第24話:黄金の都と澱んだ溝
アトラス峠の険悪な山道を抜け出た車列の前方に、突如として視界が開けたのは、翌日の陽が天球の中天をわずかに過ぎた頃だった。
乾いた北風が山肌を滑り降り、広大な緑灰色の平野を渡っていく。
地平線の果て、濛々と立ち込める熱気と薄い靄の向こう側に、太陽光を浴びて白銀と黄金の光を乱反射させる巨大な人工の怪物が横たわっていた。
神聖オーガスタ帝国の中枢――帝都サンクト・オーガスタ。
外周をぐるりと取り囲むのは、純白の花崗岩を隙間なく積み上げた高さ二十メートルを超える長大な城壁。その内側には、豪奢な貴族の邸宅が整然と屋根を連ね、中心部には白亜の皇帝宮殿「白金宮」が天を突くようにそびえ立っている。
そして何よりも圧倒的な威容を誇っていたのは、都の東側の丘の上に鎮座する帝国正教会の総本山――大聖堂の巨大なクーポラ(円蓋)だった。
何万枚もの金箔で覆われた黄金のドームが、冬の薄い陽光を吸い込んで神々しいまでの光輝を放ち、その頂に立つ十字架の切っ先は、まるで神の指先のように帝都の空を支配していた。
「……あれが、帝都か」
馬車の小窓から身を乗り出したマリカが、息を呑んで呟いた。
下働きとして一生を地方の城で終えるはずだった平民の少女にとって、その光景はまるでお伽話の絵巻物から抜け出してきた天上の都に見えたのだろう。
「すごい……なんて綺麗な街なんでしょう。建物がみんな白くて、お城の屋根が金色に光っています……! あそこが、皇帝陛下や神官様たちのお住まいになる都なんですね……!」
だが、その無邪気な感嘆を、馬車の向かいの席に座るエルザは静かに聞き流していた。
エルザは膝の上に置いた黒革の手帳を一度も開くことなく、冷え切ったガラス越しに、急速に近づいてくる巨大な城壁の輪郭をただ無表情に見つめていた。
琥珀色の瞳の奥に宿っていたのは、憧憬でも感銘でもない。
前世で十九年間を生き、無知のまま侍女としてこき使われ、最後には冤罪の鎖に繋がれて断頭台へと引きずられていった――あの血塗られた都に対する、底知れぬ観察の光だけだった。
「……綺麗に見えるのは、遠くから眺めている間だけですよ、マリカ」
エルザの唇から零れ落ちたのは、冬の氷水のように平坦な声音だった。
「肉体の表面がどれほど白粉で美しく飾られていようとも、皮膚を一皮剥けば、その下には腐敗した脂肪と膿汁が詰まっている。都市という巨大な有機体も、それと何一つ変わりません」
◇
黒狼騎士団の五十騎が蹄の音を響かせ、帝都の正門――『大帝門』へと差し掛かった。
真鍮の装飾が施された巨大な鉄格子門の前には、豪奢な真紅の軍服を纏った皇帝直属の近衛兵たちが、抜き身の槍を構えて厳重な警備を敷いていた。入市を待つ商人たちの荷馬車や、地方貴族の馬車が数百メートルにわたって長蛇の列を作っている。
だが、ギルバート率いる黒狼騎士団の先頭が姿を現した瞬間、その門前の空気が一変した。
黒鉄の甲冑、馬の息の白さ、そして何より――漆黒の軍旗に銀糸で刺繍された「黒狼の横顔」。
先頭を進むギルバート大公の冷え切った眼光が一瞥をくれただけで、近衛兵の隊長は血相を変えて直立不動の敬礼を捧げた。
「黒狼騎士団……ギルバート大公閣下の上洛である! 門を全開にせよ! 列をあけろッ!!」
甲高い号令とともに、重厚な鉄門が軋んだ音を立てて内側へと開け放たれた。
検問の手続きも、通行手形の確認すらもない。
帝国最強の武力を誇る大公家の軍勢は、待機していた商人や貴族たちを泥濘の道端へと力ずくで押し退け、堂々たる歩調で帝都の門内へと踏み込んでいった。
門をくぐり抜けた瞬間、一行を迎えたのは、絢爛豪華を極めた大通りの光景だった。
幅三十メートルはある広いメインストリート。両脇にはガラス窓を贅沢に嵌め込んだ三階建ての高級商店やサロンが立ち並び、金糸の刺繍が施された豪奢なドレスを纏った貴族の令嬢や、絹のコートを着こなした紳士たちが、馬車の上から優雅に扇を揺らしている。
馬車の車輪には金箔が塗られ、御者は銀の鈴を鳴らし、道行く人々は洗練された宮廷風の笑みを交わし合っていた。
世界の富と権力が一極集中した、繁栄の極致。
だが――。
馬車のカーテンをわずかに指先で押し開けたエルザの鼻孔を、その華美な視覚情報を瞬時に塗り潰すほどの猛烈な異臭の塊が襲った。
「……っ……うっ!?」
隣にいたマリカが、思わず両手で口と鼻を覆い、激しく顔を歪めて呻いた。
「な……何、この匂い……!? 息が、息ができない……!」
それは、香水や花の香りなどでは到底誤魔化しきれない、都市の底から立ち上る凄惨な腐敗の臭気だった。
アンモニアの刺激臭。酸化した獣脂の饐えた油臭。
何万何十万という人間と馬が毎日排泄する糞尿が、密閉されることなく大気に晒され、発酵した時に放つ独特の甘ったるい蒸気。
そして――それらの汚物が、日光に温められて路上の泥水の中で腐敗し、無数の病原菌を培養している時に放つ、鼻の奥がツンと痺れるような死の気配。
「……前世と、寸分違わず同じですね」
エルザは眉一つ動かさず、冷徹に車窓の隙間から街の断面をスキャンしていった。
大理石の敷石で舗装されたメインストリート。
一見すると美しく磨き上げられているように見えるその道路の端――歩道と車道の境界線には、深さ数十センチの開渠――蓋のない側溝が掘られていた。
だが、その溝の中に流れていたのは、清らかな水などではなかった。
台所から垂れ流された生ゴミの残渣、血混じりの汚水、そして二階の窓から直接道路へ投げ捨てられたのであろう、人糞の混ざった黄色く濁った汚泥が、ドロドロとした塊となって溝を塞ぎ、澱んでいた。
下水設備という概念そのものが存在しないのだ。
雨が降らなければ汚物は流れることなく側溝に堆積し、日の光を浴びて腐敗ガスを噴き上げている。
ブーン、と耳障りな羽音を立てて、数千匹もの銀蝿が汚水の水面を覆い尽くすように群がっていた。
路地裏を覗けば、建物の隙間の影には、人糞と腐った野菜、動物の骨が山のように積み上げられ、巨大なドブネズミが白昼堂々とそのゴミ山を駆け回っている。
パシャァッッ!!
前方を進んでいた貴族の豪奢な馬車が、車道にできた深い汚水溜まりを勢いよく跳ね上げた。
飛び散った黒ずんだ泥水が、道路の端の冷たい石畳の上にうずくまっていた人影へと、容赦なく降り注ぐ。
「ひっ……!」
泥水を頭から浴びたのは、ボロ布を幾重にも巻き付けた、やせ細ったスラムの乞食の母子だった。
母親は泥に塗れながら、抱きかかえた幼児の頭を必死に自らの胸元へと隠し、ただ地面に平伏して震えていた。
だが、馬車の窓から顔を出した貴族の若者は、汚水が自らの馬車の車輪を汚したことだけに舌打ちをし、「汚らわしい虫ケラが、道を塞ぐな」と冷酷に吐き捨てて走り去っていった。
「……酷い」マリカが震える声で呟く。
「これが、帝国の繁栄の真実です」
エルザの声は、感情を完全に排したメスのように冷たかった。
「宮殿をどれほど黄金で飾ろうとも、都市の足元は汚物と排泄物の海に浮いている。排泄物を適切に処理し、飲料水と分離する『上下水道』のインフラを持たない都市は、医学的に見れば、ただの巨大な感染症の培養皿に過ぎません。……一度でも強力な水系感染症の病原体がこの都に持ち込まれれば、数万人の人間が、わずか数日で脱水と下痢の海に溺れて死ぬことになる」
エルザの眼差しは、遠い未来――第5幕で起きるであろう、コレラ類似の急性腸管感染症の大パンデミックを、すでにこの瞬間の都市構造から克明に予見していた。
◇
だが、この黄金の都の欺瞞は、単なる都市機能の不衛生さにとどまらなかった。
馬車が大通りの交差点――『大聖堂前広場』へと差し掛かった時、エルザの琥珀色の瞳の奥に、鋭利な刃物のような光が閃いた。
「……あれを御覧なさい、マリカ」
「え……?」
大通りの要所要所、建物の目立つ壁面という壁面に、巨大な金色の看板が掲げられていた。
細やかな蔦模様と、大聖堂の紋章である「双頭の鷲と十字架」が豪奢に彫り込まれた看板。
そこには、達筆な宮廷文字で、こう記されていた。
『アンセルム首席司教猊下公認――万病を癒やし悪魔を祓う「真なる聖水」』
『神への信仰深き者には奇跡の平穏を。悪魔の病をその身から焼き払う神聖なる雫』
看板の下には、教会が直営する粗末な木造の掘っ立て小屋――「聖水配給所」が設けられていた。
小屋の前を取り囲んでいたのは、着飾った貴族たちではない。
青白い顔をして激しく咳き込む老人、腹部が異様に膨らみ足首を浮腫ませた中年男、手足に原因不明の湿疹が広がった子供を抱きかかえる母親。
病に冒され、死の恐怖に怯える平民や貧民たちが、数百人にも及ぶ長蛇の列を作っていた。
「聖水を……どうか、息子のために聖水を一杯ください……!」
列の先頭で、着古した服を着た母親が、震える手で革袋から小銭を差し出していた。
銅貨数十枚、そして銀貨が数枚。貧民にとっては、数ヶ月分の食費を切り詰めて集めたであろう全財産。
小屋のカウンターの奥に座る神殿の修道士は、その金を鷲掴みにして引き出しへと放り込むと、机の下から、手のひらに収まるほどの小さな青いガラス小瓶を無造作に放り出した。
母親は小瓶を両手で受け取ると、その場に膝をつき、狂ったようにガラス瓶へと口づけを落とした。
「ああ……神よ……アンセルム司教猊下……ありがとうございます……!」
母親は震える指先でコルク栓を引き抜くと、抱いていた熱病の息子の口元へと、その中の液体を流し込ませた。
小瓶の中に入っていたのは、濁った、わずかに白濁した液体。
その液体が何であるかを、エルザは完璧に知っていた。
アルトハイム伯爵邸で、そしてディルク皇太子に対してアンセルムが処方していたものと、まったく同じ調合。
重曹(炭酸水素ナトリウム)を溶かしたアルカリ水に、苦味を消すための微量の甘味料、一時的な多幸感と痛覚麻痺をもたらす微量のアヘンチンキ――そして、沈殿防止と長期保存を口実にして混ぜ込まれた、致死的な重金属『昇汞(塩化第二水銀)』。
「……神の平穏、ね」
エルザの唇から、凍てつくような冷笑が零れ落ちた。
「アヘンによって痛覚を麻痺させ、重曹によって胃酸を中和し、一時的に『楽になった』と錯覚させる。だがその代償として、血液の中へは確実に水銀の毒が流し込まれ、腎臓の糸球体と中枢神経を徐々に破壊していく。薬効が切れれば、以前よりも激しい苦痛と震えが襲い、患者は『悪魔が再び暴れ出した』と怯えて、さらに高額な聖水を買いに走る……」
吸い上げた全財産は、大聖堂の地下金庫へと吸い込まれ、黄金のドームを修復するための金箔へと姿を変える。
不衛生を意図的に放置して病原菌を街中に蔓延させ、病人を大量に生み出し、その恐怖を「神の罰」と煽り立てて、毒入りの聖水を売りつけて私腹を肥やす。
信者を生かさず殺さず、自らの支配下に縛り付け続けるための、完璧に計算された宗教的搾取のシステム。
「これが、この帝国の繁栄の正体です」
エルザの琥珀色の瞳の奥に、処刑台の刃よりも鋭利で、冷たい光が宿った。
「神聖なる帝都の正体は、神官どもが患者の生き血を啜って肥え太るための、巨大な解剖台に過ぎない。……反吐が出ますね」
◇
馬車がメインストリートを抜け、宮殿の西側に広がる最高級貴族街――ラングリール大公家の帝都本邸の広大な敷地へと滑り込んだ。
黒鉄の重厚な門が閉じられ、外の大通りの喧騒と悪臭がようやく遮断される。
敷地内には、美しく刈り込まれた常緑樹の庭園が広がり、本館の正面玄関には、留守を預かっていた帝都付きの執事や従僕たちが整列して出迎えていた。
馬車の扉が外側から開かれた。
ステップを降りたエルザの前に、馬を降りたテオバルトが軍靴の音を響かせて駆け寄ってきた。
副官の表情には、行軍の疲労の色はなく、帝都の空気に触れた軍人特有の極限の緊張が張り詰めていた。
「エルザ。本邸の客室の手配は完了した。大公閣下は直ちに近衛総監部へ上洛の正式な通告書を提出される手筈だ。……貴様は、どうする」
テオバルトの声は低く、周囲の従僕たちに聞こえぬよう配慮されていた。
エルザは手帳を懐から引き抜き、テオバルトを真っ直ぐに見据えた。
「テオバルト様。帝都のスラム街――通称『鼠の巣』の現在の治安状況と、教会の巡回警備のルートを確認してください」
淀みない下知。
「日没を待ちます。太陽が沈み、大聖堂の鐘が鳴り止んだ直後――直ちに潜入行動を開始します」
「……本気配だな」
テオバルトは眉根を寄せながらも、首を横に振ることはしなかった。
すでに大公から「エルザの指示には全権をもって従え」と厳命されている副官は、胸ポケットから一枚の折り畳まれた羊皮紙を取り出し、エルザへと手渡した。
「すでに手は打ってある。大公家の潜入工作員三名を、スラムの入口の酒場へ先発させた。神殿騎士団の動きも探らせている。……例の異端学者――ユーグ・ド・ベルフォールの隠れ家周辺では、ここ数日、教会の息のかかった密告者どもが嗅ぎ回っている形跡がある。一刻を争うぞ」
「上出来です、テオバルト副官。優秀な実務官を持つと、治療の手間が省けて助かります」
エルザが淡々と礼を述べると、テオバルトは居心地悪そうに「……小生意気な口を利くな」と視線を逸らした。
その時。
――カツン。
背後から響いた拍車の音とともに、重厚な影がエルザとテオバルトを包み込んだ。
ギルバート・フォン・ラングリール。
軍外套の襟を立て、腰の長剣の鞘に大きな手を添えた大公が、静かに歩み寄ってきた。
その氷灰色の双眸は、帝都の汚濁と偽善を目の当たりにしたことで、むしろ戦場の死神としての凄惨な光を爛々と輝かせていた。
ギルバートは口端を獰猛に吊り上げ、エルザの白磁のような横顔を見下ろした。
低く、地底のマグマが擦れ合うような声が、二人の間だけに響く。
「……準備はいいか、エルザ」
大公の手が、佩刀の鍔を親指でカチリと弾いた。
「ここがお前の解剖室だ」
帝都という名の、腐敗しきった巨大な生体。
偽善の皮膚に覆われ、神殿の毒によって内側から腐り果てた怪物の心臓部。
エルザはゆっくりと顔を上げた。
その琥珀色の瞳は、遥か彼方にそびえ立つ大聖堂の黄金のクーポラ、そして空を刺す十字架の尖塔を、刃物のように冷たく射抜いていた。
「ええ、大公閣下」
少女の澄んだ声が、帝都の冬の空気を凛と切り裂いた。
「この都の嘘を――骨の髄まで、解剖して差し上げます」




