第26話:陶器の仮面と黄金の毒
神聖オーガスタ帝国の心臓、皇宮「白金宮」の中央に位置する大夜会ホールは、世界の富と欺瞞を煮詰めたような光と熱気に満ちていた。
天井高十メートルを超える吹き抜けのドームには、何万個もの最高級カットクリスタルを連ねた巨大なシャンデリアが十基、白熱する蝋燭の炎を浴びて星々のように煌めいている。床一面に敷き詰められた白大理石は鏡のように磨き上げられ、そこに映り込むのは、金糸銀糸の刺繍をふんだんに施した豪奢なドレスや、勲章を誇らしげに佩用した貴族たちの姿だった。
オーケストラが奏でる優雅なワルツの旋律。銀のトレイに注がれる黄金色の発泡酒、甘い果実のタルト、そして高価な麝香や竜涎香の濃厚な香気。
誰もが優美な仮面を貼り付け、権力と美貌を競い合う社交界の頂点。
だが、その華やかさの底流には、他者の失脚を虎視眈々と狙う毒々しい嫉妬と計算が、澱のように渦巻いていた。
そのざわめきが、潮が引くように一瞬で途絶えたのは、ホールの巨大な金箔塗りの両開き扉が、近衛兵たちの手によって左右へと開け放たれた瞬間だった。
「――北方案内軍総司令官、黒狼騎士団総帥、ギルバート・フォン・ラングリール大公閣下、ご入場であります!」
儀典官の高らかな先触れの声が、大広間に木霊する。
一斉に注がれる何百人もの貴族たちの視線。
その視界に飛び込んできたのは、漆黒の夜そのものを纏ったような軍装の美丈夫だった。
黒鉄の飾緒と純銀の肩章をつけた濃紺の軍服。胸元には皇帝より下賜された最高位の鷲章が鈍く輝いている。
背筋は天を突くように真っ直ぐに伸び、大理石を踏みしめる軍靴の足取りには、寸分の乱れも淀みもない。
何よりも貴族たちを戦慄させたのは、その右腕だった。
社交界では「悪魔の呪いによって骨が腐り、右腕はすでに動かず余命半年」と囁かれていたはずの大公が――佩刀の柄に褐色の右手をしっかりと添え、全盛期の威容を寸分違わず取り戻してそこに立っていたのだ。
夜の深淵を湛えた黒髪と、氷の刃のように研ぎ澄まされた氷灰色の双眸。その全身から放たれる歴戦の軍神の覇気は、着飾った貴族たちを無言のうちに圧殺し、一歩、また一歩と後退らせるに十分だった。
だが、会場のざわめきが驚愕から異様な困惑へと転じたのは、大公の半歩後ろに従う「連れ」の姿を認めた時だった。
「……な、何だ、あれは……?」
「子供……? いや、娘か……?」
「大公閣下の隣にいるのは、どこの令嬢だ……?」
囁き声が、波紋のように広がっていく。
ギルバートの背に従い、堂々と絨毯を踏みしめていたのは――十二歳の少女、エルザ・ヴァルデックだった。
身に纏っているのは、大公邸の針子たちが仕立て上げた、深く静かな深緑の絹のドレス。露出を極限まで抑えた立ち襟のクラシカルな意匠であり、過剰なフリルや宝石の類は一切排されていた。腰元に銀の細帯が一本通されているだけの、極めて無駄のないシルエット。
淡い髪は後ろで清潔に編み込まれ、顔には一切の白粉も紅も差していない。
宮廷の派手な令嬢たちの中に放り込まれれば、質素を通り越して異端ですらあるその装い。
だが、エルザの琥珀色の瞳は、群衆の嘲弄や値踏みするような視線に晒されながらも、一片の動揺すら見せていなかった。
湖面のように凪ぎ、感情を排したその立ち姿は、舞踏会に浮かれる小娘のそれではない。解剖室へ足を踏み入れる執刀医の、静謐にして絶対的な集中力そのものだった。
「見ろよ、下級貴族の捨て子を主治医にしたという噂は本当だったのか」「国境警備で頭を打たれたのではあるまいな」「悪魔の呪いが、いよいよ大公の脳まで腐らせたか」「あんなみすぼらしい小娘に誑かされるとは、大公家も地に堕ちたものだ」
扇の影から漏れ出る、毒針のような嘲笑と囁き。
並の令嬢であれば、その冷酷な視線の嵐に耐えきれず、顔を覆って逃げ出すところだろう。
だが、エルザは眉一つ動かさなかった。
彼女にとって、周囲に群がる豪奢な貴族たちなど、ただの「呼吸をし、体熱を発し、いつか腐敗して死にゆく生体標本の群れ」に過ぎない。自分を嘲笑う口元を見ても、(口呼吸による口腔粘膜の乾燥、歯周病の初期症状ね)と冷徹に分類するだけだった。
「……くだらん雑音だな」
前方から、低く地を這うようなギルバートの声が降ってきた。
大公は視線を正面に向けたまま、だがエルザにだけ聞こえるよう微かに顎を引いた。
「耳障りなら、今すぐあの雛壇の連中の首を一列に切り落としてやってもいいぞ、エルザ」
「診察の邪魔ですのでお控えください、大公閣下。無駄な血飛沫で床を汚せば、絨毯の細菌が増殖するだけです」
「……相変わらず手厳しいな、我が主治医は」
ギルバートは口端を獰猛に吊り上げ、満足げに鼻を鳴らした。
大公が少女に向けるその異常なまでの親密さと、過保護な体温。それを目撃した周囲の貴族たちは、さらに息を呑み、得体の知れない戦慄に身を竦ませた。
二人がホールのシャンデリアの下、中央サロンへと歩みを進めた、その時だった。
「――まあ! 随分と珍しいネズミが、神聖なる皇宮の床を這い回っていること!」
甲高い、耳朶を逆撫でするような金切り声が、オーケストラの調べを切り裂いて響き渡った。
人混みが左右へと割れ、そこから優雅を装いながら進み出てきたのは、幾重にも重なる純白のレースと真珠を散りばめた、息を呑むほど豪奢なドレスを纏った少女だった。
クラリッサ・フォン・アルトハイム。十三歳。
その背後には、毛皮の襟巻きを羽織り、気まずそうに周囲へ視線を泳がせている父・アルトハイム伯爵の姿があった。
エルザは足を止め、無言でクラリッサの姿を視界に収めた。
その瞬間――エルザの琥珀色の瞳の奥が、氷のように細められた。
(……これは)
目の前に立つ元主家の令嬢。
一見すれば、彼女は社交界の華そのものに見えた。
宮廷の流行を極限まで突き詰めた、息を呑むような「陶器の肌」。雪のように純白で、毛穴の一つも見当たらない滑らかな質感。金糸の巻き毛を揺らし、胸元には前世でエルザから奪い取った母の形見――サファイアの首飾りが、青い炎のように揺らめいている。
クラリッサは勝ち誇った笑みを浮かべ、扇を胸の前で広げてエルザを見下ろしていた。
だが、エルザの眼は、その華やかな装飾の奥にある「肉体の悲鳴」を、寸分の狂いもなく見透かしていた。
(皮膚の角質層が完全に死滅している。……白粉の厚塗りで隠しているつもりでしょうけれど、下地になっている素肌は、鉛灰色に澱みきっているわ)
クラリッサの顔面は、美白などという生易しいものではなかった。
それは、重度の重金属沈着によって末梢血管が極限まで攣縮し、毛細血管の血流が途絶えた結果生じる、死蝋特有の土気色。
そのどす黒い皮膚の変色を誤魔化すために、さらに毒性の高い超高濃度炭酸鉛の白粉を、何層にもわたってセメントのように塗りたくっているのだ。
さらに、エルザの視線はクラリッサの細部へと滑り落ちる。
扇を持つクラリッサの右手。レースの手袋をはめたその指先が、本人の意志とは無関係に、細かく、リズミカルに震えていた。静止時振戦。鉛毒が末梢神経から脊髄、そして脳幹へと侵入し始めている動かぬ証拠。
そして――。
(……瞳孔)
シャンデリアの眩い光の下にあって、クラリッサの瞳孔は異常な状態を示していた。
右目の瞳孔は針の先のように収縮しているのに対し、左目の瞳孔は光に反応せず、ぼんやりと散大したまま固定されている。
左右不同。
中枢神経系――脳実質への鉛の浸潤、あるいは微小な脳浮腫が発生している兆候。激しい偏頭痛、吐き気、そして感情の抑制が効かなくなる情緒不安定の発作が、すでに日常的に起きているはずだった。
「お久しゅうございますわね、エルザ」
クラリッサは嘲笑を浮かべ、扇の端でエルザを侮蔑するように指し示した。
「アルトハイムの館から大公様に拾われて、少しは身の程を知るかと思いきや……まさか、このような神聖なる皇宮の大夜会にまで、その薄汚い足を踏み入れるとは。厚顔無恥にも程がありますわ」
周囲の貴族たちがクスクスと下卑た笑い声を漏らす。
アルトハイム伯爵がギルバートの視線を恐れて「クラリッサ、それくらいにしておきなさい」と袖を引くが、今のクラリッサには父の制止すら届いていなかった。中枢神経を冒された彼女の脳は、異常な興奮状態に支配され、他者の感情や危険を正しく察知する能力を失いつつあったのだ。
「皆様、御覧になって!」
クラリッサは大げさに両手を広げ、周囲の貴族たちへアピールするように声を張り上げた。
「この娘は、我がアルトハイム伯爵家で下働きをしていた、ただの雑巾侍女ですのよ! それが、大公様の持病に怪しげな野草の泥水を飲ませて誑かし、主治医などと身の程知らずな肩書を名乗って宮廷に入り込んできたのですわ! 笑止千万ではありませんこと?」
クラリッサは一歩、エルザへと詰め寄った。
その顔面から、ツンと鼻を突く強烈な金属臭と、酢酸の刺激臭が立ち込める。神殿の闇市から買い漁ったという「特級美白粉」の毒の匂い。
クラリッサは胸を張り、サファイアの首飾りをエルザの目の前で見せつけるように揺らした。
「私を見てごらんなさい、エルザ。……私は今夜、皇太子ディルク殿下の『側室候補』として、正式にお目通りを許されることになっていますのよ」
誇らしげな宣告。
周囲の令嬢たちから、羨望と嫉妬の混ざった溜息が漏れる。
「我がアルトハイム伯爵家の血筋と、神の祝福を受けたこの類まれなる美貌……殿下が私をお選びになるのは必然ですわ。私は帝国の母となり、雲の上の存在になるの。……大公様の気まぐれな庇護に縋るしか能のない、あなたのような不浄なネズミとは、最初から住む世界が違いますのよ!」
勝ち誇った悪女の演説。
前世において、エルザを断頭台へと追いやったあの傲慢な女の、寸分違わぬ虚栄の叫び。
だが――。
エルザは、眉一つ動かさなかった。
クラリッサの唾が飛び散りそうな剣幕を、まるでガラス越しの実験動物の観察記録でも取るかのような、絶対零度の静寂で見つめ返していた。
そして、エルザの薄い唇が、静かに開かれた。
「……ええ。住む世界が違いますね、クラリッサ様」
澄み渡る、あまりにも穏やかで、それゆえに広間の喧騒を瞬時に吸い込むような少女の声。
「私は、生きている人間の肉体と、その治癒の理を見ていますが――」
エルザは視線をスッと上げ、クラリッサの不同瞳孔を真っ直ぐに射抜いた。
「あなたが見ていらっしゃるのは、ご自身の『死化粧』だけのようですから」
「……な……に……?」
クラリッサの笑顔が、ピキリと音を立てるように凍りついた。
「耳鳴りが止まらないのではありませんか?」
エルザは淡々と、カルテを読み上げるように言葉を重ねた。
「朝目覚めるたびに激しい頭痛に襲われ、胃の奥から込み上げる吐き気を抑えるために、神殿の聖水を流し込んでいる。夜になれば手足が鉛のように重くなり、指先の震えを隠すために、扇を握りしめなければならない。……違いますか」
「貴……様……ッ!」
クラリッサの顔面から、塗られた白粉の奥で、目に見えて血の気が引いていくのが分かった。
誰にも明かしていない、専属の侍女にすら隠し通してきた極秘の体調不良。それを、目の前の少女が一瞥しただけで、完璧に言い当てたのだ。
「その陶器のような白さの正体は、あなたの骨と血液が鉛に溶かされている悲鳴です」
エルザの口元に、慈悲のかけらもない憐憫の冷笑が浮かぶ。
「肌を白く塗り固めるたびに、あなたは自らの手で、脳の神経細胞を一つずつ殺している。……側室候補、結構なことです。ですが皇太子殿下の前に進み出る前に、ご自身の棺桶の寸法でも測っておかれたらいかがですか?」
「だ……だ……っ!」
クラリッサの喉から、空気の抜けるような引き攣った音が漏れた。
屈辱。恐怖。そして何よりも、下賤なネズミと見下していた相手に、己の破滅の核心を公衆の面前で暴かれたことへの狂乱の逆上。
中枢神経を侵食されたクラリッサの脳内で、理性のタガが完全に吹き飛んだ。
「黙りなさいッ! この下賤な負け犬がァッ!!」
クラリッサは我を忘れ、握りしめていた重厚な象牙の扇を振り上げた。
尖った骨組みを持つ扇が、エルザの無防備な顔面めがけて、力任せに振り下ろされる――。
だが、その凶刃がエルザの髪の一筋に触れることすら、許されなかった。
――ガシィッッ!!
空気を切り裂く突風とともに、鉄の万力のような剛腕が、クラリッサの細い手首を空中で完全に捕らえ、圧殺した。
「ひぎゃあっ!?」
骨が軋む激痛に、クラリッサの口から無様な悲鳴が上がる。象牙の扇が手から滑り落ち、白大理石の床の上で粉々に砕け散った。
見上げれば――そこには、夜の深淵を宿した漆黒の軍服の巨躯が、殺気そのものの質量となって立ちはだかっていた。
ギルバート・フォン・ラングリール。
大公の氷灰色の双眸は、広間のシャンデリアの光すら吸い込んで凍りつかせるほどの、完全な死神の光を湛えていた。
その全身から放たれた濃密な殺気の圧迫感に、周囲を取り囲んでいた貴族たちが、悲鳴を呑み込んで蜘蛛の子を散らすように後退る。
「……誰に手を上げようとした」
ギルバートの低く、地底から響くような声が、クラリッサの鼓膜を直接叩き潰す。
大公の指先が、クラリッサの手首の関節を、今にもへし折らんばかりの力でギリギリと締め上げる。手袋のレースが破れ、クラリッサの顔面は激痛と恐怖で涙と鼻水に塗れ、分厚い白粉がパラパラと剥がれ落ちていく。
「ひ……っ! あ……閣下……ギルバート閣下……! 痛い……腕が折れますわ……!」
「折れる? 首が胴体と繋がっているだけ、我が主治医の慈悲に感謝するのだな」
ギルバートは汚らわしい虫を見るような冷徹な眼差しで、クラリッサを見下ろし、吐き捨てた。
「俺の連れに、二度とその薄汚い手を伸ばすな。……粉を撒き散らすな、化粧崩れの狂女め。息が詰まる」
ドサリ。
ギルバートが手を離すと、クラリッサは足の力を完全に失い、床の大理石の上へ無様にへたり込んだ。
化粧崩れの狂女。
満場の貴族たちの前で浴びせられた、帝国最強の武将からの絶対的な拒絶と侮蔑。
クラリッサは剥がれた白粉の下から覗く土気色の素顔を両手で覆い、恥辱のあまりガタガタと全身を震わせることしかできなかった。
「ひ……っ! め、滅相もございません、大公閣下ッ!!」
背後から飛び出してきたアルトハイム伯爵が、蒼白を通り越して土気色になった顔で平伏した。
「す、すべては愚娘の無礼! どうか、どうかご容赦を……! クラリッサ、行くぞ! これ以上恥を晒すな!」
伯爵は床で泣きじゃくるクラリッサの腕を力任せに引っ張り上げると、周囲の貴族たちの嘲笑と冷笑の視線から逃れるように、這々の体でホールの隅へと逃げ去っていった。
元主家の哀れな自滅の光景。
前世で自分を処刑台へ送った張本人たちの無残な背中を見送りながらも、エルザの表情には、復讐の歓喜など欠片も浮かんでいなかった。
ただ、淡々と自らの手帳に新たな臨床所見を刻み込むかのような、冷徹な静寂。
「……見苦しい茶番を見せたな、エルザ」
ギルバートが長剣の鞘を鳴らし、エルザの隣へと戻ってきた。
その氷灰色の瞳には、先ほどまでの残虐な殺気は消え去り、エルザの無事を確認するような深い気遣いが滲んでいた。
「怪我はないか」
「ありません、大公閣下。……ただ、あの女の鉛中毒は、私の予測よりも遥かに早く末期へ向かっています。放置しておけば、半年と持たずに錯乱して命を落とすでしょう」
「自業自得だ。毒を己で塗りたくった愚者に、掛ける情けなどない」
ギルバートは冷淡に切り捨てた。
だが、エルザの鋭敏な観察眼は、去っていったクラリッサの後ろ姿から、すでに別の不穏な「異変」を捉えていた。
ホールの最奥。
大階段の上に設けられた、一段高い貴賓席――皇族のみが着席を許される黄金のテラス席。
そこから、この夜会の主役である皇族たちが、静かに姿を現そうとしていた。
そして、その中心に立つ、痩せこけた青年の姿。
(……あれが、ディルク皇太子)
エルザの琥珀色の瞳が、夜会の華やかな光の奥底に潜む、真の病巣の気配を捉えて細められた。
前世の記憶通りであれば、この夜会こそが――帝国の後継者の動脈が破綻し、真紅の血が純白の大理石を染め上げる、運命の惨劇の舞台となるはずだった。
嵐の前の静けさの中、大夜会のオーケストラが、再び優雅で残酷なワルツの旋律を奏で始めていた。




