第31話:白亜の肉屋
白金宮の西翼に位置する貴賓用小広間は、本来であれば皇帝や皇妃が夜会の合間に親しい諸侯を招き、高価なリキュールを傾けながら歓談するための、贅を尽くしたサロンだった。
壁面を覆っていたのは、金糸で神話の英雄譚が織り込まれた豪奢なダマスク織のタペストリー。床にはペルシャから献上された極上の羊毛絨毯が敷かれ、クリスタルガラスの燭台が柔らかな琥珀色の光を投げかけていた。
だが、その優雅にして閉鎖的な空間は、わずか数分のうちに、暴虐とすら呼べる徹底的な破壊と再構築によって蹂躙されていた。
「絨毯を剥ぎ取れ! 一枚残らず廊下へ放り出せ!」
テオバルトの裂帛の号令が飛ぶ。
屈強な黒狼騎士団の兵士たちが、踏み荒らされた絨毯の端を軍靴で蹴り上げ、埃を舞い散らせながら力任せに引き剥がしていく。露わになった冷たい白大理石の床板へ、大鍋から汲み上げられたばかりのグラグラと煮えたぎる熱湯が、容赦なくぶち撒けられた。
ジュウウウッ、と床石の隙間に堆積していた油と垢が泡を吹いて沸騰する。
立ち上る熱い湯気。そこへ、兵士たちが麻袋から真っ白な生石灰の粉末を豪快に撒き散らし、デッキブラシでゴシゴシと力任せに擦り洗いしていった。
ツンと鼻腔の奥を鋭利な針で刺すような、生石灰と熱湯の強烈なアルカリ臭。
宮廷の女官たちが身に纏っていた甘ったるい薔薇や白檀の香油の匂いは、暴力的な熱気と消毒の気化熱によって瞬く間に駆逐され、息苦しいほどの緊張感が満ちていく。
部屋の中央に据えられたのは、十人がけの重厚なオーク材の長テーブルだった。
かつて豪勢な夜食が並べられていたその天板は、アルコールを染み込ませた厚手の布で幾度も擦られ、その上から、熱湯で煮沸されたばかりの湿り気を帯びた純白のリネンが三重に敷き詰められていた。
即席の、だがこの帝国において初めて構築された「無菌の手術台」。
「ランプを並べなさい! 影を作ってはなりません!」
エルザの鋭い声が、小広間の壁に反響した。
侍従たちが震える手で、反射鏡付きの真鍮製アルコールランプと、銀の皿を取り付けた高光度の燭台を、テーブルの周囲を取り囲むように三十基、隙間なく配置していく。
ボッ、ボッ、と次々に点火される炎。
集中された白熱の光が、手術台の上へと収束し、そこだけが真昼の太陽の下のように影を失った白銀の壇上へと姿を変えた。
その光の坩堝の中央へ、四人の騎士によって抱えられたディルク皇太子の身体が、慎重に横たえられた。
純白の礼服はすでに前立てが無残に引き裂かれ、血に染まったシャツが肌に張り付いている。
ディルクの頭部はわずかに低く保たれ、足元には畳んだ毛布が差し入れられて下肢が十五度ほど高く持ち上げられていた。失血によって虚脱した末梢血管から、辛うじて残された血液を心臓と脳幹へ物理的に還流させるための、トレンデレンブルグ体位。
だが、青年の胸郭の上下動は、目に見えて弱々しく、間隔が空き始めていた。
「……息が……浅くなっています、エルザ様!」
枕元に取り付いたマリカが、ディルクの首筋に指を当て、悲鳴に近い声を上げた。
「脈が……もう、ほとんど触れません! 指先が……爪が紫色になって、氷みたいに冷たくなっています!」
「焦るな、マリカ。呼吸の数を数えなさい。一分間に十六回を下回ったら直ちに下顎を持ち上げて気道を確保すること」
エルザは引き裂かれたドレスの上から、熱湯で滅菌されたばかりの清潔な白い布エプロンを身につけ、背中の紐を固く結び直した。
その横顔には、死の気配に対する恐れも、皇族の命を預かる重圧も、一片たりとも浮かんでいない。
あるのは、時間と出血量との、極限の演算だけだった。
その時――。
バァァァンッッ!!
小広間の扉が、勢いよく蹴破るようにして開け放たれた。
飛び込んできたのは、肩で激しい息をし、顔面を泥と汗で真っ黒に汚した一人の青年だった。
オスカー・ベルク。
大公領の硝子・窯業ギルド長。
黒狼城から帝都への出立に際し、エルザの特命を受けて城下の工房で機材の最終調整を行っていた男が、皇宮の異変を聞きつけるや否や、馬を限界まで潰して駆け込んできたのだ。
その両腕には、分厚い黒革のトランクが、まるで己の命そのものであるかのように固く抱きしめられていた。
「ハァッ……ハァッ……! 間に合……ったか……ッ!?」
オスカーの荒い呼気が、室内の熱気を震わせる。
革トランクの隙間からは、熱湯で煮沸された直後の金属が放つ、独特の鉄の湯気がまだ漏れ出ていた。
「言われた通りのもんを……全部揃えてきたぜ、エルザ! 城下の鍛冶場とガラス工房を総動員して、指定された寸法通りに叩き直した最新の鋼だ!」
「よく間に合わせてくれました、オスカー」
エルザは労いの言葉を交わす間もなく、トランクをテーブルの脇の清潔なトレイの上へと置かせた。
パチン、と真鍮の留め金が外される。
開かれたトランクの内側には、ベルベットの布ではなく、熱湯滅菌された麻布の上に、銀色に光り輝く最新の外科機材が整然と並べられていた。
炭素鋼を極限まで鍛え上げ、鏡面のように研磨された大小三本のメス(執刀刀)。
先端に狂いのない鋸歯状の噛み合わせを持つ、オスカー特製のステンレス製止血鉗子(ペアン鉗子・コッヘル鉗子)が十本。
組織を傷つけることなく腹壁を左右へと押し広げるための、鈍角の湾曲を持った真鍮製の開創器。
そして、蓋付きの無鉛ガラス瓶の中に、高純度の蒸留水と微量のエタノールに浸されて収められていたのは――。
健康な若い羊の小腸粘膜下層から丹念に脂肪と筋肉を削ぎ落とし、細く縒り合わせて作られた、驚異的な引張強度を持つ自己融解性の縫合糸――キャットガット(羊腸線)の束だった。
「すげぇよな……狂ってやがる」
オスカーは汗を拭いながら、手術台の上に横たわる皇太子の姿を見つめ、ゴクリと喉を鳴らした。
「まさか、帝都に着いた初っ端から……皇太子の腹を真っ二つに裂くことになるとはな。失敗すりゃ、俺たちの首も広場に晒されるんだろ?」
「失敗は計算に入れていません」
エルザは淡々と言い放つと、洗い桶の前に立った。
「マリカ、オスカー。手洗いを始めます」
エルザの冷徹な号令のもと、近代外科学の最重要儀式が開始された。
大鍋から汲み出された湯に、オリーブ油とアルカリ灰汁から作られた純石鹸をたっぷりと泡立てる。
エルザは自らの両手を湯に浸し、爪の間、指の股、親指の付け根、手の甲、掌、そして手首から肘の上五寸(約十五センチ)に至る前腕部までを、硬い毛のブラシで皮膚が赤く擦れるほどに徹底的に擦り洗いしていった。
一秒、二秒、三秒――砂時計の砂が落ちるのを横目で確認しながら、正確に二分間の擦り洗いを二度繰り返す。
流水で泡を洗い流した後、オスカーが蒸留したばかりの九十度エタノールを、エルザの両手から前腕へと惜しげもなく浴びせかける。
ヒリヒリとアルコールが皮膚を焼き、水分を奪っていく感覚。
だが、その冷徹な脱水こそが、皮膚常在菌の細胞壁を破壊し、術野への感染を極限まで遮断する防壁となるのだ。
エルザは滅菌された麻布で水分を押し拭き取ると、両手を胸の高さに掲げたまま、手術台へと歩み寄った。何人たりとも、腰より下、あるいは肩より上に手を下ろすことは許されない。無菌領域の絶対遵守。
手術室の周囲を取り囲む壁際には、息を呑む見物人たちが張り付いていた。
氷灰色の双眸を爛々と輝かせ、大剣を抜いたまま扉の前に仁王立ちするギルバート大公。
その隣で、自らの爪が掌に食い込むほど拳を握りしめ、青ざめた唇を引き結んで息子の姿を見つめるロザリア皇妃。
そして、後方に控える近衛兵長や、恐る恐る隙間から覗き込む宮廷侍従たち。
誰もが、これから繰り広げられようとしている「神への冒涜」であり「奇跡の儀式」である未知の処置から、目を逸らすことができずにいた。
「……始めるわよ、マリカ」
「はいっ!」
同じく手指消毒を終えたマリカが、滅菌布を広げて助手の位置につく。
エルザは高濃度エタノールに浸した脱脂綿を鑷子で挟み、ディルクの剥き出しになった胸部と腹部へと当てた。
冷たいアルコールが触れた瞬間、意識を失いかけていた青年の身体が、ピクリと小さく痙攣した。
胸骨の剣状突起から、臍の下、恥骨結合に至るまでの広大な領域を、中心から外側へ向けて同心円状に三度、念入りに消毒していく。
次いで、オスカーが用意した、中央に縦長の楕円形の穴が開けられた四枚の滅菌布――ドレープが、ディルクの全身へと被せられた。
覆い隠される純白の礼服と、血塗られた絨毯の記憶。
ランプの眩い光の下に晒されたのは、板のように硬直した、青白い皇太子の腹壁の皮膚――わずか三十センチ四方の切開予定領域だけだった。
「……血圧、依然として触知不能。心拍数、百四十五。呼吸、浅表性」
マリカが震える声で読み上げる。
「時間がありません……! エルザ様、もう限界です……!」
静寂が、部屋の空気を真空のように吸い込んだ。
ランプの芯が爆ぜる音すら途絶えたかのような、絶対の沈黙。
エルザは、右手をスッと差し出した。
「メス」
マリカがトレイから掴み上げた、最新の鋼製メス。
カチリ、と硬質な音を立てて、エルザの小さな、だが一切の震えのない掌へと収まる。
指先に吸い付くような、冷たい鋼の質量。
エルザはメスを、鉛筆を持つような精密な握り(ペングリップ)ではなく、力強く組織を切り開くための「バイオリンの弓を持つ握り(ボウグリップ)」へと持ち替えた。刃の腹全体を組織へと均等に押し当てるための構え。
エルザの琥珀色の瞳が、スッと細められた。
周囲の喧騒も、皇妃の視線も、背後に控える大公の気配すらも、彼女の意識から完全に消失した。
視界を満たすのは、ただ、目の前にある皮膚と、その下にある解剖学的構造の地図だけ。
(腹部正中切開――胸骨剣状突起直下から、臍の左側を半円状に迂回し、臍下三寸に至る直線)
エルザは左手の人差し指と中指で切開線の両脇の皮膚をピンと強く張り、固定した。
そして――。
迷いは、一秒すらなかった。
――スゥッッ。
躊躇いなど微塵も感じさせない、電光石火の一閃。
研ぎ澄まされた鋼の刃先が、ディルク皇太子の白い皮膚へと、迷いなく沈み込んだ。
ピシッ、と皮膚の張力が弾ける微かな音が響いた。
刃が滑る。
胸骨の下から臍の脇を抜け、下腹部へと向かって、定規で引いたかのように寸分の狂いもない一直線の赤い線が走った。
切開の深さは、正確に表皮と真皮を貫き、皮下脂肪層の黄色い組織を露わにする深さ。浅すぎては二度切りとなり組織を傷つける、深すぎては下の筋膜を一気に裂いて内臓を損壊する。ミリ単位の狂いすら許されぬ、神速の職人技。
「ひっ……!」
壁際で見守っていた近衛兵の一人が、息を呑んで顔を覆った。
切り開かれた皮膚の縁から、ジワリと赤黒い血液が滲み出し、左右へと開いていく。
だが、エルザの手は止まらなかった。
「ガーゼ」
マリカが差し出した滅菌ガーゼで湧き出る皮下の出血をグッと強く圧迫しながら、エルザはメスの刃先をさらに一段、深く沈めた。
黄色い皮下脂肪を掻き分け、現れたのは、白く強靭な腱膜組織――白線。
左右の腹直筋が中央で合流する、血管の極めて少ない安全地帯。
エルザはメスの刃先を十五度寝かせ、腱の繊維に沿って滑らせるように走らせた。
サァッ、と白線が裂け、露出する赤々とした腹直筋の内側の鞘。
出血点となる細い皮下静脈がプチプチと弾けるたび、エルザは左手に持った止血鉗子を電光石火の速さで滑り込ませ、血管の断端をカチリ、カチリと挟み込んでいく。
切開開始から、わずか四十秒。
皮膚、脂肪、筋膜が両断され、底に現れたのは――。
呼吸に合わせて微かに上下する、半透明の薄い膜。
腹膜。
内臓を外界から隔てている、最後の防壁。
その半透明の膜の向こう側は、本来であれば淡い黄色とピンク色の腸管が見えるはずだった。
だが――その膜の裏側は、息を呑むほどにおぞましい、濁った赤黒い色に染まりきっていた。
大量の血液と胃液が、腹膜の内側で風船のようにパンパンに膨れ上がり、外へ向けて猛烈な内圧をかけていたのだ。
「……来ます」
エルザの声は、氷山のように静まり返っていた。
「マリカ、吸引の準備。オスカー、開創器を構えなさい」
「は、はい……!」
マリカが自作のガラス吸引管を握りしめ、オスカーが真鍮の器具を両手に構える。
エルザは有鉤鑷子で、張り詰めた腹膜を小さくつまみ上げた。
下の腸管を巻き込んでいないことを指先の触覚で厳密に確認する。
そして、メスの切っ先を、そのつまみ上げた腹膜の頂点へと、わずか数ミリ、突き立てた。
その瞬間――。
――プシュゥゥゥッッッッ!!!!
まるで、過剰に発酵した酒樽の栓を力任せに引き抜いたかのような、凄まじい破裂音が小広間に轟いた。
小さな穴から、猛烈な腹腔内圧によって押し出された液体が、噴水のように宙へと噴き上がったのだ。
それは、ただの血液ではなかった。
胃酸によってドロドロに溶け崩れた組織の破片、挽いたコーヒーの粉のように黒変した酸化血液、未消化の黄色い粘液、そして動脈から噴出し続けていた鮮紅色の血液が混ざり合った――強烈な酸性の臭気を放つ、真紅の濁流。
「うわああああっ!?」
噴き出した飛沫が、三十基のランプの熱気によって一気に気化し、部屋全体に凄惨極まる異臭の霧となって拡散した。
ツンと目を焼き、喉を掻きむしりたくなるような、胃酸の酸臭と腐敗血の臭気。
「お……おえっ……!」
壁際で見守っていた侍従長が、口元を手袋で覆いながら胃液を吐き戻し、その場に崩れ落ちた。
「ひぃぃっ……! あ、悪魔の血だ……! 腹の中から、呪いの泥水が噴き出してきたぁぁっ!」
若い女官の二人が、そのおぞましい光景と臭気に耐えきれず、白目を剥いて大理石の床へとバタリと失神していった。
近衛兵たちですら、顔面を蒼白にして後退り、甲冑を激しく鳴らして震えている。
人間が生きている状態で、腹を切り裂かれ、その中から汚濁に満ちた内臓の液体が噴き出す――中世の迷信に生きる彼らにとって、それは地獄の門が開いた光景そのものだった。
だが。
その血飛沫を、最も至近距離で浴びたエルザは――。
微動だにしなかった。
バシャリ、と噴き上がった血と酸の飛沫が、エルザの額を、白磁の頬を、そして白いエプロンの胸元を容赦なく真紅に染め上げた。
生ぬるい液体の感触が、彼女の整った鼻梁を伝い、顎先からポタリと床へ滴り落ちる。
だが、その琥珀色の双眸は、瞬き一つしていなかった。
嫌悪も、恐怖も、動揺すらない。
血飛沫に濡れた少女の瞳は、まるで極北の氷河の底のように澄み渡り、冷徹に、ただひたすらに、噴出する液体の奥にある「病巣の暗黒」だけを見据えていた。
「開創器を挿入! 正中切開を全開にしなさい!」
血まみれの唇から放たれた、凛とした執刀医の一喝。
「オスカー、腹壁を左右へ引きなさい! マリカ、吸引管を一番深いダグラス窩へ突っ込みなさい! 血の海を掻き出さなければ、出血点が見えません!」
「お、応ッッ!!」
オスカーが恐怖を咆哮でねじ伏せ、真鍮の開創器を切り開かれた腹壁の左右へと滑り込ませた。
ギリギリと筋肉が押し広げられ、白熱するランプの光が、皇太子の腹腔の深淵――爛れた内臓が蠢く、真紅の闇の底を照らし出していく。
宮廷の貴族たちが気絶し、神官たちが神への冒涜と怯える中。
血飛沫を浴びた十二歳の少女の指先が、いま、死神の心臓を直接掴み取るための、極限の外科手術の深淵へと潜り込んでいった。




