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呪いではなく鉛中毒です〜死に戻り侍女は近代医学で冷酷大公を救い、宮廷の嘘を解剖する〜  作者: タカケンサンバ


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第37話:塗り固められた白日夢

帝都サンクト・オーガスタの社交界は、目まぐるしく移ろう流行と醜聞(スキャンダル)を貪り食う巨大な怪物だった。

だが、その怪物がここ数日、喉を鳴らして熱狂していた話題は、ただ一つの名に集約されていた。

――エルザ・ヴァルデック。

かつてアルトハイム伯爵邸で雑巾を絞っていた下級貴族の捨て子が、黒狼大公ギルバートの不治の病を癒やし、白金宮の大夜会において神速のメスを振るってディルク皇太子の絶命をねじ伏せたという奇跡の武勇伝。

朝刊の瓦版やサロンの茶飲み話、果ては下町の酒場に至るまで、その名は「奇跡の外科医」「帝国衛生院の若き女帝」として連日紙面を飾り、皇帝から下賜された黄金の副総裁章の輝きとともに、帝都の頂点へと駆け上がっていた。


しかし――その眩い光が強くなればなるほど、その足元に落ちる漆黒の影の中で、狂気と怨嗟に身を焦がす者がいた。


「嘘よ……嘘よ、嘘よ、嘘よッ!!」


ガッシャアアアンッッ!!


甲高い陶器の破壊音が、重厚なカーテンで薄暗く閉ざされた部屋の中に響き渡った。

アルトハイム伯爵邸の最上階、令嬢クラリッサの豪奢な化粧室。

壁に投げつけられたマイセン様式の白磁の壺が粉々に砕け散り、床に敷き詰められた極上のペルシャ絨毯の上に、生花の水と破片が泥のように飛び散る。


「あんな泥水啜りの雑巾娘が……副総裁!? 皇帝陛下直々の勅許ですって!? 何かの間違いよ、悪夢だわ! あの女は魔女よ! 大公様をたぶらかし、殿下の身体に呪いをかけた下賤なペテン師なのよッ!」


クラリッサ・フォン・アルトハイムは、胸元を掻きむしりながら叫び狂っていた。

乱れに乱れた金糸の巻き毛。かつて社交界で「陶器の美姫」と讃えられたその貌(かんばせ)は、いまや見る影もなく醜悪な憎悪に歪みきっていた。

手当たり次第にドレッサーの上の香水瓶を薙ぎ払い、銀の手鏡を床へと叩きつける。

ガラスが砕け散るたび、扉の隙間から怯えたように覗いていた専属の侍女たちが、悲鳴を呑み込んで首を縮めた。


クラリッサの破滅は、あまりにも急速だった。

あの大夜会の夜――ギルバート大公に手首を砕かれんばかりに締め上げられ、満場の貴族たちの前で「化粧崩れの狂女」と罵倒されて床に這いつくばったあの屈辱。

それだけで終われば、まだ実家の金と権力で揉み消すこともできたはずだった。

だが、その直後に起きた皇太子の喀血。

エルザが「胃潰瘍の穿孔だ」と叫んで救命に入った際、狂乱したクラリッサが「魔女の首を撥ねろ」と叫び立てたあの浅薄な醜態は、皇太子の生母であるロザリア皇妃の逆鱗に触れていた。


『己の虚栄のために我が息子の命を危険に晒そうとした愚昧な娘。二度とその薄汚い顔を我が宮殿に見せるな』


皇妃から下された、事実上の「皇宮永久追放令」。

皇太子の側室候補レースからの完全な脱落。

それまでクラリッサに媚び諂っていた宮廷貴族たちは、蜘蛛の子を散らすように潮が引くがごとくアルトハイム家から距離を置いた。サロンへの招待状は途絶え、訪れるのは借金の返済を迫る商人たちだけ。

帝国の母となるはずだった未来は、文字通り一夜にして、底知れぬ汚泥の底へと叩き落とされたのだ。


「私よ……! あの白金宮の玉座の隣に座るべきだったのは、この私なのよ! エルザ……エルザァッ! あのネズミが私のすべてを奪ったのよ!」


クラリッサは狂乱の勢いで、ドレッサーの前に置かれた豪奢な回転椅子へと崩れ落ちた。

そして――鏡の中に映し出された自らの顔を見つめた瞬間、彼女の喉から、ヒュッと引き攣った息が漏れた。


「……あ……?」


そこに映っていたのは、かつての輝くばかりの美姫の姿ではなかった。

大夜会の夜から続く激しい偏頭痛と不眠、そして精神錯乱の発作。

鏡の中の素顔は、土気色を通り越して、死人のように濁った鉛灰色(リード・グレー)に澱んでいた。

両目の下には漆黒の隈が深く落ち、頬は不健康に削げ、額には脂汗が吹き出している。

唇を震わせてめくると、歯肉の縁には、エルザが予言した通りの――青黒い硫化鉛の沈着線(バートン線)が、はっきりと刻み込まれていた。

手元の扇を握ろうとする右手の指先が、小刻みに、カタカタと制御不能な震え(振戦)を繰り返している。


(違う……! こんなの、私の顔じゃないわ! 私は美しいの! 誰よりも白く、誰よりも気高いはずなのに……!)


身体が悲鳴を上げていた。

頭蓋骨の内側を鉄の杭で打ち据えられるような激しい頭痛。

胃の奥底から込み上げる吐き気。耳元で鳴り止まないキーンという高周波の耳鳴り。

重度の慢性鉛中毒による末梢・中枢神経の崩壊。

だが、すでに毒によって脳幹を冒され、認知が歪みきっていたクラリッサは、その原因が自らの愛用する鉛白粉にあるとは、微塵も認めようとしなかった。

認めてしまえば、エルザの警告が正しかったと認めることになる。

あの下賤な雑巾娘の言葉の通りに自分が自滅しているなどという真実は、彼女の肥大化したプライドが絶対に許容しなかったのだ。


「もっと……もっと白く塗らなきゃ……! この黒ずみを隠せば……昔のように戻れるわ……殿下も、私を振り返ってくださるはずよ……!」


その時だった。


コン、コン。


控えめに、だが独特の合図を込めた三度のノックが、化粧室の裏口――召使い用の目立たない通用扉から響いた。

「クラリッサ様。……例の商人を、お連れいたしました」

買収されていた老執事の、押し殺した声。


「入れなさい! 早く!」

クラリッサが叫ぶように命じる。


扉が開き、音もなく滑り込んできたのは、黒いフード付きのマントを深く被った痩せ身の男だった。

背中を丸め、油の切れた革靴を引きずるようにして歩く男。

フードの奥から覗く双眸は、蛇のように狡猾で、冷酷な計算高さに光っている。

アンセルム首席司教が帝都のスラム街の地下組織を通じて動かしている、正教会御用達の闇商人――『聖ルカ商会』の密売人だった。


「これはこれは、クラリッサ令嬢。ご機嫌麗しゅう」

男は猫撫で声を出しながら、慇懃に頭を下げた。その指先には、薬品による黄色い染みが点々と残っている。

「お呼び立ていただき、光栄の極みにございます。……大夜会での災難、教会一同、心よりお悔やみ申し上げます。あの魔女エルザめ、皇宮を誑かし、神聖なる教会の権威を汚すとは言語道断……司教猊下も、大変心を痛めておいでです」


「同情なんていらないわ!」

クラリッサはドレッサーをバンと叩いて立ち上がった。

「品物は!? 注文した品物は持ってきているのでしょうね!?」


「へへっ、もちろんでございますとも」

密売人は下卑た笑みを浮かべ、マントの内側から、豪奢な紫色の絹張りの小箱を慎重に取り出した。

小箱の蓋には、大聖堂の「双頭の鷲と十字架」の紋章が金糸で縫い付けられている。

男は芝居がかった手つきで、カチリと真鍮の留め金を外した。


開かれた小箱の内側。

そこに収められていた二つの物品を認めた瞬間、クラリッサの濁っていた瞳に、狂乱の光がパッと灯った。


一つは、手のひらに乗るほどの、磨き上げられたクリスタルガラスの小瓶。

中には、怪しく濁った紫色を湛え、振るたびに微小な銀色の粉末が星のように舞い上がる、濃厚な液体が満たされていた。

そしてもう一つは――純白の磁器の壺に収められた、息を呑むほどに純白で、微細に輝くパウダー状の粉末。


「……こちらは」

密売人は声を潜め、クラリッサの耳元へ毒の甘言を囁きかけた。

「大聖堂の地下最深部、聖遺物の眠る祭壇の前で、アンセルム司教猊下が直々に七日七晩の祈祷を捧げられた、正教会の至宝中の至宝。……『門外不出の特級解呪聖水』、そして『神聖なる天上の特級美白粉』でございます」


男の指先が、白い粉末の壺を愛撫するように撫でる。

「この美白粉は、通常の市場に出回るものとは純度が違います。北方の神聖なる鉱山から採掘された高純度の鉛華(えんか)を、酢酸の蒸気で十度昇華させ、天使の羽根の如く細かく粉砕したもの。一度肌に塗れば、どんな黒ずみも、どんな傷跡も一瞬で陶器のように純白に染め上げます。そして、この特級聖水……これを毎朝空腹時に飲み干せば、体内に巣食う悪魔の穢れをすべて焼き払い、永遠の若さと美貌を保つことができると約束されております」


ツンと、小箱から立ち上る異様な気配。

香料で念入りに偽装されてはいたが、その奥底から漏れ出てくるのは――。

あの、エルザが玉座の間で暴き立てたものと寸分違わぬ、鼻腔を刺す強烈な「希塩酸と昇汞(水銀)」の金属臭、そして超高濃度の「炭酸鉛」が放つ、甘ったるく重い毒の臭気だった。


だが、嗅覚すら麻痺しかけていたクラリッサにとって、その刺激的な臭気は、己の破滅を救う唯一の甘美な救済の香りにしか感じられなかった。


「……いくらなの」

クラリッサの声が、渇きに震える。

「その二つで、いくら払えばいいの」


密売人はフードの奥で、ニチャリと口端を吊り上げた。

罠にかかった獲物を値踏みする、底知れぬ強欲の目。

「本来であれば、皇族の方々にしか下賜されぬ至高の秘宝……。ですが、神殿に篤い信仰を寄せてくださるアルトハイム家のため、司教猊下のお計らいにより、特別に……金貨百枚でお譲りいたしましょう」


「――金貨百枚!?」

背後で控えていた老執事が、息を呑んで絶叫した。

金貨百枚。

一般的な騎士の家系が一年間贅沢に暮らせるほどの莫大な大金。

すでに宮廷から孤立し、領地からの税収も滞り、没落の危機に瀕している現在のアルトハイム伯爵家にとって、それは喉元を掻き切るに等しい暴利だった。


「お、お待ちください、クラリッサ様!」老執事が青ざめて膝をつく。

「伯爵邸の金庫には、もうそれほどの余裕はございません! 旦那様が知れば、ただでは済みませんぞ!」


「黙りなさい、老いぼれッ!!」

クラリッサの金切り声が、執事の制止を叩き伏せた。

「お父様が何よ! 私が皇太子妃になりさえすれば、金貨百枚なんて道端の小石同然になるわ! 私の美しさを取り戻すこと以上に、優先すべきことなんてこの世にないのよ!」


クラリッサは我を忘れ、ドレッサーの奥の引き出しを力任せに引っこ抜いた。

中から現れたのは、黒革の重厚な宝石箱。

彼女は躊躇うことなく箱の留め金を外し、中に入っていたエメラルドの指輪、ルビーのブローチ、豪奢な真珠のネックレスを、床へジャラジャラとぶち撒けた。

そして――。

箱の底に大切に収められていた、純白のプラチナに大粒のサファイアを嵌め込んだ、豪奢なティアラ。

アルトハイム伯爵家に代々受け継がれ、亡き母が遺した唯一の家宝。


「これも持っていきなさい!」

クラリッサは狂乱の瞳で、そのティアラを密売人の足元へと投げつけた。

「これで足りるでしょう!? さっさと品物を置いて、失せなさい!」


「へへっ……毎度、ありがとうございます」

密売人は床に散らばった宝石を貪るように掻き集め、ティアラを懐へと押し込むと、恭しく一礼して裏口の闇の中へと消え去っていった。


◇


部屋の中に、再び静寂が戻った。

散らばった花瓶の破片、踏み荒らされた絨毯。

その惨状の真ん中で、クラリッサはドレッサーの前に座り直した。

その両手には、手に入れたばかりの純白の磁器の壺と、紫色のガラス瓶が握りしめられている。


「ふふ……あはは……!」

喉から、狂気の笑いが漏れ出した。

「手に入れたわ……神聖なる美貌の奇跡を……! これで私は、誰よりも美しくなれる……エルザなんかに、負けるはずがないのよ……!」


クラリッサは震える指先で、紫の小瓶のコルク栓を引き抜いた。

ツンと鼻を突く、強酸と水銀の刺激臭。

彼女は何の疑いもなく、その液体を小皿に移すことすら省略し、瓶の口を自らの唇へと直接押し当てた。

そして――喉を鳴らして、一気に半分以上を胃袋へと流し込んだ。


「――っ、ごほっ……! オエッ……!」


強烈な酸と金属の苦味が、口腔と食道を灼熱の炎のように焼き焦がした。

涙が溢れ、激しい嘔吐反射が喉を突き上げる。

だが、胃壁に達した液体に含まれていたアヘンチンキの麻薬成分が、数秒遅れて血流に乗ると、脳髄をフワリとした甘い麻痺が包み込んだ。

頭痛が、わずかに遠のくような錯覚。

クラリッサは吐瀉物を無理やりに飲み下し、胸を押さえて荒い息を吐いた。


「効いてる……効いてるわ……! 神の奇跡が、私の身体を清めていく……!」

内臓が腐食されている悲鳴を、「神の恩寵」と盲信した哀れな狂気。


続いて、クラリッサは純白の磁器の壺を開けた。

立ち上る、極微細な白い粉末の煙。

彼女は毛足の長いパフを掴むと、その高純度炭酸鉛の粉を、惜しげもなくたっぷりとまぶした。

そして――鏡も見ずに、己の顔面へと、力任せに叩きつけ始めた。


バフッ、バフッ、バフッ!


白い粉煙が化粧室の中に舞い散る。

額へ、頬へ、鼻筋へ、唇の周囲へ。

土気色に淀んでいた素肌の上に、容赦のない厚みで、セメントのように真っ白な粉が何層にも塗り固められていく。

それだけでは足りなかった。

クラリッサはドレスの襟元を乱暴に引き裂き、デコルテを、青筋の浮いた細い首筋を、そして震える両腕の皮膚を剥き出しにした。


「全部よ……! 全身を、白くするの……! 一ミリの穢れも残しちゃいけないわ……!」


パフを何度も壺に突っ込み、首筋へ、胸元へ、剥き出しの腕へと、狂ったように白粉を擦り込んでいく。

ヒリヒリと、皮膚の毛穴が焼け付くような激しい痛みが走る。

炭酸鉛の粒子が、汗腺と皮脂腺の隙間から皮下組織へと直接浸透し、毛細血管の壁を破壊しながら血液の中へと溶け出していく感覚。

だが、クラリッサはその激痛を、恍惚とした笑みを浮かべて受け止めていた。


「見て……見てごらんなさい、エルザ……!」


鏡の前に顔を突き出す。

そこに現れたのは――人間としての生気を完全に喪失した、グロテスク極まりない『動く石膏像』の姿だった。

表情筋の動きを完全に封殺するほど分厚く塗り固められた、異様な純白。

毛穴の一つもない、青白い陶器のような質感。

その白壁のような顔面の奥で、充血したクラリッサの瞳孔は、左右で大きさを異にしたまま(不同瞳孔)、狂気の光を爛々とギラつかせていた。


笑った拍子に、口元から白い粉がパラパラと剥がれ落ちる。

覗いた歯肉はドス黒く壊疽し、前歯の一本が、鉛毒による歯槽膿漏によってグラグラと不吉に揺れていた。


「ふふ……ふふふふっ! 完璧だわ……! これこそが、帝国の母となる私の真の姿よ!」

クラリッサは血走った両目を見開き、鏡の中の自分に向かって狂ったように微笑みかけた。


「待っていらっしゃい、エルザ……。お前が手に入れた地位なんて、私がその美貌で、すべて奪い取ってやるわ……! お前を必ず……必ず、あの断頭台の露にしてやるんだから……!」


甘い毒に身を委ね、自らの肉体を内側から溶かし尽くしていく悪女。

その背後で、アルトハイム伯爵邸を完全に滅亡へと導く運命の秒針が、チ、チ、チ、と冷徹に破滅の刻限を刻み始めていた。

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