顔を見合わせる。


「亜ヒ酸銅。すなわち、大量の『ヒ素』です」

エルザは手袋をした指先で、その美しい緑色の壁紙の表面をそっと撫でた。

「この帝都は湿気が多く、特にこの伯爵邸の北西に位置する主寝室は、外壁の構造上、常に内部に湿気が籠もりやすい。そして、この壁紙の糊(のり)と紙の繊維には、有機物が好むカビ――『ペニシリウム属』の胞子が大量に繁殖している」


エルザは背後のユーグとオスカーに合図を送った。

「オスカー、実験の準備を」

「おう! 任せな!」


オスカーは持参した黒革のトランクから、耐熱ガラスのフラスコ、細長いガラス管、そしてアルコールランプを手際よく組み立て、ベッドサイドのテーブルの上に即席の「化学検証台」を組み上げた。

エルザは壁からナイフを取り出し、その美しいエメラルドグリーンの壁紙の破片を、数センチ四方だけ綺麗に削り取った。


「実演いたしましょう。亜ヒ酸銅を含んだ壁紙に、室内の湿気とカビが作用すると、何が起きるか」


削り取った壁紙の破片をフラスコの中へ投入し、希硫酸と亜鉛の粒を加えて密閉栓をする。

アルコールランプの炎が、フラスコの下部を強熱した。

数秒後。

細長いガラス管の先から、目に見えない無色の気体がシューッと噴出し始めた。


「管の先を、少しだけ嗅いでみてください。ただし、肺の奥まで吸い込んではなりませぬ」

ユーグが、物見高い貴族たちを促す。

恐る恐る近づき、手で風を送るようにして匂いを確かめた近衛兵長が、顔を激しくしかめて後退った。


「……く、臭いッ……! 何だ、この強烈な匂いは……!?」

「ニンニクが腐り果てたような……生臭い、鼻を突く悪臭だ……!」


「それこそが、カビが壁紙の亜ヒ酸銅(ヒ素)を分解し、生み出し続けた猛毒の気体――トリメチルアルシン(有機ヒ素ガス)です」

エルザの澄み切った声が、全員の鼓膜を打ち抜いた。


「この屋敷の住民たちは、特殊な毒を飲まされていたのではありません。この締め切られた寝室で毎晩眠るたびに、壁から気化してくるこの無色の猛毒ガスを、肺いっぱいに吸い込み続けていたのです。

ヒ素ガスは呼吸器から血流へと直結し、赤血球を破壊し、末梢神経を麻痺させ、皮膚を黒褐色素沈着へと変え、内臓の細胞呼吸を完全に停止させる。……伯爵夫妻が手足の痺れに苦しみ、高熱に冒されて寝たきりになったのは、悪魔の呪詛などではなく、この壁紙が放つヒ素ガスによる慢性ヒ素中毒の、あまりにも必然的な結末です」


動かぬ化学の現実。

ガラス管の先から漂うニンニクの腐敗臭が、貴族たちの鼻腔を容姿なく打つ。

アンセルム司教の顔から、完全に血の気が引いていった。男は額の包帯を押さえ、震える足で後退りしようとする。


「ま、待て……! たかが壁紙から毒ガスが出るなどという出鱈目、科学のペテンだ! 偶然の一致に過ぎん!」


「偶然ではありません」

エルザは一歩も引かず、さらにトドメの証拠を突きつけた。

「オスカー、マリカ。伯爵夫妻の寝具から採取した毛髪の分析結果を」

マリカが差し出した羊皮紙の記録を、ユーグが皇帝フリードリヒの足元へと差し出した。


「陛下。伯爵夫妻の頭髪を根元から先端まで数ミリ単位で採取し、硝酸分解法を用いて残留金属を測定いたしました」

ユーグの野太い声が、冷徹に響き渡る。

「ヒ素は毛髪のケラチンタンパク質に強固に結合し、生涯にわたって体外へ残り続けます。その結果、夫妻の髪からは、過去三年にわたり周期的にヒ素を取り込み続けた、明確な『蓄積の波形』が検出されました。これは、このエメラルドグリーンの壁紙をこの主寝室に貼り替えた時期と、完全に一致しております」


完璧なまでの物証の連鎖。

壁紙の化学反応。気化する毒ガス。そして毛髪から検出されたヒ素の蓄積記録。

呪いなど存在しない。

あるのは、美しさと流行の裏に隠された、冷徹な化学物質の毒性だけ。


「――そして、もう一つの疑問です」

エルザは懐から、一冊の薄い革表紙の手帳を取り出した。

その表紙には、大聖堂の紋章と商会の名前が刻印されていた。


「この致死性の毒壁紙を『最先端の宮廷の流行』と称して帝都の貴族たちに売り捌き、莫大な富を得ていたのは誰か。……皆様、よくご覧なさい」

エルザの手帳が、アンセルムの足元へ放り投げられた。


「『聖ルカ商会』――教会の免税特権を背景に持ち、アンセルム司教の息がかかった教会の御用商人です。彼らは毒性を知りながら、安価な亜ヒ酸銅の顔料を大量に輸入し、高値で貴族の屋敷へ売りつけていた。

そして、その壁紙の毒で貴族たちが病に倒れると、今度は教会が『悪魔の呪詛だ』と脅しをかけ、高額な聖水を売りつけて二重に暴利を貪る。

……これが、神の奇跡の正体ですか? アンセルム首席司教」


カラン、と手帳が床を滑った。

満場の貴族たちが、一斉にアンセルムへと視線を突き刺した。

そこにあったのは、もはや畏敬の眼差しではない。

我が身を毒で蝕まれ、財産を根こそぎ奪われていたことに気づいた者たちの、底知れぬ怒りと殺意の眼差しだった。


「お、の、れ……ッ!!」

アンセルムは絶望と怒りに顔を歪め、額の包帯を引き裂かんばかりに狂乱した。

「め、滅相もございません! すべてはこの魔女の捏造だ! こんな小娘の出鱈目な戯言に惑わされてはならん! 衛兵、今すぐこの異端者を――」


「――そこまでです」


静かだが、玉座の主たる皇帝フリードリヒの、拒絶の低い声がすべてを押し切った。

皇帝の猛禽のような双眸が、アンセルムを射抜く。

「アンセルム。もう一言も発するな。これ以上の醜態は、神殿の存在そのものを完全に消し去ることになるぞ」


絶望。

アンセルムの足から力が抜け、司教は血溜まりの代わりに冷たい大理石の床へと崩れ落ちた。


だが――その阿鼻叫喚の最中。

寝室の隅で、別の狂気が爆発しようとしていた。


「嘘よ……嘘よ、嘘よ、嘘よぉぉっッ!!」


甲高い、耳を劈くような絶叫。

顔面を白粉で厚く塗り固め、異様な姿と化したクラリッサが、大広間の中央へと飛び出してきた。

彼女は両手で自らの顔を掻きむしり、ヒステリックに泣き叫びながら、エルザへと突進した。

「全部あなたのせいよ! あなたが我が家に呪いをかけ、すべてを奪い取ったのよ! 私の美しさも、皇太子の側室の座も、すべて……すべての元凶はお前なのよ、エルザぁっ!!」


クラリッサはドレスの隠しポケットから、あの密売人から買い入れた紫色の遮光瓶――猛毒の「特級聖水」を乱暴に引き抜いた。

「死ね! 私の人生を奪った魔女め、地獄へ落ちなさいッ!!」


狂乱の勢いで、瓶の中の液体をエルザの顔面へ向けてぶち撒けようとする。


「エルザッ!」

背後でギルバートが怒声を上げ、長剣の柄に手をかけた――その、コンマ数秒の瞬間。


風を切り裂いて割り込んだのは、テオバルトだった。

テオバルトは腰の重厚な鉄盾を一閃させ、飛散する液体を完全に遮蔽すると同時に、踏み込みざまにクラリッサの右腕を容赦ない掌打で打ち払った。


ボキリッ!


生々しい骨折音が寝室に響き渡る。

紫色の小瓶がクラリッサの手から弾け飛び、床のペルシャ絨毯の上へと激しく落下した。


ジュウウウウッ――!!


一瞬の遅れもなく、飛び散った高濃度の希塩酸と水銀の液体が、厚手の羊毛絨毯を一瞬で真っ黒に焼き焦がし、白大理石の床板を激しく泡立たせて白濁させた。

猛烈な刺激臭が室内に充満する。

「ひっ……!」貴族たちが悲鳴を上げて一斉に後退った。


テオバルトは冷汗を流しながら盾を下ろし、床で折れた腕を押さえてのたうち回るクラリッサを見下ろした。

だが、クラリッサは痛みすら感じていないかのように、なおも血走った眼でエルザを睨みつけ、狂ったように笑い声を上げた。


「あはは……あははははっ! ざまぁみろだわ! 私は美しくなったのよ! この白粉で、誰よりも純白に……!」


その瞬間だった。

激しく転げ回った衝撃で、クラリッサの顔面を分厚く覆っていたセメントのような白粉の塊が、ピキリと音を立てて大きく亀裂を入れた。

そして――パラパラ、と音を立てて、その大部分が床へと剥がれ落ちた。


「あ……? いや、見ないで……! 見ないでよおぉっ!」


剥落した白粉の下から現れた素肌。

それは、もはや人間の少女のそれとは到底呼べない、おぞましい破滅の相を完全に露にしていた。

鉛中毒の末期症状によって、肌はどす黒く変色し、無数の紫斑が膿んで爛れている。眉毛も睫毛もすべて抜け落ち、恐怖に開かれた口元からは、壊疽して黒ずんだ歯肉と、根元からグラグラと折れ曲がった前歯がむき出しになっていた。

美への病的な執着によって自らの肉体を鉛の毒で溶かし尽くした、自業自得の怪物。


「ひぃっ……化物だ……!」「あれが、アルトハイム家の令嬢なのか……!?」

貴族たちが恐怖と生理的嫌悪に顔を背け、悲鳴を上げて後退った。


エルザは、床で泣き叫び、自らの醜い素肌を引っ掻いて血を流すクラリッサを、憐憫のかけらもない冷徹な瞳で見下ろした。

「忠告したはずです、クラリッサ様。その美白粉は鉛そのものだと」

エルザの声は、広間の全員の背筋を凍らせた。

「美しさを求めて自ら毒を塗りたくり、自らの手で神経と肉体を溶かした。……呪いなど、初めからこの世界のどこにもなかった。あるのは、あなた自身の無知と虚栄心が招いた、必然の自滅だけです」


鏡に映った己の醜悪な姿と、エルザの冷徹な宣告を聞いた瞬間――クラリッサの精神の糸は、プツリと完全に音を立てて切れた。

「あ……あ……あひ……あははははははっ……!!」

彼女は白目を剥き、完全に正気を失った狂気のエメラルドの亡霊として、その場でキャッキャと異様な笑い声を上げながら、痙攣を起こして泡を吹いて失神した。


静寂。

誰もが言葉を失う中、皇帝フリードリヒは冷徹に手を振った。

「近衛兵。アルトハイム伯爵夫妻、および狂乱した令嬢を拘束せよ。アルトハイム家は、有害毒物の隠匿、詐欺的商行為への加担、および殺人未遂の罪により、本日をもって爵位を剥奪、改易とする。全財産は没収し、流刑に処す」


帝国法に基づく、冷徹極まる一族の断絶。

前世でエルザを死の淵へと追いやった元主家の栄光は、自らが溜め込んだ毒の海に沈み、跡形もなく消滅した。


中庭では、寝室から剥ぎ取られたシェーレ緑の壁紙の山と、数千の鉛白粉の瓶が積み上げられ、近衛兵の手によって盛大に火が放たれていた。

立ち上る毒々しい黒煙。

その炎の中で、前世のエルザを縛り付けていた悪夢の亡霊は、完全に灰へと変わっていった。


◇


陽が傾きかけた夕暮れ時。

エルザは一人、帝都の処刑場広場――前世で自分が首を刎ねられた、あの冷たい石畳の広場に立ち寄っていた。

風が吹き抜ける。

首筋に触れる冷気は、あの日とまったく同じだった。


(終わった……)


アルトハイム家は滅び、神殿の欺瞞は白日の下に晒された。

もう、無知のまま断頭台に立つ自分はいない。

だが、胸の中に広がったのは歓喜ではなく、長年の緊張から解放された底知れぬ疲労と、ぽっかりと空いた虚脱感だった。


その時、背後から音もなく温かな気配が寄り添い、重厚な黒い軍外套がエルザの細い肩をすっぽりと包み込んだ。

「……寒空の下で、何を考えている」

低く、深い声。ギルバートだった。

大公はエルザの華奢な体を外套ごと自らの胸元へと引き寄せ、冷え切った彼女の頬を、温かい指先でそっと包み込んだ。

「閣下……私は……」

「何も言うな。お前の戦いは、俺が一番近くで見ていた」

ギルバートの腕が、痛いほど強くエルザを抱きしめる。

「過去の亡霊はすべて灰になった。お前を縛るものはもう何もない。……これからはお前の未来を作れ。俺の隣で、お前の望む世界を作れ」


男の胸から伝わってくる、力強い心臓の鼓動と、生きている人間の確かな熱。

その温もりに触れた瞬間、エルザの瞳から、前世の死の瞬間すら流さなかった涙が、一筋の雫となって溢れ出した。

声を殺して泣くエルザの頭を、ギルバートは無骨な手で優しく抱きとめ、彼女が泣き止むまで、冷たい夜風をその背中で遮り続けた。


だが――その背後、帝都の遥か地下深く。

大聖堂の最地下、何重もの鉄扉で封鎖された暗黒の書庫の奥底で。

すべてを失ったアンセルム首席司教の手が、教会の地下深くに封印されていた「禁断の生物兵器(コレラ菌の原種)」の鉛のケースの封印を、狂気に狂いながら解き放とうとしていた。


帝国全土を巻き込む、最大かつ最悪のパンデミックの足音が、静かに、だが確実に忍び寄ろうとしていた――。

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