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呪いではなく鉛中毒です〜死に戻り侍女は近代医学で冷酷大公を救い、宮廷の嘘を解剖する〜  作者: タカケンサンバ


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第27話:甘い呼気と腐った権威

クラリッサが屈辱に濡れた顔を両手で覆い、アルトハイム伯爵に引きずられるようにしてホールの闇へと消え去った後も、白金宮の大夜会ホールの空気は完全に凍りついたままだった。

大理石の床の上には、砕け散った象牙の扇の残骸が無惨に散らばり、シャンデリアの豪奢な光を冷たく照り返している。

宮廷貴族たちは、グラスを握る指先を震わせ、遠巻きにギルバートとエルザを取り囲んでいた。誰もが腫れ物に触るどころか、檻から解き放たれた飢えた黒狼を前にした小動物のように、視線すら合わせることを恐れていた。


だが、その張り詰めた沈黙を切り裂き、大公の威光に怯むことなく、靴音を響かせて進み出てくる一団があった。

人混みが左右へと恭しく割れる。

現れたのは、深紅の絨毯の上に黄金の刺繍がびっしりと施された、豪奢極まりないビロードのローブを纏った小太りの男だった。

胸元には、帝国医学校の最高名誉を示す純金製の天球儀のペンダントと、正教会公認の「神聖薬師連盟」の十字章が、歩くたびにジャラジャラと重々しい金属音を立てている。

その背後には、同じく白銀の祭服を着た若い侍医見習いたちが、仰々しく四体液説の教本や薬箱を捧げ持って従っていた。


ファビアン・フォン・グラウベルク。五十代半ば。

皇帝フリードリヒの御前侍医であり、帝国全土の薬局と医学校を統括する「皇室首席薬師」。

旧来のガレノス医学、四体液説、そして天体の運行によって人体の病を読み解く星占術の最高権威として、宮廷の医療利権を一手に牛耳る男だった。


「……やれやれ。国境警備から戻られた大公閣下がどのような武功話を披露されるかと思えば、宮廷の幼き令嬢を相手に腕力を誇示されるとは。些か武人の誇りに欠ける光景ではございませんか、ギルバート閣下」


ねっとりと脂の乗った、嘲弄を含む鼻声がサロンフロアに響き渡った。

ファビアンは手に持った真鍮の杖を床にコツンと突き、ギルバートの正面で立ち止まった。

その顔面は異常なほど赤黒く上気し、肥大化した二重顎が襟元に乗り上げている。首筋の皮膚は脂汗でぎらつき、仕立ての良いローブの上からでも、太鼓のように突き出た腹部が呼吸のたびに大きく波打っているのが見て取れた。


ギルバートの氷灰色の瞳が、冷淡にファビアンを見下ろした。

「……首席薬師殿か。老いぼれが巣から這い出してきて、何の用だ」


「用、でございますか? 宮廷の規律と、医学の神聖さを守るための忠告に参上いたしました」

ファビアンはギルバートの殺気を受け流すように下卑た笑みを浮かべ、それから――その濁った視線を、大公の傍らに立つエルザへと、ねめつけるように向けた。

その豚のような小さな目には、露骨な嫌悪と、己の権威を脅かしかねない異端に対するドロドロとした侮蔑の色が満ちていた。


「大公閣下。貴方様が戦場で武勇を誇る英雄であられることは、帝国中が認める事実。……ですが、医学と薬学は、粗野な武人が踏み込んでよい領域ではございませんぞ。学府の門すら潜ったことのない、下級貴族の捨て子……このような十二歳の小娘に『主治医』などという大層な肩書を与え、宮廷の夜会に連れ回すなど、全能の主と、代々受け継がれてきた我が神聖帝国医学に対する明白な冒涜でございます」


ファビアンは杖の先をエルザの足元へ向け、周囲の貴族たちへ同意を求めるように声を張り上げた。

「聞けば、アルトハイムの館や北方の寒村で、家宝の食器を打ち壊し、泥水を煎じて飲ませる奇怪なペテンを弄したとか。神の創りたもうた人体の神秘を、単なる物質の反応と吐き捨てるなど、悪魔崇拝者の異端思想そのもの! 大公閣下、貴方様はそのようなペテン師の呪詛に誑かされているのですぞ! 今すぐこの小娘を異端審問所へ引き渡し、神聖なる放血療法と聖水による浄化をお受けにならねば、大公家の魂は永遠に救われません!」


取り巻きの侍医たちが「左様でございます」「学府の秩序を乱す魔女め」と口々に同調し、周囲の貴族たちも安堵したように嘲笑を漏らし始めた。

宮廷の最高権威が直々にエルザを糾弾したのだ。これで大公も小娘を庇いきれまい――貴族たちの瞳に、醜い期待の光が宿る。


ギルバートの手が、佩刀の柄にかかった。

大公の全身から立ち上る濃密な殺気が、ファビアンの肥満した首を文字通り切り落とさんと膨れ上がる。

だが――。


「……お待ちください、大公閣下」


静かな、だがガラス板のように澄み渡ったエルザの声が、抜刀寸前の空気を押し留めた。

エルザは深緑のドレスの裾をわずかに整えると、ギルバートの前に一歩、進み出た。

背筋を真っ直ぐに伸ばし、ファビアンの眼前に立つ。

見上げるほどの体躯の差。豪奢なローブを纏う宮廷最高権威と、飾り気のないドレスの十二歳の少女。

だが、エルザの琥珀色の双眸に宿っていたのは、萎縮でも怒りでもなかった。

ただ、解剖台の上に横たえられた腐敗しかけた生体標本を値踏みするような、絶対零度の「観察の光」だった。


エルザはスッと鼻腔を広げ、ファビアンが吐き出す呼気を含んだ空気を、微かに吸い込んだ。

その瞬間、エルザの眉がわずかに動いた。


「……ファビアン薬師長」

エルザの口元に、怜悧な刃物のような冷笑が刻まれる。

「他人の医学を冒涜と罵る前に、ご自身のその腐食しかけた肉体を心配されてはいかがですか」


「な……何だと……!?」

ファビアンの顔面が、不快感で赤黒く膨れ上がった。

「無礼者! 宮廷首席薬師たるこの私に向かって、腐食とは何事だ! 我が肉体は、毎日の放血と神殿の聖水によって完璧に四体液の調和を保っておるわ!」


「四体液の調和、ですか」

エルザは乾いた声で鼻を鳴らした。

「その調和のとれたお身体の口元から、なぜ――腐りかけたリンゴのような、強烈な甘酸っぱい異臭が漂っているのですか」


ピシリ、と広間の空気が音を立てて張り詰めた。

「あ……甘酸っぱい……異臭……?」

ファビアンの取り巻きの若い侍医の一人が、思わず呟いた。


「アセトン臭――医学的にはケトン臭と呼びます」

エルザは一歩、ファビアンへと間合いを詰めた。

その瞳は、逃げ場を塞ぐようにファビアンの全身の病変部を正確に指し示していく。


「あなたの体内では今、膵臓の機能が完全に破綻しています。血液中に溢れ返ったブドウ糖を細胞がエネルギーとして利用できず、飢餓状態に陥った生体が、自らの脂肪と筋肉を狂ったように分解してケトン体を異常産生している。血液は極度の酸性――重度の糖尿病性ケトアシドーシスに傾き、その酸性の毒素が、呼気となって腐ったリンゴの臭いを放っているのです」


「き、貴様……何を訳の分からぬ戯言を……!」

ファビアンの額から、タラリと冷たい脂汗が流れ落ちた。

だが、エルザの冷徹な診断は、息をつく暇すら与えなかった。


「戯言かどうか、ご自身の身体を鏡でご覧なさい」

エルザの指先が、ファビアンの丸々と太った耳元を指差した。

「第一に、その耳介(じかい)の軟骨の縁。白く硬い、米粒大の結節が無数に浮き出ていますね。

第二に、ローブの裾から覗くその足首。靴下が食い込み、夕方になれば指で押した跡が戻らないほどの異常な圧痕性浮腫(むくみ)。

そして第三に――時折、その右足の親指の付け根が、まるで万力で砕かれたかのような激痛に襲われ、赤黒く腫れ上がっているのではありませんか?」


「ひっ……!?」

ファビアンの喉から、蛙が潰されたような悲鳴が漏れた。

杖を握る手が、目に見えてガタガタと震え出す。


「尿酸の結晶が関節腔に析出して激しい無菌性炎症を引き起こす、高尿酸血症――痛風の末期症状です」

エルザの声は、容赦なくファビアンの急所を抉り続けた。

「さらに致命的なのは、あなたの日常的な生活習慣と、その誤った『治療』です。ファビアン薬師長、あなたはこの数ヶ月、日夜を問わず喉が焼け付くように渇き、異常な量の水分を求めていませんか?」


静まり返るサロンフロアの中で、貴族たちの間に微かな動揺が走った。

「……そういえば、ファビアン様、最近いつも給仕に水や酒を運ばせていたわ……」

「診察の最中にも、席を立って喉を潤していらした……」

囁き声が、ファビアンの耳朶を容赦なく打ち据える。


「高血糖による浸透圧利尿です」

エルザは淡々と、生化学の必然を暴き立てる。

「血液中の過剰な糖を排泄するため、腎臓が強制的に水分を尿として絞り出している。だからどれほど飲んでも喉の渇きは癒えない。……そして、愚かなあなたは、その喉の渇きを癒すために何をしているか。あろうことか、糖分を凝縮させた甘い果実酒や、濃厚な蜂蜜水を水代わりにがぶ飲みしているでしょう」


「な……なぜ、それを……!」

ファビアンの二重顎が痙攣した。自室の奥で、誰にも見られぬよう隠れて飲んでいた極甘口の葡萄酒。それを、この初対面の少女が、呼吸を読んだだけで完璧に看破したのだ。


「甘い酒を飲めば一時的に口内は潤うが、血糖値はさらに跳ね上がり、ケトアシドーシスは致死域へと加速する。……そして、最も救いようのない喜劇は、あなたの信奉する『四体液説』による治療です」

エルザの唇から、嘲弄の吐息が漏れた。


「身体が重く、頭がぼんやりとし、熱っぽさを感じるたびに――あなたは『体内の血液が過剰になり、熱の体液が暴走している』と誤診した。そして、自らの腕の静脈を切開させ、あるいはヒルに血を吸わせる『放血療法』を、週に何度も繰り返してきたでしょう」


「放血は……放血は古来より伝わる正統なる医術だ! 過剰な血を抜くことで、体液の調和を取り戻す神聖なる手当て――」


「寝言は棺桶の中で言いなさい!」


凛としたエルザの一喝が、ファビアンの弁解を叩き割った。

十二歳の少女が放つ、大人の男を完全に圧殺する医療の覇気。


「ケトアシドーシスと浸透圧利尿によって、あなたの体内は今まさに極度の脱水状態にあります! 血管の中の水分が枯渇し、血液はドロドロのヘドロのように粘り気を増している! そこからさらに放血など行えば、何が起きるか!

循環血漿量が激減し、腎臓の糸球体に送られる血流が完全に途絶する! 尿を作ることができなくなった腎臓は急速に壊死し、老廃物が全身を巡る『急性腎不全』を引き起こすのです!」


エルザは杖を握りしめて後退るファビアンの顔面を、鋭い人差し指で指弾した。


「あなたは名誉ある薬師長などではない。自らの無知と四体液説の盲信によって、自らの膵臓を焼き、自らの腎臓を絞り殺している、ただの哀れな重症患者です!

今すぐその過食と甘い葡萄酒を止め、放血という名の緩やかな自殺を中止しなさい! さもなくば――あと一ヶ月も持たずに尿毒症による昏睡に陥り、自らの排泄物の毒によって脳を焼かれて狂死することになりますよ!」


――静寂。


白金宮の大広間を、死のような沈黙が支配した。

オーケストラの楽器の擦れ合う音すら途絶えている。

満場の貴族たち、皇族の側近たち、そしてファビアンの背後に控えていた侍医見習いたちまでもが、息を呑んで立ち尽くしていた。


誰もが知っていたのだ。

ファビアン薬師長が最近、異様に喉を渇かせ、足を引きずり、怒りっぽくなり、毎日のように自室で放血を行わせていたという事実を。

宮廷の誰もが「お疲れなのであろう」「神聖な治療をなさっているのだ」と見て見ぬ振りをしてきたその異変の正体を。

目の前の少女は、脈を測るでもなく、ただその体臭と皮膚の変色、呼吸の音を聞いただけで――寸分の狂いもなく、死に至る病理の設計図として白日の下に晒し上げたのだ。


「ひ……っ……あ……」

ファビアンの口から、掠れた空気の音が漏れ出した。

反論の言葉など、どこを探しても見つからなかった。

なぜなら、エルザの指摘した自覚症状――耳の結節、足の浮腫、指の激痛、そして耐え難い喉の渇きと倦怠感のすべてが、今まさに彼の肉体を内側から苛み、焼き焦がしていたからだ。


「で……出鱈目を……! こ、このような小娘の……妄言を……!」

ファビアンは震える手で杖を振り上げようとした。

だが、その瞬間――激しい眩暈(めまい)が男の脳髄を襲った。

ケトアシドーシスによる脳浮腫と、脱水による急激な血圧低下。

視界がぐにゃりと歪み、足元の白大理石が急速に迫ってくる。


ドサァァァンッッ!!


小太りの巨体が、自らの足にもつれ、大理石の床の上へカエルのように無様に突っ伏した。

胸元の天球儀のペンダントが砕け散り、真鍮の杖がカランカランと甲高い音を立てて貴族たちの足元へと転がっていく。

「や、薬師長閣下……!?」「ファビアン様ッ!」

見習い侍医たちが血相を変えて駆け寄るが、床に倒れたファビアンは、激しい息を吐きながら脂汗に塗れ、自力で起き上がることすらできなかった。

その口元からは、エルザの言った通り――腐ったリンゴの甘酸っぱいケトン臭が、周囲の貴族たちの鼻腔を突くほど濃密に立ち上っていた。


「……臭うな」

冷え切った低音が、倒れ伏すファビアンの頭上から降ってきた。


ギルバート大公が、軍靴を鳴らして一歩前へ進み出ていた。

大公は床に転がる最高権威の無様な姿を、道端の汚物を見るような氷灰色の瞳で見下ろした。

「神聖なる帝国医学の最高権威とやらが、自らの病すら治せず、床に這いつくばって腐臭を撒き散らすとは。……見苦しいぞ、ファビアン。貴様の言う『神の調和』とやらは、床の埃の味でもするのか」


「ぐ……っ……お、大公……閣下……!」

ファビアンは床に顔を擦り付けたまま、屈辱と恐怖に歯を食いしばった。

満場の貴族たちの視線が、嘲笑と侮蔑、そして戦慄へと変わっていく。

帝国医学の頂点に君臨していた男の権威は、十二歳の少女が放った科学のメスによって、跡形もなく解剖され、公衆の面前で完全に失墜したのだ。


エルザは、床で呻くファビアンを一瞥すらしなかった。

当然の結果であるとばかりに、彼女は懐から清潔な麻布を取り出し、調合した試薬に触れたわけでもない自らの指先を、念入りに拭った。

その佇まいは、傲慢ですらなく、ただ絶対的な知性の高みから現象を処理し終えた職人のそれだった。


だが――。

その圧倒的な論破劇の余韻に、会場が息を呑んでいた、まさにその瞬間だった。


――ガタッ。


サロンフロアの喧騒の遥か頭上。

大階段の頂点に設けられた、黄金の天蓋が煌めく『貴賓席』から、重苦しい椅子の軋む音が響いた。

歓談していた貴族たちの視線が、ハッと上層へと向けられる。


そこに立っていたのは、この夜会の主役であるはずの青年だった。

十七歳。帝国皇太子、ディルク・フォン・オーガスタ。

豪奢な白銀の正装を纏いながらも、その体躯は痛々しいほどに痩せこけ、青白い首筋には青紫色の血管が浮き出ている。

皇太子は胸元を掻きむしるようにして、ゆっくりと大階段の手すりへと手を伸ばしていた。

その足取りは幽霊のように覚束なく、呼吸は荒く、そして何よりも――その表情は、今まさに死神の爪に喉元を掴まれたかのような、絶望的な苦悶に歪んでいた。


(……来たわ)


エルザの琥珀色の瞳が、夜会の華やかな光を切り裂き、階段の上の皇太子の胸元へと一直線に縫い付けられた。

前世のタイムライン。

アルトハイム伯爵邸を滅ぼし、帝国を揺るがせたあの惨劇の幕が――いま、目前で開かれようとしていた。

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