第28話:真紅の絨毯
ファビアン首席薬師が、自らの脂汗と吐瀉物の悪臭に塗れ、白大理石の床の上へカエルのように突っ伏した瞬間、白金宮の大夜会ホールを支配していたのは、完全なる恐慌の静寂だった。
帝国医学の最高権威を自負し、四体液説と星占術によって歴代皇族の健康を一手に握ってきた男が、わずか十二歳の少女の冷徹な口頭診断によって、己の病巣を白日の下に晒され、公衆の面前で無残に失墜したのだ。
侍医見習いたちが青ざめた顔でファビアンの両脇を抱え、這うようにしてホール脇の控えの間へと引きずっていく。その通り道には、割れたペンダントの金屑とともに、エルザが指摘した通りの「腐りかけたリンゴ」に似た甘酸っぱいケトン臭が、澱のように漂っていた。
「……信じられん」
「ファビアン様が……あのような小娘に、一言も言い返せぬまま……」
「大公閣下の主治医とは、一体何者なのだ……」
扇の陰から漏れる貴族たちの囁き声には、もはや先ほどのような嘲弄の色は微塵も残っていなかった。
代わりに満ちていたのは、生体解剖の刃を首筋に突きつけられたかのような、得体の知れない戦慄だった。
だが、その騒然とした余韻を暴力的に掻き消すように、ホールの天上高くから、銀色に輝く長いトランペットの甲高いファンファーレが鳴り響いた。
パパパーッ、パパパパパーッ!
厳粛にして重厚なファンファーレが三度、広大なドーム天井に反響する。
ワルツの調べがピタリと止まり、オーケストラの楽団員たちが一斉に立ち上がって深々と頭を垂れた。
ざわめいていた何百人もの貴族たちが、まるで目に見えない糸で操られたかのように背筋を正し、中央の大階段へと向かって左右に分かれ、絨毯を挟んで恭しく膝を屈した。
「――皇太子殿下、並びに皇妃殿下、御成であります!」
大階段の頂点、黄金の彫刻が施された巨大な二重扉が、近衛兵たちの手によって左右へと厳かに開け放たれた。
吹き抜ける微風とともに、濃厚な香煙と、神殿特製の乳香の香りが階段を滑り降りてくる。
現れたのは、深紅の豪奢なベルベットに黒貂の毛皮をあしらった式典服を纏う、威厳に満ちた貴婦人――ディルク皇太子の生母、ロザリア皇妃だった。怜悧な美貌を持つその女傑は、冷徹な光を宿した細い双眸で会場を一瞥すると、息子の半歩後ろに控えて歩調を合わせた。
そして、その中央を、ゆっくりと歩み出てきた青年。
ディルク・フォン・オーガスタ。十七歳。
神聖オーガスタ帝国の皇太子であり、次代の皇帝の座を約束された唯一の嫡男。
純白の礼服には、無数のダイヤモンドとサファイアが散りばめられ、胸元には帝室の象徴である「黄金の鷲と王冠」の勲章が燦然と輝いていた。
フロアのあちこちから、令嬢たちの熱を帯びた溜息が漏れ出した。
先ほど大公に手首を折られかけ、ホールの隅の長椅子で青ざめていたはずのクラリッサですら、剥がれかけた白粉を急いで塗り直し、胸元のサファイアを光らせながら、獲物を見つめるような飢えた視線を皇太子へと注いでいた。
もしあの青年に見初められれば、一夜にして帝国の未来の母へと駆け上がることができる。誰もがその甘美な野心に胸を焦がしていた。
だが――。
階段の最下段、大公ギルバートの隣に立つエルザの琥珀色の双眸は、その絢爛たる装飾など一欠片も視界に入れていなかった。
彼女の視線が捉えていたのは、ただ一つ。
歩みを進めるディルク皇太子の肉体が放つ、あまりにも生々しい「破滅の予兆」だった。
(……歩幅が、狭すぎる)
エルザの脳内で、冷徹な観察データがミリ単位で記録されていく。
十七歳の健康な青年であれば、大階段を降りる際のリズムは力強く、前脛骨筋と大腿四頭筋が滑らかに連動するはずだった。
だが、ディルクの足取りは、まるで薄氷の上を恐る恐る探るかのように不自然に小さく、すり足に近い。重心が右斜め前方へと不自然に傾いている。
(腹腔内圧の上昇を本能的に避けている歩行……。腹壁の深部に、耐え難い局所の激痛が存在する証拠)
さらに視線を上げる。
礼服の上からでも露骨に分かるほど、皇太子の体躯は異様なまでに痩せこけていた。
鎖骨のラインが角張って浮き上がり、首筋の胸鎖乳突筋が異常な緊張で筋立っている。
顔色は、健康的な青年のそれとは到底呼べなかった。
白金宮の眩いシャンデリアの光を浴びながらも、その肌は瑞々しさを完全に失い、まるで死者の皮膚のように乾ききった土気色の灰白色。
両目の下には、ドス黒い隈が窪んだ眼窩を縁取り、頬はげっそりと削げ落ちている。
呼吸は浅く、速い。肩を不自然に上下させ、喉元がヒューヒューと微かな喘鳴を漏らしていた。
そして――何よりもエルザの網膜を刺したのは、皇太子の「左手の位置」だった。
ディルクは、儀礼刀を吊るした腰ベルトの上から、自らの左手を不自然なほど強く押し当てていたのだ。
親指と四本の指を熊手のように開き、肋骨の弓状縁のすぐ下――みぞおちから上腹部にかけての領域を、衣服が破れんばかりの力で圧迫し続けている。
(心窩部の強迫的な圧迫……。胃底部から幽門部にかけての、激しい灼熱痛。胃酸が潰瘍の底に触れるたびに走る、焼けた鉄を押し当てられたような苦痛を、外側からの物理的な圧力で必死に抑え込もうとしている)
エルザの背筋を、冷たい氷の針が駆け抜けた。
前世のタイムライン。
七年前のこの夜会において、皇太子ディルクが突如として血の海に沈み、それが「悪魔の呪詛」として帝国中に恐怖の嵐を巻き起こした、あの惨劇の記憶。
パズルのピースが、目の前の生体標本の上で完全に一致していた。
「……大公閣下」
エルザは唇を動かさず、隣のギルバートにだけ届く微かな声で囁いた。
「何だ」
「下がらないでください。いつでも前へ踏み込めるよう、足元の大理石の滑りを確かめておいて」
ギルバートの氷灰色の瞳が、鋭く細められた。
大公は何も問い返さなかった。エルザのその一言が、戦場における「突撃十秒前」の合図であると、歴戦の直感で悟ったからだ。大公の右腕が、佩刀の鍔を親指で静かに押し上げた。
◇
ディルク皇太子は、大階段を降り終え、ホールの真ん中に敷かれた純白の巨大な円形絨毯――ダンスフロアの中央へと足を踏み入れた。
周囲を取り囲む何百人もの貴族たちが、一斉に恭順の礼を捧げる。
ディルクは立ち止まり、全貴族を見渡すように顔を上げた。
「……ご列席の……皆様……」
その第一声を聞いた瞬間、エルザの眉が微かに跳ね上がった。
声が、掠れきっていた。
肺からの気流が声帯を震わせているのではなく、喉の奥に何かが詰まっているかのような、湿り気を帯びた重苦しい呼吸音。
ディルクの額に、タラリと大粒の脂汗が流れ落ちた。
シャンデリアの熱気によるものではない。極度の疼痛と、血圧の低下に伴う冷汗。
青年の瞳孔が、恐怖に怯えたように細かく震えていた。
「今宵……帝国全土より集いし、忠勇なる諸侯の……前に……」
ディルクの言葉が、途切れた。
ピクリ、と彼の喉仏が不自然に大きく上下した。
皇太子の右手が、突如として自らの喉元を掻きむしるように掴み取った。
その顔面から、残されていたわずかな赤みが、まるで潮が引くかのように一瞬で完全に消失した。唇が紫色へと変色していく――末梢チアノーゼ。
「う……っ……!?」
苦悶に満ちた、短い嗚咽。
ディルクの上半身が、見えない大槌で腹を殴りつけられたかのように、くの字に大きく前屈みになった。
「殿下……?」
壇上にいたロザリア皇妃が、不審に眉をひそめて一歩身を乗り出す。
貴族たちが、何事かと息を呑んだ。
その、わずか一秒の静寂の後――。
――グボォッッッッ!!!!
常軌を逸した、生々しい流体の破裂音がホールに響き渡った。
ディルクの喉の奥から噴き出したのは、言葉ではなかった。
彼の黒くひび割れた唇の間から、勢いよく噴水のように噴き上がったのは――大量の、ドス黒い赤色をした血潮の塊だった。
「――っ!?」
バシャアアンッッ!!
重厚な水音が、静まり返るホールに木霊した。
純白の大理石の上に敷かれていた、一点の染みすらなかった純白の絨毯。
その中心へ向けて、まるでインク壺を力任せに叩きつけたかのように、真紅の鮮血と、酸化して黒ずんだコーヒー残渣のような凝血塊が、激しい勢いでぶち撒けられた。
「ぎゃあああああああああっっ!!」
フロアの最前列にいた貴族令嬢の一人が、喉を引き裂くような絶叫を上げた。
噴き出した血飛沫が、彼女の純白のドレスの裾を点々と真紅に汚していたのだ。
だが、惨劇はそれでは終わらなかった。
「がはっ……! げほっ……オエェッッ!!」
ディルクは両膝を床につき、胸元を掻き毟りながら、二度、三度と激しく喀血を繰り返した。
胃の中に溜まっていた未消化の食物、強酸性の胃液、そして破綻した太い動脈から怒涛の勢いで溢れ出す鮮血が混ざり合い、ドロドロとした血溜まりとなって、瞬く間に絨毯の上に直径二メートルを超える巨大な真紅の湖を作り出していく。
立ち込めるのは、鉄の生臭さと、酸が鼻を刺す強烈な消化液の異臭。
ドサリ。
吐き尽くしたディルクの細い体が、力尽きたように自らの吐いた血溜まりの中へと倒れ伏した。
純白の礼服が、瞬く間に真紅の液体を吸い上げて重く染まっていく。
青年の瞳は虚ろに天を仰ぎ、開かれた口元からは、なおもタラタラと赤い泡が止まることなく溢れ出し、白大理石の床へと伝い落ちていた。
「ひ……っ! 血だ! 殿下が血を吐かれた!」
「皇太子殿下が倒れられたぞッ!」
「悪魔だ! 悪魔の呪詛が殿下を冒したんだぁぁっ!」
白金宮の大夜会は、一瞬にして阿鼻叫喚の狂乱地獄へと叩き落とされた。
貴族たちは我先にと出口へ向かって将棋倒しになり、令嬢たちはドレスを踏み躙って悲鳴を上げ、近衛兵たちは抜刀したまま右往左往して混乱を極めた。
壇上のロザリア皇妃が、顔面を蒼白にして手すりを掴み、「ディルク! ディルクゥッ!」と取り乱して叫んでいる。
その狂乱の極致にあって。
バァァァンッッ!!
ホールの貴賓席へと続く大扉が、地響きのような勢いで左右に叩き開けられた。
吹き込む冷気の中、まるでこの惨劇を最初から待ち構えていたかのように、堂々たる隊列を組んで踏み込んできた一団があった。
金糸の刺繍が施された白銀の祭服。
手には、大聖堂の紋章が刻まれた真鍮の十字架と、煙をもうもうと噴き上げる巨大な香炉。
そして、その中央を優雅に、だが絶対の権威を誇示するように進み出てきたのは――。
帝国正教会の頂点、アンセルム首席司教。
五十名を超える神殿親衛隊と神官団を従えたその男は、冷酷な光を宿した細い目を血溜まりの中の皇太子へと向け、唇の端に隠しきれない歓喜の歪みを刻み込んでいた。
アンセルムは十字架を高く掲げ、朗々たる、ホールを圧殺するような威厳ある声で叫んだ。
「――静まりなさい!!」
逃げ惑う貴族たちの足が、神の代理人の一喝によって竦み上がった。
アンセルムは大階段の壇上へと駆け上がり、血溜まりを見下ろしながら、悲痛を装った大仰な身振りで胸に十字を切った。
「見よ! これぞ帝国を揺るがす悪魔の呪詛の業火である! 神への信仰を忘れ、異端の医術や放縦に溺れかけたこの国に対し、太古の悪魔が皇太子殿下の尊き肉体を奪わんと牙を剥いたのだ!」
アンセルムの扇動が、パニックに陥った貴族たちの恐怖心を巧みに煽り立てていく。
「祈りなさい! 人の知恵など悪魔の前には無力である! 殿下の玉体には、一寸たりとも不浄な人間の手を触れさせてはならん! 神官たちよ、担架を進めよ! 殿下を直ちに大聖堂の最地下祭壇へとお運びするのだ!」
「はっ!」
十数名の屈強な神官たちが、分厚い革張りの担架を広げ、血溜まりの中のディルクを取り囲んだ。
アンセルムは懐から、怪しく濁った紫色の液体が入った大聖堂特製の硝子瓶――「最高級解呪の聖水」を引き抜き、高く掲げた。
「神聖なる大聖堂の秘蹟と、七日七晩の祈祷をもって、殿下の御魂から悪魔を祓い清める! 殿下を抱え上げよ! 一刻も早く大聖堂の聖壇へ――」
神官たちの手が、血まみれのディルクの肩と腰へと伸ばされた。
力任せに、そのぐったりとした体を持ち上げようとした――その瞬間。
エルザの眼が、ディルクの肉体の「限界点」を克明に捉えた。
青年の顔面は、すでに血が通っていない。
唇は完全な紫色に凍りつき、胸の上下動は今にも途絶えそうなほど微弱だった。
皮膚の下で、頸動脈の拍動が急速に細くなり、消失しかけている。
出血性ショックの第4期。
体内の全血液量の三分の一以上が、いま床の絨毯へと失われたのだ。
ここで体を乱暴に動かされ、大聖堂へ向けて馬車で揺られれば――腹腔内の圧力が変動し、破綻した動脈からさらに血が噴き出す。
脳への血流が完全に途絶え、大聖堂の門をくぐる前に、確実に心停止に至る。
(……死ぬわ)
エルザの脳内で、冷徹なタイマーの秒針が、ゼロへと向かって狂ったようにカウントダウンを始めた。
(あと十五分。……神殿へ運ばせれば、確実に失血死する!)
群衆の悲鳴。
神殿の香煙。
アンセルムの勝ち誇った祈祷の声。
そのすべての狂乱を切り裂くように、深緑のドレスを纏った少女の身体が、弾かれたように前へと飛び出した。




