第32話:闇を縫う指
開創器の鈍い真鍮の爪が、切り開かれた腹壁の左右をギリギリと押し広げた瞬間、術野に広がったのは、人体の深淵というよりは、暴風雨の底に沈んだ濁流の海だった。
ランプの白熱する光が照射されているにもかかわらず、術野の深部は赤黒い闇に閉ざされていた。
胸骨の直下から骨盤腔に至るまでの腹膜腔全体が、破綻した血管から怒涛の勢いで噴出し続ける鮮血と、胃から漏れ出した強酸性の消化液、そして酸化してヘドロのようにドロドロに固まった凝血塊によって完全に水没していたのだ。
「吸引が追いつきません……ッ! 吸っても、吸っても、下から新しい血が湧いてきます!」
手術台の右脇で、マリカが悲鳴に近い声を上げた。
両手に握りしめた厚手の滅菌ガーゼを腹腔の奥へと押し込み、血を吸わせては絞り、新しいガーゼへと取り替える。だが、布が吸い上げる速度など、動脈から直接吹き出す血流の勢いに比べれば、匙で洪水を汲み出そうとするような無力さに等しかった。
ガーゼは瞬く間に真紅に染まり、マリカの小さな両手は肘のあたりまで皇太子の温かい血液で真っ赤に塗り潰されていく。
「どきなさい、マリカ。ガーゼの圧迫では、かえって凝血塊を奥へ押し込んで視野を潰します」
エルザの声は、血潮の濁流を前にしても、冷たい刃のように研ぎ澄まされていた。
彼女の指先は、血飛沫に濡れながらもミリ単位の狂いもなく動いていた。
「オスカー! 陰圧ポンプを!」
「へいよッ! 持ってきな!」
オスカーがトランクの底から引きずり出したのは、彼がエルザの設計図をもとに、ガラス細工と皮革加工の全技術を注ぎ込んで急造した『手動式陰圧吸引器』だった。
太さ五ミリほどの滑らかな耐熱ガラスの吸引管。その先端には、周囲の腸管や大網を吸い込んで組織を損壊しないよう、無数の微小な側孔が穿たれている。
ガラス管の後端には、柔軟な天然ゴムのチューブが繋がれ、その先は容量二リットルを超える頑丈な厚底ガラス瓶の密閉栓を貫通していた。そして瓶のもう一方の排気口には、大きな鹿革製のフイゴ(手動陰圧バルブ)が連結されている。
「オスカー、フイゴを一定のリズムで引き続けなさい! 瓶の内圧を常に大気圧以下に保つのです!」
「任せとけ! 火を熾すよりゃ簡単だッ!」
オスカーが両手でフイゴを力強く押し引きし始める。
シュコッ、シュコッ、シュコッ――と、密閉されたガラス瓶から空気が強制的に排出され、内部が強力な真空(陰圧)状態へと引っ張られていく。
エルザは迷いなく、先端のガラス吸引管をディルクの腹腔の最深部――肝臓の下、十二指腸と膵臓が密集する間隙へと深く滑り込ませた。
――ズズズズッ、ジュルルルルルッッッ!!
凄まじい吸引音が、小広間に響き渡った。
陰圧に引っ張られた赤黒い血液と、胃液に溶けた半透明の粘液、そしてコーヒー残渣のような古い凝血塊の塊が、透明なガラス管の中を怒涛の勢いで駆け上がり、チューブを通ってガラス瓶の底へと叩きつけられていく。
ドロドロとした濁流が一気に吸い上げられ、ガラス瓶の目盛りが、五百ミリリットル、八百ミリリットル、一千ミリリットルと、恐るべき速度で満たされていく。
「温めた生理食塩水を! 大鍋から汲みなさい!」
エルザの鋭い指示が飛ぶ。
マリカが震える手で、清潔な無鉛磁器のピッチャーに満たされた、人肌よりわずかに温かい食塩水を、ディルクの開腹部へと一気に注ぎ込んだ。
バシャリ、と透明な湯が腹腔を満たし、強酸性の胃液とドロドロの血液を激しく希釈していく。
酸によって焼け爛れかけていた腹膜の組織から、ツンと目を焼く刺激臭が洗い流され、エルザが操る吸引管が、濁った洗浄水を残らず吸い尽くしていく。
ズズッ、ズジュッ……。
吸引管が最後の汚泥を吸い切った、その瞬間。
ランプの白熱する光の底から――ついに、皇太子の腹部の生々しい解剖学的構造が、白日の下に姿を現した。
「……見えたわ」
エルザの琥珀色の瞳が、細く、獲物を捉えた鷹のように収縮した。
胃の下部、幽門部から十二指腸の球部にかけての領域。
本来であれば、滑らかで淡いピンク色の光沢を放っているはずの漿膜組織が、広範囲にわたって赤黒く腫れ上がり、まるで腐った果実の皮のようにドロドロに溶け崩れていた。
そして――十二指腸球部の前壁、幽門輪からわずか一センチほど離れた位置。
そこに、直径一・五センチを超える、ぽっかりと口を開けた円形の巨大な大穴――潰瘍の穿孔部が存在していた。
その穴の底から。
ディルクの心臓が打つ微弱な拍動――トクン、トクンという不規則なリズムに完全に同期して。
――ピュッ、ピュッ、ピュッッッ!!
目を見張るような、鮮やかな真紅の鮮血が、細い噴水のように勢いよく噴き上がっていた。
噴出する血潮が、周囲の肝臓の下面を打ち、白熱するランプの光を浴びて真紅の飛沫を散らす。
「動脈性拍動出血……! 潰瘍底の壊死組織を貫通した、胃十二指腸動脈(gastroduodenal artery)の主幹枝です!」
エルザの声には、焦燥の色は微塵もなかった。
あるのは、標的を完全に捕捉した執刀医の、冷酷なまでの確信。
「血圧が……! エルザ様、脈が消えかけています!」
マリカがディルクの手首を掴み、涙声で叫ぶ。
「心拍数が百五十を超えました! 呼吸が……下顎呼吸になっています! もう血が……体の中に残っていません!」
出血性ショックの最終局面。
噴き出す血の勢いは、一見すると激しく見えたが、その圧力そのものは、全身の循環血液量の枯渇によって急速に弱まりつつあった。血圧がゼロに向かって暴落している証拠。
あと三十秒、この出血を止められなければ、心筋への冠血流が途絶え、心室細動から完全な心停止へと移行する。
死神の鎌が、少年の首筋に完全に食い込んでいた。
「鉗子」
エルザの手が、右斜め下方へとスッと伸びた。
マリカがトレイから掴み取った、オスカー特製のステンレス鋼製止血鉗子。
カチリ、と硬質な金属音がエルザの掌に吸い付く。
エルザは視線を一ミリたりとも患部から逸らさなかった。
噴き上がる血飛沫が、彼女の前髪を濡らし、頬を赤く汚そうとも、その双眸はただ一点――拍動に合わせて血を噴き出す、わずか直径二ミリの血管の断端だけを射抜いていた。
(……拍動の周期は〇・四秒。収縮期の頂点、噴出の圧力が一瞬だけ弛緩する、その谷間)
エルザの左手の人差し指が、十二指腸の上縁を滑り込み、肝十二指腸間膜の基部――総肝動脈の血流を、指先の圧力でグッと骨性強面に向けて一時的に押し潰した。プリングル手技の変法による、流入血流の瞬間的遮断。
噴き上がっていた血の噴水が、フッと勢いを失い、湧き出る程度に弱まった。
その、コンマ数秒の隙。
エルザの右手が、電光石火の速さで閃いた。
鉗子の先端が、爛れた潰瘍の底、噴血点の深部へと滑り込む。
肉を裂かず、周囲の膵組織を巻き込まず、ただ破綻した動脈の断端だけを、ピンポイントで挟み込む絶妙の角度。
――カチリッ。
乾いた、心地よいラチェットの噛み合わせ音が、静まり返った部屋に響き渡った。
ピタリ。
あれほど狂ったように噴き出し、皇太子の命を床へと奪い去り続けていた鮮血の噴流が――。
まるで最初から何もなかったかのように、完全に、一滴の漏出もなく静止した。
「止まっ……た……?」
壁際で見守っていた近衛兵長が、信じられないものを見るように目を見開いた。
大剣を構えたまま微動だにしていなかったギルバート大公の口元に、獰猛な笑みが微かに浮かぶ。
だが、エルザの手は止まらなかった。
挟んだだけでは、鉗子を外せば再び動脈圧によって出血が再開する。完全な止血を完了させるには、血管を糸で縛り上げる「結紮」を完遂しなければならない。
「結紮糸。三号絹糸、針なし」
エルザが要求すると、オスカーがガラス瓶から引き抜いたばかりの、細く強靭な漆黒の絹糸が手渡された。
ここからが、外科医としての真の腕の見せ所だった。
狭く深い腹腔の底、十二指腸と膵臓の頭部に挟まれた、わずか数センチ四方の暗がり。
両手の指を入れる隙間すらない極小の空間で、鉗子の先端が掴んでいる微小な動脈の根元を、糸で二重に縛り上げなければならないのだ。少しでも滑れば血管を引きちぎり、結び目が緩ければ術後に腹腔内大出血を引き起こして確実に死に至る。
エルザはピンセットを用いず、自らの素手の指先だけで糸を操った。
――スッ、クルッ、キュッ。
息を呑むような、神業の指捌き。
エルザの細い十本の指は、まるで複雑なレース編みを織り上げる熟練の工芸職人のように、あるいは見えない楽器の弦を爪弾く演奏家のように、信じがたい速度と滑らかさで交差した。
左手の人差し指が糸の輪を奥へと滑り込ませ、鉗子の先端の直下を正確に潜らせる。
右手の中指がテンションを保ちながら、糸の結び目を深部へと送り届ける。
キュウゥッ、と絹糸が血管の壁を締め上げる微かな抵抗感。
エルザは力任せに引くのではなく、血管の弾性を指先の触覚で測りながら、外膜を破断させない極限の力加減で第一結節を締め込んだ。
続いて、逆方向からの第二結節。結び目が決して解けない外科結び(サージカル・ノット)。
さらに、安全のためにわずか数ミリ離れた中枢側にもう一本の糸を通し、二重結紮を完了させる。
「剪刀」
パチン。
余分な糸の断端が、二ミリの遊びを残して切り落とされた。
「鉗子を外します」
エルザが止血鉗子のラチェットを静かに外した。
カチリ、と金属が開き、鉗子の先端が組織から引き抜かれる。
全員が息を止めて、患部を凝視した。
……出ない。
血液は、一滴たりとも滲み出してこなかった。
破綻していた動脈の断端は、二本の漆黒の絹糸によって強固に縛り上げられ、ディルクの心臓が打つ拍動の圧力に完全に耐えきっていた。
胃十二指腸動脈の完全止血、達成。
「……脈拍、低下してきました!」
マリカが弾かれたように叫んだ。
「百四十五から、百二十! 橈骨動脈の脈が……エルザ様、手首の脈が戻ってきました! 触れます、弱いですけど、ちゃんとトク、トクって打ってます!」
死の淵からの生還。
壁際で息を殺していたロザリア皇妃が、胸元を両手で強く押さえ、掠れた息を吐き出した。その瞳に、信じがたい奇跡を目の当たりにした戦慄と光が灯る。
だが、エルザの表情には、安堵の欠片も浮かんでいなかった。
「血が止まっただけです。……穴が開いたままでは、胃酸が再び腹腔を溶かします」
エルザはトレイから、新しいメスを手に取った。
次なる試練――穿孔した胃・十二指腸壁の修復。
穴が開いている十二指腸の縁は、長期間にわたる胃酸と消化酵素の曝露により、組織がドロドロに壊死し、黄色く爛れきっていた。
素人の考えであれば、「穴が開いているなら、そのまま針と糸で縫い縮めればいい」と思うだろう。
だが、それは医学的に見て最悪の過誤だった。
腐敗し、血流の途絶えた壊死組織は、どれほど強固に縫い合わせようとも、数日と持たずに糸が組織をチーズのように切り裂いてしまい、縫合不全を起こす。再び胃液が腹の中に漏れ出せば、今度こそ敗血症で確実に命を落とすのだ。
「デブリードマン(壊死組織切除)を行います」
エルザは有鉤鑷子で穿孔部の縁を小さくつまみ上げると、メスの刃先をミリ単位の精度で走らせた。
シャッ、シャッ、と薄皮を剥ぐような鋭い切削音。
壊死して黄色く変色した潰瘍の辺縁組織が、コンマ数ミリの厚みで薄く削ぎ落とされていく。
削られた組織の奥から、ポツポツと新鮮な毛細血管の出血――生きた組織の証である鮮血が滲み出てくるまで、エルザは容赦なく壊死組織を除去していった。
健康な、血流の通った組織同士を引き合わせなければ、創傷治癒の奇跡は起きない。
「オスカー、キャットガットの二重針を!」
「おうよ! とっておきの極上物だ!」
オスカーが差し出したのは、ガラス瓶から引き抜かれたばかりの、湾曲した丸針にセットされた透明な羊腸線だった。
エルザの運針が始まった。
ここから用いられたのは、近代外科学の粋を集めた『二層多層縫合』――内層の全層縫合と、外層の漿膜筋層縫合(ランバート縫合)の組み合わせだった。
第一層。
エルザは持針器で丸針を挟むと、欠損部の縁の粘膜、粘膜下層、筋層を一気に貫通させた。
粘膜の断端同士を寸分のズレもなく対向させ、キャットガットで細かく、規則正しいピッチで縫い合わせていく。
針が組織を貫くたびに、プツリ、プツリと心地よい抵抗感が指先を通じて伝わってくる。
糸を引き締めると、ぽっかりと開いていた一・五センチの穴が、内側から美しく引き寄せられ、粘膜の壁が閉じ合わされていく。
そして、決定打となる第二層。
エルザは針の角度を変え、粘膜層をあえて貫通させず、外側の「漿膜」と「筋層」だけを浅くすくい取った。
穴の縁から五ミリほど離れた健常な漿膜に針を通し、穴を飛び越えて反対側の漿膜をすくい取る。
そして糸を結ぶと――。
スッ、と内側の縫合線が、外側の漿膜組織によって内側へと綺麗に折り込まれ、包み隠された。
漿膜同士が密着することで、驚異的な自己癒着反応が引き起こされ、胃酸の漏出を完全に防ぐ強固な防壁が完成する――近代外科の父たちが編み出した、ランバート縫合の真髄。
針が走り、糸が結ばれ、ハサミが余分を断つ。
その一連の動作には、迷いも、無駄な手の停滞も一秒たりとも存在しなかった。
息を呑むような規則正しさと速度。
ランプの光を浴びながら、血飛沫に濡れたエルザの指先は、まるで神の意志を地上に紡ぐ機械のように、完璧なピッチで傷口を塞ぎ続けていった。
「……最後の結紮、完了」
パチン。
ハサミの乾いた金属音が響いた。
エルザは持針器をトレイに置くと、再び温かい生理食塩水をピッチャーから患部へと注ぎ込ませた。
水没する幽門部。
エルザは胃の体部を指先で軽く圧迫し、内圧をかけてみた。
……気泡は出ない。
胃液の漏出も、血液の滲み出しも、一切存在しない。
縫合部は、まるで最初から穴など開いていなかったかのように、美しく、平滑に閉じ合わされていた。
「漏出テスト、陰性。……完全止血、および穿孔部の多層閉鎖を確認」
エルザが時計台の針を横目で確認した。
切開の第一刀を皮膚に下ろしてから、止血と胃壁の縫合を完了するまで。
経過時間――わずか四十分。
室内の空気が、ふっと緩んだ。
三十基のランプの熱気の中で、全員が忘れていた呼吸を一斉に思い出したかのように、大きな息の音が重なり合って漏れ出した。
ディルク皇太子の胸郭は、今や深く、規則正しく、生きている人間の確かなリズムで波打っていた。
死の淵にいた青年の土気色の顔に、生命の灯火が、はっきりと蘇りつつあった。




