第20話:聖女の仮面を剥ぐ者
夜明けとともに、ヴェルデ村を何日も覆い尽くしていた鉛色の暗雲は、北からの強風によって吹き払われていた。
地平線の彼方から差し込んだ初冬の陽光は、雨水に濡れた針葉樹の針葉を黄金色に縁取り、泥濘の広場に無数にできた水溜まりを、鏡のように眩しく照らし出していた。みぞれ混じりの氷雨が嘘のように止み、張り詰めた冬の冷気が、昨夜までの凄惨な死臭と石炭油の煙を綺麗に洗い流していく。
共同集会所の中には、柔らかな朝の光が窓から差し込み、何日ぶりかの「生きた人間の呼吸」が満ちていた。
土間に並べられた木製ベッドの上で、七十名を超える患者たちの多くが、静かな寝息を立てていた。
かつて「足が燃えている」「悪魔が踊らせている」と泣き叫び、泥を噛んで身悶えていた狂乱の姿は、そこにはどこにもない。
ヤナギの樹皮から抽出されたサリシンと、大蒜のアリシンによる強力な血管拡張作用、そして惜しみなく投与された大量の電解質補水液――エルザの施した生化学的な介入は、わずか一晩のうちに、患者たちの血管から毒の枷を強引に引き剥がしていた。
「……あ、歩ける……。足が……地に、ついてる……!」
第二区画のベッドの端で、三十代の農夫が震える足で立ち上がった。
昨夜までは氷のように冷たく、どす黒く鬱血していた足の指先には、健康的な桜色の赤みがしっかりと戻っている。足首を回しても、あの骨を雑巾のように絞り上げられる激痛は走らない。男は恐る恐る床を踏みしめ、一歩、二歩と歩みを進めると、傍らで付き添っていた妻の手を握りしめ、子供のように声を上げて泣き崩れた。
同じような光景が、集会所の至るところで起きていた。
軽症と中等症の患者の八割以上が、すでに自力で起き上がり、手足の温もりを確かめ合いながら、互いの無事を抱き合って涙を流していた。
そして――集会所の最奥、衝立で仕切られた隔離病床でも、確かな生の奇跡が息づいていた。
「……ん……母、さん……」
掠れた、だが明瞭な青年の声。
大腿切断術を受けた村長の息子ルーカスが、ゆっくりと重い瞼を押し開けたところだった。
顔面を覆っていた死人のような土気色は消え去り、四十度近くあった熱は完全に平熱へと落ち着いていた。右足の膝から下は失われ、真っ白な包帯で清潔に圧迫保護されていたが、切断面からの出血も浸出液も完全にコントロールされていた。
「ルーカス……! ああ、ルーカス、気がついたのかい……!」
寝ずの番をしていた母親が、涙でぐしゃぐしゃになった顔で青年の胸に縋り付いた。
「よかった……本当によかった……! お前が死んでしまったら、母さんはどう生きていけばいいか……!」
「母さん……僕の、足は……」
青年が自らの失われた右足へと視線を落とし、微かに息を詰まらせた。
だが、その表情に絶望の色はなかった。昨夜まで自分を狂わせ、内臓を焼き、脳の奥底まで引きずり込もうとしていたあの底知れぬ地獄の激痛が、嘘のように消え去っていたからだ。生きている。心臓が脈打ち、冷たい朝の空気が肺を満たしている。
「これをおあがり、ルーカス」
マリカが湯気の立つ素焼きの深皿を運んできた。
村に残っていた少量のカブと干し肉を細かく刻み、塩だけで優しく煮込んだ温かい粥。
「エルザ様が仰っていたわ。『胃腸が動き出している証拠に、少しずつ温かい流動食を摂らせなさい』って。……よく頑張ったわね、ルーカスさん」
「……あ、ありがとう……ございます……」
ルーカスは震える手で母親の差し出す木匙を受け取り、温かい粥を一口、喉の奥へと飲み下した。
五臓六腑に染み渡る滋味。
生きている実感に、青年の双眸から大粒の涙が零れ落ち、粥の皿へとポタリと波紋を作った。
◇
朝の陽光が広場全体を満たす頃、ヴェルデ村の全住民が集会所の前に集結していた。
手足に白い包帯を巻いた回復期の患者たち、彼らを支える家族、老人、そして子供たち。総勢百数十名。
昨夜まで互いに「悪魔憑き」と疑い合い、神殿の兵士たちに銃剣を突きつけられ、村ごと焼き殺される恐怖に怯えていた村人たちの顔には、泥と涙の跡が刻まれていた。だがその瞳は、全員が同じ一点――広場の奥に設営された、一枚の天幕の入り口へと向けられていた。
ガサリ、と天幕の垂れ布がめくられた。
姿を現したのは、エルザ・ヴァルデックだった。
仕立て直された濃紺のウールワンピースの上に、薬品と泥の染みが点々と残る白いリネンエプロン。乱れた黒髪を後ろで無造作に束ね、その手には患者たちの経過を書き留めた分厚い手帳が抱えられていた。
徹夜の治療と手術を終えたばかりの十二歳の少女。その体躯は小柄で、華奢そのものだった。
だが、彼女が泥の地面へと一歩足を踏み出した瞬間、広場を揺るがしていたざわめきが、潮が引くように一瞬で静まり返った。
次の瞬間だった。
ドサッ、ドサササッ……!
重い衝突音が、広場のあちこちで連鎖した。
先頭に立っていた老村長を筆頭に、百数十名の村人全員が、示し合わせたわけでもなく――一斉に、冷たい泥水の地面へと両膝をつき、額を石畳へと力任せに擦り付けたのだ。
「聖女様……!」
村長が泥に塗れた額を上げ、涙と鼻水を垂らしながら両手を天へと掲げた。
「聖女様……! 慈愛の御使い様だ……! 悪魔の業火に焼かれ、手足が腐り落ち、神にすら見捨てられた私たちを……天上の奇跡をもって救い出してくださった……!」
「聖女様!」「生き神様だ!」「悪魔を祓ってくださった!」
男たちが、女たちが、泥水に顔を浸しながら狂ったように合掌し、エルザの足元へ向けて平伏した。
ある者は自らの胸を掻きむしって悔悛の涙を流し、ある者はエルザの歩く足元の泥を神聖なものとして手で掬い上げようとする。
村長が震える手で這い寄り、エルザの履いている泥だらけの木靴の先へ、自らの唇を押し当てようと手を伸ばした。
そして、誰からともなく、祈りの歌が始まった。
大聖堂で歌われる、神の恩寵と聖女の降臨を讃える古の聖歌。
百を超える人々の歌声が、朝の澄み切った大気へと木霊していく。
昨夜まで彼らを焼き殺そうとしていた教会のメロディを用いて、今度は目の前の少女を「神の奇跡を具現化せし聖女」として祭り上げ、盲目的な狂信の対象として崇め讃えようとする大合唱。
無知な民衆が、理解を超えた救済を前にした時に見せる、あまりにも無邪気で、あまりにも醜悪な『神格化』の儀式。
だが――。
泥水に伸ばされた村長の手が、エルザの靴先に触れる直前。
「……顔を上げなさい」
冷たい刃物が、氷を両断したかのような声だった。
低く、澄み渡り、だが広場の合唱のすべてを一瞬で凍結させるほどの、絶対的な拒絶の響き。
村長の手がピタリと空中で止まった。
歌声が途切れ、村人たちが恐る恐る泥の中から顔を持ち上げる。
エルザは、自らの靴元に這いつくばる村長を見下ろしていた。
その琥珀色の瞳の奥に宿っていたのは、聖女の慈悲などでは断じてなかった。
哀れみも、微笑みも、救世主としての誇りすらない。
あるのはただ、解剖台の上の腐敗物を一瞥する時と同じ、残酷なまでに怜悧で、底知れぬ絶対零度の冷淡さだけ。
「見苦しい」
吐き捨てられた一言が、広場の空気をピシリと張り詰めさせた。
「せ……聖女、様……?」
村長が上ずった声を漏らす。
エルザは一歩、後退った。村長の手が届かない位置へと足を退き、衣服の裾についた泥を冷ややかに払う。
「私は聖女ではありません」
エルザの声は、平坦な事実の宣告だった。
「あなた方の薄汚れた魂を救う気も、神の慈愛を届ける気も、最初から爪の先ほども持ち合わせていません。……祈るのをやめなさい。神聖な歌を歌うのをやめなさい。反吐が出ます」
広場中の村人たちが、息を呑んで硬直した。
助けてくれた恩人が、自分たちの感謝の祈りを「反吐が出る」と切り捨てたのだ。理解の範疇を超えた事態に、誰もが言葉を失い、青ざめた顔を見合わせる。
エルザは手帳を小脇に抱え直すと、広場に跪く群衆のすべてを冷徹な視線で見据え、淡々と解剖の刃を進めた。
「私が昨夜行ったことは、奇跡でも何でもありません。神の恩寵など、この村のどこにも一滴たりとも降り注いではいない」
エルザは自らの指先を一本ずつ折って見せた。
「第一に、長雨でライ麦に寄生した麦角菌のアルカロイド毒素を特定した。
第二に、汚染された穀物を物理的にすべて焼き払い、毒の摂取を止めた。
第三に、血管を拡張させる生薬と大量の補水液を投与し、血中に回った毒素を腎臓から尿として強制排泄させた。
そして第四に――腐敗菌が侵入して敗血症を引き起こしていた壊死組織を、メスと鋸で骨ごと切り刻み、感染の元凶を切り離した。……ただそれだけのことです」
エルザの言葉は、村人たちが縋り付こうとしていた神秘の帳を、容赦なく引き裂いていく。
「物質と、反応。毒の体内動態と、薬理作用。理屈の通った生化学の処置を施したから、あなた方の肉体が生き延びただけの話です。そこに神の奇跡が介在する余地など、一ミリたりとも存在しません」
「し、しかし……! 私たちは現に、こうして命を救われました!」
村長が必死に縋り付くように声を上げた。
「神殿の審問官様は私たちを焼き殺そうとしたのに、エルザ様は私たちの手足を温め、息子の命を繋ぎ止めてくださった! これを奇跡と呼ばずして、神の御使いと呼ばずして、何とお呼びすればよいのですか……!」
「『知識』と呼びなさい」
エルザの一喝が、村長の言葉を断ち切った。
彼女は振り返り、広場の奥――黒焦げの灰の山となった穀物の残骸の向こうにある、あの湿気た石造りの共同備蓄庫を、鋭い指先で指し示した。
「拝む暇があるなら、村中のシャベルとツルハシを持って、あの穀物倉の床を掘り起こしなさい」
「……え……?」
村長が目を丸くする。
「床の石畳を剥がし、地面を掘り下げて砂利を敷き詰め、湿気を逃す通気口を壁の四方に開けなさい。穀物を地面に直接置くのをやめ、床から三尺浮かせた高床の木組みを作りなさい。そして――来年からは、収穫期に長雨が降ったら、湿った麦をそのまま放置せず、薪の煙で熱風を送って急速に乾燥させる『燻煙乾燥室』を村総出で建設しなさい」
エルザの口から次々と紡ぎ出されるのは、祈りの言葉ではなく、泥臭く具体的な『土木と農業の改革手順』だった。
「麦の穂先に黒い角が生えていないか、一粒ずつ選別する目を養いなさい。黒い粒が一粒でも混ざっていれば、迷わずその穂を焼き捨てなさい。……神に祈っても、カビは胞子を撒き散らすのをやめません。聖水を振りかけても、毒素が消えてなくなることはない。あなた方の手足を腐らせたのは悪魔ではなく、あなた方自身の怠慢と、無知と、湿気の放置です」
エルザの琥珀色の瞳が、村人たちの魂を射抜くように見据える。
その言葉は厳しく、冷酷だった。だが、そこには教会が与えるような「お前たちは罪人だから神罰を受けたのだ」という絶望の鎖は、微塵も存在しなかった。
原因がある。
だから、防ぐ手段がある。
人間の知性と労働によって、死の運命は自らの手でねじ伏せることができるのだという――過酷で、だがこの上なく尊厳に満ちた現実の提示。
「無知であることは、それだけで自らの首を他人に差し出す罪です。……奇跡に縋って跪くのをやめなさい。立ち上がり、知識を持ち、環境を清潔に保ちなさい。それだけが――この過酷な大地で、あなた方が自らの命を守るための、唯一無二の盾なのですから」
静寂。
吹き抜ける冬の朝風が、広場の乾き始めた泥をサラサラと撫でていく。
誰一人として声を発する者はいなかった。
神殿の司教たちは、これまで彼らに何を教えてきたか。
『病は神の罰である』『苦痛に耐えて祈りを捧げよ』『救われたければ財産を寄進せよ』――そうやって恐怖を植え付け、思考を奪い、無力な羊として家畜のように搾取し続けてきたのだ。
だが、目の前に立つ十二歳の少女は違った。
自分を拝むな、と言った。
神に祈る暇があるなら、シャベルを持って床を掘れ、と言った。
自分の頭で考え、知識を持ち、自らの手で生き延びろ、と命じたのだ。
「……あ……」
村長の目から、ポロポロと新しい涙が溢れ出した。
それは、先ほどまでの盲目的な恐怖の涙ではなかった。
魂の底から湧き上がる、蒙を啓かれた人間の、震えるような感謝と覚悟。
「……はい」
老村長は、泥だらけの両手を地面から離した。
そして、自らの足で、しっかりと大地を踏みしめて立ち上がった。
「はい……! はい、エルザ様……ッ!!」
村長の声に呼応するように、広場に跪いていた村人たちが、一人、また一人と、自らの足で立ち上がり始めた。
「シャベルを持ってくる!」「穀物倉の床を掘り起こすぞ!」「乾燥室の木材を山から切り出そう!」
「エルザ様の言った通りにするんだ! 二度と、子供たちに毒の麦を食わせるもんか!」
合掌していた手は、ツルハシと木槌を握るための力強い拳へと変わっていた。
祈りの歌は消え去り、代わりに広場を満たしたのは、自らの命を自らで守るために動き出す、生きた人間たちの力強い足音と掛け声だった。
盲目的な信仰ではない。
神という名の幻想を捨て去り、現実の理を授けてくれたエルザという絶対の知性に対する――狂信をも超えた、生涯揺らぐことのない絶対の敬愛と忠誠が、村人たちの瞳の中に不動の炎となって宿っていた。
◇
その光景を、集会所の屋根の影から、腕を組んで見つめていた男がいた。
ギルバート・フォン・ラングリール大公。
漆黒の軍外套を風になびかせ、黒狼騎士団の精鋭たちを従えた男は、動き出した村人たちの熱気を見つめ、それから歩み寄ってきたエルザへと視線を落とした。
ギルバートの口端が、愉快そうに、獰猛に吊り上がる。
「……ククッ。『顔を上げなさい、見苦しい』か。相変わらず、容赦のない主治医殿だな」
大公は歩み寄り、エルザの頭上から低く笑いかけた。
「聖女として崇められれば、領民を意のままに操る神輿になれたものを。……民を掌握する術を、実によく心得ているな、エルザ」
エルザは手帳を閉じ、冷淡極まる琥珀色の瞳でギルバートを見上げた。
「掌握などしていません」
「ほう?」
「無知な人間を神輿担ぎの愚かな狂信者にしておけば、来年また同じカビの麦を食べて集団発狂します。そうすれば、私がわざわざ大公城から馬車を飛ばして、泥まみれになりながら足を切り刻む羽目になる。……私の治療の手間をこれ以上増やさないための、極めて合理的な予防措置です」
「ははッ! 予防措置、か!」
ギルバートは声を上げて笑った。北方の大気を震わせるような、力強い男の笑い声。
大公は自らの革手袋を外すと、エルザの小さな頭の上に、無骨な大きな掌をポンと置いた。
「お前がそう言うなら、そういうことにしておこう。だがエルザ――お前が神殿の仮面を剥ぎ取ったことで、この村の連中は、皇帝の軍勢が押し寄せてこようとも、お前の一言のためなら命を投げ出す狂犬へと生まれ変わったぞ」
ギルバートの指先が、エルザの髪を愛おしそうに梳く。
その氷灰色の瞳の奥に宿る、昏く、甘い独占欲。
「お前が手に入れたのは、ただの寒村ではない。教会の嘘をその目で暴かれた、帝国で最初の『目覚めた民』だ。……お前が帝国の頂点に立つための、強固な礎がまた一つ増えたな」
エルザは大公の掌の重みを受け止めながらも、視線を逸らさなかった。
「……基礎工事が終わっただけに過ぎません。次なる病巣は、こんな寒村のカビよりも遥かに深く、巨大です」
エルザは視線を南――帝都サンクト・オーガスタの方角へと向けた。
その瞳の奥には、前世の記憶のタイムラインが、冷徹な秒針の音を立てて時を刻んでいた。
(ユーグ先生……。前世で私に医学のすべてを授けてくれた、あの偏屈な解剖学者。……彼が帝都で教会の異端審問に踏み込まれ、指の骨を砕かれる運命の日が、刻一刻と近づいている)
エルザは大公の掌から頭をすっと引くと、身を翻した。
「大公閣下。帰還の準備を。黒狼城へ戻り次第、直ちに帝都上洛のための薬品と機材の最終調整に入ります」
「ああ」
ギルバートは口端の笑みを消し、軍神の鋭利な眼光を取り戻して頷いた。
「黒狼騎士団全軍、黒狼城へ帰投する! 帝都への進発に備えよッ!」
冬晴れの青空の下、大公の号令がヴェルデ村の谷間に轟いた。
迷信を切り裂き、民衆の魂を解放したエルザのメスは、次なる獲物――帝国の心臓部に巣食う巨悪を解剖するため、再び力強く歩みを進め始めていた。




