第41話:ニンニクの息と黒い鏡面
アルトハイム伯爵邸の主寝室に満ちていたのは、息苦しいほどの湿気と、何かが内側から腐り果てていくような沈鬱な熱気だった。
天蓋付きの豪奢なベッドの上では、かつてエルザを家畜のようにこき使っていた元主家の主、アルトハイム伯爵が、シーツを爪が割れるほどの力で掻きむしりながら身悶えていた。その皮膚は弾力を完全に失い、干からびた羊皮紙のようにカサつき、全身に雨だれのような黒褐色の色素沈着が無数に浮き出ている。隣の寝台では、伯爵夫人が三十八度を超える微熱に意識を混濁させ、時折、空っぽの胃袋を激しく痙攣させて黄色い胆汁を吐き戻していた。
二人の手足は極度に萎縮し、布団が触れるだけでも針で刺されたような激痛に悲鳴を上げている。手足の先端の知覚が過敏になり、運動神経が侵食されて立ち上がることすらできない、末梢神経炎の地獄。
だが、その凄惨極まりない病床を取り囲むようにして、寝室の四方の壁一面を覆い尽くしていたのは――。
息を呑むほどに鮮やかで、貴族たちの目を奪う豪奢なエメラルドグリーンの輸入壁紙だった。
金糸で細やかな蔦植物が織り込まれ、一見すると宮廷の富と洗練の極致を誇るかのようなその装飾。
その壁紙を指差し、エルザが「死を呼ぶ猛毒、シェーレ緑――亜ヒ酸銅の色です」と告げた瞬間、寝室に詰めかけていた諸侯たちの間に走ったのは、納得ではなく、深い困惑と疑念のざわめきだった。
「……シェーレ緑? 亜ヒ酸銅だと?」
「莫迦な……あの壁紙は、帝都の貴族街で最も格式の高いサロンでもこぞって用いられている、最先端の調度品ではないか」
「下級貴族の小娘が、宮廷の流行に難癖をつけているだけではないのか?」
扇の陰から漏れる、貴族たちの懐疑的な囁き。
その不穏な空気を好機と見たアンセルム首席司教が、額に巻いた包帯を押さえながら、勝ち誇ったように一歩進み出た。
その白銀の祭服の裾を翻し、皇帝フリードリヒとロザリア皇妃へ向けて、芝居がかった手つきで大仰に平伏してみせる。
「皇帝陛下! 諸侯の皆様! お聞き及びの通りでございます!」
アンセルムの朗々たる声が、寝室の天井に反響した。
「エルザ副総裁は、己がアルトハイム家を私怨によって呪殺しようとした大逆の罪を逃れんがため、あろうことか帝都の誰もが愛でる美しい工芸壁紙に罪を擦り付けようとしております! 紙の上の絵の具が、どうして人を内側から焼き殺すことができましょうか! これこそが、神の創りたもうた自然の理を冒涜し、詭弁をもって己の魔術を覆い隠そうとする異端者の証拠! 陛下、これ以上の茶番を許してはなりませぬ!」
アンセルムの背後では、顔面をセメントのような白粉で塗り固めたクラリッサが、血走った眼をギラつかせてヒステリックに同調していた。
「そうですわ! あんな綺麗な壁紙が毒のはずありません! お父様とお母様を苦しめているのは、あのエルザの呪詛です! あいつを今すぐ地下牢へ引きずり落とし、爪を剥いで白状させなさい!」
狂乱するクラリッサと、教会の権威を傘に着て煽り立てるアンセルム。
室内の近衛兵たちも、諸侯たちも、どちらが真実なのか判断がつかず、息を呑んで玉座の主たる皇帝の顔色を窺っていた。
皇帝フリードリヒの猛禽のような双眸が、寝室の真ん中に立つエルザへと、冷たく据えられた。
「……エルザ副総裁。そなたの言う『亜ヒ酸銅』が真に毒であるとして、壁に貼られた紙が、いかにして病床の夫妻の体内へ侵入したというのだ。夫妻が壁紙を千切って口に含んだとでも言うのか」
皇帝の低く、逃げ場を塞ぐような問い。
だが――。
エルザの琥珀色の瞳は、皇帝の威圧を前にしても、湖面のように凪いだまま微動だにしなかった。
彼女は白衣の袖口を整えると、静かに会釈した。
「口に含む必要など、最初からございません、陛下」
澄み切った、あまりにも平坦な少女の声。
「この部屋に寝ているだけで、人間は毎日、自らの肺胞からその猛毒を吸い込まされていたのですから」
エルザは踵を返し、背後に控えていた二人の男――オスカーとユーグを見据えた。
「オスカー、機材の展開を。ユーグ先生、試薬の準備をなさい」
「おうよ! 待ってましただ!」
「ふん……宮廷の豚どもに、本物の化学の講義をしてやるか」
オスカーが抱えていた分厚い黒革のトランクが、ベッドサイドの円形テーブルの上へと開かれた。
カチリ、と真鍮の留め金が外され、中から取り出されたのは、帝国の旧来の薬師たちが見たこともない、異様な形状のガラス器具の数々だった。
オスカーの工房が焼き上げた、気泡一つない透明度を誇るホウケイ酸耐熱ガラスの球形フラスコ。
その首元には、二股に分かれたガラスの側管が精密に溶接され、上部には気密性を保つためのすり合わせガラス栓が嵌め込まれている。フラスコの側管の先には、内径わずか二ミリほどの、熱で真っ直ぐに引き伸ばされた極細の耐熱ガラス細管が連結されていた。
さらに、ユーグの手によって木箱から取り出されたのは、純銀のように鈍く光る高純度亜鉛の小粒、希硫酸を満たした褐色の遮光瓶、そして小さなアルコールランプ。
貴族たちが「何だ、あの奇怪な道具は……」「錬金術の釜か?」とざわめく中、エルザは手袋をした指先で、壁面のエメラルドグリーンの壁紙の端を、ナイフで鋭く撫でた。
シャッ。
切断音が響き、縦横五センチほどの、鮮やかな緑色の壁紙の破片が切り取られた。
エルザはその破片をピンセットで挟み上げ、皇帝と貴族たちの眼前へと掲げて見せた。
「皆様。この帝都サンクト・オーガスタは、盆地の底に位置し、大聖堂の丘から吹き下ろす湿気が絶えず街の低地に淀んでおります。とりわけ、このアルトハイム伯爵邸の北西角に位置するこの主寝室は、日当たりが悪く、外壁のレンガに雨水が浸透し、年中を通じて異常な高湿度に晒されている」
エルザの指先が、壁紙を剥がした後の漆喰の壁を指し示した。
そこには、薄暗い緑色の壁紙の下に隠されていた、おびただしい数の黒褐色と灰色のカビのコロニー(斑点)が、まるで蜘蛛の巣のようにびっしりと繁殖していた。
「……ひっ!?」貴族の一人が嫌悪感に声を漏らす。
「壁紙を貼り付けるために用いられた、小麦粉とデンプンを煮詰めた有機物の糊。それに湿気が加わったことで、壁の裏側には『ペニシリウム属』をはじめとする好湿性の真菌――カビが爆発的に繁殖いたしました」
エルザは壁紙の破片を、耐熱フラスコの丸い底へと落とし込んだ。
カラン、と乾いた音が響く。
「カビは、生きるために周囲の有機物を分解します。そして――その糊の表面に、亜ヒ酸銅という無機ヒ素の化合物が存在した時、カビの持つ特異な代謝酵素が、ヒ素原子に対して自らのメチル基を結合させる化学反応……『生物学的メチル化』を引き起こすのです」
エルザの口から紡ぎ出されるのは、この中世の帝国において誰一人として耳にしたことのない、最先端の生化学の真理。
「無機のヒ素は、重く、揮発いたしません。ですが、カビによってメチル化されたヒ素化合物は――常温で容易に気化し、無色透明の猛毒ガスへと変貌を遂げる。……その現象を、いま、この場で人工的に再現して御覧に入れましょう」
エルザはユーグに目配せをした。
ユーグは手際よく、フラスコの中へ純亜鉛の粒を十数粒投入し、次いで褐色の瓶から希硫酸を注ぎ込んだ。
ジュワジュワジュワッッ!!
激しい発泡音がフラスコの内側から立ち上る。亜鉛と希硫酸が反応し、猛烈な勢いで活性水素ガス(発生期の水素)が発生したのだ。
エルザは即座にフラスコの口をすり合わせガラス栓で密閉した。
発生した水素ガスが、フラスコの底に沈むエメラルドグリーンの壁紙の破片を包み込み、そこに含まれる亜ヒ酸銅を強制的に還元していく。
「オスカー、アルコールランプを」
「へいよッ!」
オスカーがカチリと火打石を打ち、ランプの芯に青白い炎を灯した。
エルザはフラスコから伸びるガラス細管の中央部へ、そのアルコールランプの炎を当てた。
ガラス管の先から、還元された気体が、目に見えない圧力となって室内の空気へと噴き出し始める。
「……実証の第一段階です」
エルザはガラス管の出口からわずかに身体を引き、周囲の諸侯たちへ向けて手招きをした。
「近衛兵長。そこから一歩進み出て、ガラス管の先から吹き出している空気を、手で扇いで微かに嗅いで御覧なさい。ただし――決して深く吸い込んではなりません」
「な……私にか……?」
近衛兵長は顔を引き攣らせ、皇帝の視線を受けて唾を飲み込んだ。
屈強な軍人は恐る恐る歩み寄り、テーブルの上のガラス管の先へと顔を近づけた。
そして、手袋をした手で、管の先から漂う気体を鼻腔へと手繰り寄せた。
その、わずか一秒後――。
「……っ!? ぶほっ……げほっ、おえっ……!!」
近衛兵長は喉を押さえ、顔面を真っ赤に鬱血させて激しく咳き込みながら、弾かれたように三歩後退った。
その瞳には、呼吸器を直接針で刺されたかのような、生々しい恐怖と激痛の涙が滲んでいた。
「な、何だ……この臭いは……ッ!?」
近衛兵長が掠れた声で叫ぶ。
「ニンニクだ……! 何ヶ月も泥水の中で腐敗させたような、耐え難いニンニクの異臭が鼻腔を突き抜けたぞ……! 息が……喉の粘膜が焼け付くようだ……!」
その言葉を聞いた瞬間、寝室の空気が一変した。
「ニンニクの臭い……?」
「馬鹿な……この部屋に入った瞬間から、微かに漂っていたあの異臭と同じではないか……!」
貴族たちが互いに顔を見合わせ、恐怖にざわめき始める。
「そうです」
エルザの冷徹な声が、ざわめきを一瞬で静まり返らせた。
「それこそが、カビが亜ヒ酸銅から生み出す有機ヒ素ガス――トリメチルアルシン(trimethylarsine)の特異臭です」
エルザの指先が、四方のエメラルドグリーンの壁を滑らかに指し示した。
「この部屋には、窓の換気設備がほとんどございません。寒さを防ぐため、分厚いカーテンで締め切られたこの寝室の中で、毎晩、何年にもわたり――この壁紙全体から、今お見せしたニンニク臭の猛毒ガスが、目に見えぬ蒸気となって部屋中に充満していたのです」
エルザの言葉は、逃れようのない病理の設計図として、貴族たちの脳髄を打ち据えた。
「人間が一晩に吸い込む空気の量は、およそ数千リットル。病床の伯爵夫妻は、毎晩この部屋で眠るたびに、このトリメチルアルシンを肺胞の毛細血管から直接血液中へと取り込み続けていたのです。
ヒ素は細胞内のチオール基(-SH基)に結合し、ピルビン酸脱水素酵素の働きを阻害して、細胞のエネルギー産生を根底から停止させます。
全身の細胞が呼吸を奪われ、内臓は焼け爛れ、末梢神経は麻痺して激痛を発し、毛細血管の透過性が亢進して皮膚に黒褐色の色素沈着を生じさせる。
……悪魔の業火など、この部屋のどこにも飛来してはおりません。あるのは、壁から立ち上る毒の煙によって、内側から細胞を窒息させられていたという、あまりにも冷酷な物理現象だけです」
「ば、化け物め……!」
アンセルム首席司教の額から、タラリと大粒の冷や汗が流れ落ちた。
包帯の下の傷口がズキズキと痛み、男の足がガタガタと震え出す。
だが、教会の最高権威としての執念が、男の喉からなおも狂気の抵抗を絞り出させた。
「た……戯言だ! ニンニクの臭いがしたから何だというのだ! 薬草を煮詰めても似たような異臭はする! 気体など目に見えぬではないか! その気体の中に、真に人を殺す毒が含まれているという目に見える証拠がどこにある!? 小娘の香具師のペテンに惑わされるなッ!!」
目に見える証拠。
苦し紛れの、だが民衆や迷信深い貴族たちを煙に巻くための最後の悪あがき。
だが――エルザの口元に浮かんだのは、その反論を最初から完全に予期していた者の、絶対零度の冷笑だった。
「……目に見える証拠、ですね」
エルザは白衣のポケットから、純白の無鉛磁器で作られた、冷たい小さな丸皿を取り出した。
「仰る通りです、アンセルム司教。気体は目に見えません。ならば――その気体の中に溶け込んでいる毒そのものを、物質の形として、皆様のお目に焼き付けて差し上げましょう」
「な……に……?」アンセルムが息を呑む。
「実証の第二段階――熱分解によるヒ素鏡の析出反応(マッシュ法類似反応)を行います」
エルザはピンセットで純白の磁器皿を掴むと、還元ガスが吹き出しているガラス細管の出口の真上、わずか数ミリの位置へと垂直にかざした。
そして、左手に持ったアルコールランプの強烈な青い炎を、ガラス細管の途中――気体が通過する管の中央部へと、直接押し当てた。
ゴオオオオッ……。
細管の中で、気体が数百度の高温に強熱される。
室内の全員が、固唾を呑んでテーブルの上を凝視した。
皇帝フリードリヒも、ロザリア皇妃も、身を乗り出すようにしてテーブルの上の純白の小皿を見つめている。
チ、チ、チ……と、壁掛け時計の秒針が、冷酷に時を刻む。
十秒。
二十秒。
そして――三十秒が経過した、その瞬間だった。
「……あ……!?」
最前列にいた老侯爵が、信じられないものを見るように目を見張り、震える指先でテーブルを指差した。
「み、見ろ……! 皿の表面が……!?」
息を呑む静寂の中。
熱せられたガラス管から噴き出す無色の気流を浴びていた、あの純白の磁器皿の表面。
雪のように白かったその陶器の肌の上に――。
ポツリ、と小さな黒い影が生まれた。
そして、その影は瞬く間に円形に広がり、ランプの白熱する光をギラリと反射させながら――。
まるで磨き上げられた黒鉄の鏡のように、鈍く、冷たく、禍々しい金属光沢を放つ『漆黒の鏡面被膜(ヒ素鏡)』となって、くっきりと浮かび上がっていったのだ。
「鏡……? 白い皿の上に、黒い金属の鏡が……現れた……!?」
貴族たちから、地鳴りのような悲鳴が上がった。
「有機ヒ素ガス(トリメチルアルシン)が、ガラス管の熱によって熱分解を起こし、揮発性を失った純粋な金属ヒ素(元素ヒ素)へと還元され、冷たい磁器の表面に蒸着・析出した現象です」
エルザの声は、神託のように澄み渡り、そして死刑宣告のように冷徹だった。
エルザはピンセットを持ち上げ、黒い金属の光沢を放つその小皿を、アンセルム首席司教の鼻先わずか数寸の位置へと突き出した。
「ご覧なさい、アンセルム司教」
エルザの琥珀色の瞳の奥に宿る暗闇が、司教の魂を直接締め上げる。
「これが――壁紙から立ち上り、伯爵夫妻の肺を焼き、その肉体を内側から腐らせていた毒の正体……純粋なる『金属ヒ素』の鏡面です」
逃げ場のない、物理的な現実の結晶。
黒く光るその鏡面には、恐怖と絶望に顔を歪め、幽霊のように青ざめたアンセルム自身の醜悪な顔が、はっきりと映し出されていた。
「悪魔の呪詛など、この部屋のどこにも浮遊していません」
エルザの唇から、最後の引導が渡された。
「あるのは――ただの化学物質。壁から立ち上り、人間を殺し続けていた、毒の煙の証拠だけです」
――静寂。
主寝室を満たしていたのは、もはや疑惑のざわめきではなかった。
神の奇跡という名の虚飾を、たった一振りのガラス管と炎によって完全に解剖し尽くされた――教会という巨大な迷信に対する、圧倒的な畏怖と戦慄だった。
アンセルム首席司教の顔面から、完全に生者の色が失われていた。
唇は紫色に震え、額の包帯から滲み出た血が、脂汗とともに顎へと伝い落ちる。
男の膝が、激しい音を立てて大理石の床板へと崩れ落ちた。
科学のメスは、過去の亡霊の心臓を、いま、寸分の狂いもなく貫通していた。




