第29話:板になった腹
「動かしては死にます!!」
白金宮の大夜会ホールの天井を震わせていた悲鳴と狂乱を、真一文字に切り裂くような声だった。
高く、硬質で、そして刃物のように研ぎ澄まされた少女の叫び。
逃げ惑う貴族たちの足が、一瞬だけ縫い止められたように止まる。
大階段の壇上からディルク皇太子の玉体へ手を伸ばしかけていたアンセルム首席司教の細い双眸が、ぎょっとしたように見開かれ、音の発生源――中央の通路へと向けられた。
群衆を力任せに押し分け、疾風のごとく駆け抜けてくる一つの影があった。
エルザ・ヴァルデック。
彼女は両手で自らの深緑の絹ドレスの裾を鷲掴みにすると、何の躊躇もなく、バリバリと激しい音を立てて膝上まで引き裂いた。美しく広がっていたフレアスカートの布地が無残に裂け落ち、足首を覆っていたレースが床の大理石へと脱ぎ捨てられる。
貴族の夜会において、ドレスを引き裂いて素足を晒すなど、常軌を逸した大不敬であり、醜聞以外の何物でもない。だが、今のエルザにとって、裾を踏んで一秒を失うことのほうが、万死に値する重罪だった。
「な……何を血迷ったか、あの小娘は!?」
「衛兵! 誰かあの魔女を止めろ!」
取り巻きの神官たちが叫び声を上げる。
二人の神殿親衛隊が、抜刀した剣の峰を構えてエルザの行く手を塞ごうと立ちはだかった。
だが、エルザの視線は前方の障害物すら見ていなかった。彼女は疾走する勢いを殺すことなく、身を低く沈めて滑り込むように衛兵の脇をすり抜けた。泥水の中で育ち、前世の過酷な侍女労働と北方の戦地で培われた、無駄のない重心移動。
「下がれ、不浄のネズミめ! 殿下に触れるな!」
ディルクの頭上を取り囲んでいた神官の一人が、両手を広げてエルザを突き飛ばそうとした。
その瞬間――。
エルザの背後から伸びた影が、神官の顎を肘打ち一閃で捉えた。
ボキリ、と鈍い破砕音が響き、神官の身体が糸の切れた凧のように宙を舞って大理石の床へ激突した。
「エルザの邪魔をするな」
長剣を逆手に構えたギルバート大公が、鬼神の如き気迫でエルザの背後を完全に遮断していた。軍靴が床を蹴り、近寄ろうとする神殿兵たちをその眼光だけで一歩、また一歩と後退らせる。
作られたわずかな空白。
エルザは、迷いなく飛び込んだ。
絨毯の上に広がる、真紅の湖――ディルク皇太子が吐き散らした、おびただしい量の血液と胃液の海の中へ。
ピチャリ、と重い飛沫が上がった。
エルザは引き裂いたドレスの膝を、躊躇うことなく血溜まりの中へと突き立てた。
上等な絹が、瞬く間に真紅の液体を吸い上げ、ドス黒く染まっていく。大理石の冷たさを貫いて伝わってくるのは、体温を失いかけた生々しい生温かさと、鼻腔を暴力的に締め上げる強烈な異臭だった。
(……観察しなさい、エルザ。目を逸らすな。この血が語っている言葉を一文字も漏らすな)
エルザの琥珀色の瞳は、血溜まりの中へ倒れ伏すディルクの顔面、そして絨毯にぶち撒けられた吐瀉物の性状へと、猛禽のような集中力で張り付いた。
鉄の生臭さ。それに混ざり合う、ツンと鼻を突く強烈な酸の刺激臭――胃液の塩酸だ。
絨毯の上に広がっているのは、単一の鮮血ではなかった。
ドロリとした粘液の中に混ざり合っているのは、まるで挽いたコーヒー豆の絞りカス(コーヒー残渣様)のように黒褐色に凝固した、無数の微小な血液の塊。
そして、その黒ずんだ泥のような塊を押し流すようにして、今まさに喉奥からドクドクと溢れ出している、鮮烈な鮮紅色の活動性出血。
(……鑑別完了。喀血ではない。吐血だ!)
エルザの頭脳が、光速で病態を解剖していく。
呼吸器系――肺や気管支からの出血であれば、血液はアルカリ性であり、空気を含んで鮮やかな赤色で泡立ち、咳とともに喀出される。
だが、目の前にあるのは強烈な酸性の臭気、胃酸によってヘモグロビンが塩酸ヘマチンへと酸化されて黒変した古い凝血塊、そして胃壁を突き破った拍動性の混濁血。
呼吸器疾患ではない。
ディルクの体内で起きていたのは、完全なる上部消化管の破綻だった。
「殿下! ディルク殿下、私の声が聞こえますか!」
エルザはディルクの肩を掴み、軽く揺さぶった。
青年の首が、力なくガクリと揺れる。
開かれたままの双眸は、光を完全に失って白濁し、瞳孔は対光反射を失いかけて散大していた。顎を上げさせると、喉の奥からゴロゴロと、気道を塞ぎかける血液の泡立ち音が響いている。
エルザは素早く二本の指をディルクの口内へと滑り込ませ、舌を前下方へと強く圧迫しながら、咽頭に溜まっていた巨大な凝血塊を掻き出した。
ドロリとした血の塊が指先から床へ落ちる。
「気道確保。……マリカ! 彼の首を右へ倒しなさい! 吐瀉物が気管に逆流すれば、窒息して即死します!」
「は、はいっ!」
群衆をかき分けて飛び込んできたマリカが、血溜まりを恐れず膝をつき、青年の側頭部を両手でしっかりと支えて横を向かせた。
エルザは間髪を容れず、ディルクの純白の礼服へと両手を伸ばした。
サファイアや真鍮のボタンが留められた豪奢な前立て。
エルザは指先を襟元へ引っ掛けると、全体重をかけて、引き裂くように引き抜いた。
ブチブチブチッッ!!
何十個もの貴石のボタンが引きちぎられ、大理石の床の上を甲高い音を立てて転がっていく。
露わになったのは、青白い、肋骨が痛々しいほど浮き出たディルクの痩せこけた胸部と腹部だった。
皮膚は極度の貧血によって青白く透き通り、浅い呼吸に合わせて肋間筋が不自然に引き攣れている。
「……触診します」
エルザは手袋を脱ぎ捨て、自らの剥き出しの右手の掌を、ディルクのみぞおち――上腹部の中央へと、平らに当てた。
その瞬間――。
エルザの背筋を、電撃のような冷たい戦慄が貫いた。
「……っ!?」
硬い。
生きた人間の柔らかな腹壁の感触など、そこには微塵も存在しなかった。
エルザの掌を押し返してきたのは、まるで厚さ数センチの『硬い樫の木の板』、あるいは冷たい鋼の装甲板を直接押し当てられたかのような、異常極まりない筋組織の過緊張だった。
軽く指先を沈めようとしても、一ミリたりとも皮膚が沈まない。
腹直筋、外腹斜筋、内腹斜筋――腹壁を構成するあらゆる筋肉が、自律神経の極限の暴走によって限界まで収縮し、ひとつの継ぎ目もない岩の塊と化していた。
(板状硬直(board-like rigidity)……!!)
エルザの脳裏に、病理学の教科書に刻まれた、最も危険な身体所見の文字が赤く明滅した。
単なる腹痛や痙攣ではない。
腹腔の内側を包む神経密集地帯――壁側腹膜が、強烈な化学的刺激物質に晒された時にのみ発生する、生命維持のための絶対的な防御反射(筋性防御の極期)。
エルザは素早く指先を動かし、ディルクの下腹部を軽く圧迫し、そして電光石火の速さで手をパッと離した。
「……う、あ……ッ!!」
意識を失いかけていたディルクの全身が、手を離された瞬間にビクンと跳ね上がり、喉から引き裂かれるような掠れた悲鳴が漏れた。
手を押し込んだ時よりも、手を離した瞬間に激痛が奔る――反跳痛(ブルンベルグ徴候)の明確な陽性。
さらに、エルザは左手の中指をディルクの右季肋部(右のあばら骨の下)に当て、右手の指先でトントンと鋭く叩いた。打診。
本来であれば、実質臓器である肝臓が存在するため、鈍く重い「濁音」が響くはずの領域。
だが、返ってきたのは――ポコン、ポコンという、空洞を叩いた時と同じ乾いた「鼓音」だった。
(肝濁音界の消失……! 横隔膜の直下に、大量の遊離ガス(フリーエアー)が充満している!)
すべての臨床所見が、ただ一つの逃れようのない診断へと収束した。
「……胃潰瘍の急性穿孔」
エルザの唇から、凍りつくような宣告が零れ落ちた。
「そして、潰瘍底を走行する太い動脈――胃十二指腸動脈の完全な動脈破綻」
ディルクの腹の中で起きている地獄の断面図が、エルザの脳裏に克明に浮かび上がっていた。
長年にわたるストレス、そして何者かによって投与され続けてきた毒物によって、胃の幽門部の粘膜が徐々に侵食され、深いクレーターのような潰瘍が形成されていたのだ。
そして今夜、その潰瘍がついに胃壁の全層を突き破り、胃にぽっかりと穴が開いた。
胃の中に溜まっていた大量の強酸性の胃液、消化酵素、そして細菌が、その穴から怒涛の勢いで腹腔内へと漏出している。漏れ出た酸が腹膜の全体を内側から焼き爛れさせ、激しい化学性腹膜炎を引き起こし、腹壁の筋肉を板のように硬直させているのだ。
それだけではない。
穿孔した穴の真下を走っていた太い血管――胃十二指腸動脈が、胃酸と潰瘍の壊死によって腐食され、ついに破裂した。
心臓から送り出される高圧の動脈血が、胃の中へ、そして腹腔内へと、水道の蛇口を全開にしたかのように噴出し続けている。
血が胃を満たして口から噴き出し、同時に腹の中をも満たしているのだ。
「血圧の急降下……ショックインデックスは2・0以上」
エルザはディルクの手首の脈を測った。
触れない。
橈骨動脈の拍動は完全に消失していた。
首筋の頸動脈に指を深く沈めて、ようやく毎分百四十回を超える、糸のように頼りない細い震えが感知できる程度。
手足の先はすでに死人のように氷のように冷え、爪の床を押しても赤みが戻らない(キャピラリ・リフィル時間の著明な延長)。
(失血量はすでに千五百ミリリットルを超えている……! 全血液量の三分の一以上が失われた。あと十分……いや、数分で心臓への静脈還流が途絶え、不可逆的な出血性ショックで心停止に至る!)
時間がない。
一秒の猶予すら存在しなかった。
「無礼者ッ! その薄汚い手を殿下の玉体から離せぇぇッ!!」
鼓膜を破かんばかりの怒号が、すぐ頭上から降り注いだ。
大階段を駆け下りてきたアンセルム首席司教が、血走った眼でエルザを見下ろしていた。
その背後には、十数名の神官たちが担架と鎖を手に殺到している。
アンセルムの顔は、権威を汚された激怒と、己の計画を狂わされまいとする狂気によって醜く歪んでいた。
「衛兵、何をぼやぼやしている! この魔女を叩き殺せ!」
アンセルムは十字架の先端をエルザの額へと突きつけるように振り下ろした。
「殿下は悪魔の呪詛によって吐血されたのだ! 神聖なる大聖堂の地下祭壇へお運びし、解呪の聖水を注ぎ、神への祈祷を捧げねばならん! それを、身分の低き侍女風情が殿下の服を引き裂き、不浄な手で玉体を弄ぶなど、万死に値する大罪である! 今すぐその小娘の首を刎ね、殿下を担架に乗せよ!」
「動かしては死にますと言っているのが聞こえないのですか!!」
エルザは立ち上がることなく、血溜まりの中に膝をついたまま、アンセルムの怒号を真っ向から睨み据えた。
その琥珀色の瞳から放たれた光は、アンセルムの振り上げた十字架を空中で凍りつかせるほどの、凄まじい威圧を孕んでいた。
「殿下は悪魔に憑かれたのではありません! 胃に穴が開き、動脈が破裂しているのです!」
エルザの声は、大広間の隅々にまで、明快な事実として響き渡った。
「腹腔内へ、強酸性の胃液と大量の血液が溢れ出し、急性汎発性腹膜炎と重度の出血性ショックを引き起こしています! 今、この瞬間にも、動脈から毎分数百度の血液が体腔内へ漏れ出しているのです!」
エルザはディルクの板のように硬直した腹部を、全員に見せつけるように掌で叩いた。
トン、と硬質な、木板を叩いたような鈍い音がフロアに反響する。
「見なさい! この腹壁の板状硬直を! 腹膜が酸で焼かれ、筋肉が悲鳴を上げている動かぬ証拠です!
この状態で担架に乗せ、大聖堂まで馬車で運ぼうなどとすれば、振動と体位変換によって腹腔内圧が変動し、破綻した血管の血栓が完全に吹き飛ぶ! 大聖堂の門をくぐる前に、失血死で確実に心停止に至ります!」
「だ、だまれええっ!」
アンセルムが泡を吹いて叫んだ。
「出鱈目を! 胃に穴が開くだと!? 人の腹の中で動脈が破れるなどという妄言、聖典のどこにも書かれておらんわ! 病は悪魔の仕業であり、祈りと聖水によってのみ癒やされる! 貴様はそのような奇怪な狂言で神への信仰を揺るがし、殿下の御魂を地獄へ引きずり込もうとしているのだ!」
「祈祷で塞がる穴ではありません!!」
エルザの一喝が、アンセルムの狂信の叫びを完全に叩き潰した。
少女の全身から放たれるのは、神への冒涜を恐れる心など微塵もない、命を救うことだけに特化した絶対的な医療の意志。
「神に祈って、破れた動脈から吹き出す血が止まるとでもお思いですか!? 聖水を振りかけて、胃壁に開いた穴が塞がるとでも!?
奇跡など起きません! 祈りで血管が塞がるなら、この世の戦場に死体など転がっていません!
今すぐここで腹部を切開し、噴出する動脈の断端を鉗子で掴んで糸で縛り、胃壁の壊死組織を削り落として縫い合わせなければ――この方は、あと数十分と持たずに、確実に息絶えます!!」
――切開。
腹部を切り裂き、血管を縛り、胃を縫い合わせる。
その言葉が放たれた瞬間、大夜会ホール全体が、まるで凍結したかのように静まり返った。
何百人もの貴族たちが、息を呑み、目を見張り、自らの耳を疑った。
皇太子殿下の腹を、刃物で切り開く――。
帝国の歴史上、前代未聞。
神の代理人とされる皇族の聖なる肉体に、刃物を突き立てて内臓を弄ぶなど、それ自体が国家反逆罪であり、極刑に値する狂気の沙汰。
だが、その狂気の宣告を下している少女の眼差しには、一片の狂気も、一片の迷いも存在しなかった。
ただ、冷徹に。
確実に消えゆこうとしている一つの生命を、死神の顎から力ずくで引き戻すための、唯一無二の「正解」だけを見据えていた。
「き、気狂いめ……!」
アンセルムの顔から、ついに偽善の仮面が完全に剥ぎ取られた。
男の瞳に宿ったのは、自らの利権と教会の支配を脅かす異端に対する、剥き出しの殺意だった。
「皇太子殿下の腹を裂くなどと……明白なる大逆罪! 反逆者だ! 衛兵、今すぐこの場でその魔女を切り刻めぇぇッ!!」
神殿の武装親衛隊が一斉に槍を構え、白刃を抜いた。
血の海の中で膝をつくエルザへ向けて、無数の切っ先が殺到しようとした――その刹那。
エルザの背後で、雷鳴のような抜刀音が、ホールの空気を爆発させた。




