第36話:血の匂いと狂おしい檻
神聖オーガスタ帝国の心臓部を震撼させた激動の一日は、冬の夜の底知れぬ静寂の中へと沈み込んでいた。
皇帝フリードリヒによる前代未聞の勅命――平民同然の十二歳の少女エルザ・ヴァルデックに対する『帝国衛生院副総裁』の拝命と、宮廷医師団および帝国医学校の全権監査権の授与。
その報せは、夕刻を待たずして早馬と伝書鳩によって帝都中の貴族邸、大司教座、そして各ギルドへと駆け巡り、宮廷社会に大地震のような戦慄を走らせていた。
昨日まで「大公に誑かされた下働きの小娘」と蔑まれていた少女が、一夜にして皇帝と皇妃の絶対的な信任を背負い、帝国の医療制度の頂点へと君臨したのだ。
宮廷の老獪な門閥貴族たちも、神殿の息のかかった高位神官たちも、もはやエルザを「魔女」と呼んで公然と排斥することなど不可能だった。彼女を告発することは、皇太子の命を救った皇帝の親裁そのものに叛旗を翻す大逆罪に直結するからだ。
深夜、大公邸の西翼に位置する離宮。
エルザに与えられたその私室は、かつて北方大公領の黒狼城で与えられた客室や、ましてや前世のアルトハイム伯爵邸で宛がわれていた薄暗い地下洗濯場の藁ベッドとは、天と地ほどの隔絶があった。
壁面には豪奢な金唐革が隙間なく張られ、床には足音を完全に吸い込む厚手のペルシャ絨毯が敷き詰められている。天蓋付きの広大なベッドには、最高級の純白の羽毛布団と絹のシーツが整えられ、大理石のマントルピースの中では、楢の薪が赤々と静かな火の粉を散らしていた。
だが、エルザはその豪奢な寝台に身を横たえることすらしていなかった。
純白の医療用ローブを脱ぎ、動きやすい濃紺のリネンワンピースに着替えた彼女は、暖炉の脇に置かれた頑丈な黒檀の執務机に向かい、カンテラの灯りの下で黙々と羽ペンを走らせていた。
カリ、カリ、カリ……。
硬質な真鍮のペン先が、分厚い羊皮紙の繊維を削る音だけが、深夜の部屋に規則正しく響き渡る。
机の上に広げられていたのは、前世の記憶と今世の知見を統合した、極秘の暗号手帳。
そして――帝都サンクト・オーガスタの精細な地下水路図と、都市構造の断面図だった。
(……第一段階は、完全にクリアした)
エルザはインク壺にペン先を浸しながら、琥珀色の双眸を細めた。
前世で自分を断頭台へと追いやったタイムラインの歯車は、いまや完全に狂い、粉々に破壊されつつあった。
アルトハイム伯爵家とクラリッサは、自らの虚栄心と鉛白粉の乱用によって自滅の坂を転がり落ちており、もはやエルザに濡れ衣を着せるだけの権力も気力も持ち合わせていない。
そして、皇宮から放逐されたアンセルム首席司教。神殿の権力は一時的に後退し、ディルク皇太子という最重要の操り人形を失ったことで、教会の支配体制には巨大な亀裂が入った。
(だが……手綱を緩めるわけにはいかない。病巣は、まだ心臓部で脈打っている)
エルザのペン先が、帝都の地図の東側――大聖堂がそびえる丘の地下水路の結節点へと、黒い丸を穿った。
アンセルムが独占製造する「解呪の聖水」。その巨利の裏に潜む、さらなる闇。
帝都の下水道インフラの未整備、澱んだ開渠に群がる銀蝿とネズミ。
前世の記憶通りに進むならば、追い詰められた教会は、いずれ民衆の恐怖を煽るために、より凶悪な疫病原体を解き放つ危険性がある。
(スラムの地下研究所で、ユーグ先生とオスカーを本格的に稼働させなければ。顕微鏡の増産、経口補水液の粉末パックの大量備蓄、そして――帝都の全井戸の水質検査。衛生院副総裁の勅許権限を使えば、教会の息がかかった薬局も強制査察できる)
手に入れた権力は、復讐の美酒に酔うための飾りではない。
二度と理不尽に己の首を差し出さぬよう、皇帝すら不可侵の絶対的な「医療の城壁」を築き上げるための、ただの道具に過ぎないのだ。
エルザが次の施策を羊皮紙に書き留めようとした、まさにその時だった。
――トントン。
深夜の静寂を破り、重厚な樫の扉に、低く乾いたノックの音が響いた。
従僕や侍女の遠慮がちなノックではない。
金属の冷たさを帯びた、極めて短い二度の打音。
エルザはペンの動きを止め、眉を微かにひそめた。
時計の針は、すでに深夜の一時を回っている。大公邸の厳重な警備を潜り抜け、この離宮のエルザの私室の前まで足音もなく到達できる人間など、この帝国にただ一人しか存在しない。
「……大公閣下ですか」
エルザが声をかけると、扉の向こうから、重苦しい沈黙の後に低い呼気が返ってきた。
「……開けろ」
短く、どこか掠れた声音。
エルザは椅子から立ち上がり、足音を立てずに扉へと歩み寄った。
真鍮の鍵を開け、重厚な扉を内側へと引く。
ギィ……と開かれた開口部に立っていた影を認めた瞬間、エルザの息がわずかに詰まった。
「……閣下?」
そこに立っていたのは、ギルバート・フォン・ラングリールだった。
だが、その姿は、昼間の玉座の間で皇帝を前にして威風堂々と立ちはだかっていた軍神のそれとは、あまりにもかけ離れていた。
漆黒の軍服の上着はどこかへ乱暴に脱ぎ捨てられたのか、身に纏っているのは胸元のボタンが二つ外された薄手の黒いリネンシャツ一枚だけだった。鍛え上げられた分厚い胸板と鎖骨が荒い呼吸に合わせて激しく波打ち、普段は綺麗に撫でつけられている漆黒の髪は、指で乱暴にかきむしられたように乱れ、額に幾筋も垂れ下がっている。
そして――何よりもエルザを戦慄させたのは、その双眸だった。
氷灰色の瞳。
普段は氷河の底のように冷徹で、何者をも寄せ付けぬ虚無を湛えているはずのその双眸の奥底に。
いま、ドス黒く濁った、飢えた野獣のような剥き出しの「焦燥」と、理性を焼き焦がす狂気的な熱が、爛々と渦巻いていたのだ。
「……こんな夜更けに、何のご用でしょうか。明朝の回診の打ち合わせであれば――」
エルザの言葉は、最後まで紡がれることすら許されなかった。
ガシィッッ!!
冷たい風が室内に吹き込むのと同時に、ギルバートの褐色の剛腕が、エルザの細い手首を万力のような力で鷲掴みにした。
「……っ!?」
抵抗する間すらなかった。
百キロ近い筋肉の質量を持つ巨躯が、強引に室内の敷居を踏み越え、エルザの身体を背後へと力任せに押し戻したのだ。
ドンッッ!!
エルザの背中が、暖炉の脇の分厚い金唐革の壁へと鈍い音を立てて激突した。
痛覚が走る暇もなく、逃げ道を塞ぐようにして、ギルバートの両腕がエルザの頭の両脇の壁へと叩きつけられた。
視界が、漆黒の影によって完全に覆い尽くされる。
男の圧倒的な体躯の牢獄。
「……大公閣下」
エルザは背中を壁に押し当てられたまま、顎をわずかに上げ、目の前の男の瞳を冷徹に見据えた。
「乱暴な侵入です。脈拍が異常に亢進していますよ。……今夜は酒を召し上がらないよう指示したはずですが」
だが、ギルバートはエルザの警告など、耳に入っていないようだった。
男は荒い息を吐きながら、エルザの華奢な肩へと覆いかぶさるように顔を近づけた。
熱い。
ギルバートの全身から放たれる体温は、暖炉の火よりも生々しく、エルザの皮膚を焦がすほどだった。
酒の匂いなど微塵もしなかった。
漂ってきたのは、男の肌から滲み出る純粋な汗の匂いと、冷たい夜風の匂い――そして、剥き出しの闘争本能が放つ、血のような熱気。
ギルバートは、自らの額を、エルザの首筋の窪みへと深々と埋め込んだ。
「……っ……」
エルザの首筋に、男の乱れた前髪が触れ、熱い呼気が直接皮膚を叩いた。
微かに残る石鹸の香りと、薬草の匂い。
その清らかな香りを貪るように、ギルバートは深く、深く息を吸い込んだ。
そして――次の瞬間、男の逞しい腕が、エルザの細い腰を背後から力任せに抱き寄せた。
ミシミシ、と骨が軋むほどの異常な抱擁。
十二歳のエルザの小さな身体が、ギルバートの硬い胸板へと隙間なく押し付けられる。
心臓の鼓動が、衣服越しに直接伝わってきた。
ドクン、ドクン、ドクン、ドクン――毎分百二十回を超える、狂乱のタキカルディア(頻脈)。
「……狂うかと思った」
低く、掠れきったギルバートの声が、エルザの耳元を直接震わせた。
喉の奥で血を吐き出すかのような、痛々しいまでの切迫感。
「大公閣下……肋骨が圧迫されています。腕を緩めなさい」
「断る」
ギルバートの腕の力は、緩むどころか、さらに一段強くエルザを締め上げた。まるで、指先をわずかでも離せば、目の前の少女が煙のように夜の闇へと溶けて消え去ってしまうのを恐れるかのように。
「……昨夜、あのサロンの長テーブルの上で」
ギルバートの唇が、エルザの首筋の皮膚を擦るように動く。
「血飛沫を顔面に浴びながら、躊躇いもなく皇太子の胸元を切り裂き、内臓の奥底へその小さな手を突っ込んでいたお前を見た時……俺の中で、何かが音を立てて砕け散りそうだった」
男の腕が、微かに、だが激しく震えていた。
戦場で幾千の敵を屠り、自らの死すら冷笑してきた冷酷大公が――恐怖に震えていたのだ。
「神技だった。……息を呑むほどに美しく、残酷で、眩しすぎる光だった」
ギルバートの息が、熱くエルザの耳朶を焦がす。
「あの場にいた全員が……近衛兵も、諸侯も、あの冷酷なロザリア皇妃すらも、お前の指先に魂を奪われていた。そして今日、玉座の間で、皇帝がお前に黄金の笏を授け、帝国の至宝として手元に置こうとした時……俺は、あの広間にいた全員の首を、その場で刎ね飛ばしてしまいたい衝動に狂いそうだった」
ギルバートが、ゆっくりと顔を上げた。
至近距離で交錯する、二人の視線。
ギルバートの右手の手袋は外されていた。
傷跡の刻まれた、無骨で巨大な男の指先が、エルザの白磁のような小さな顎を掬い上げ、自らの氷灰色の双眸から一ミリも視線を逸らせないよう、逃げ場を塞ぐように固定した。
そこにあったのは、帝国最強の武将の威厳などでは断じてなかった。
自らの唯一無二の光を、他人に奪われかけた男の――剥き出しの、狂気じみた執着と独占欲。
「お前は光だ、エルザ。誰の目にも触れさせたくないほど、眩しすぎる刃だ」
ギルバートの瞳の奥で、昏い炎が爆発的な熱量で燃え盛っていた。
「宮廷の貴族どもがお前に群がり、皇帝や皇妃がお前を神輿に担ぎ上げようとしている。……だが、忘れるな。お前を見つけたのは俺だ。あのアルトハイムの薄暗い館の地下牢から、お前の命を買い取ったのは俺だ」
ギルバートの親指の腹が、エルザの唇の端を、痛いほど強く撫でた。
荒々しく、だが壊れ物を扱うかのような、歪な愛撫。
「お前を、誰にも渡さん」
低く、耳朶の奥底を直接締め上げるような、絶対の宣告。
「皇帝だろうが、皇太子だろうが、神だろうが……お前を俺の手から奪おうとする奴がいるなら、俺は黒狼騎士団の全軍を率いて帝都を火の海に変えてでも、その首を叩き斬ってやる。……お前のメスが切り裂く世界は、俺の腕の檻だけで広げろ」
重すぎる、鋼の檻。
常人であれば、その圧倒的な軍事力と狂気的な執着の重圧に押し潰され、恐怖で息を詰まらせて命乞いをするところだろう。
だが――。
エルザの琥珀色の瞳は、瞬き一つしていなかった。
ギルバートの激しい呼気を正面から受け止めながら、彼女の心臓は、驚くほど冷静に、規則正しく脈打っていた。
……トクン。
……トクン。
だが、その胸の奥底の炉で、普段は冷え切っているはずの感情の火種が、予期せぬ強い衝撃を受けて、チリリと熱い火花を散らしたのもまた、紛れもない事実だった。
計算ずくで手に入れたはずの、最強の盾。
大公家の権力と武力を利用し、己の延命と医療革命のための跳躍台にする――その冷徹な契約関係の枠組みを、目の前の男は、とっくに己の生身の熱量で焼き千切っていたのだ。
己の命を救われたことへの畏敬。
自らの血の呪縛を解き放ってくれた少女に対する、魂を丸ごと差し出すような狂信的な狂愛。
エルザは、顎を掴まれたまま、薄い唇をゆっくりと動かした。
その声は、男の激情に呑まれることなく、どこまでも凛と、自立した職人の硬度を保っていた。
「……大公閣下」
エルザは自らの小さな左手を持ち上げ、ギルバートの胸元――激しく脈打つ男の心臓の真上へと、掌をトンと押し当てた。
「勘違いなさらないでください。……私は、誰の所有物にもなりません」
冷徹な拒絶。
だが、エルザの指先は、男の胸板から離れようとはしなかった。
「私は皇帝の道具にも、皇妃の操り人形にもならない。そして――あなたの人形にもならない。私は私の意志でメスを握り、私の意志でこの帝国の病巣を解剖するのです。誰の檻にも、私は収まりません」
エルザの琥珀色の瞳が、ギルバートの氷灰色の双眸を真っ向から射抜く。
「私の命を縛り付けられるものは、この世にただ一つ――生化学と病理の真理だけです」
静寂。
エルザの冷徹な言葉が、室内の熱気をピシリと切り裂いた。
だが――その拒絶を聞いた瞬間。
ギルバートの表情に浮かんだのは、怒りでも、落胆でもなかった。
男の口端が、ゆっくりと、獰猛に吊り上がっていった。
喉の奥から漏れ出したのは、狂おしいまでの歓喜を含んだ、掠れた笑い声だった。
「……ククッ……ははっ……!」
ギルバートは肩を揺らし、額を再びエルザの首筋へと押し当てた。
「ああ……そうだ。それでいい。お前は媚びず、誰にも首を垂れず、ただ己の理屈だけで世界を見下ろしていればいい」
ギルバートが顔を上げた。
その瞳に宿っていたのは、支配者の傲慢などでは断じてなかった。
自らの神を見上げる狂信者の、狂気じみた歓喜と忠誠。
「お前は俺の頭上高くに君臨する魔女だ、エルザ。誰にも飼い慣らせん、冷酷無比な我が主治医だ」
ギルバートの腕が、エルザの腰を再び力強く引き寄せる。
「ならば、檻ではない。……お前が世界を切り裂くというのなら、俺はお前だけの絶対の鞘となり、お前を守る唯一無二の盾となろう。お前が踏み躙るべき敵の骨を、俺がすべて砕いて敷き詰めてやる」
ギルバートの顔が、さらに近づいた。
男の熱い唇が、エルザの額の真ん中――前世で断頭台の冷たい雨に打たれていた、あの額の中央へと、痛いほどに強く、深く押し当てられた。
――ジュウッ、と皮膚が焼けるかのような、熱く激しい誓いの口づけ。
額から伝わってくる、男の生々しい体温と、魂を削り出すような重い誓約の響き。
「……俺の側から離れるな、エルザ。お前を失うくらいなら、俺はこの帝国ごと灰になってやる」
甘く、重く、息が詰まるほどの熱気。
冷徹に計算高く生きてきたエルザの胸の中で、男の激しい心拍の波が、自らの血液へと共鳴していくのを感じていた。
主従関係などではない。
庇護者と被庇護者という生ぬるい枠組みすら超越した――互いの魂と野望を食らい合う、誰にも引き裂くことのできない「絶対的な共犯関係」。
エルザは小さく息を吸い込むと、ギルバートの胸板に当てていた掌の力を、わずかに緩めた。
そして、男の乱れたシャツの襟元を、指先で整えるように軽く引き戻す。
「……心拍数が毎分百十まで下がりましたね。少しは頭が冷えましたか、大公閣下」
「……お前という奴は、本当に色気のない主治医だな」
ギルバートは自嘲気味に息を漏らしながらも、エルザを抱きしめる腕の力を、今度は慈しむように優しく緩めた。
夜の帳の向こう、東の空の星々が、静かにその光を薄め始めていた。
激動の夜が明け、帝都の新たな一日が始まろうとしていた。
手に入れた帝国衛生院の権力と、絶対の盾を手中に収めたエルザの冷徹な知性は、いま、次なる復讐と解剖の標的――前世の冤罪の元凶たる「アルトハイム伯爵邸」の闇へと、その鋭利な切っ先を定めようとしていた。




