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呪いではなく鉛中毒です〜死に戻り侍女は近代医学で冷酷大公を救い、宮廷の嘘を解剖する〜  作者: タカケンサンバ


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第21話:地下牢の記憶と師の足跡

北方の寒村ヴェルデ村の鎮圧と防疫処置を終え、黒狼騎士団が黒狼城へと凱旋したのは、吹雪が山肌を白く染め始めた夕刻のことだった。

城門をくぐる車列を迎えたのは、かつてのような恐怖と軽蔑の視線ではなかった。城壁の上に並ぶ衛兵たちも、中庭で湯気を立てて待機していた厨房の料理人たちも、馬車から降り立った十二歳の少女――エルザの姿を認めるや否や、胸に手を当てて無言の最敬礼を捧げた。

神殿の異端審問官を完膚なきまでに論破し、悪魔の呪詛と恐れられた奇病を「カビの食中毒」と暴いて村人全員を死の淵から引き戻したという凶報にも似た朗報は、早馬によってすでに城内全域へと知れ渡っていた。

もはや、この要塞においてエルザを「下働きの雑巾娘」と見下す者など一人として存在しなかった。彼女の指先が下す判断こそが、生と死を分かつ絶対の規律であると、誰もが骨の髄まで理解していたからだ。


だが、中庭で出迎えた副官テオバルトや助手マリカが安堵の息を漏らす傍らで、エルザの表情はまるで冬の氷壁のように冷たく静止していた。

労いの言葉をかけようとした筆頭家老ハインツの会釈すら、わずかな頷きだけで通り過ぎる。

手帳を抱えたまま、彼女の足は迷いなく天守閣の奥深く――城内で最も冷え込み、人の立ち入らぬ区画へと向かっていた。


◇


天守閣の北東角、重厚な鉄張りの扉に閉ざされた大公家の図書室。

歴代の大公が収集してきた軍事録や古文書、領地台帳が天井まで届く本棚に隙間なく詰め込まれたその部屋の最奥に、壁と同化した隠し扉が存在した。

ギルバートから預かっていた真鍮の細鍵を差し込み、三度回すと、ゴゴゴと鈍い石擦れの音を立てて本棚が横へとスライドする。


現れたのは、湿気と古い羊皮紙、そして乾燥したインクの沈鬱な匂いが澱む、狭い石室――歴代当主の極秘記録や、神殿によって閲覧を禁じられた異端の書物を封印してきた『隠し記録室』だった。

エルザはカンテラの芯を少しだけ上げ、薄暗い部屋の中央に置かれた分厚いオーク材の机の上に灯りを置いた。

揺らめく黄白色の炎が、壁一面に積まれた年代記や宮廷布告録、そして帝国全土の精細な羊皮紙地図を浮かび上がらせる。


「……ここね」


エルザは手袋を脱ぎ捨て、冷え切った指先で棚から重厚な革表紙の書物を次々と引き抜いた。

『帝国教会史第三十七巻』『帝都医学校学報(禁書指定分)』『近衛騎士団年報』『大司教座布告集成』――。

机の上にドサリと積み上げられる書物の山。埃が舞い上がり、カンテラの光の中で白く瞬く。

エルザは木樽の椅子を引き、羽ペンと墨壺を手元に引き寄せると、手帳の白紙のページを開いた。


ヴェルデ村で麦角中毒の全貌を解明した瞬間から、彼女の脳裏で鳴り響き続けていた警告音があった。

パズルのピースが、恐ろしい速度で噛み合いつつあったのだ。

神殿の暗躍。地方での「悪魔の呪い」の捏造と、それを利用した恐怖支配。

そして何より――帝都サンクト・オーガスタにおいて、正教会のアンセルム首席司教が推し進めている、異常なまでの『異端学術弾圧』の激化。


(記憶を手繰り寄せなさい、エルザ。あの冷たい地下牢の、湿った闇の奥底の記憶を)


エルザは目を閉じ、深く息を吸い込んだ。

意識が、七年後のあの悪夢――十九歳で断頭台の露と消える直前、帝都の中央地下牢へと逆流していく。


滴り落ちる汚水の音。

ネズミが這い回る腐った藁の感触。

三日三晩の水断ちで喉を焼き切られ、アルトハイム伯爵家の怪死事件の罪を着せられて震えていた自分。

その時、隣の独房との間を隔てる分厚い花崗岩の壁の隙間――わずか拳一つ分ほどしか開いていなかった通気孔の向こうから、煙草の代わりに乾燥させた薬草を燻らせながら、エルザの耳へと語りかけてきた男の声。


『泣くな、小娘。涙を流しても塩分と水分が無駄に失われるだけだ。お前を殺そうとしている連中は、お前の絶望を神の御心だと笑っているぞ』


低く、どこか嗄(か)れていて、それでいて神経の芯をピンセットで弾くかのように怜悧な男の声。

ユーグ。

かつて帝都の帝国医学校において首席教授を務め、「帝国の知性」とまで讃えられながら、教会から破門されて地下牢へと叩き落とされた異端の解剖学者。


『小娘、暇なら俺の講義を聞け。死ぬ前に、この世界の本当の肉体というものを頭に叩き込んでいけ。人間が神の泥細工などという下らぬお伽話を信じたまま首を刎ねられるのは、学問に対する冒涜だ』


死を待つだけの暗闇の中で、ユーグはエルザに語り続けた。

自らが何十年もかけて極秘裏に切り開いてきた、禁忌の人体構造。

心臓から送り出される血液の循環経路、門脈を通る栄養と毒素の代謝、脳から手足へと張り巡らされた白い神経の束。

そして、毒物が細胞の呼吸を止め、内臓を腐食させていく生化学の真理。

処刑前夜、絶望の極限にいたエルザの渇いた頭脳は、その知識を貪るように記憶した。その知識があったからこそ、十二歳へと死に戻ったエルザは、大公ギルバートの鉛中毒を看破し、ヴェルデ村の麦角中毒を解剖することができたのだ。


だが――。

エルザの胸を締め付けたのは、その輝かしい知識の記憶ではなかった。

通気孔の鉄格子越しに、ユーグが自嘲混じりに見せてくれた、あの「両手」の記憶だった。


『見ろよ、この無様な指を』


通気孔の隙間から差し出された男の手。

ランプの微かな光に照らされたその両手は、かつて帝国最高のメス捌きを誇った外科医のものとは到底思えない、痛々しくねじ曲がった残骸だった。

十本の指の関節が、ことごとく不自然な方向へと折れ曲がり、骨が皮膚を突き破って癒合した跡が醜いケロイドとなって引き攣れていた。ペンを握ることすらできず、小銭を摘むことすら叶わない、完全に破壊された手。


『神殿の異端審問官どもは、よく分かっていやがるのさ。俺の頭を切り落とすよりも、二度とメスを握れぬよう、二度と解剖記録を書けぬよう、あの万力のような拷問具で指の骨を一本ずつ時間をかけてすり潰す方が、学問を殺すには効果的だと知っていたんだよ』


暗闇の中で、ユーグは乾いた笑い声を漏らしていた。

だが、その声の奥底に沈んでいたのは、血を吐くような無念と、神殿の迷信に対する底知れぬ呪詛だった。


『俺がしくじったのは……逃げ遅れたことだ。帝都の秘密研究所を神殿騎士団に嗅ぎつけられたあの日、貴重な標本と解剖図譜を抱えてスラム街へ逃げ込んだまではよかったが……寒さと飢えで動けなくなったところを、ネズミのように捕まった。……あれは、確か――』


◇


「……あれは、何年だった?」


エルザはカンテラの光の下で目を開いた。

全身の皮膚が粟立ち、心臓が肋骨の裏で早鐘を打っている。

エルザは羽ペンを走らせ、羊皮紙の上に二つのタイムラインを並行して描き始めた。


一本目の線――エルザ自身の時間軸。

・エルザがアルトハイム伯爵邸で処刑された年:帝国暦三八四年(十九歳)。

・現在、死に戻った年:帝国暦三七七年(十二歳)。

今から七年後、処刑台の露と消える運命。


そして、二本目の線――ユーグの時間軸。

地下牢でユーグ自身が語っていた記憶の断片を、手元の『帝国教会史』と『医学校学報』の記録と照合していく。

ページを激しくめくる。乾燥した紙が擦れ合い、インクの文字がエルザの琥珀色の瞳に飛び込んでくる。


――帝国暦三七五年。帝国医学校教授ユーグ・ド・ベルフォール、人体損壊および異端思想流布の容疑により、帝国正教会首席司教座より査問通告を受諾。教授職を解任される。

――帝国暦三七六年。ユーグ、帝都スラム街へ潜伏。地下にて秘密結社的な解剖研究を継続しているとの密告多数あり。神殿騎士団による捜索開始。


エルザの指先が、年代記の文字の上でピタリと止まった。

息が詰まる。

手帳に走らせたペンの先が、激しく紙面を叩いた。


「ユーグ先生が帝都の中央地下牢に投獄されたのは……私が処刑される五年前。帝国暦三七九年の春だ」


エルザは計算を頭の中で反復した。

地下牢でユーグは言っていたのだ。

『捕まる前の逃亡生活は、地獄だった。神殿騎士団の追っ手を逃れてスラムの廃材置き場を転々とし、湿気と寒気で肺を病み、豚の内臓を捌いて食いつなぎながら、それでも研究を諦めきれずにいた……およそ二年間、ドブネズミのように潜伏していた』と。


三七九年の春に捕まり、その前の二年間を逃亡生活に費やしていた。

逆算すると――。


「三七七年……冬」


エルザの口から、掠れた声が零れ落ちた。

鳥肌が腕全体へと広がっていく。

三七七年の冬。

まさに今。

この数週間、この数ヶ月以内のことだ。


帝都においてアンセルム首席司教の主導による大規模な「異端狩り」が本格化し、ユーグがスラム街に構えていた秘密解剖研究所の拠点が神殿騎士団に特定され、急襲を受ける時期。

前世の歴史通りに進むならば、ユーグはまさに今、帝都の地下で追手と対峙し、すべてを奪われて泥濘の中へと逃げ込んでいる最中なのだ。

そして逃亡の果てに、やがて捕らえられ、あの十本の指の骨を、神殿の鉄の万力によって粉々にすり潰される――。


「……駄目だ」


エルザは机の端を、指先が白くなるほど強く握りしめた。

冷徹に計算することだけに特化してきた彼女の頭脳が、激しい焦燥の火花を散らしていた。


(あの人の指を……失わせるわけにはいかない!)


それは、前世で自分に知恵を授けてくれた恩師に対する、義理や同情といった生ぬるい感情だけではなかった。

もっと現実的で、もっと切実な、医療革命のための絶対的な要求だった。


ヴェルデ村での治療を通じて、エルザは痛感していたのだ。

自分一人の手では、物理的な限界がある。

どれほど前世の近代医学の知識を持っていようとも、エルザの肉体はまだ十二歳の小柄な少女に過ぎない。大腿切断術のような大手術を一つ行うだけで、全身の体力を使い果たし、倒れそうになる。

これから立ち向かうべき敵は、寒村の一つのカビなどではない。

帝都に巣食う正教会、宮廷の無知な貴族たち、そして下水道すら未整備で病原菌が渦巻く巨大都市そのものなのだ。


(近代医学をこの帝国に確立するためには、組織がいる。研究所がいる。私と同じ視点で病理を語り、解剖を体系化し、外科の術式を共に改良できる、本物の医学者がどうしても必要なのだ)


ユーグ・ド・ベルフォール。

彼こそが、この暗黒の帝国において唯一、教会の迷信に魂を売り渡さず、自らの手で死体を切り裂き、物質の真理に到達しかけていた本物の天才だった。

彼の卓越した解剖の腕。

ミリ単位で筋肉と神経を剥離していく、あの神の領域にあった指先。

あれを教会の拷問によって失わせてしまえば、帝国の医学の夜明けは数十年、下手をすれば百年単位で遅れを取ることになる。


「先生の指を守らなければならない。神殿の手で骨を砕かれる前に、彼を帝都のスラム街から救い出し、この大公領へ……私の陣営へと引き入れなければ」


エルザは立ち上がった。

羊皮紙に走らせた計算式を、カンテラの炎にかざして焼き捨てる。

黒い灰が机の上に散るのを待つ間もなく、彼女は図書室の隠し扉を押し開け、冷え切った夜の回廊へと歩み出した。


◇


深夜の天守閣。

大公の私室へと続く回廊には、松明の火が赤々と揺らめき、黒狼騎士団の精鋭が油断なく警備についていた。

だが、手帳を抱えて歩いてくるエルザの姿を認めるや否や、衛兵たちは即座に長槍を引き、音もなく道をあけた。


コン、コン。

エルザが執務室の重い樫の扉を二度叩いた。

「……エルザか。入れ」

中から響いた低く重厚な声。


扉を開けると、そこには軍服の上着を脱ぎ、黒いシャツの胸元を寛がせたギルバートが立っていた。

机の上には、ヴェルデ村の事後処理に関する書類が広げられていたが、エルザが入ってきた瞬間、大公は書類を放り出し、その氷灰色の双眸に濃密な光を宿して歩み寄ってきた。

「こんな夜更けにどうした。まだ寝ていなかったのか。ヴェルデ村での疲労が残っているはずだ」

「大公閣下」


エルザは労いの言葉を遮るように、真っ直ぐにギルバートの胸元を見上げた。

その瞳の奥にある、氷の下で燃え盛るような強烈な意志の光。

ギルバートの眉が微かに動く。戦場において、乾坤一擲(けんこんいってき)の奇襲を決断した部下が見せる、あの研ぎ澄まされた眼光。


「……何があった」大公の声が低くなる。

「直訴に参りました」

エルザは一歩踏み込み、夜の静寂を切り裂くように告げた。


「帝都へ参ります。今すぐに、出立の準備を整えてください」


世界を揺るがす次なる戦いの幕が、いま、深夜の天守閣で切って落とされようとしていた。

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