第22話:上洛の進言と白紙の手形
夜の間に吹き抜けた乾いた突風は、山頂の要塞を取り囲む雪雲をすべて東の峰へと押し流していた。
明けた朝の陽光は、研ぎ澄まされた青刃のように冷たく、黒狼城の玄武岩の胸壁を白く染め上げている。中庭からは、凍てつく石畳を熱湯とデッキブラシで擦り洗う使用人たちの規則正しい水音が響き、兵舎の煙突からは、有害な重金属の煤煙ではなく、清潔な薪が燃える澄んだ白い煙がまっすぐに冬空へと昇っていた。
かつて死臭に塗れていた要塞は、いまや帝国で最も衛生的で、最も強固な規律に貫かれた軍事拠点として完全に息を吹き返していた。
天守閣の最上階、大公執務室。
大きな執務机を挟んで、二人の男が対峙していた。
机の上には、ヴェルデ村から引き揚げてきた黒狼騎士団の損耗報告書、押収した神殿私設兵の武装目録、そして帝都の教皇庁から届くであろう抗議文を想定した外交文書の束が、うずたかく積まれていた。
「……閣下。ヴェルデ村に派遣されていた異端審問官ルシアンの身柄ですが、昨夜未明、領境の検問所にて教会の巡回警備隊へ無事に『引き渡し』を完了いたしました」
副官のテオバルトが、険しい表情のまま羊皮紙をめくった。
「ルシアンの右腕の粉砕骨折、および全身の打撲傷は、軍医の手で最低限の添え木固定のみを施しております。猿ぐつわを外された際、男は『ラングリール大公家は悪魔に魂を売った』『アンセルム首席司教猊下の手によって、貴様ら全員が異端審問の火刑台に上がることになる』と、口から泡を吹いて喚き散らしていたとのことです」
「吠えさせておけ」
ギルバートは羽ペンを走らせる手を休めることなく、冷淡に切り捨てた。
軍服の袖口から覗く褐色の右腕は、かつて鉛の毒によって麻痺していたことなど嘘のように、力強く、狂いのない筆跡で決済の署名を刻みつけている。
「神の威光を傘に着た野良犬が一匹、遠吠えを上げたところで、この黒狼城の石垣一つ削れはせん。……問題は、その背後にいる飼い主だ」
「アンセルム首席司教、ですね」
テオバルトが重々しく頷いた。
「アルトハイム伯爵邸での毒壁紙事件に続き、今回のヴェルデ村での浄火の阻止……教皇庁、とりわけアンセルム司教の派閥にとって、大公家はもはや看過できぬ目の上の瘤です。すでに帝都の貴族院や皇帝陛下の耳へ、悪意に満ちた讒言が吹き込まれていると見るべきでしょう」
重苦しい政治の火種。
地方の軍団長と、中央を牛耳る宗教権力との間に生じた亀裂は、一歩間違えれば内乱の引き金すら引きかねない危険な緊張状態にあった。
ギルバートが次の書類へ手を伸ばそうとした、その時だった。
トントン。
硬質な、だが驚くほど規則正しいノックの音が、執務室の重厚な扉に響いた。
二度の乾いた音。その独特の間の取り方に、ギルバートの眉がピクリと跳ね上がった。
大公は手元のペンを迷いなく机の上へ放り出すと、椅子からわずかに身を乗り出し、座り直した。
「……入れ」
キィ、と油の差された蝶番が静かに回り、扉が開かれた。
部屋へ足を踏み入れてきたのは、濃紺のウールワンピースの上に、糊の効いた真っ白なリネンエプロンを纏ったエルザだった。
昨夜、天守閣の記録室で過去の年代記を夜通し洗い直していたはずの少女。その顔には疲労の影など塵芥ほども見当たらず、淡い朝の光を浴びる横顔は、まるで精緻を極めた白磁の工芸品のように冷たく張り詰めていた。
小さな胸の前には、前世の記憶と今世のタイムラインを暗号で書き連ねた、一冊の薄い手帳が抱えられている。
ギルバートの氷灰色の双眸に、先ほどまでの冷徹な軍指揮官の仮面を剥ぎ取るような、柔らかな熱が灯った。
「どうした、エルザ。昨夜は碌に眠っていなかったようだが。……薬草の補充か? それとも、城下のオスカーに作らせている蒸留器の規格に不備でもあったか」
大公の声音は、テオバルトに向けるそれとは明らかに異なっていた。敬意と、過保護なまでの配慮、そして無条件の肯定が滲み出ている。
だが、エルザは執務机の正面、三歩手前で足を止めると、深々としたカーテシーを捧げることもなく、琥珀色の瞳でまっすぐにギルバートを見据えた。
その双眸の奥にある、研ぎ澄まされた刃のような絶対の決意。
「大公閣下。帝都へ参ります」
静寂。
暖炉の薪がパチリと爆ぜる音だけが、室内の空気を震わせた。
エルザは瞬き一つせず、淡々と、だが不可逆の宣告として言葉を重ねた。
「今すぐに、出立の準備を整えてください」
「……は?」
横で聞いていたテオバルトが、素っ頓狂な声を漏らして目を丸くした。
生真面目な副官は、書類を抱えたままエルザとギルバートの顔を交互に見比べ、それから血相を変えてエルザの前へと踏み出した。
「て、帝都だと!? エルザ、貴様、自分が何を言っているのか分かっているのか!」
テオバルトの額に青筋が浮き上がる。
「ヴェルデ村の一件があったばかりだぞ! 神殿の異端審問官を叩き出し、教皇庁との関係が極限まで緊張しているこの最悪の時期に……なぜ自ら敵の本拠地、虎の尾を踏みに行くような真似をしなければならんのだ! この黒狼城に籠もって軍備を固め、中央の動向を窺うのが兵法の常道だろう!」
「常道に逃げ込むから、いつも神殿の先手を許すのです、テオバルト副官」
エルザの反論は、氷の錐のように冷徹だった。
「私が帝都へ向かうべき理由は、二つあります」
エルザは手帳を机の上に置くこともせず、自らの華奢な人差し指をすっと立てた。
「第一に、政治的防壁の構築――先手必勝の攻勢防御です。ヴェルデ村で失態を演じ、恥をかかされたアンセルム首席司教は、己の無能と過誤を隠蔽するため、必ずや宮廷工作を用いて大公領に大規模な政治的制裁を仕掛けてきます」
エルザの淀みない分析に、テオバルトが息を呑む。
「神殿は『大公家が異端の魔女を匿い、神罰の執行を武力で妨害した』という虚偽の報告書を仕立て上げ、皇帝陛下を動かして大公領の領地削減、あるいは黒狼騎士団の解体を狙ってくるはずです。この城で待ち構えていれば、帝都の法廷で一方的に欠席裁判を開かれ、反逆者の烙印を押されることになる。……相手が刃を振り下ろす前に、帝都の心臓部へ乗り込み、皇帝と宮廷貴族たちの眼前で、神殿の嘘を直接解剖して無力化しなければなりません」
「……ぐっ」
テオバルトが言葉に詰まる。
軍事的な合理性だけを見れば、エルザの言う通りだった。中央の政争において、地方で守勢に回った勢力が生き残った例は歴史上ほとんどない。だが、十二歳の少女が、帝国の中枢で蠢くドロドロとした権謀術数の本質を、ここまで的確に看破している異常さに、副官は戦慄を禁じ得なかった。
「そして、第二の理由」
エルザは二本目の指を立てた。
その琥珀色の瞳の奥に、先ほどの政治的計算を遥かに凌駕する、底知れぬ狂熱がギラリと光った。
「帝都に、私がどうしても手に入れなければならない『帝国の頭脳』がいます」
「……頭脳だと?」
肘をついて黙って話を聞いていたギルバートが、目を細めた。
大公の声音が、低く、探るように響く。
「誰のことだ」
「ユーグ・ド・ベルフォール」
エルザの口から、その名がはっきりと紡ぎ出された。
「元・帝国医学校首席教授。かつて宮廷医師団の頂点に立ちながら、教会の教義に反して人体解剖による病理究明を試み、神殿から破門されて追放された男です」
エルザは一歩、机へと歩み寄った。
「現在、彼は帝都のスラム街の地下に潜伏し、教会の追手から逃れながら、孤独に解剖と生体研究を続けています。……ですが、タイムリミットが迫っています。アンセルム司教の主導による大規模な異端狩りの網が、すでに彼の隠れ家の目と鼻の先まで迫っているのです」
「……待て、なぜお前がそんな帝都の地下の極秘情報を知っている?」
テオバルトが怪訝そうに眉をひそめた。
「大公領の斥候ですら、破門された元教授の所在など掴んでおらんぞ。下級貴族の娘であったお前が、なぜ帝都のスラムの潜伏場所を知り得るのだ」
前世で、死の直前の地下牢で、師から直接託された記憶――そう言えるはずもなかった。
だが、エルザの表情には動揺の欠片も浮かばない。彼女は手帳のページを冷ややかにめくってみせた。
「知性は、情報網の広さではなく、散らばった事実を繋ぎ合わせる演繹の論理から生まれます。帝国医学校の過去十年分の除籍記録、帝都の薬品流通における特定生薬(防腐剤と麻酔草)の不自然な消費ルート、そして神殿騎士団の最近の巡回パターン……これらを照合すれば、彼が帝都のどの路地裏の、どの地下室に息を潜めているかなど、容易に導き出せます」
嘘八百の論理武装。だが、その語り口があまりにも精緻で、反論の余地がないほど理路整然としていたため、テオバルトは「……ば、化け物め」と呻いて後退るしかなかった。
「ユーグ元教授を、神殿の手に落ちる前に確保しなければなりません」
エルザはギルバートを見据え、その必要性を力説した。
「ヴェルデ村での大腿切断術で痛感いたしました。私一人の手と体力では、これから立ち向かうべき帝国の巨大な病巣を治療しきることは不可能です。彼の手が必要なのです。筋肉と血管をミリ単位で剥離し、人体の内部構造を完全に把握している彼の卓越した解剖の腕と頭脳が。……もし神殿に先を越されれば、彼は拷問にかけられ、その両手の指の骨をすべて砕かれて廃人と化すでしょう」
エルザの拳が、エプロンの下で白くなるほど強く握りしめられた。
「そんな損失を、私は絶対に許しません。彼の頭脳と技術を大公家の庇護下に置き、大公領の潤沢な資金と、オスカーの作った無鉛機材を与えて研究を完成させる。……そうすれば、大公領の医療水準は、帝国の旧弊な医学の百年先を行くことになります。皇帝すら首を垂れざるを得ない、絶対的な医療権力の要が完成するのです」
熱弁だった。
普段は感情の起伏を一切見せず、氷のように冷徹なエルザが、唯一見せた剥き出しの執着。
それは、過去の恩師を救いたいという魂の叫びであり、同時に、この理不尽な世界を近代医学で塗り替えるための、乾坤一擲の戦略構想だった。
「……危険すぎる」
テオバルトがなおも頭を振った。
「いくらその学者が優秀であろうと、教皇庁が総力を挙げて追っている重罪人だぞ。そんな男を帝都のど真ん中で奪い取れば、大公家が公然と教会に叛旗を翻したと見なされる! 宮廷の貴族どもに格好の口実を――」
「テオバルト」
低く、重厚な一言が、副官の反論を遮った。
ギルバートだった。
大公はゆっくりと片手を挙げ、テオバルトを制した。
その氷灰色の瞳は、エルザの姿をじっと見つめていた。少女の小さな体から放たれる、恐るべき熱量。世界を切り裂かんとする、研ぎ澄まされたメスの輝き。
ギルバートは無言のまま、執務机の右奥にある、重厚な鉄の小引き出しへと手を伸ばした。
カチリ、と真鍮の鍵が回り、引き出しが開かれる。
中から取り出されたのは、二つのものだった。
一つは、大公家の紋章である「黒狼の横顔」が精緻に刻印された、ずっしりと重い純金製の手形。
そしてもう一つは、最上級の羊皮紙に、大公家の血統印たる黒蝋の封蝋と、ギルバート自身の流麗な署名だけが記された――本文が完全に空白の、一枚の公文書。
ギルバートはそれを、エルザの目の前の机の上へと、スーッと滑らせた。
「……閣下?」エルザが眉をひそめる。
横から覗き込んだテオバルトが、息を呑んで絶叫した。
「ば……白紙の委任状と、大公家の黄金手形……!? か、閣下! 正気ですか!? それは大公家の全機密費を無制限に引き出す権利と、軍事通行権、さらには領主裁判権を代行できる、大公の分身そのものですぞ! それを、こんな小娘に――!」
「エルザに渡すと言っている」
ギルバートの冷徹な一喝が、テオバルトを黙らせた。
大公は机に両肘をつき、指を組み、エルザを真っ直ぐに見据えた。
「大公家の機密費の無制限使用権だ。帝都のどの銀行へ持ち込んでも、黄金が唸るほど手に入る。学者を買うなり、スラムの裏街道を買収するなり、好きに使え。そしてその委任状には、お前が必要とする命令を、お前の文字で書き込め。検問の強行突破だろうが、宮廷への立ち入りだろうが、俺の署名がすべてを通す」
破格、などという言葉では到底足りない。
一国の主が、国家予算に匹敵する財力と特権を、何の担保もなく一人の少女の掌へと丸ごと委ねたのだ。
エルザは手形と羊皮紙を見つめ、それから静かにギルバートの瞳を見返した。
「……よろしいのですか、大公閣下。私がこれを使い、大公家の名誉を泥に塗るような真似をするかもしれずとも」
「泥に塗るだと?」
ギルバートの口元に、獰猛な笑みが浮かび上がった。
「神殿の偽善で塗り固められた名誉など、最初から糞食らえだ。……お前がそこまで言う男だ。さぞや骨のある、狂気じみた学者なのだろう。手に入れろ、エルザ。お前の医学の礎になるというのなら、教会の喉笛からその男を引きずり出してやれ」
ギルバートは椅子から立ち上がった。
背筋を天を突くように伸ばし、腰の大剣の柄へと自然に右手を添える。
その全身から放たれるのは、守勢に回る臆病者の気配など微塵もない、獲物を狩り尽くすための軍神の覇気だった。
「ちょうどいい機会だ」
ギルバートの視線が、南の空――帝都サンクト・オーガスタの方角へと向けられる。
「新年の訪れとともに、皇帝への年次定期拝謁の時期が迫っている。本来ならば病気療養を理由に欠席する予定だったが……取りやめだ。俺自ら黒狼騎士団の精鋭を率い、帝都へ上洛する」
「閣下自ら、上洛を……!?」テオバルトが息を呑む。
「そうだ。エルザ、お前を俺の『筆頭随行医官』として正式に任命し、宮廷へ同伴させる。下働き侍女としてではなく、帝国の最高位貴族たる大公の主治医として、堂々と白亜の宮殿の絨毯を踏みしめろ」
ギルバートはエルザの前へと歩み寄り、至近距離からその琥珀色の瞳を見つめ下ろした。
氷灰色の双眸の奥に宿る、好戦的で、狂おしいほどに熱い光。
自分の命を救い上げたこの冷徹な少女を、世界の中心へと解き放ち、その手で腐敗した宮廷を切り刻ませてやりたいという、底知れぬ歓喜と欲望。
「神殿の偽善者どもが、宮廷の無能な貴族どもが集まる帝都だ。……存分に暴れてみせろ、エルザ。お前がメスを振るうというのなら、誰一人としてお前の邪魔はさせん。邪魔立てする奴は、神官だろうが皇族だろうが、俺の騎士団がすべて薙ぎ倒してやる」
絶対的な盾の、絶対的な宣戦布告。
エルザは机の上の純金の手形と白紙の委任状を、小さな手でしっかりと掴み取った。
指先に伝わる、黄金のずっしりとした重み。
それは、前世で奪われ、踏みにじられ、断頭台の上へと散っていった自分の人生を、力づくで奪い返すための最強の切符だった。
「承知いたしました、大公閣下」
エルザは手帳を懐へと収め、氷のように透き通った笑みを浮かべた。
「帝都の腐敗を、骨の髄まで解剖して御覧に入れます」
黒狼城の天守閣に、上洛の号令が下された。
舞台はいよいよ、帝国の心臓部へ。
迷信と欺瞞で塗り固められた都を切り裂く、近代医学の嵐が、いま静かに動き出そうとしていた。




