第38話:エメラルドの亡霊
帝都サンクト・オーガスタの貴族街の一角に聳えるアルトハイム伯爵邸は、わずか数週間のうちに、華やかな社交界のサロンから、生きた人間を寄せ付けぬ巨大な石の墓標へと成り果てていた。
庭園の夾竹桃は手入れを怠られて枯れ果て、大理石の噴水には濁った雨水が澱み、落ち葉が腐敗したヘドロとなって水面を覆っている。
かつて毎夜のように馬車が列をなし、黄金のシャンデリアの下で管弦楽が鳴り響いていた本館の窓は、すべて重厚なベルベットのカーテンによって固く閉ざされ、昼なお暗い陰鬱な帳が館全体を覆い尽くしていた。
豪奢を極めた屋敷の廊下に漂っていたのは、高価な薔薇の香油の匂いではない。
鼻腔を突く甘酸っぱい吐瀉物の臭気、皮膚から滲み出た腐った汗の饐えた臭い、そして――どこからともなく壁の奥から立ち上る、ニンニクの腐肉を煮詰めたような、鈍く重い金属質の異臭だった。
前世のタイムラインにおいて、エルザが十九歳の時に起きたあの「伯爵夫妻の怪死事件」。
今世においては、エルザが館を去り、大公領の改革と帝都での皇太子手術を経ていく中で、歴史の歯車は歪みながらも、より苛烈な速度でその破滅の再現へと突き進んでいた。
ギィ……と油の切れた蝶番が不吉な悲鳴を上げ、本館二階の最奥に位置する主寝室の扉が開かれた。
足を踏み入れた召使いたちが、思わず息を呑み、布で口元を覆って後退る。
「あ……ああああっ! 熱い……! 腹が……腹が焼けるようだぁぁッ!!」
天蓋付きの広大なベッドの上で、シーツを爪が剥がれるほどの力で掻きむしりながら、一人の男がのたうち回っていた。
アルトハイム伯爵。
かつて傲慢な態度で下働き侍女たちを顎で使い、大公ギルバートの前で保身のために平伏していたその男の姿は、いまや見る影もなく凄惨な骸骨へと変わり果てていた。
丸々と太っていた肉体は病的に削げ落ち、皮膚は弾力を完全に失って、まるで干からびた羊皮紙のようにカサつき、全身に不気味な黒褐色の色素沈着――雨だれのような斑点(レインドロップ様色素沈着)が無数に浮き出ている。
「誰か……誰か腹の火を消してくれぇぇっ! 炭が……焼けた石炭が、胃袋の中に詰め込まれているんだぁっ!」
伯爵は狂乱の叫びを上げ、自らの爪で腹部の皮膚を掻きむしった。
血が滲み出るのも構わず、内臓をえぐり出さんばかりに指を立てる。
だが、その手足の動きは奇妙にぎこちなく、関節が不自然に突っ張っていた。末梢神経の高度な炎症。手足の先端には、針で何千回も刺し貫かれ、熱した油を注ぎ込まれ続けるような激痛(有痛性知覚過敏)が絶え間なく走り、床に足を下ろすことすらできない。力が入らず、立ち上がろうとすれば膝から崩れ落ちる完全な運動麻痺。
そして、隣に並べられた寝台の上では、伯爵夫人が横たわっていた。
夫人はすでに叫ぶ力すら残されていなかった。
三十八度を超える微熱が何週間も途切れることなく続き、干からびた唇の端からは、胃液と胆汁の混ざった黄色い粘液がタラタラと枕へと垂れ流されている。
「……う……おえっ……」
空っぽの胃袋が激しく痙攣し、吐くものが何もないにもかかわらず、激しい嘔吐反射が夫人の痩身をビクンビクンと跳ね上げさせていた。
開かれたままの双眸は白濁し、焦点は合わず、すでに意識は混濁の深淵へと沈み込んでいた。
「だ、旦那様……奥様……!」
侍女の一人が震える手で水差しを差し出そうとしたが、伯爵はその腕を払いのけた。
ガシャアンッ!と水差しが床で砕け散る。
「水など要らん! 神官を呼べ! 大聖堂から祈祷師を呼んでこい! 悪魔だ……悪魔が、我がアルトハイムの血を焼き殺そうとしているのだぁぁっ!」
阿鼻叫喚の地獄絵図。
ここ数日、伯爵邸には帝都中の高名な医師や薬師が何十人も呼び出されていた。
皇室首席薬師ファビアンの息のかかった医学校の教授たちも訪れた。だが、彼らが施したのは、例によって「四体液の過剰」と決めつけた放血療法と、毒消しと称する重曹水の投与だけだった。
血を抜かれた伯爵夫妻の容態はさらに急速に悪化し、衰弱死の淵へと突き落とされた。
医師たちは口々に「手の施しようがない」「これは医学の領域ではない、神の罰か悪魔の呪詛だ」と匙を投げ、逃げるように屋敷を去っていった。
その噂は、瞬く間に屋敷の使用人たちの間に恐怖の毒となって蔓延した。
「やはり、この館には呪いがある」「昔から悪魔の棲み処だったのだ」「ここにいたら、私たちまで内臓を焼かれて死んでしまう!」
夜逃げ同然に荷物をまとめ、裏口から逃げ出す従僕や侍女が相次いだ。
豪奢を誇ったアルトハイム邸は、いまや食事を運ぶ者すら怯えて寄り付かない、呪われた死霊の館と化していた。
◇
主寝室の扉の陰。
床に散らばったガラスの破片を踏みしめながら、音もなく歩み寄ってきた一つの人影があった。
クラリッサ・フォン・アルトハイム。
その姿を目にした瞬間、部屋に残っていた数少ない侍女たちが、悲鳴を呑み込んで後退った。
そこに立っていたのは、もはや人間の少女とは呼べない異形の姿だった。
身に纏うのは、汚れと皺の目立つ豪奢なレースのガウン。
だが、その顔面と首筋、そして剥き出しのデコルテは――狂気の厚塗りで固められた、セメントのような異様な純白(鉛白粉)で覆い尽くされていた。
表情筋が動くたびに、白い粉がパラパラと雪のように床へ落ちる。
その白壁のような仮面の奥で、クラリッサの両目は血走り、左右で瞳孔の大きさを狂わせたまま(不同瞳孔)、ベッドの上の両親を値踏みするようにじっと見つめていた。
右手には、大聖堂の闇商人から金貨百枚で買い取った、あの紫色の遮光瓶――水銀と希塩酸の入った「特級聖水」が固く握りしめられている。
「……お父様。お母様」
クラリッサの唇が、乾いた音を立てて開かれた。
その声は、耳を塞ぎたくなるような不快な金属質の濁りを帯びていた。
「痛むのね。身体が、内側から引き裂かれるように痛むのでしょう」
「ク……クラリッサ……?」
ベッドの上の伯爵が、血走った眼で娘を見上げた。
「お前……その顔は、何だ……? なぜ、そんな死人のような化粧を……」
「死人ですって?」
クラリッサの口元が、ピキリと白粉を割って吊り上がった。
「失礼なことを仰らないで、お父様。これは神の恩寵、天上の美貌の結晶よ。……見てごらんなさい、私のこの陶器のような白さを。この美しさがあれば、私は必ずや皇太子妃へと返り咲くことができるのよ」
狂気の演説。
クラリッサは自らの震える右手を掲げ、紫の小瓶をベッドへと突き出した。
「お父様、お母様が苦しんでいるのは、信仰が足りないからよ。悪魔を祓う聖水をお飲みなさい。大聖堂のアンセルム司教猊下が、七日七晩祈りを捧げた奇跡の水よ。これを飲めば……火なんて、一瞬で消えるわ」
「よ、よせ……!」
伯爵は本能的な恐怖を感じたのか、震える手で小瓶を押し戻そうとした。
「そんなもの……もう飲みたくない! それを飲むたびに、喉が……胃が、焼け爛れるんだ! あっちへ行け! その毒々しい匂いを近づけるな!」
「毒……?」
クラリッサの瞳から、一瞬にして光が消え去った。
深淵のような暗黒が、その網膜の奥底を満たす。
鉛毒によって中枢神経系をズタズタに破壊された彼女の脳髄の中で、論理と理性のシナプスは完全にショートしていた。
神の聖水を「毒」と呼んだ。
自分の信じる美しさを「死人」と呼んだ。
なぜだ。なぜ、我が家がこのような地獄に叩き落とされなければならないのか。
なぜ、自分が皇太子の側室レースから脱落し、宮廷から追放されなければならなかったのか。
――違う。
我が家の信仰が足りないのではない。
この聖水が毒なのでもない。
原因は、もっと別のところにある。
「……あいつよ」
クラリッサの喉から、掠れた怨嗟がポツリと漏れ落ちた。
次いで、それは狂乱の絶叫となって寝室の天井を突き破った。
「あいつの仕業よォォッッ!! エルザ……エルザ・ヴァルデック!!」
クラリッサは自らの髪を掻きむしり、白粉を撒き散らしながら跳び上がった。
「あいつが……あの下賤な雑巾娘が、前世の恨み……いいえ、この館で下働きをさせられていた私怨を晴らすために、大公家の悪魔の術を使って、我がアルトハイムの館に呪詛をかけたのよッ! お父様とお母様を内側から焼き殺し、私を破滅させるために、悪魔の毒を撒き散らしたんだわ!!」
「な……エルザだと……?」伯爵が喘ぐ。
「そうよ! そうに決まっているわ! あいつは皇太子の腹を切り裂いて、皇帝陛下を誑かした魔女なのよ! その魔女が、今度は我が家を標的にしたのよ! あいつが我が家に呪いをかけたのよォォッ!」
完全なるパラノイア(偏執狂)。
自らの虚栄と、館に潜む物理的な毒(壁紙のヒ素ガスと自らの鉛白粉)が生み出した破滅の現実を、すべて「他者の悪意による呪詛」へとすり替える、救いようのない精神の退行。
だが、その狂気に濁った瞳の中に、電撃のような狡猾な閃きが走った。
「……そうよ。そうじゃないの」
クラリッサの呼吸が、ヒューヒューと喉を鳴らしながら荒くなった。
「エルザが呪いをかけた……。元侍女が、大公の権力を笠に着て、主家を呪殺しようとしている……。これを……これを神殿に訴え出れば……!」
国家反逆罪。
大不敬罪。
異端審問による魔女裁判。
皇帝の寵愛を受け、衛生院副総裁に上り詰めたあの女を、一瞬にして処刑台の上へと引きずり下ろすことができる――。
「待っていなさい、お父様、お母様! 私が……私が今すぐ、神の正義を連れてきて差し上げますわ!」
クラリッサは振り返り、散らばるガラスの破片を泥靴で踏み砕きながら、狂乱の足取りで寝室を飛び出していった。
背後で悶絶する両親の呻き声を、一顧だにすることもなく。
◇
帝都の東の丘に聳え立つ、帝国正教会の総本山――大聖堂。
黄金の巨大なドームが冬の薄曇りの空を圧するその威容は、一見すると変わらぬ神聖さを保っているように見えた。
だが、その内部に流れる空気は、かつてないほどに殺伐とし、焦燥と怨嗟の毒気に満ちていた。
大夜会での皇太子の喀血、エルザによる開腹手術の成功、そして皇帝フリードリヒによる「神殿の皇宮立ち入り禁止令」。
千年にわたり帝室の上に君臨し続けてきた教会の絶対権力は、いまや皇帝の近衛兵によって宮殿の門前で門前払いを食らい、宮廷貴族たちからも遠巻きにされる屈辱の淵に立たされていた。
大聖堂の周囲には、毒入りの聖水を売りつけられていた下町の民衆が「金を返せ」「神の罰など嘘だったのか」と不穏な抗議の声を上げ始めていた。
大聖堂の最深部。
一般の信徒は決して立ち入ることの許されない、地下の『首席司教密談室』。
分厚い石壁に囲まれ、ステンドグラスの光すら届かぬその薄暗い部屋の中で、アンセルム首席司教は、祭壇の前に置かれた黒檀の椅子に深く沈み込んでいた。
額に巻かれた白い包帯の奥で、その細い双眸は、毒蛇のように冷たく澱んでいた。
手元の机の上には、各地の神殿から届いた不穏な報告書の束。
――大公領のヴェルデ村における麦角中毒の解明以降、教会の「神罰」の説教に疑問を抱く領主が続出している。
――新設された帝国衛生院が、帝都の薬局と神殿の製薬施設に対する強制立ち入り監査の準備を進めている。
――エルザ・ヴァルデックなる小娘が、宮廷医師団の無能を解剖し、帝国の全医療利権を掌握しつつある。
「……小娘めが」
アンセルムの唇から、憎悪に満ちた毒液のような呪詛が漏れ出した。
「下賤な侍女風情が……我が千年の神殿の喉首に、土足で踏み込んでくるとは……」
ギチリ、と握りしめた真鍮の十字架が、手のひらの皮膚に食い込む。
このままでは、教会の権威は完全に地に堕ちる。
聖水による莫大な富の独占も、貴族たちを意のままに操る恐怖支配も、すべてあの小娘の振るう「科学」という名の刃によって解剖され、白日の下に晒されてしまう。
何としても、エルザを殺さねばならない。
ただ暗殺するだけでは足りない。彼女の唱える医学そのものを「悪魔の呪詛」として大衆の前で徹底的に貶め、火刑台の上で生きたまま灰にしなければ、教会の未来はないのだ。
その時だった。
バァァァンッッ!!
密談室の重厚な鉄張りの扉が、ノックもなしに乱暴に開け放たれた。
「し、司教猊下! お止めしたのですが、狂乱した令嬢が押し入ってまいりまして……!」
警備の修道士が狼狽して叫ぶ。
立ち込める冷気の中、滑り込んできたのは、異様な姿の少女だった。
ボロボロのレースガウンを引きずり、顔面をセメントのような白粉で塗り固め、血走った眼を爛々と見開いたクラリッサ。
彼女は部屋の中央まで駆け込むと、絨毯の上へ滑り込むようにして両膝をつき、アンセルムの法衣の裾へと狂ったように縋り付いた。
「司教猊下……! アンセルム司教猊下ぁぁッ!!」
甲高い、喉を引き裂くような絶叫。
クラリッサは泥と白粉に汚れた手を伸ばし、アンセルムの履く革靴へ自らの額を力任せに擦り付けた。
「お助けください……! 教会のお力で、我がアルトハイムの館を救ってくださいませ!」
アンセルムは眉をひそめ、汚らわしいものを見るような冷淡な眼差しで、足元に這いつくばる娘を見下ろした。
「……クラリッサ令嬢。何の真似です。神聖なる密談の場に、そのような狂態で踏み入るとは」
「聞いてください、猊下!」
クラリッサは顔を跳ね上げた。
剥落した白粉の下から覗く、鉛色に濁った皮膚と、狂気に歪む口元。
「父母が……伯爵夫妻が、倒れましたの! 今まさに、ベッドの上で内臓を業火で焼かれ、血を吐き、手足を麻痺させて死にかけておりますのよ!」
「……何だと?」
アンセルムの細い目が、微かに動いた。
「アルトハイム伯爵夫妻が、倒れた……?」
「ええ、そうですわ! 原因不明の奇病です! 医師たちも匙を投げました!」
クラリッサはアンセルムの膝を揺さぶり、唾を撒き散らしながら、己の妄執を叩きつけた。
「これは……これは呪いですわ! あの忌まわしいエルザの呪詛に違いありません! あいつは大公家を後ろ盾にし、かつて仕えていた我が家を恨んで、悪魔の術を用いて我が両親を内側から呪い殺そうとしているのです! 元侍女が、主家を呪殺しようとしているのですわッ!」
静寂。
地下密談室の淀んだ空気の中に、クラリッサの荒い息遣いだけが木霊していた。
アンセルムは、動かなかった。
男の氷のように冷え切った脳細胞が、恐るべき速度で回転を始めていた。
(アルトハイム伯爵夫妻の、原因不明の衰弱と激痛……)
アンセルムは知っていた。
アルトハイム伯爵邸に、教会の御用商人である『聖ルカ商会』が、何を売りつけていたのかを。
あの寝室を覆う、流行の最高級輸入壁紙――『シェーレ緑』。
安価な亜ヒ酸銅の顔料で作られた、湿気によって致死的な毒ガスを放つ、死の壁紙。
そして、目の前に這いつくばるクラリッサが全身に塗りたくっている、超高濃度の鉛白粉と、水銀入りの聖水。
夫妻の病態の正体が、自らの手引きした毒物利権による必然の結果であることなど、アンセルムには最初から分かりきっていた。
だが――。
そんな真実など、どうでもよかった。
重要なのは、この狂乱した令嬢が、己の口から何を口走ったか、だ。
(……元侍女が、大公の権力を後ろ盾にし、私怨をもってかつての主家を呪殺しようとしている、だと……?)
アンセルムの冷酷な瞳の奥底で、昏い、濁った歓喜の光がギラリと点火した。
これだ。
これこそが、待ち望んでいた唯一の勝機。
皇帝の勅許を得て、不可侵の衛生院副総裁に就任したエルザ・ヴァルデック。
宮廷の正面から彼女を攻めることはできない。皇帝が庇護している以上、医療の正当性を争えば、昨夜のように完膚なきまでに論破されるだけだ。
だが――「主家に対する私的呪殺」となれば、話は完全に別だった。
帝国の国法において、身分の低き者が主家を裏切り、毒や呪詛を用いて殺害を図ることは、親族殺しに匹敵する最も重い大逆罪。
そして何より、それは「異端審問所」が直接管轄する、教会の絶対不可侵の裁判領域――『魔女裁判』の対象となるのだ。
(皇帝といえども、主家を呪殺した魔女を庇明することはできん。……アルトハイム家の告発を盾にし、異端審問の網をかければ、あの小娘の首根っこを合法的に大公の手から引きずり出すことができる!)
アンセルムの口元に、三日月のような残酷な笑みが浮かび上がった。
昨夜の屈辱、失墜しかけた教会の権威、そのすべてを一撃で引っくり返すための、完璧な逆転の絵図。
アンセルムは、ゆっくりと両手を伸ばした。
そして、足元で涙と白粉を垂らして震えるクラリッサの、細い肩を優しく抱き起こした。
まるで、慈愛に満ちた聖職者が、迷える子羊を救い上げるかのような、完璧な偽善の所作。
「……おお、哀れなクラリッサ令嬢」
アンセルムの声は、甘美な毒のように優しく、室内に響き渡った。
「よくぞ……よくぞ、神の御許へその悲痛な叫びを届けてくださいました。あなたの流した涙を、主は決して見捨てはなさいません」
「司教……猊下……?」
クラリッサが、縋るようにその顔を見上げる。
アンセルムの双眸の奥にある、冷酷な獣の光。
「許しがたい大罪です。下賤な生まれの娘が、大公家の武威を笠に着て、恩ある主家の一族を悪魔の術をもって呪い殺そうなどとは……。これはアルトハイム家への叛逆であるのみならず、全能の神と帝国の秩序に対する、明白なる宣戦布告でございます」
アンセルムは立ち上がり、祭壇の上の真鍮の十字架を高く掲げた。
その影が、石壁の上に巨大な黒い亡霊のように伸びていく。
「クラリッサ令嬢。教会が……このアンセルムが、あなたの正義の盾となりましょう」
司教の口から、冷徹な死の宣告が紡ぎ出された。
「直ちに異端審問所を動かします。帝国の全教会、並びに神殿騎士団の総力を結集し――元侍女エルザ・ヴァルデックを、主家呪殺未遂、並びに大逆の魔女として告発する、『異端審問召喚令状』を発布いたしましょう」
アンセルムの口端が、歓喜に歪む。
「あの小娘が手に入れた地位も、皇帝の勅許も、すべて火刑台の灰の下へと葬り去ってやるのです。……さあ、令嬢。我が手を取るのです。あの魔女を、断頭台の上へと送り返すための聖戦を始めましょう」
「ああ……神よ……アンセルム猊下……!」
クラリッサは恍惚とした叫びを上げ、司教の足元へ再び額を擦り付けた。
神殿の最深部で、悪意と狂気が完全に結託した瞬間だった。
前世の冤罪の悪夢を再現し、エルザを死の罠へと引きずり込もうとする教会の黒い網が、いま、静かに、そして確実に帝都の空へと張り巡らされようとしていた。




