第25話:泥濘(ぬかるみ)の師弟
大聖堂の黄金のドームから鳴り響く日没の鐘が、七度、重々しく帝都の空を震わせた。
華やかなガス灯が目抜き通りの貴族たちの馬車を照らし出すのと入れ替わりに、都の最下層――通称『鼠の巣』と呼ばれるスラム街は、青黒い闇と冷え切った濃霧の底へと沈み込んでいく。
大通りからわずか二筋入っただけで、敷石の道は途絶え、足元は粘つく泥濘へと変貌していた。
路地という路地には、屋根から落ちた汚水と人馬の排泄物が混ざり合った黒い泥水が淀み、行き場を失った有毒ガスが足首にまとわりつく。ボロ布を被って壁際にうずくまる浮浪者たちの濁った瞳、飢えた子供のひきつけのような泣き声、そしてゴミ山を我が物顔で這い回るドブネズミの甲高い鳴き声。
豪奢を極めた帝都の心臓が垂れ流す、あらゆる腐敗と排泄物の吹き溜まり。
「……酷いな。大公領のどんな貧村ですら、ここまで酷く澱んではおらんぞ」
低く抑えられた声で吐き捨てたのは、黒い革のフードを目深に被ったテオバルトだった。
外套の下には抜き身の短剣を忍ばせ、鋭い軍人の眼光を周囲の暗がりへと走らせている。
その後ろには、気配を完全に殺した四名の黒狼騎士団の精鋭が、音もなく続いていた。
「表面を黄金で塗り固めた都市ほど、その底に溜まる汚泥の量は増えるものです」
先頭を歩く小柄な影――同じく粗末な灰色の外套を纏ったエルザが、足音一つ立てずに泥水を踏み越えながら返した。
エルザの歩みには、一切の迷いがなかった。
まるで勝手知ったる己の庭を歩くかのように、複雑に入り組んだスラムの隘路を、右へ、左へと正確に折れていく。
「おい、小娘……本当にこんな掃き溜めに、帝国屈指の学者が潜んでいるのか?」
テオバルトが鼻孔を手袋で覆い、眉根を寄せる。
「帝国医学校の首席教授といえば、宮廷医師団の頂点に立つ名士のはずだ。いくら破門されたとはいえ、こんなドブの中で生き延びられるものなのか」
「います」
エルザの声音には、一片の疑念も混ざっていなかった。
「彼は、神殿の欺瞞に耐えかねた人です。聖書の文句で人を救えるという嘘を憎み、本物の肉体の真理を求めすぎたために、地位も名誉も財産もすべて奪われた。……生きるために豚の臓物を啜ろうとも、真理のメスを手放すような人ではありません」
エルザの斜め後ろ、周囲の景色を完全に圧する巨躯が、静かに影を落としていた。
ギルバート・フォン・ラングリール。
黒いウールの外套に身を包み、フードの奥から覗く氷灰色の双眸は、闇の中でも獣のように研ぎ澄まされていた。大公は腰の長剣の柄に手を添えたまま、エルザの小さな背中を見下ろし、低く口端を吊り上げた。
「迷いのない足取りだな、エルザ。まるで、以前からこのドブの底に住んでいたかのようだ」
「……風の匂いを読んでいるだけです、大公閣下」
エルザは淡々と答えた。
(以前から住んでいたのではない。……七年後、私はこの男から、地下牢の暗闇で命の知識をすべて授かったのだから)
路地の突き当たり、崩れ落ちた赤煉瓦の塀が行き止まりを作っていた。
かつて正教会の古い礼拝堂だったとおぼしき廃屋。屋根は落ち、尖塔の十字架は無残にへし折られ、周囲には壊れた木樽や腐った馬車の車輪、解体された家畜の骨がゴミ山のように積み上げられていた。
一見すれば、誰も近寄らぬただの不法投棄場。
だが、エルザの鋭敏な嗅覚は、そのゴミ山の奥から漏れ出てくる、極めて特殊な気体の分子を正確に捉えていた。
煤煙の臭いでも、人糞の発酵臭でもない。
高濃度のアルコール、防腐剤として用いられる微量の昇汞水、そして――切り裂かれたばかりの動物の新鮮な生肉と、胆汁の苦い匂い。
「……ここです」
エルザは崩れかけた煉瓦の隙間に手を差し入れ、コールタールで真っ黒に塗りつぶされた、地下防空壕の分厚い樫の扉を見つけ出した。
取っ手には油が差され、泥が塗りつけられて偽装されている。
「テオバルト様、周囲の警戒を。教会の密告者の足音が、二筋先の通りから近づいています」
「……承知した。ネズミ一匹近づかせん」
テオバルトと騎士たちが散開し、闇の中に身を溶け込ませる。
ギルバートが無言で進み出ると、その鋼のような軍靴を一閃させた。
――ドォンッッ!!
重厚な蝶番が内側の留め木ごとへし折れ、地下への扉が爆音とともに蹴破られた。
◇
開け放たれた地下室の暗がりから、熱気とともに噴き出してきたのは、濃厚な薬品の刺激臭だった。
階段を駆け下りたエルザとギルバートの視界に飛び込んできたのは、石造りの防空壕を改造した、異様な『解剖室』の光景だった。
湿った壁には、煤で描かれた何十枚もの人体の筋肉図、血管の走行図、骨格のスケッチが所狭しと貼り付けられている。
天井から吊り下げられた数個のランタンの黄色い光の下、部屋の中央に置かれた頑丈な解剖台の上には、腹部を一文字に切り開かれた巨大な雄豚の死骸が横たわっていた。飛び散る血潮、取り出された赤黒い肝臓と小腸の山。
「教会の犬め……ッ!!」
掠れた、獣のような咆哮が地下室に轟いた。
解剖台の陰から、弾かれたように飛び退いた一人の男。
ボサボサに伸びた漆黒の髪、無精髭に覆われた浅黒い頬。着ている白衣は乾いた血と薬品の染みで泥のように汚れ、骨ばった痩躯の全身から、追い詰められた野獣の凄まじい殺気を放っている。
年齢は三十代前半。
若き日の、五体満足な肉体を持つ解剖学者――ユーグ・ド・ベルフォール。
「死体損壊の罪で、焼き殺しに来たか神殿の走狗ども! この標本だけは……俺の解剖図譜だけは、貴様ら狂信者どもに灰にさせはせんぞッ!」
ユーグは叫びざま、解剖台の横から刃渡り一尺を超える鋼の解剖刀を逆手に引き抜き、迷いなくエルザの喉元めがけて間合いを詰めてきた。
その瞳は狂気と絶望に濁り、己の研究を守るためならば人殺しすら辞さないという極限の興奮状態にあった。
「下がれ、エルザ!」
背後のギルバートが長剣を引き抜き、大公の殺気で男を両断しようと踏み込んだ。
だが――。
「お待ちください、閣下」
エルザはギルバートの剣先を手で制し、自ら一歩、前へと踏み出した。
突き出されたユーグのメスの切っ先が、エルザの白い喉元、わずか三センチ手前でピタリと静止する。
冷たい鋼の切っ先を前にしても、エルザの琥珀色の双眸は、凪いだ水面のように微動だにしなかった。瞬き一つせず、彼女はユーグの右腕の関節、筋肉の緊張、そしてメスの握り方を、冷徹に観察していた。
「……刃の角度が狂っていますよ、ユーグ先生」
地下室の狂気を一瞬で凍りつかせる、あまりにも澄み切った少女の声。
「……あ?」
ユーグの眉が、不快感と警戒で引き攣った。
「その豚の腹部、腹直筋を縦切開しようとしているのでしょう」
エルザは喉元の刃を無視し、解剖台の上の豚の死骸を顎で指し示した。
「刃先を直角に立てすぎです。腹直筋を裂くなら、刃先を十五度寝かせ、腱画の繊維に沿って滑らせるように走らせなければ、下の薄い腹膜を突き破って腸管を傷つけ、内容物の細菌で標本全体が汚染されます。……首席教授ともあろうお方が、ずいぶんと雑な切開をなさるのですね」
静寂。
ランタンの芯がチチと爆ぜる音だけが、息苦しい地下室に反響する。
ユーグの目が、限界まで見開かれた。
男の喉から、ヒュッ、と引き攣った空気の音が漏れ出す。
メスを握る指先が、微かに震えていた。怒りのためではない。己の脳髄を直接掴み出されたかのような、強烈な戦慄のためだった。
「な……ぜだ……」
ユーグの口から、掠れた呻きが零れ落ちる。
「なぜ……その術式を知っている? 腱画を避けて腹膜を残す筋膜切開の角度など、俺が過去三年間、帝都医学校の地下室で誰にも見せずに一人で開発した独自の理論だぞ……! 外部の論文にも一切発表していない! なぜ……どこの馬の骨とも知れぬ小娘が、それを口にする!?」
「言ったはずです。あなたの雑な刃先を見れば、生体力学の理屈で誰でも分かります」
エルザは淡々と言い放ち、手元の革トランクを解剖台の端へとドンと置いた。
「誰の差し金でもありません。教会の犬でもない。……私は、あなたの未来の弟子です」
「未来の……弟子……!?」
ユーグが混乱に顔を歪める。「狂人か! 何かの冗談か! 大公家の紋章をつけた騎士を連れて、俺を嘲笑いに来たのか!」
「冗談を言いに、こんなドブの底まで泥を被って来る暇はありません」
エルザはトランクの真鍮の留め金を外した。
中から取り出された二つの物品が、解剖台の上の血溜まりを避けて、乾いた布の上に並べられた。
一つ目は、オスカーがエルザの図面に基づき、何千回も火と油で鍛え直して完成させた――白銀の鈍い光を放つ、帝国最新のステンレス鋼製止血鉗子(ペアン鉗子)。
先端には滑り止めの精密な横溝が刻まれ、柄の部分にはカチリと噛み合う三段階のラチェット(固定爪)が備えられている。この時代に存在する粗悪な鉄のやっとことは、工作精度も設計思想も次元が違っていた。
そして二つ目は、エルザが自らの手で書き起こした、大判の羊皮紙の束。
一番上の紙に描かれていたのは――。
烏口による極細の墨線で描かれた、『門脈循環と肝小葉の微小解剖図』、そして『肝硬変および門脈圧亢進症における側副血行路の病態スケッチ』だった。
「……っ!?」
紙面を一瞥した瞬間、ユーグの手から、あれほど固く握られていた解剖刀が滑り落ちた。
カラン、と石畳の上に乾いた音が響く。
男は吸い寄せられるように解剖台へと縋り付き、血塗られた自らの両手を震わせながら、羊皮紙の端を狂ったように掴み取った。
「な、なんだ……これは……!? 門脈……消化管から肝臓へ向かう血管の構造……! 俺が……俺が先月、解剖用カテーテルがなくてどうしても追いきれなかった、肝門部の血管分岐が……すべて描かれている……!? この網の目のような毛細血管の走り方は何だ!? この『類洞』という記述は……!」
ユーグの瞳が、血走ったまま紙面の上を狂乱の勢いで走り回る。
学者の魂が、そこに記された情報の「本物」の重みに叩き潰されていた。
空想の産物ではない。
何百回、何千回と実際に生体を解剖し、血液の流れる方向を確かめた者でなければ、絶対に描くことのできない神の領域の解剖図。
自分がこれから十年の歳月をかけて到達しようとしていた医学の頂が、目の前のみすぼらしい十二歳の少女の指先から、すでに完璧な形で具現化されていたのだ。
さらに、ユーグの視線が、隣に置かれたステンレス製の止血鉗子へと落ちた。
男は震える指先でその器具を拾い上げ、噛み合わせを確かめるように指を入れた。
カチリ、カチリ。
滑らかで狂いのないラチェットの感触。指先に吸い付くような重量バランス。
「……錆びない……。鉄の匂いがしない……。この噛み合わせ、血管の壁を破片も残さず挟み込めるぞ……! こんな器具、世界のどこを探したって存在しない……! 誰が……誰がこれを作った!?」
「大公領の硝子・金属ギルド長オスカーです」
エルザは冷徹に、だが確固たる事実として告げた。
「そして、その図面を描いたのは私です。……ユーグ先生。あなたが帝都の地下で、豚の死体を盗み、粗末なランプの灯りの下で血を啜りながら追い求めている真理は――すでに私の頭の中にあります」
ユーグは息を呑み、額から滝のような汗を流しながら、エルザを見つめた。
もはや、目の前に立つ存在を「小娘」などと呼ぶことはできなかった。
そこに立っているのは、皇帝でもなく、大司教でもない――知識と技術という名の神をその身に宿した、底知れぬ怪物の姿だった。
「……お前は……何者なんだ……? 本当に……神の使いか、悪魔の化身か……!?」
「どちらでもありません。私はただの、原因と結果を信じる医者です」
エルザは一歩踏み込み、解剖台に両手を置いた。
その琥珀色の瞳が、ユーグの網膜の奥底を射抜く。
「神殿の異端審問官に怯え、地下で豚の腹を裂き、ネズミのように逃げ回る日々は、今日で終わりです。……ユーグ・ド・ベルフォール元教授」
エルザの口から、不可逆の契約が宣告された。
「大公家の無制限の機密資金。オスカーの工房が焼き上げる無鉛ガラスと精密外科器具。そして、何人たりとも手出しのできない、黒狼騎士団の絶対的な武力。……あなたの研究に必要なすべてを、私が用意しました」
エルザは自らの手を差し伸べた。
小さく、だが前世の記憶と近代医学の全責任を背負った、鋼の少女の手。
「私の下で、帝国の解剖学を――この腐敗した世界の理を、骨の髄まで書き換える気はありませんか?」
地下室に、沈黙が降りた。
ランタンの光の下、ユーグは自らの血まみれの掌を見つめ、それからエルザの差し伸べられた手を見つめた。
全身の血が、逆流するような衝撃。
破門され、追われ、学問の火を消されかけていた男の胸の奥底で、狂気じみた情熱の炎が、爆発的な轟音を立てて再点火した。
「……く……くくっ……」
ユーグの肩が震え、喉の奥から乾いた嗤い声が漏れ出した。
「はは……あははははッ! 十二歳の小娘に、学問のパトロンになってもらうだと!? 俺の頭脳を買い取るだと!? ……最高だ。狂ってやがる!」
ユーグは自らの衣服で手の血を乱暴に拭うと、エルザの小さな手を、骨が軋むほどの力で握り返した。
「乗った! 神殿のブタどもに魂を売るくらいなら、お前のような魔女の解剖台の刃になってやるよ! 俺の腕を全部使え、未来の師匠殿!」
その時だった。
ドガァンッ!
階上の廃材置き場から、激しい怒号と金属の衝突音が響き渡った。
「神殿騎士団だ!」「異端学者ユーグの隠れ家を包囲した!」「踏み込め、抵抗する者はその場で切り捨てろ!」
無数の重い足音が、瓦礫を踏み荒らしながら地下室の階段へと雪崩れ込んでくる気配。
「ちっ……! 教会の犬どもめ、もう嗅ぎつけやがったか!」
ユーグが顔色を変え、再び解剖刀を拾い上げようとした。
だが――。
ガシッ、と重厚な黒鉄の籠手が、階段の登り口へと歩み出た。
ギルバート・フォン・ラングリール。
大公は漆黒の長剣をゆっくりと鞘から引き抜いた。銀色の切っ先が、ランタンの光を浴びて氷のように冷たく煌めく。
「……騒々しいネズミどもだな」
ギルバートの低く、地這うような声が地下室を満たした。
大公は振り返ることもなく、エルザへ向けて告げた。
「エルザ。契約は成立したな」
「はい、大公閣下」
「ならば、この男はお前の所有物だ。……神殿の蛆虫どもに、指一本触れさせはせん」
ギルバートの巨躯が、階段の上へと消えていった。
直後――。
凄まじい肉の裂ける音、骨の砕ける音、そして神殿兵たちの短い絶叫が、暗闇の中で何重にも爆発した。
歴戦の軍神による、慈悲のかけらもない一方的な制圧。
わずか一分と経たぬうちに、外の喧騒は完全な死の静寂へと変わっていた。
階段の上から、返り血を浴びた剣を布で拭いながら、テオバルトが静かに顔を覗かせた。
「……副総裁。外の掃除は完了いたしました。馬車を裏通りへ回してあります」
「ご苦労様です、テオバルト副官」
エルザはトランクを閉じ、呆然と立ち尽くすユーグを振り返った。
「行きましょう、ユーグ先生。帝都の地上は、愚かな神殿と貴族たちの嘘で満ちています。……私たちの手で、あの絢爛たる都の病巣を、すべて解剖して差し上げるのです」
ユーグは解剖図譜を胸に強く抱きしめ、獰猛な学者の笑みを浮かべて頷いた。
「ああ……やってやろうじゃねぇか!」
大公家の絶対的な庇護のもと、帝都の地下に、世界を覆す最高機密の『近代解剖研究所』が誕生した瞬間だった。
迷信の帝都を切り裂くための、最強のメスと頭脳が、ついに揃った。




