第23話:血の呪縛と鋼の体温
北方の要塞都市を後にした黒狼騎士団の行軍は、軍事演習さながらの冷徹な規律と、息の詰まるような厳戒態勢のもとで進められていた。
大公直属の騎兵五十騎が、先頭、両翼、そして後背を寸分の隙もなく固める。馬の轡には布が巻かれて嘶きを抑え、車列の中央には、特注の無鉛ガラス器具や乾燥生薬を積んだ補給車、そしてエルザが乗る堅牢な医療馬車が厳重に護送されていた。
道中、街道沿いの関所を通過するたび、純金の大公家手形が一瞥されただけで、検問の役人たちは青ざめて道をあけ、地面に額を擦り付けた。ヴェルデ村での一件――神殿の異端審問官をへし折り、神罰の宣告を力ずくで叩き潰したという噂は、目に見えぬ煙のように街道を先回りして広まりつつあったのだ。
大公領と帝都直轄領を隔てるのは、標高二千メートルを超える険峻な岩山――通称『死神の喉仏』と呼ばれるアトラス峠だった。
冬の峠道は、鋭利な玄武岩の絶壁に挟まれた細い獣道のような難所であり、吹き下ろす突風が絶えず馬の足元をすくいにかかる。
そして――標高が頂点に達したその日の夕刻、鉛色に濁っていた天蓋が、突如として牙を剥いた。
ゴロゴロ、と腹の底を揺らすような地鳴り。
初冬の山岳地帯には極めて稀な、激しい寒冷前線の衝突がもたらした猛烈な雷雨だった。
氷の混ざった豪雨が、バケツを引っくり返したような勢いで大地を叩きつけ、視界は瞬く間に白濁した水煙に呑み込まれた。岩肌を走る紫電が、漆黒の空を幾重にも引き裂き、轟音とともに落雷の衝撃が山峡を揺らす。
泥流が街道を呑み込む前に、テオバルトは即座に行軍の一時停止を決断し、風の遮られた巨大な岩陰の窪地へと全軍を滑り込ませ、強固な野営陣地を設営させた。
◇
ババババッ、と叩きつける激しい雨音が、天幕の分厚い油布を絶え間なく震わせていた。
騎士団の野営地の中央に設営された、エルザ専用の医療天幕。
外の嵐を遮るように入り口の布は三重に固く結ばれ、室内にはカンテラの温かな黄白色の灯りが一つ、静かに揺れていた。
暖を取るための鉄鉢には良質な木炭が赤々と憩い、外の凍てつく湿気とは対照的に、乾燥した薬草の清々しい芳香が立ち込めている。
エルザは木箱を並べた簡易作業台の前に腰掛け、黙々と指先を動かしていた。
机の上には、オスカーが焼き上げた薄肉の無鉛磁器皿が並び、その中へ、帝都に到着した直後に必要となる生薬の粉末を精密天秤で測り分けていた。
ヤナギの樹皮、大蒜のエキス粉末、止血作用を持つタンニン粉、そして高純度エタノールで再結晶化させた鎮痛生薬。
前世の記憶を頼りに、帝都のスラム街に潜伏しているユーグの負傷度合い――栄養失調、湿性胸膜炎、そして万が一追っ手と交戦していた場合の創傷を想定し、即座に投与できる救急キットを調合していたのだ。
(ユーグ先生の隠れ家は、帝都下町の外縁、廃教会の地下防空壕。……もしすでに神殿の包囲が始まっていれば、時間との勝負になる)
手帳に走らせる羽ペンの先が、チチと炭火の爆ぜる音と重なる。
外では凄まじい雷鳴が轟き、稲妻の白い閃光が天幕の布地を透かして室内の影を一瞬だけ異様に引き伸ばした。
その雷鳴の余韻が山峡に木霊していた、まさにその時だった。
――ザッ。
激しい雨音の隙間を縫って、天幕の外側に、重厚な軍靴が泥水を踏みしめる足音が近づいてきた。
歩哨の制止の声はない。騎士団の誰もが道を譲る、唯一の存在の足音。
天幕の入り口を留めていた革紐が、外側から不器用な手つきで解かれた。
冷たい風雨の飛沫とともに、入り口の垂れ布が持ち上げられる。
そこに立っていた影を認めた瞬間、エルザは調合用の匙を置いた。
「……大公閣下?」
天幕の開口部に佇んでいたのは、ギルバート・フォン・ラングリールだった。
だが、その姿は普段の威風堂々たる軍団長のそれとは、大きく異なっていた。
黒鉄の甲冑は身につけておらず、黒い軍服の上に羽織った漆黒の軍外套は、滝のような雨水を吸って重く濡れそぼり、裾からポタポタと泥混じりの雫を滴らせていた。漆黒の髪は雨に打たれて額に張り付き、氷灰色の双眸は、いつになく暗く、底知れぬ影を宿して揺らめいている。
そして――何よりもエルザを驚かせたのは、その男の声音だった。
「……少し、入ってもいいか」
低く、掠れた声。
戦場で幾千の敵を前にしても眉一つ動かさず、常に絶対の支配者として命令を下してきた男が、まるで夜の嵐に迷い込んだ獣のように、どこか躊躇いがちに、エルザの許可を求めていたのだ。
「……どうぞ。風が入ります、早くお入りになって布を閉めてください」
エルザが静かに促すと、ギルバートは無言で身を滑り込ませ、入り口の紐を内側から結び直した。
嵐の轟音がわずかに遠のき、天幕の中に、濡れたウールと冷たい雨水の匂いが一気に立ち込める。
「外套をお脱ぎください。体熱が奪われます」
エルザは立ち上がり、乾いた清潔な麻布のバスタオルを差し出した。
ギルバートはずぶ濡れの重い軍外套の留め金を外すと、入り口の隅の木樽の上へと無造作に放り出した。ドサリと、水を吸った布が重い音を立てる。
黒い軍服のシャツ一枚になった巨躯。鍛え上げられた分厚い胸板が、激しい呼吸に合わせてわずかに上下している。
ギルバートは差し出された布を受け取ると、濡れた前髪と顔面の雨水を、乱暴な手つきでゴシゴシと拭った。
「すまんな。夜回りの途中で、少し……身体が冷えた」
「身体が冷えた、で済む雨量ではありません。……こちらへどうぞ」
エルザは炭火の鉢の近くに置かれていた、木製の長椅子を勧めた。
ギルバートは軋む音を立てて長椅子へと腰を下ろすと、両肘を膝につき、深く前屈みになった。
火鉢の赤い光が、大公の彫りの深い精悍な横顔を赤黒く照らし出す。
エルザは白磁のマグカップに、沸騰した湯と乾燥させた薄荷、少量の蜂蜜を溶かした温かい白湯を満たし、ギルバートの前の木箱へと置いた。
「お飲みなさい。交感神経の過剰な興奮を鎮め、末梢血管の収縮を防ぎます」
「……ああ」
ギルバートは両手でマグカップを包み込んだ。
だが、湯気を吸い込むだけで、口をつけようとはしない。
その視線は、カップの中の揺れる水面を通り越し、自らの両手――戦場で無数の敵を屠り、幾多の血を吸ってきたその無骨な掌へと、じっと落とされていた。
天幕を揺らす激しい雷鳴。
閃光が奔り、カンテラの灯りがふっと風に煽られて揺らぐ。
沈黙を破ったのは、低く、澱のように重いギルバートの独白だった。
「……昔」
ポツリと、その言葉は零れ落ちた。
「この峠を越えて帝都へ向かう途中……俺の父は、馬の上で突然血を吐いて倒れた」
エルザの指先が、わずかに止まった。
彼女は薬草の作業台から離れず、だが作業の手を止め、静かにギルバートの横顔を見つめた。
「俺が、まだ十一の時だった」
ギルバートの声は、遠い過去の泥沼を引きずり出すように、重く軋んでいた。
「父は前大公として、北方軍を率いる無敵の武将だった。大剣を振るえば敵の城門を両断し、兵たちからは神のように崇められていた男だ。……だが、帝都への年次拝謁に向かうこのアトラス峠の頂で、父は突如として激しい腹痛に叫び声を上げ、馬上から転がり落ちた」
ギルバートの指先が、白磁のマグカップを軋むほど強く握りしめる。
「口から噴き出したのは、どす黒い血の塊だった。内臓を万力で絞られるように身悶え、激痛のあまり自らの爪で岩肌を掻き毟り……三日三晩、苦悶の叫びを山峡に木霊させた末に、内臓をすべて焼き尽くされたように干からびて息絶えた。……三十歳だった」
火鉢の炭が、パチンと爆ぜた。
ギルバートの氷灰色の瞳の奥に、幼少期のあの日、降りしきる雨の中で父の死体を前に立ち尽くしていた少年の絶望が、生々しく蘇っていた。
「父だけではない。……父の前の当主、俺の祖父もまた、二十八歳で倒れた。祖父は戦場から帰還した後、手足の自由を失って寝たきりとなり、夜ごとに見えない悪魔の影に怯えて叫び狂った末に、自らの舌を噛み切るようにして衰弱死した」
ギルバートは自らの右手を持ち上げ、ランプの火にかざした。
傷跡の刻まれた、屈強な掌。
かつてエルザに出会う前、鉛の毒によって麻痺し、力なく垂れ下がっていたあの右腕。
「大公家は呪われている。……物心ついた時から、俺の耳元にはその言葉が呪文のように貼り付いていた」
自嘲の混ざった、乾いた吐息。
「歴代の当主はみな、どれほど武勇を極めようとも、三十を超えることはできない。敵の刃によって戦場で名誉の死を遂げることすら許されず、内側から、身内の血の呪いによって腐り果てて惨めに狂死するのだ、と。……神官どもは俺の顔を見るたびに哀れみの目を向け、高額な聖水を売りつけながら、陰では『死神の血族』と囁き合っていた」
ギルバートの背中が、わずかに丸まった。
帝国最強の武将。皇帝の甥。誰もが恐れ、誰もが近づくことすら避ける孤高の怪物。
だが、その冷酷な仮面の下に隠されていたのは――物心ついた時から死のカウントダウンを突きつけられ、明日の命すら信じることができずに生きてきた、あまりにも深い、漆黒の孤独だった。
「宮廷の貴族どもも同じだ。宴の席に出れば、誰もが俺を遠巻きに見て嗤っていた。『黒狼の首も、あと数年の命だ』『悪魔に魂を喰われる男に近づくな』とな。……俺にとって、戦場だけが唯一の救いだった。敵を斬り伏せている間だけは、自分がいつ死ぬかという恐怖を忘れられた。……どうせ三十になる前に内臓を腐らせて死ぬのなら、敵の槍に喉を貫かれて死んだ方がどれほどマシか、何度そう願ったか分からん」
ギルバートはマグカップを木箱の上へ戻すと、両手で顔を覆った。
無骨な指の隙間から漏れ出る呼気は、凍えるように冷たかった。
「この峠を越えるたびに……父の吐血した血溜まりの臭いが鼻を突く。……俺もまた、同じように馬上で喀血し、内臓を焼き切られて死ぬのだと……そう思っていた」
初めて語られた、男の魂の最深部にある傷口。
もし三ヶ月前、アルトハイム伯爵邸の薄暗い貴賓室へ、エルザが踏み込んでいなければ。
ギルバートもまた、父や祖父とまったく同じように、手足を麻痺させ、激痛に狂乱しながら、この峠を越えることなく冷たい土へと還っていたはずだった。
静寂が、天幕を支配した。
外の雷鳴は依然として大地を揺らし、雨水が天幕の布を滝のように流れ落ちていく。
その重苦しい沈黙の中。
カサリ、と衣擦れの音が響いた。
エルザが、作業台からゆっくりと立ち上がった。
木靴の音を立てず、静かな足取りでギルバートの前へと歩み寄る。
長椅子に座り、顔を覆ったまま動かない大公の前に、十二歳の少女がまっすぐに立った。
そして――。
スッ、とエルザの両手が伸ばされた。
躊躇いは、一秒すらなかった。
エルザは、ギルバートの顔を覆っていた冷え切った両手を、自らの小さく、温かな掌で、下から包み込むようにしてそっと掬い上げた。
「……っ」
ギルバートの身体が、電流に打たれたように強張った。
覆われていた男の顔が露わになる。
見開かれた氷灰色の瞳が、至近距離からエルザの顔を見上げる。
冷たく凍りついていた男の指先に、エルザの皮膚から放たれる生々しい体温が、じんわりと、だが抗いようのない確かな熱となって染み込んでいく。
「……大公閣下」
エルザの声は、小春日和の湖面のように穏やかで、そして――絶対の真理を告げる神託のように透き通っていた。
彼女の琥珀色の瞳には、憐憫のかけらもなかった。
同情などという、相手を無力な弱者として見下すような生ぬるい感情は、最初から微塵も存在しない。
あるのはただ、病理の深淵を解剖し尽くした科学者だけが持ちうる、揺るぎない絶対の確信。
「何度でも申し上げます。……呪いなど、この世のどこにもありませんでした」
ギルバートの喉が、息を呑んで小さく鳴った。
「あなたの父上も、祖父上も、悪魔に魂を喰われたのではありません」
エルザはギルバートの冷たい指先を、自らの両手でぎゅっと、痛いほど強く握りしめた。
「大公家が誇りとして代々受け継いできた、あの高濃度のピューター食器。酸味を消すために鉛の釜で煮詰められた濃縮甘味ワイン『サパ』。そして、戦場で傷口に塗り込んできた鉛とヒ素の軟膏。……それらを何世代にもわたって日常的に摂取し続けた結果による、重金属の慢性蓄積中毒です」
エルザの言葉は、二十年以上にわたりギルバートの魂を縛り付けていた漆黒の鎖を、一本ずつ冷徹に切断していく。
「祖父上の手足の麻痺と精神錯乱は、鉛脳症による末梢神経と中枢神経の不可逆的破壊。父上の喀血死は、重金属が胃粘膜の毛細血管を脆弱化させ、激しい鉛疝痛の腹圧によって胃十二指腸動脈が破綻したことによる消化管出血です。……すべては、生化学と病理学の法則に従って起きた、あまりにも悲しく、あまりにも無知な人災に過ぎません」
エルザは一歩踏み込み、ギルバートの瞳孔を覗き込んだ。
至近距離で交わる、二人の視線。
「そして――大公閣下。今のあなたの肉体をご自身で感じなさい」
エルザの手が、ギルバートの手首の脈拍へと滑らかに添えられる。
トクン、トクン、トクン、トクン――規則正しく、鋼のように力強く打ち鳴らされる動脈の拍動。
「あなたの血液から、鉛の毒はすでに一滴残らず体外へ排出されました。破壊されていた橈骨神経は再生し、歯肉のバートン線は消え去り、内臓の代謝は完全に正常値を取り戻しています。……あなたの身体のどこにも、父上や祖父上を殺した毒の影はありません」
エルザの瞳の奥に、絶対零度の冷徹さと、それを凌駕する圧倒的な生の肯定が燃え盛った。
「あなたの肉体は、いま完全に私の管理下にあります」
少女の凛とした宣告が、天幕の嵐を切り裂いた。
「私の許可なく、あなたが病で倒れることは絶対にあり得ません。……私の許可なく、あなたが死ぬことなど、私が絶対に許しません」
ドォォォォンッ……!
遠くの峰で、雷鳴が轟いた。
だが、その雷鳴すら、ギルバートの耳にはもはや届いていなかった。
ギルバートの胸の奥底で。
物心ついた時から二十三年もの間、彼の魂を凍りつかせ、戦場での狂気へと駆り立てていた巨大な呪縛の氷壁が――。
パキリ、と音を立てて亀裂を走らせ、次の瞬間、跡形もなく粉々に崩れ落ちていった。
呪われてなどいなかった。
死ぬ運命など、最初から決まってなどいなかったのだ。
神の罰でも、悪魔の嘲笑でもない。
ただの毒であり、そしてその毒は、目の前に立つこの小さな少女の手によって、完全に屠られたのだと。
(……あぁ……)
ギルバートの全身を、猛烈な熱の奔流が駆け巡った。
心臓が、肋骨を内側から突き破らんばかりの力強さで拍動を打ち始める。
全身の血管が拡張し、血液が沸騰するような歓喜と衝撃。
自らの生を。
自らの存在理由を。
神でもなく、皇帝でもなく――この世界で唯一、己の肉体を解剖し尽くしたこの少女だけが、絶対の真理をもって肯定してくれた。
耐えきれぬ感情の爆発。
ギルバートは、自らの手を包んでいたエルザの両手を、激しい力で引き寄せた。
「……っ、閣下――」
エルザの体が前のめりに引き倒されそうになった、その刹那。
ギルバートは長椅子から床へと片膝をつき、自らの額を――エルザの小さな、薬品の染み付いた掌の真ん中へと、力強く、痛いほどに押し当てた。
熱い。
男の額から放たれる熱気は、火鉢の炭火よりも遥かに熱く、エルザの皮膚を焦がすほどだった。
大公の逞しい肩が、微かに、だが激しく震えている。
「……あぁ」
掠れきった、だが魂の底から絞り出されたギルバートの誓いが、掌の隙間から漏れ聞こえた。
「お前がそう言うなら……俺は死なん」
ギルバートはエルザの掌に額を擦り付けるようにして、さらに強くその手を握りしめた。
無骨な指先が、エルザの手首に食い込む。
二度と離さないという、狂おしいまでの執着と、絶対の服従。
「お前が生きろと命じるなら、俺は神の審判だろうが悪魔の爪だろうがすべて叩き斬って生き延びてみせる。……この命、この肉体、この血の一滴に至るまで、お前のためだけに使い続ける。お前のメスが切り裂く未来のために、俺のすべてを捧げよう」
ギルバートがゆっくりと顔を上げた。
至近距離で見つめ合う、二つの瞳。
大公の氷灰色の双眸からは、先ほどまでの絶望と孤独の影は完全に消え去っていた。
そこに宿っていたのは、深淵の闇を脱ぎ捨て、ひとりの少女のためだけに牙を研ぎ澄ます、鋼の獣の絶対の光。
「俺の主治医。……俺の、唯一の光よ」
ギルバートはエルザの手のひらの中心へ、痛いほどの熱い口づけを落とした。
「お前を、誰にも渡さん。お前が世界を解剖するなら、俺はお前の足元に転がるすべての障害を薙ぎ払う刃となろう」
手のひらに残る、男の熱い唇の感触。
エルザの胸の奥で、計算高く冷え切っていたはずの感情の炉が、トクンと力強く跳ねた。
主治医と患者。
利用する者と、利用される者。
そんな無機質な契約の枠組みは、とっくに粉々に砕け散っていた。
暗闇の中、冷酷大公の心臓は、いまやエルザの意志のためだけに脈打つ、不可侵の鋼のエンジンとなっていた。
天幕の外、あれほど荒れ狂っていた雷鳴が、潮が引くように遠ざかっていった。
雨音は静かな夜の囁きへと変わり、雲の切れ間から、冷たく澄み切った星々の光が峠の岩肌を照らし始めていた。
夜が明ければ、峠を越える。
その先にあるのは、帝国の心臓部――欺瞞と迷信が渦巻く黄金の都、帝都サンクト・オーガスタ。
絶対の盾と、絶対のメスを手に入れたエルザの歩みは、もはや何者にも止めることはできなかった。




