第39話:逆行の召喚状
白金宮の北翼、かつて宮廷薬師たちの薬草倉庫と古文書保管庫として埃を被っていた石造りの一角は、いまや帝国の権力構造を根底から塗り替えつつある新設機関――『帝国衛生院』の本庁舎へと急速に生まれ変わりつつあった。
吹き抜けの回廊には、煮沸消毒されたリネンの清々しい匂いと、オスカーの工房が焼き上げたばかりの耐熱ガラスや無鉛磁器が擦れ合う硬質な音が反響していた。床には生石灰と熱湯による洗浄の跡が白く残り、旧来の淀んだ黴の臭気は完全に一掃されている。
かつてファビアン首席薬師の下で星占術と四体液説の祈祷書を抱えていた見習い侍医たちは、いまや血相を変えてエルザが定めた『臨床観察記録簿』の書式を抱え、脈拍の計測手順や体温の記録法を必死に暗記しながら回廊を小走りに駆け交わっていた。
その最奥、陽光が大きな採光窓から差し込む『副総裁執務室』。
黒檀の頑丈な執務机の上には、帝都全域の薬局台帳、神殿が独占していた製薬所の査察計画書、そしてスラム街の地下研究所でユーグが作成した病理解剖のスケッチが整然と積まれていた。
エルザ・ヴァルデックは、糊のきいた真っ白な医療用ローブの袖をわずかに捲り上げ、羽ペンを滑らせていた。
「……テオバルト副官。下町の下水路の勾配データですが、南東区画の排水溝に深刻な汚泥の逆流が確認されています」
エルザは顔を上げることなく、手元の図面を指先でトントンと叩いた。
「大聖堂の丘から流れ落ちる生活廃水が、ブロード通りの共同井戸の涵養層と異常に近接している。春の雪解け水を待たずに、排水路の側壁を石灰モルタルで固めさせなさい。放置すれば、地下水の汚染から腸管感染症の爆発を招きます」
「承知した。黒狼騎士団の工兵隊へ直ちに伝令を飛ばそう」
机の脇で羊皮紙の束を抱えていたテオバルトが、軍人らしい鋭い敬礼を返した。
かつて十二歳の少女に剣を突きつけていた生真面目な副官の瞳には、もはや一片の疑念もなかった。大公の命を救い、ヴェルデ村をカビの地獄から引き戻し、皇太子の胃を縫い合わせて帝国の最高医官へと上り詰めたエルザの冷徹な知性に対し、彼は一人の軍人として、全幅の信頼と忠誠を捧げていた。
そして――執務室の窓辺、冬の淡い陽光を背に受けて、黒鉄の軍装を纏った巨躯が静かに佇んでいた。
ギルバート・フォン・ラングリール大公。
皇帝の甥であり、帝国最強の私設軍を率いる軍神。
大公は佩刀の柄に褐色の手を添えたまま、執務机に向かうエルザの横顔を、深淵のような氷灰色の双眸でじっと見つめていた。その瞳に宿る熱は、周囲の空気を灼き焦がすほどに濃密で、狂おしいまでの庇護欲と独占欲を孕んでいる。
昨夜、エルザの私室で額に焼き付けたあの熱い誓いの余韻。大公は軍務の合間を縫っては衛生院へと足を運び、エルザの視界の届く場所へ、まるで影のようにその身を配置していた。
「……エルザ」ギルバートの低く重厚な声が落ちる。「根を詰めすぎるな。皇帝から監査権を奪い取ったとはいえ、宮廷の古狸どもはお前の失脚を虎視眈々と狙っている。無理な連勤でその小さな指先を鈍らせるな」
「指先は鈍っていません、大公閣下。私の脈拍は毎分六十八回、極めて安定しています」
エルザは羽ペンをインク壺に浸しながら、淡々と返した。
「休むのは、帝都の病巣をすべて解剖台の上に晒し終えてからで十分です」
ふっとギルバートの口端が獰猛に吊り上がった、その瞬間だった。
――ドガァァァンッッ!!
静寂を切り裂く暴力的な破壊音が、執務室の重厚な樫の扉を外側から打ち砕いた。
油の差されていた蝶番が軋みを上げて弾け飛び、扉が乱暴に開け放たれる。
吹き込んできたのは、冬の冷気と、鼻腔を突く独特の香煙の匂い――大聖堂で焚かれる、白檀と乳香の重苦しい煙の臭気。
大理石の敷居を軍靴で乱暴に踏み越えて踏み込んできたのは、三名の人影だった。
白銀の祭服の上に、教皇庁直属を示す真鍮の胸甲を纏った男たち。
腰には異端審問所特有の、罪人を縛るための重い鉄の鎖と、抜き身の肉厚な儀礼短剣を佩用している。
先頭に立つ鷲鼻の審問官は、血走った眼で部屋の中を一瞥すると、執務机の前に立つエルザを見据え、侮蔑と嘲弄に満ちた下卑た笑みをその醜い唇に刻んだ。
「――帝国衛生院副総裁、エルザ・ヴァルデックとお見受けする!」
広間に響き渡る、耳朶を逆撫でするような甲高い男の声。
審問官は胸元から、分厚く硬質な羊皮紙の巻物を取り出した。
その末尾には、教皇庁の最高権威を示す、血のように赤黒い巨大な蜜蝋の封蝋――大聖堂の『双頭の鷲と十字架』の印章が、生々しく刻印されていた。
「教皇庁直属・帝都異端審問所より、最高位の召喚状を通告する!」
審問官はエルザの鼻先へと、その血塗られた羊皮紙を突きつけた。
「罪状――アルトハイム伯爵邸における、主家一族に対する計画的私的呪詛、並びに毒物を用いた主家呪殺未遂の大逆罪!」
空気が、一瞬で凍結した。
「アルトハイム伯爵、並びに伯爵夫人は、今まさにベッドの上で内臓を業火に焼かれ、瀕死の重態に陥っている!」
審問官の唾が、執務机の図面へと飛び散る。
「令嬢クラリッサ様より、正式なる告発状が教皇庁へと提出された! かつてその館で下働きをしていた貴様が、大公家の武威を笠に着て、私怨を晴らすために悪魔の術式を用いて主家を呪殺しようとした動かぬ証拠があるとのことだ! ……いかに皇帝陛下の勅許があろうとも、主家への呪殺は神と人の理を冒涜する『魔女の所業』! 直ちにその身柄を異端審問所の地下牢へと連行し、神聖なる審問にかける! 同行せよッ!!」
背後の二名の審問官が、ジャラリと音を立てて鉄の首枷と鎖を構えた。
治外法権を盾にした、教会の剥き出しの牙。
宮廷の正面からエルザを倒せぬと悟ったアンセルムが、アルトハイム家の狂乱を利用し、法と皇帝の手の届かぬ「異端審問の密室」へと彼女を引きずり込もうとする、薄汚い罠。
その罪名を聞いた瞬間――。
エルザの脳裏の深淵で、冷たい雨の記憶がフラッシュバックした。
十九歳で首を刎ねられた、前世のあの処刑台。
泥を投げつける民衆の罵声。
『恩知らずの毒婦』『伯爵夫妻を呪い殺した魔女』――。
あの日、自分からすべてを奪い、首枷を嵌め、ギロチンの刃の下へと叩き落とした、まさにその同じ罪名。
七年の時を遡り、歴史を塗り替えたはずの今世において、運命の亡霊が、再び同じ醜悪な仮面を被ってエルザの喉元へと手を伸ばしてきたのだ。
だが。
エルザの琥珀色の瞳は、瞬き一つしていなかった。
恐怖も、狼狽も、焦燥すらない。
ただ、顕微鏡のプレパラートの上に、予想通りの有害な寄生虫が這い出てきたのを観察するような、絶対零度の静寂。
その静寂を、爆発的な怒号が叩き割った。
「――ふざけるなァッッ!!!!」
テオバルトだった。
歴戦の副官の顔面が怒脈で朱に染まり、腰の長剣の鯉口が親指で弾かれた。
チャキンッ!と鋭利な抜刀音が執務室に響き渡る。
「神殿の走狗どもが、何の戯言をほざくか! エルザ副総裁は皇帝陛下直々に全権を委任された帝国の最高医官であられるぞ! それを、没落しかけた伯爵家の狂言と、教会の捏造した痴れ言で連行するなど……断じて許さん! この場で大公領への反逆として、叩き斬ってくれるわッ!」
「ひっ……!?」
テオバルトの剣幕に、鎖を構えていた審問官の二人が息を呑んで後退った。
だが、先頭の鷲鼻の審問官は、引き攣った笑みを浮かべ、胸甲の十字架を誇示するように胸を張った。
「お、大公家の副官とて、神の法を冒すことはできんぞ! 異端審問所の召喚を武力で拒むことは、即ち教皇庁への反乱、帝国全土の教会に対する宣戦布告と見なす! 皇帝とて、主家を呪い殺した魔女を庇い立てすることはできんのだ!」
「貴様……ッ!」テオバルトが切っ先を踏み出そうとした、その刹那――。
――ギチ……ギチギチ……。
執務室の床板が、物理的な重圧に耐えかねて軋む音が響いた。
部屋の中の空気が、一瞬で数十度も急降下したかのような錯覚。
窓辺に立っていた影が、音もなく動いたのだ。
ギルバート・フォン・ラングリール。
大公は佩刀の大剣を抜いてすらいなかった。
ただ、長身の身体をわずかに前へと傾け、一歩、大理石の床を踏みしめただけだった。
だが、その全身から放たれたのは――幾千の首を刎ね、戦場を血の海に変えてきた本物の軍神が放つ、吐き気を催すほどの濃密な「質量を持った殺気」だった。
「……あ……?」
鷲鼻の審問官の喉から、掠れた空気の音が漏れた。
男の膝が、自らの意志とは無関係に、ガチガチと激しい音を立てて震え始めた。
呼吸ができない。
目の前に現れたのは、人間ではない。獲物の頭蓋骨を噛み砕くことしか知らぬ、飢えた漆黒の巨大な狼。
ギルバートの氷灰色の双眸が、審問官の眉間を無機質に見下ろしていた。
「……ネズミが群れをなして、我が主治医の城に泥足で踏み込んできたな」
低く、地底のマグマが擦れ合うような声。
ギルバートは左手で、審問官が突き出していた羊皮紙の巻物を、無造作に鷲掴みにした。
メリメリ……と音を立てて、分厚い羊皮紙が男の握力だけで粉々に握り潰され、大聖堂の赤い封蝋が砕け散って床へと落ちる。
「主家呪殺だと? ……笑わせるな」
ギルバートは一歩、間合いを詰めた。
審問官の鼻先わずか数寸。大公の吐き出す冷たい呼気が、男の顔面を凍りつかせる。
「エルザの指先が、あのような下劣な館の豚どもを呪うために使われるとでも思うのか。……貴様らの飼い主たるアンセルムが、玉座の間で恥をかかされた腹いせに仕組んだ茶番劇であることなど、吐瀉物の臭いよりも明白だ」
ギルバートの褐色の右手が、腰の大剣の柄へと静かに添えられた。
大公は審問官を一瞥すら対象と見なさず、ただ執務机の向こうに座るエルザへと視線を向けた。
その瞳の奥に宿る、昏く、甘やかな狂熱。
「……エルザ。指示をくれ」
大公の声は、驚くほど穏やかで、それゆえに凄惨だった。
「今すぐ大聖堂へ乗り込み、アンセルムの首を刎ねてこよう。黒狼騎士団の騎兵を放ち、異端審問所を地下牢ごと焼き払ってやってもいい。……お前が一言、命じるだけでいいぞ」
「ひぃぃぃっ……!?」
審問官たちが悲鳴を上げて床にへたり込んだ。
大公は本気だ。
この男は、目の前の十二歳の少女の一言のためだけに、帝国の宗教権力を文字通り皆殺しにする覚悟を完了させている。その狂気的な過保護の前に、教皇庁の権威など塵芥に等しかった。
だが。
抜刀寸前のテオバルトと、大聖堂の壊滅を提案するギルバートの殺気を受け止めながら――。
エルザは、手元の羽ペンを静かにペン立てへと戻した。
そして、椅子の背もたれから身体を起こすと、ゆっくりと立ち上がった。
「……必要ありません、大公閣下」
静かな、だが小春日和の湖面のように透き通ったエルザの声が、執務室の狂乱の殺気をスッと凪がせた。
エルザは白衣の裾を正すと、足元で腰を抜かしている審問官の前へと、木靴の音を響かせて歩み寄った。
「エルザ……?」ギルバートが眉をひそめる。
エルザは大公の横を通り抜け、床に転がっていた、握り潰された羊皮紙の令状を拾い上げた。
破片を指先でパラパラと払う。
その琥珀色の瞳には、怒りも、復讐の興奮すらなかった。
ただ、長年待ち望んでいた「最後の病巣」が、自ら切開台の上へと這い上がってきたことに対する、怜悧な外科医の冷笑。
「逃げる理由など、この世のどこにもありません」
エルザの唇から、凍てつくような宣告が零れ落ちた。
「前世……いいえ、かつて私が下働きとして泥を啜らされ、そして身に覚えのない濡れ衣を着せられたあの館の『呪い』を――白日の下に晒す、これ以上ない絶好の機会です」
「エルザ、しかし異端審問所の地下へ連行されれば、どんな拷問が待っているか分からんのだぞ!」テオバルトが叫ぶ。
「連行などさせませんよ」
エルザは令状を指先で弾き、机の上へと無造作に投げ捨てた。
そして――床にへたり込んだまま見上げてくる鷲鼻の審問官を見下ろし、絶対零度の視線をその頭蓋へと突き刺した。
「審問官様。アンセルム首席司教へ、私の言葉を一言一句違えずに伝えなさい」
エルザの声は、平坦でありながら、帝都の全教会を叩き潰すほどの質量を孕んでいた。
「異端審問所の暗がりで、密室の拷問裁判をするおつもりなら――断固としてお断りいたします」
「な……何だと……!? 審問所の召喚を拒否する気か……!」
「拒否ではありません。場所と形式を変更しろと申し上げているのです」
エルザは一歩踏み込み、審問官の顔面を冷徹に見下ろした。
「皇帝陛下、ロザリア皇妃殿下、大公閣下、並びに宮廷貴族の皆様にお集まりいただきなさい。……裁判の場は、あのアルトハイム伯爵邸です」
「……は……?」審問官が呆然と口を開ける。
「伯爵夫妻が倒れている、まさにその寝室へ、皇帝陛下と諸侯を伴って私が直接乗り込みます。そして――彼らを蝕んでいる『呪いの正体』を、皆様の目の前で公開解剖・実証して差し上げます」
エルザの口元に、慈悲のかけらもない冷笑が浮かび上がった。
「悪魔の呪詛か、それともただの物質の毒か。神の奇跡か、それとも教会の強欲が生み出した人災か。……衆人環視の白日の下で、どちらが本物か、生化学のメスで決着をつけようではありませんか」
静寂。
審問官の全身から、血の気が完全に引いていった。
密室で少女を拷問にかけ、虚偽の自白を引き出して火刑台へ送る――アンセルムが描いていたその青写真が、少女の一言によって、逃げ場のない「公開処刑場」へと完全にすり替えられたのだ。
「さあ、立ち上がりなさい」
エルザは冷ややかに踵を返し、執務机へと戻った。
「アンセルム司教に伝えなさい。『逃げも隠れもしません。逃げる準備をしておくべきなのは、教会の方ですよ』とね」
少女の圧倒的な知性と気迫に圧され、審問官たちはもはや言葉を返すことすらできなかった。
三人の男たちは、床に落ちた鎖を慌てて拾い集めると、ギルバートの殺気から逃れるように、這々の体で執務室から転がり出ていった。
扉が閉ざされ、部屋の中に再び澄んだ冬の静寂が戻る。
ギルバートは大剣の柄から手を離すと、ゆっくりとエルザの前へと歩み寄った。
その氷灰色の瞳には、先ほどの残虐な殺気は消え去り、ただ一人の少女に対する、狂おしいまでの賞賛と熱い光が満ちていた。
「……ククッ。『公開解剖』か。相変わらず、容赦のない主治医殿だな」
「当然です。密室で愚者と言葉を交わすほど、私の時間は安くありませんから」
エルザは手帳を開き、オスカーとユーグ宛ての指示書を書き始めた。




