第30話:抜刀の誓約
神殿親衛隊の鋼鉄の槍衾が、青白い切っ先を一斉に水平へと倒した。
擦れ合う甲冑の軋み音、床石を蹴る荒々しい踏み込みの響き。
十数名の屈強な武装兵が、血溜まりの中に膝をつく無防備な十二歳の少女――エルザの華奢な首筋を串刺しにせんと、狂気と殺意に満ちた号令とともに殺到する。
「神敵を屠れ! 魔女の首を撥ねよッ!」
その怒号が、ホールの空気を破裂させかけた、まさにその刹那――。
――キィィィィィンッッッッ!!!!
大気そのものが凍結し、ガラスのように砕け散ったかのような、鋭利極まる抜刀音が広間に爆発した。
視界を埋め尽くしたのは、閃光。
音よりも速く、雷よりも苛烈な、漆黒の刃の軌跡。
サァッ、と乾いた風が吹き抜けた。
突撃していた先頭の親衛隊員四名の動きが、まるで時を止められたかのようにピタリと凍りついた。
次の瞬間。
カラン、カラン、カラン、カランッ!
甲高い金属音が、白大理石の床の上に四つ、重なって転がった。
兵士たちが固く握りしめていたはずの、鋼鉄の長槍。その先端、鋭利な穂先から柄の三分の一に至るまでが――斜め四十五度の角度で、薄紙を剃刀で裂いたかのように、寸分の毛羽立ちもなく両断され、床へと滑り落ちていたのだ。
「……あ……?」
切断面を晒した木柄を握りしめたまま、兵士が呆然と口を開けた。
だが、その男が自らの身に起きた事態を理解するよりも早く、死の突風がその鼻先を撫でた。
――ドォンッ!!
重厚な軍靴の踏み込みが、白大理石の床板を揺るがした。
血溜まりの中に跪くエルザの背中を、完全に覆い隠すようにして立ち塞がっていたのは、漆黒の軍装を纏った巨躯――ギルバート・フォン・ラングリール大公だった。
夜の深淵を鍛え上げたかのような黒鉄の大剣が、大公の右腕に握られている。
かつて鉛の毒に冒され、死肉のように垂れ下がっていたはずのその腕は、いまや一撃で四本の鋼槍を両断し、微動だにせず水平に構えられていた。
大剣の切っ先。
その冷酷な切断線は、大階段の壇上から怒声を浴びせかけていたアンセルム首席司教の――眉間わずか数ミリの位置で、吸い付くように静止していた。
「ひ……っ!?」
アンセルムの喉から、空気の抜けるような情けない悲鳴が漏れた。
大剣の切っ先から放たれる、凄まじい風圧と殺気。
触れてすらいないにもかかわらず、司教の額の皮膚がピキリと裂け、一筋の鮮血が鼻梁を伝って滴り落ちる。
呼吸をすれば、切っ先が眼球を貫く。
唾を飲み込めば、喉笛が裂ける。
逃げ場のない絶対零度の死の結界の中に、神の代理人を自称する男の頭蓋骨が、完全に縫い止められていた。
大夜会ホールを満たしていた何百人もの貴族たちが、息を呑むことすら忘れて硬直した。
静まり返る広間。
耳朶を打つのは、床の絨毯がディルク皇太子の吐血をジュクジュクと吸い上げる不気味な音と――そして、ギルバートの肺腑から吐き出される、低く、重厚な呼気だけだった。
「……一歩でも動いてみろ」
低く、地底のマグマが擦れ合うような声音。
それは怒声ですらなかった。幾千の戦場で敵を塵芥のように切り捨ててきた本物の軍神が、虫ケラを踏み潰す直前に放つ、感情の欠落した絶対の宣告。
「その薄汚い首を切り落とし、広間のシャンデリアに吊るしてやる」
「だ……大公……ッ!?」
アンセルムは脂汗を顎から滴らせ、瞳孔を極限まで収縮させながら、震える唇を必死に動かした。
「き、貴様……正気か……!? この私を、教皇庁の首席司教たるこの私に刃を向ける気か! 神への反逆だぞ! 帝国全土を敵に回す気かッ!」
「神だと?」
ギルバートの口端が、三日月のように冷たく歪んだ。
大剣の切っ先は、一ミリのブレもなくアンセルムの眉間を捉え続けている。
「俺は、吐血して死にかけている皇太子殿下の命を、救おうとしている我が主治医の背中を守っているだけだ。……神の代理人面した生ゴミ風情が、帝国の後継者の命をドブに捨てるのを黙って見過ごせとでも言うのか」
「戯言を! その小娘は殿下の腹を裂くと言ったのだぞ! 神の創りたもうた玉体を切り刻むなど、万死に値する狂気の沙汰――」
「邪魔をする者は」
ギルバートの声が、アンセルムの金切り声を地鳴りのように圧殺した。
氷灰色の双眸に、昏く、獰猛な狼の炎が宿る。
「神官だろうが、教会だろうが、神そのものだろうが――容赦なく叩き斬る。……俺の主治医の診断を妨げる者は、すべてこの俺の敵だ」
絶対的な殺意の全肯定。
槍をへし折られた神殿親衛隊員たちは、腰を抜かして床にへたり込み、残る衛兵たちもガタガタと甲冑を震わせて一歩も前へ進むことができない。
大公一人。
たった一振りの大剣が、五十名を超える神殿の軍勢を、そして満場の宮廷貴族たちを、完全に沈黙せしめていた。
その、張り詰めた極限の膠着状態を破ったのは――。
「――そこまでです!!」
凛と張り詰めた、だが何者をも屈服させる絶対の威厳を宿した女声だった。
大階段の上層。
黄金の手すりに手をかけ、深紅のベルベットの裾を翻して歩み降りてきたのは――ディルク皇太子の生母、ロザリア皇妃だった。
取り乱して叫んでいた先ほどまでの姿は、すでにない。
顔色は青ざめ、唇を血が滲むほど強く噛みしめながらも、その細い双眸には、宮廷の権謀術数を生き抜いてきた冷徹無比な政治家としての光が、氷のように蘇っていた。
近衛兵たちが道を開け、皇妃は一段、また一段と、血の海の広がるフロアへと降りてくる。
周囲の貴族たちが一斉に平伏する中、ロザリア皇妃はギルバートの抜刀を咎めることすら平然と素通りし、血溜まりの中に膝をつくエルザの正面へと歩み寄った。
皇妃の視線が、床に倒れ伏す我が子の姿へと落とされる。
純白の礼服を真紅に染め、開かれた口元から泡混じりの血を垂らし、今や浅い喘鳴すら途絶えかけている息子の瀕死の相。
母親としての激しい慟哭がその胸を裂きかけたが、ロザリアは爪が掌に食い込むほど拳を握りしめ、それをねじ伏せた。
そして――冷え切った視線を、血まみれのドレスのまま自分を見上げているエルザへと向けた。
「……小娘」
ロザリアの声は、震えていなかった。
感情を極限まで削ぎ落とした、君主の冷徹な問い。
「お前の言う通り、殿下の腹を刃物で切り裂いて……助かる保証はあるのか」
「皇妃殿下ッ!」
アンセルムが眉間を切っ先に向けられたまま、悲鳴のような声を上げた。
「耳を貸してはなりません! 腹を裂くなど狂気の沙汰、ただちに絶命いたします! 神聖なる大聖堂へお運びし、解呪の儀式を行わねば――」
「黙りなさい、アンセルム!」
ロザリアの一喝が、司教の言葉を叩き斬った。
皇妃はアンセルムを一瞥すらせず、その冷徹な双眸をエルザの琥珀色の瞳だけに縫い付けていた。
「答えなさい、エルザ。助かる保証はあるのかと聞いているのです」
血の海の中。
引き裂かれたドレスの裾を赤黒く濡らしながら、エルザは背筋を寸分の乱れもなく伸ばした。
その琥珀色の瞳には、皇妃の威圧に対する恐れも、取り入ろうとする媚びも、爪の先ほども浮かんでいなかった。
ただ、解剖台の上の生体反応を冷徹に数値化するだけの、絶対的な客観性。
「保証など、この世のどこにもありません」
淀みない、あまりにも残酷な即答。
広間の貴族たちから、ヒッと短い悲鳴が漏れた。
だが、エルザは表情を変えることなく、言葉を続けた。
「すでに体内の全血液量の三分の一以上が失われています。血圧は測定不能、ショック状態は不可逆的な第4期へと突入しつつある。どのような神の手を持つ外科医であっても、この状態の患者に対して『生存の保証』を口にする者がいれば、それはただの詐欺師です」
エルザはアンセルムを顎で冷ややかに指し示した。
「ですが――断言いたします。その神官どもの言う通りに担架に乗せ、大聖堂へ向けて馬車で揺られれば、振動と体位変換によって腹腔内圧が急変動し、止血しかけていた血栓が吹き飛んで、百パーセント確実に失血死します。殿下は大聖堂の門をくぐる前に、冷たい骸となるでしょう」
ロザリア皇妃の喉が、微かに波打った。
エルザは一歩も引かず、皇妃の瞳を真っ向から射抜くように見据え返した。
「私にメスを握らせてください。今すぐこの場で開腹し、噴出する動脈を結紮し、胃の穿孔部を縫合する猶予を私に与えてくださるなら――五割の確率で、生かしてみせます」
「ご……五割……!?」
テオバルトが後ろで息を呑んだ。
死の淵にある皇太子を前にして、平然と「五割」と言い放ったのだ。
アンセルムが泡を吹いて叫ぶ。
「聞いたか! 半分は死ぬと言っているのだぞ! 皇太子殿下の御命を、博打の種にする気か!」
「百パーセントの死と、五割の生です」
エルザの声は、アンセルムの雑音を完全に無視してロザリアへと注がれていた。
「どちらを選ばれるかは、母親であられるあなた様が、そして帝国の皇妃であられるあなた様が決断なさることです。……ただし、残された猶予は、あと五分もありません」
静寂。
ホールのシャンデリアが放つ光が、床の血溜まりに反射して、ロザリア皇妃の青白い顔を赤く染め上げていた。
ロザリアの胸中で、猛烈な葛藤が渦巻いていた。
息子の命。
長年、教会から「身体が弱いのは呪いのせいだ」「神への寄進が足りぬからだ」と刷り込まれ、息子を食い物にされ続けてきた日々の屈辱。
神殿が差し出す「解呪の聖水」を飲むたびに、息子の顔色が土気色になり、夜ごとに胃を掻きむしって苦しんでいたあの光景。
教会の嘘は、とっくに限界に達していたのだ。
そして――目の前に跪く、十二歳の少女。
平民同然の下級貴族の娘。
だが、その琥珀色の瞳の奥に宿る光は、宮廷のどんな名医よりも、どんな大司教よりも――命の構造を冷徹に見据えていた。
大公ギルバートの不治の病を、わずか三日でねじ伏せてみせたという動かぬ事実。
ロザリア皇妃は、血が滲むほど強く噛みしめていた唇を、ゆっくりと開いた。
その瞳から、母の迷いが消え去り、冷酷な帝国の支配者としての決断が下された。
「……やりなさい」
「皇妃殿下ッ!?」アンセルムが絶叫した。
だが、ロザリアはその叫びを氷のような一瞥で踏みにじった。
彼女はエルザを見下ろし、峻烈極まる宣告を叩きつけた。
「やりなさい、エルザ。お前に殿下の治療の全権を委ねる。……ただし、条件があります」
ロザリアの指先が、エルザの眉間を指弾した。
「もし殿下が息を引き取ったその瞬間――その術台の上でお前の首を刎ねる。一族郎党、すべてを反逆罪として処刑する。……ギルバート、貴様も同罪だ。大公家を取り潰し、軍法会議にかけて極刑に処す。文句はないわね?」
全存在を賭けた、死線の上での契約。
失敗すれば、エルザだけでなく、帝国最強の大公家すら道連れにして破滅する。
だが、その破滅の宣告を聞いた瞬間――。
「クッ……」
大剣を構えていたギルバートの喉から、獰猛な笑いが漏れ出した。
大公はアンセルムの眉間から剣を引き戻すと、豪快に肩を震わせ、氷灰色の双眸を爛々と輝かせた。
「望むところだ、皇妃殿下。……俺の首だろうが大公家の領地だろうが、いくらでも賭けてやる。我が主治医のメスが、敗北することなどあり得ん」
そして、エルザもまた――。
その薄い唇の端を、ふっとわずかに吊り上げた。
恐怖など微塵もない。
ただ、自らの知性と指先が、世界の理不尽を切り裂くための舞台が整ったことへの、絶対的な職人の矜持。
「望むところです、皇妃殿下」
エルザは立ち上がった。
引き裂かれた深緑のドレスに血を滴らせながら、彼女はホールの貴族たちを見渡すこともなく、即座に司令官としての峻烈な下知を飛ばした。
「マリカ! テオバルト副官!」
「は、はいっ!」
「御意!」
マリカが駆け寄り、テオバルトが直立不動で応じる。
「このホールは不潔すぎます! 飛び散った埃と貴族たちの呼気で細菌が充満している! ここで開腹すれば一瞬で腹膜炎が悪化する! 隣の貴賓用小広間を明けてください! 絨毯をすべて剥ぎ取り、石畳の床を熱湯と生石灰で洗い流すのです!」
エルザの鋭い指示が、矢継ぎ早に宮廷の侍従たちへと叩きつけられる。
「明かりが必要です! 術野の影を消すため、高光度のアルコールランプと反射鏡付きの燭台を三十個、手術台の周囲に隙間なく配置しなさい!
そして、煮沸消毒用の大鍋に湯を沸かしなさい! 清潔な熱湯を十樽、大至急!
城下に待機させているオスカーへ早馬を飛ばしなさい! 私の特注外科器具一式、止血鉗子、開創器、キャットガットの縫合糸を、三分以内にここに届けさせなさい!!」
「は、ははっ!」
エルザの圧倒的な気迫に圧され、宮廷の侍従や近衛兵たちが、我を忘れて走り出した。
もはや誰も、彼女を「下働きの小娘」などと侮る者はいなかった。
死にゆく皇太子の命を握り、帝国最強の大公を従え、皇妃を動かした絶対の執刀医。
「マリカ、殿下の移送を行います」
エルザは血溜まりの中へ再び身を屈め、ディルクの頭部を支えた。
「頭部をわずかに低く保ち、下肢を十五度挙上しなさい。脳と心臓への血流を重力で維持するのです。決して腹部を圧迫してはなりません。水平を完全に保ったまま、四人で担架を運びなさい!」
「はいっ!」
血塗られた真紅の絨毯の上から、瀕死の皇太子の身体が、慎重に、だが電光石火の速さで即席の手術室へと運び出されていく。
取り残されたアンセルム首席司教は、額から血を流したまま、憎悪と戦慄に顔を歪めてその光景を見送るしかなかった。
迷信と欺瞞に満ちた白金宮の夜会は、いま、一人の少女の手によって――近代外科学の粋を集めた、血と鋼の戦場へと姿を変えようとしていた。




