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呪いではなく鉛中毒です〜死に戻り侍女は近代医学で冷酷大公を救い、宮廷の嘘を解剖する〜  作者: タカケンサンバ


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第33話:神を屠る糸

胃十二指腸動脈の結紮(けっさつ)と、穿孔した潰瘍の二層多層縫合が完了した瞬間、手術台の周囲には、濃密な血の気配と煮沸された薬湯の蒸気が混ざり合い、息苦しいほどの静寂が澱んでいた。

三十基のアルコールランプと反射鏡が放つ白熱の光球が、ディルク皇太子の切り開かれた腹腔の奥底を、影一つ残さず照らし出している。

だが、エルザの手は止まらなかった。

胃に開いた穴を塞ぎ、吹き出す動脈を縛り上げただけでは、手術はまだ半分を越えたに過ぎない。開腹手術において、術後の患者を死に至らしめる最大の伏兵は、腹腔内に取り残された汚染物質による二次性の敗血症――すなわち、腹膜炎の再燃だった。


「生理食塩水を。最後の大規模洗浄を行います」

エルザの冷徹な声が、小広間の張り詰めた空気を震わせた。

「マリカ、ピッチャーの湯温を確かめなさい。熱すぎても冷たすぎても、心筋への熱ショックを招きます。体温プラス二度、正確に三十八度を維持すること」

「は、はいっ!」

マリカが湯気の立つ無鉛磁器のピッチャーを抱え、ディルクの開創部の上へと進み出た。

注ぎ込まれる大量の温湯。

バシャ、バシャリと、人肌の温水が十二指腸の周囲、肝下面、そして骨盤の最深部であるダグラス窩(か)へと勢いよく注ぎ込まれていく。

エルザは右手の手袋を擦り合わせるようにして、腸管と腸間膜の隙間にこびりついていた微小な凝血塊や、漏出していた胃液のカスを、指先で愛撫するかのように優しく、だが徹底的に洗い落としていった。


「オスカー、陰圧ポンプを最大出力で引き続けなさい! 一滴の濁りも残してはなりません!」

「おうよ! 腕が千切れるまで引いてやるぜッ!」

オスカーが汗だくになりながら鹿革のフイゴを激しく往復させる。

ズズズッ、ジュルルルルッ――と、ガラス吸引管が濁った洗浄水を猛烈な勢いで吸い上げていく。

一度、二度、三度。

注水と吸引が繰り返されるたび、ガラス瓶へと吸い込まれる廃液の色は、赤黒い濁りから淡いピンク色へ、そして最後には、底のガラスが透けて見えるほどの完全な透明へと変わっていった。

腹腔内の細菌と強酸性の胃液は、物理的にすべて体外へと洗い流されたのだ。


「腹腔内ドレーンを留置します」

エルザはトランクから、オスカーに作らせていた柔らかい天然ゴムの排液管を取り出した。先端に無数の側孔を開けたその管を、十二指腸の縫合部の直下、および骨盤腔の底へと正確に滑り込ませる。

万が一、術後に微量の浸出液や出血があったとしても、この管を通じて体外へ排出し、腹の中に膿が溜まるのを防ぐための命綱。

エルザは右側腹部の皮膚にメスでわずか五ミリの小孔を開け、そこからドレーンの断端を外側へと引き出した。


「開創器を外しなさい。……閉腹に入ります」

カチリ、と真鍮の開創器が外された。

左右に無理やり押し広げられていた腹壁の筋肉が、解放されて自然な位置へと戻る。

エルザは両手を広げ、ディルクの腹腔内を最後にもう一度、猛禽のような鋭い眼光で走査した。

ガーゼの置き忘れはないか。器具の取り残しはないか。結紮した絹糸の結び目に緩みはないか。

「体内ガーゼ数、十枚。使用済み回収数、十枚。残存異物なし」

淀みないカウント。

前世の近代医学において、術後感染を防ぐための鉄則とされていた手順が、この異世界の白金宮において寸分の狂いもなく執行されていく。


◇


そして――。

エルザの指先が、最後の、そして最も神聖な工程へと移った。

人体の層構造を、元通りに復元する閉腹縫合。


「持針器(じしんき)。一番キャットガット、太丸針」

マリカから手渡されたのは、強靭な羊腸線をセットした湾曲針だった。

開腹した腹を閉じる際、素人が犯す最大の誤りは「皮膚と筋肉をまとめて力任せに縫い縮める」ことだ。そんな乱暴な縫合をすれば、組織の間に死腔(空洞)ができ、そこへ血が溜まって化膿し、やがて筋膜が離開して内臓が脱出する。

人体は、幾重もの膜と筋肉が精密に組み合わさった小宇宙。

切開した層と同じ順序で、それぞれの組織の張力に合わせて、一層ずつ丁寧に閉じ合わせていかねばならない。


第一層――腹膜および後腹直筋鞘(こうふくちょくきんしょう)。

エルザは有鉤鑷子(ゆうこうせっし)で、切り裂かれていた半透明の腹膜の断端を左右から引き寄せた。

針が一閃する。

プツリ、と膜を貫く心地よい手応え。

エルザは針を途切れさせることなく、一本のキャットガットで螺旋を描くように連続縫合(連続かがり縫い)を走らせていった。

内臓を外界から遮断する膜が、水漏れ一つ許さぬ気密性をもって、胸骨の下から下腹部へと向かって急速に閉じ合わされていく。

最後の一針を通し、糸を引き締めた瞬間、腹膜の内側に蠢いていた内臓の姿は、完全に純白の膜の向こう側へと隠された。


「第二層――白線および前腹直筋鞘」

エルザは糸を切り替え、今度は太い結節縫合用の絹糸を手にとった。

左右の腹直筋を包み込む、強靭な白い腱膜。腹壁の強度を保ち、将来の内臓脱を防ぐための要(かなめ)となる層。

エルザの運針は、力強く、狂いがなかった。

一針ごとに一センチの間隔を保ち、腱膜の繊維に対して垂直に針を打ち込む。

ギュッ、ギュッと糸が締め上げられるたび、左右に開いていた腹筋の断端が、寸分の段差もなく吸い付くように噛み合わされていく。

結紮(けっさつ)の結び目は、三度しっかりと締め直され、組織の中に沈み込まされた。


そして――最後の第三層。

露出した皮下脂肪層を細い吸収糸で軽く引き寄せた後、エルザの手元に渡されたのは、鋭利な刃を持つ三角針と、極細の黒色絹糸だった。


皮膚縫合。

外から見える、唯一の傷跡。

エルザの指先が、まるで極上の絹織物に刺繍を施すかのように、滑らかに、リズミカルに舞った。

ピンセットで皮膚の切開縁をわずかに外反(外側へ反らせる)させ、傷口の角質層同士が平滑に合致するよう、針を直角に刺入する。

五ミリ。

五ミリ。

正確無比なピッチ。

定規で測ったかのように等間隔で並ぶ、黒い絹糸の小さな結び目。


胸骨の剣状突起から、臍の左側を優美な曲線で迂回し、下腹部へと至る、三十センチを超える長大な切開線。

先ほどまで血と胃液を噴き上げ、内臓を剥き出しにしていたあの恐るべき裂け目が――。

エルザの指先が通るたびに、魔法のように、一本の真っ直ぐな、美しい縫合痕へと閉じ合わされていく。

皮膚の縁に浮き出る歪みも、不自然な引き攣れも、一箇所として存在しなかった。

まるで、熟練の職人が仕立て上げた白磁の彫像に、細い一本の墨線を引いただけであるかのような、息を呑むほどに端正で、無機質なまでに完璧な閉創。


最後の一針を結び、ハサミの刃先が黒い糸の端を切り落とした、その瞬間――。


「……処置、完了しました」


カランッ。


エルザの手から離れた鋼の持針器が、金属製のトレイの上へと落ちた。

乾いた、静かな金属音。

それが、白金宮の夜会を地獄へと叩き落とした悪夢の切開劇の、完全なる終焉の合図だった。


◇


小広間を満たしていた熱気が、スッと引いていくような感覚。

沈黙。

誰もが言葉を失い、息を呑むことすら忘れ、手術台の上に横たわる皇太子の姿を凝視していた。


その絶対の静寂を破ったのは、マリカの震える、だが泣き笑いのような叫び声だった。


「……あ……あああっ!」

マリカはディルクの手首を両手で包み込み、ボロボロと大粒の涙をこぼしながら叫んだ。

「脈拍……規則的です! 毎分七十八回! 整です! 血圧が……手首の拍動が、さっきよりずっと強く……トクン、トクンって、力強く押し返してきます!」

マリカはディルクの胸元へ耳を当て、次いでその顔面を見つめ、声を詰まらせた。

「呼吸が……呼吸が深くなっています! さっきまでの、あの喉を詰まらせるような息じゃない……! 殿下が……深く、安らかに息を吸っていらっしゃいます……!」


見守っていた全員の視線が、ディルク皇太子の顔へと注がれた。


奇跡、と呼ぶにはあまりにも生々しい、生命の蘇生の現象。

死人のように白濁し、土気色に濁りきっていた青年の皮膚。

破綻した動脈から血が失われるのを止められ、体内へ補液が巡り始めたその肉体は、自らの心臓の力によって、再び温かい血液を毛細血管の隅々へと送り届けていた。

唇の紫色(チアノーゼ)が急速に薄れ、淡い桜色へと戻っていく。

削げ落ちていた両の頬に、ポッと、小さな、だが確かな生の赤みが差した。

額に触れれば、先ほどまでの氷のような冷感は消え去り、生きている人間の、確かな温もりが宿っていた。


「……す……ぅ……」


微かな、だが力強い寝息。

死の淵で内臓を万力で締め上げられ、激痛に狂乱して血の海に倒れ伏していたはずの帝国皇太子は――。

いまや、美しく縫い合わされた腹部の上に清潔なリネンを掛けられ、まるで長い悪夢から覚めたかのように、穏やかな深い眠りに落ちていた。

失血死まで数分と持たないと宣告されていた少年が、完全に生者の側へと引き戻されたのだ。


「あ……」

壁際から、押し殺したような息が漏れた。


ロザリア皇妃だった。

宮廷の女傑として、どのような政敵の前でも眉一つ動かさず、感情を鉄の仮面の下に押し殺してきたその女性が。

いま、自らの爪が掌に食い込んで血を流していることすら気づかぬ様子で、手術台へと歩み寄っていた。

その足取りは、いつもの威風堂々たる歩行ではなかった。

生まれたばかりの小鹿のように、膝がガタガタと震え、手すりや壁に縋らなければ一歩も進めないほどに乱れていた。


「ディルク……」

掠れた、母親の声。

ロザリアは手術台の縁に震える指先をかけた。

覗き込んだ息子の顔。

そこにあったのは、冷たい骸(むくろ)などではなかった。

温かい血の通った、安らかに上下する胸郭。生きている我が子の、確かな呼吸の音。


「あ……ああ……」

ロザリアの瞳から、大粒の雫が堰を切ったように溢れ出した。

皇妃の膝が、完全に折れた。


ドサリ。


重厚な深紅のベルベットのドレスを泥と血の混ざった床石に引きずりながら、帝国の頂点に君臨する女性が――崩れ落ちるようにして、その場に両膝をついたのだ。

その膝の落ちた先。

彼女の目の前に立っていたのは、返り血を全身に浴び、血まみれのエプロンを着けたまま佇む、十二歳の少女――エルザ・ヴァルデックだった。


「皇妃殿下……!?」

背後の近衛兵長が血相を変えて駆け寄ろうとしたが、ロザリアは震える手を掲げてそれを制した。

皇妃は床に跪いたまま、涙に濡れた顔を持ち上げ、エルザを見上げた。

その瞳に宿っていたのは、君主の尊厳でも、貴族の傲慢でもなかった。

己の命よりも重い愛息を、死神の胃袋から力ずくで引きずり戻してくれた存在に対する――恐怖を遥かに超えた、魂の最深部からの絶対的な畏怖と、敬服。


「あ……ああ……ディルクが……私の子が、生み直された……」

ロザリアの唇が震える。

「神よ……いいえ、神などではない……。お前は……お前という娘は……」


ロザリアの震える両手が、恐る恐る伸ばされた。

そして、皇族の誰もが忌み嫌うはずの、血と胃液で汚れたエルザのエプロンの裾を――まるで聖遺物に触れる巡礼者のように、固く、祈るように握りしめた。

帝国の母たる皇妃が、下級貴族の捨て子であった侍女の足元に、自らの意志で首を垂れた瞬間だった。


「……エルザ」

ロザリアの声は、涙で濡れそぼりながらも、揺るぎない誓いを孕んでいた。

「お前が……息子の命を繋ぎ止めた。お前が、私のすべてを救ったのだ。……この恩は、我が命を賭して、帝室の全権を以て報いましょう」


エルザは、自らの足元に跪く皇妃を見下ろした。

その琥珀色の瞳は、依然として湖面のように冷たく、静止していた。

誇るでもなく、取り入ろうとするでもない。

ただ、自らの職務を完璧に遂行した職人の、静謐な眼差し。


「……お立ちになりなさい、皇妃殿下。床が汚れております」

エルザは静かに手を差し伸べ、皇妃の身体を支え起こした。

「私は、ただ破綻した組織を修復したに過ぎません。……殿下の命を救ったのは、私のメスではなく、この方の肉体が持っていた生きようとする生体反応です」


その一切の驕りを排した平淡な言葉こそが、かえってロザリアの胸を激しく打ちのめした。

神の代理人を気取り、奇跡を売り物にして人を操ろうとする神殿の輩(やから)とは、根本から次元が違っていた。現象を現象として見つめ、真理の刃を振るう本物の知性。


◇


その時。


小広間の開け放たれた大扉の影で、ヒッと短い息を呑む音が響いた。


エルザの視線が、スッと扉の隙間へと向けられた。

そこに張り付いていたのは、二つの醜悪な影だった。


アンセルム首席司教、そしてファビアン皇室首席薬師。


アンセルムは、ギルバートに切り裂かれた額の血を拭うことすら忘れ、白銀の祭服を乱したまま、幽霊でも目撃したかのように目を見開いていた。

その隣で、取り巻きの侍医に抱えられていたファビアンは、二重顎をガタガタと痙攣させ、失禁したズボンを押さえながらへたり込んでいた。


「ば……馬鹿な……」

アンセルムの唇から、掠れた呻きが零れ落ちる。

「腹を裂いて……生きておるだと……? 内臓を切り刻んで、呼吸が戻るはずがない……! あり得ん……あのような術、聖典のどこにも……神の教義のどこにも記されておらんわ……!」


ファビアンもまた、泡を吹いて首を横に振っていた。

「四体液のバランスが……完全に崩壊していたはずだ……! 血を吐き、熱の体液が暴走していたはずなのに……なぜ……なぜ糸で縫っただけで脈が戻るのだ……!? 魔女だ……あれは人間の医術ではない……悪魔の術式だ……!」


二人の権力者の顔面は、完全に土気色に染まりきっていた。

彼らが何十年もかけて築き上げてきたもの。

「病は神の罰である」「死は悪魔の呪いである」「救われたければ祈祷を捧げ、高額な聖水を買い、四体液の調和に縋れ」――そうやって貴族を脅し、皇帝を操り、民衆から莫大な富を搾取し続けてきた、帝国の宗教的・医学的支配構造。


その絶対の権威が。

神への祈祷でもなく。

高額な聖水でもなく。

星占術の予言でもなく。


ただ一振りの鋼のメスと、羊の腸で作られた一本の糸によって――。

神の領域とされていた「死」を物理的にねじ伏せられたことによって、いま、満場の貴族たちの目の前で、音を立てて粉々に粉砕されたのだ。


「……あ……あぁ……」

アンセルムの膝が、激しい恐怖に耐えかねてガクガクと音を立てた。

男は後退った。

一歩、また一歩と、手術台の上の光から逃れるように、暗い廊下の闇の中へと音もなく後退りしていく。

その瞳に宿っていたのは、神の威厳などではなかった。己の築き上げた偽りの城が、根底から崩壊していく足音を聞いた、一匹の老いたネズミの底知れぬ絶望。


その逃走の背中を、大剣を下げたギルバートの氷灰色の双眸が、射抜くように見送っていた。

大公は佩刀を鞘へと納めることもせず、冷え切った口端を獰猛に吊り上げた。


「……逃げるか、神の犬どもめ」

低く、地這うような大公の声。

「存分に逃げ回るがいい。貴様らの神輿が腐り落ちたことを、都中の民が知る日は近い」


ギルバートは踵を返し、手術台の脇に立つエルザの元へと歩み寄った。

血まみれの少女。

額に汗と血を光らせ、疲労の影を宿しながらも、その瞳にはなおも冷徹な知性の炎を灯し続ける、唯一無二の主治医。


ギルバートは無言のまま、自らの腰から清潔な麻布を抜き取ると、エルザの前に屈み込み、彼女の白い頬にこびりついていた皇太子の血の痕を、驚くほど優しく、丁寧に拭い取った。

大公の無骨な指先から伝わってくる、確かな熱。


「……見事だったぞ、エルザ」

耳朶を震わせる、深い誓いの響き。

「お前が切り裂いたのは、皇太子の腹だけではない。……この帝国を縛り付けていた、千年の迷信の喉笛だ」


エルザはふっと息を吐き出し、男の指先の温もりを受け止めながら、静かに目を細めた。

「まだ……終わりではありませんよ、大公閣下」

少女の視線は、眠り続けるディルクの枕元に置かれた、あの怪しく濁った「特級聖水」のガラス瓶へと向けられていた。


「なぜ、この方が胃に穴を開けることになったのか。……その真の毒の正体を、明日、白日の下に晒さねばなりませんから」


神を屠った刃は、休むことなく、次なる巨悪の心臓を解剖するための切っ先を研ぎ澄ませていた。

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